プロローグ
「い、生きてる……」
内海珠紀は冷たい地面に寝転がった。天気のよさにそぐわない全身を隠す外套のフードが脱げると、艶やかな黒髪が広がる。
静謐な小高い丘の上、風に揺れる緑の木々。青い空に白い雲。その先で煌々とした輝きを放つ光源は太陽ではないと説明されてはいたものの、この世界の人間ではない彼女の目には太陽にしか見えなかった。燦燦とした光は誰にでも平等であり、今の時分が昼を過ぎた頃であることを教えてくれている。
「当たり前だろ。死なれたら困るんだよ」
殺伐とした声が飛んでくるとともに、珠紀の視界を遮る影が差した。
起き上がる気配もない珠紀を渋い表情をした青年が見下ろしている。さっぱりとした短髪は光に焦がされたような暗色、対比するように瞳は明るい新緑。強気で勝ち気な印象を受ける端正な顔立ちの青年は、心底から彼女に呆れているようだった。
珠紀の口は自然とへの字に歪む。
「私だって死にたくない」
「だろうな」
人の生死を話題にしているにしては軽い口振りだ。
「……初めて会ったときの気遣いはどこにいっちゃったの、ウル」
「別に丁寧に扱われたいならそれでもいいけど。さ、お手をどうぞ。お嬢さん」
どうしたって馬鹿にした口調に珠紀が苛立ちを見せてもウルは取り合わなかった。声色と同じような態度で手を差し出す。
雄々しい横顔をした青年の服装は旅人か浮浪者かを思わせるものであるが、すぐにそういった困難な生活はしていないだろうと察することができた。健康的でしっかりとした体躯、ほんの少しの動作にも垣間見える品位。服装こそ凡人に紛れる努力が見てとれるが、自然と目を向けてしまう佇まいと近寄りがたい雰囲気はどこか異質だ。
「やっぱり今のままでいいです」
珠紀はウルの手を取らずに半身を起き上がらせた。
「わがままだな」
「どっちが」
じとりとした目で自分をねめつけてくる珠紀に、ウルは悪戯が成功した子供のように目を細める。
今でこそ気軽な会話もできるようになったが、二人の出会いは衝撃というにふさわしく、ここまでの旅路は平穏とは対極の日々だった。特に珠紀にとっては世界がひっくり返るほどの波乱で、まだ心が追いついていないと思うことがある。
「裁判まであと二か月。そろそろ、あっちも手段を選ばずに殺しにかかってくる頃だろ。泣き言を並べてもいいけど頑張ってくれよ」
鼓舞するウルに珠紀は上手く返事ができなかった。生きて元の世界に帰るという強い気持ちはあれど、彼女は現代の日本社会で生きる術しか持ち合わせていない。何が起こるかも分からないこの”箱庭”で生きる術は一つも持っていないのだ。
「……今更なんですが」
「ん?」
「どうして不利になる証拠をわざわざ呼び寄せたんだろう? 違う世界にいたんだし、知らぬ存ぜぬで放置しておけばよかったんじゃないの? 呼んで殺すなんて手間だと思うんです。こうして逃げ回ってるわけだし、噂だって立つだろうし」
「いいや。なんにせよ、珠紀は絶対に元の世界からここに来ることになった」
不本意にこの世界へ引きずり込まれた珠紀の心にずっと巣食っていた疑問は、間髪入れずにばっさりと否定された。
色鮮やかな緑の瞳は遥か遠くを見つめてゆっくりと瞬く。珠紀もそれに倣って同じ方向を見つめれば、地表から空の果てへと続く光の塔が見えた。一日二日ではたどり着けない距離にあるはずの塔は、淡く優しい光ながら存在感を示すように輝いている。珠紀にしてみれば、どこからでも見える異世界の象徴だ。
「”楽園”から帰れるんだから、”楽園”に来ることもできるってこと。なんであれ、珠紀はこっちに呼び出されてたよ」
「……楽園」
「そ。”楽園”に呼ばれたお前を殺すより、”箱庭”に呼ばれたお前を殺す方が簡単。俺があの人でなしだとしても同じ手を打つ。ロットーには絶対頼らないけど」
光の塔の先にある”楽園”――、珠紀とウルの命をかけた逃避行の終着点。二人は二か月後にそこで行われる裁判に出席しなければならなかった。珠紀は元の世界に帰るために、ウルは”箱庭”の秩序を正すために。
「休憩終わり。ほら、行くぞ」
「はい」
未だに光の塔を見つめる彼女の前に再び手が差し出される。珠紀は今度こそ彼の手を取った。ぐっと力任せに引き上げられて、体が浮くように立ち上がる。
こうして手を取るのは何度目か――、初対面でのウルへの恐怖などどこへやら。痛いくらいに手を握り締められるたびに、珠紀はこの世界で手を取ってくれたのがウルでよかったと感謝と安堵を積み上げていた。
ウルは歩きやすいように手を繋ぎ直し、あいている手で珠紀に外套のフードをかぶせる。それから、子供に言い聞かせるように「約束」と口にした。
「いいか。まずは手を離さないこと、それから――」
「死なないこと」
「ああ。頼んだ」
珠紀はひと月前、この世界に攫われてきた。顔も見たことがない父親の悪意によって。