晶と神、神と晶
あの日からどんどん視力は落ちていった。いままではっきりとみえていたものが、はっきりみえなくなってきた。いや、ピントが合わない感じだ。きっと近視や乱視のひとはこういうみえ方をしているのだろう。
視力といっても私の肉体的な視力にはなんの問題もない。黒板の文字もみることができるのはもちろん、教科書の小さな文字も裸眼で読むことができた。ただ神様をみる霊的な視力が落ちてきているのだ。以前のようには神様がみえない。それはもう以前のようなはっきりとした姿ではなく、輪郭は朧げで光と影の集合体にしかみえなくなっていた。
私は幼少期から神様はみえており、また子供の頃に巫病と思われる高熱に侵されてから、神様を視界から消す霊力がついた。それがいまでは霊力を使ってないと神様が視認できないように思えた。この力はどういう力なのかわからない。私には師匠もいなければ、同じ力を持ったひとにも出会えていないからだ。比較もできないし、この力の詳細を知ることができないでいた。両親、兄とも霊能に関していえば限りなくゼロだろう。古来よりの伝統や儀式でそれらしきことはできるが、それは私の力とは違うものだ。霊能に関して詳しいといったら同級生の拝屋雫だが、彼女はクラスと馴染めてない感じで訊きにくい。それに私の勝手だが生々しい夢をみてしまったことがあった。そのせいか彼女の視線に熱いものを感じていた時期もあり、なんだか距離を置きたい気分でもあった。最近、彼女は黒咲夜子とよく一緒にいるので安心はしているが、訊きにくいことには変わりはない。
かわりに大学受験(東京の國學院大學を目指している)の合間をぬって、本をいままで以上に読んだ。けれどその大半はエンターテイメントかオカルト、スピリチュアル、あるいは非霊能者からみた霊能とはどんなものか、だった。霊能者自身が自らの力を分析、分類したものなんてないものだろうか、と図書館や本屋にいったり、あるいはネットをみたが、それらしい本も情報もなかった。あるいは紀元前の哲学者のイデアだとか一者の考えに神様と近しいものを感じたが、ただ感じただけで理解への発展はなく、勉強の息抜きのための読書となり無為に時間を浪費しただけになった。
やはりこういう力は特殊なのだろう。そのなかにあって私の場合はさらに特殊なのかもしれない。霊能者である拝屋雫にも私の近くにいる神様を認識できていなかった。他にも家に来る霊能者や神職もやはりみえないのだろう。私に会っても当たり障りのない会話か挨拶くらいしかしない。誰も私の傍にいる神様をみたものはいない。
いや、ただ一度私の神様をみたひとがいた。
『もし犬飼游という人に会ったらよろしく、と。あと、君の隣にいる方にも……』
あのとき戌井勇くんははっきりとそういった。
彼には私の隣にいる神様がみえていたのだ。
だが彼は家に来ていた阿田大輝というお坊さんによって警察の方に保護されたという。
私の家に監禁してその後に警察に保護してもらう、とか少々強引すぎるのではないか、と思うが、あのときは阿田さんもかなり特殊な体験をして興奮状態だった、と後に語っていた。
事実、私もこのことは誰にも話すなと脅されもした。私のような十代の女性を脅すなんて悟りとはほど遠い。お坊さんらしからぬものだ。全国放浪、YouTubeにSNS、少年監禁、少女脅迫、とんだ生臭坊主だ。
戌井勇くんのことだが、彼ともし会えたら、この目のこともわかるのではないかという思いに駆られた。
しかし、阿田さんは私が春先にインフルエンザをこじらせて入院して、退院するとすでに家から去っていた。
その頃から徐々に神様がみえなくなってきていた。不思議なことに霊能というか、霊視にはなんの影響もないのだ。ただ神様だけがみえにくい現象だった。
そんな折、またふらりと阿田さんがやってきた。
学校から帰って来るなり「ただいま」という間もなく「おかえりなさい。また厄介になります」と阿田さんが玄関で出迎えてくれたのだ。
出迎えの挨拶なんて、ちょっとした令嬢みたいな気分だ。ただ出迎えてくれたのが、アウトドアウェアを着た坊主の兄ちゃんというのが雰囲気がないが。それにしてもやけに丁寧だ。彼には私を脅したことに対して負い目があるのかもしれない。それにまた居候したいのだから下手にも出るのだろう。
「またですか」
彼の朗らかな顔をみて、放浪阿闍梨を名乗って全国行脚をしているなら、こんな田舎に年に二回もやってくる必要なんてないんじゃないか、と思った。
「うむ。ですが、なにやら求められた気がしたので脚が向いたのです」
彼の霊能が私の心の声を聞いたのか、あるいは私の考えが顔に出ていたのかもしれない。
「それで、いつまでいるんです?」
「年内はいますよ。それと晶さん、なにか心配事でも?」
「戌井くんて、いまどうしています?」
「警察に無事保護されました。その後は個人情報なので私も知りませんが、きっと社会復帰するべく頑張っているでしょう」
「なるほど」
あの後、戌井勇くんは警察に保護されたなら大丈夫なのだろうが、彼の疲れ切った顔を思い出すと阿田さんの言葉を鵜呑みにはできない。
「面白いこといってましたよね。戌井くんは拝天會という宗教でつくられた子供で神や怪異を直接みることができたって」
その言葉に阿田さんは「いや、その話はやめましょう。もう終わったことです」といった。
そういうともう話すことはない、といわんばかりだったが「私が神様をみることができたならどうします?」と私は思い切っていおうとした。
だがそのとき、戌井くんの顔を思い出した。
彼には神をみる霊能があった。しかし、そのせいで阿田さんに捕まり、どこかに連れさらわれたとしたら? 可能性はなくはない。
「そうですか。じゃあ、年内、ゆっくりしていって下さい。うちは神社なんで年末は忙しいですよ! いまは菊祭りで……もう、行かれました?」
「はい。大変見事なもので、境内や参道脇、どこも菊、菊、菊……どれも素晴らしかったです。」
「あのたくさんの菊鉢、職人や役員ばかりでなく、神職の方々も設置したんですよ。片づけの際の手伝い、ぜひともお願いします」
「任せて下さい! 居候の身です。できることならなんでもしますよ」
私は当たり障りのない会話でやり過ごした。
可能性の問題だとしたら、ただの思い過ごしという可能性もなくはない。ただ、現実問題として戌井勇くんはこの家に一時的に監禁され、誰か(阿田さんにいわせれば警察)に連行された。
彼と私には共通点があった。だから用心はしておいた方がいいだろう。思い過ごしだとしたら、笑って済ませばいい。ああ、私はなんであんなにも自意識過剰だったのか、と。もちろん、笑える日が来るのを願っている。
思い出したが、確かに戌井くんは私にいっていた。「犬飼游によろしく」と。つまり犬飼游という人間は、あの時点でまだ捕まってはいないことになる。その犬飼游がどういう人物かわからない。戌井勇くんの仲間なのか、ボスなのか、友人なのか、恋人なのか、そもそも犬飼游も神をみることができるのか、それすら。
拝天會をネットで調べてみたが、かなり昔、昭和の終わり頃に潰れた新興宗教だった。けれど腑に落ちないのはあのときの戌井くんの姿は十代(私と同年代)にみえたことだ。
ありえないのではないか? すでに時代は令和だ。戌井くんが阿田さんのいう拝天會の私生児なら、少なくとも平成の終わり頃まで拝天會が存続していなければならないことになる。それとも、どこかで拝天會は名前を変え存続しているのか、あるいは阿田さんが嘘をついているのか。
どうにも手がかりのないまま無為に日々は過ぎていった。
受験が近くなれば自然、ひとりになる時間も増える。もう部活もなければ、友人と出かけることも少ない。あるのは勉学だけだ。その時間の片隅に考えることはいくらでもある。
戌井勇も犬飼游も会うことができないならば、どうして私の神様への視力が落ちたのかを自分だけで考えるしかない。
視力が落ちてきたのは春先にインフルエンザをこじらせて入院してからだ。
熱にうなされ、なにか恐ろしい夢をみた。いまではおぼろげな記憶しかないが、夢のなかで私は手術台に寝そべり、明かりのついていない無影灯の下で自分の右眼、こめかみから鼻筋に向かって真一文字にメスを入れたのだ。なぜそうしたのかわからない。ただ夢のなかでそうしなければならなかったのだ。
柳田國男の『一つ目小僧』の論文のように私は神に生贄として目を捧げなくてはならなかった。
柳田國男によると生贄や身体の欠損により人間は神様と同じ姿になる、ということらしい。完全な身体(両目・両足)は人間として神から遠いのだ。片目を潰す・片足を切ることで不完全な身体になり、神に近づける(神と同じ欠損を持つ)これは神と人間の境界を曖昧にするための儀礼で諏訪信仰の『片目神』『片足神』もこの延長線上にあると柳田は推測した。さらに諏訪の神体が『片目の神』だった可能性を指摘していた。
だが私のみえている神様と柳田國男がいった神様は姿が違う。私のみた神様は空に浮かぶ巨大な目であったり、巨木のような老人だったりした。そして、巨大な大蛇だったときもあった。
後に柳田國男の説は折口信夫らによって否定された。生贄の歴史の文献や伝承、そもそもの証拠が存在しないからだ。しかし柳田國男は文献や伝承無しに理論を構築し論文として記した。そんな証拠不在の柳田國男の『一つ目小僧』を私は信じることができた。まるで根も葉もなく、降って湧いたような説だが、この説は私の胸に深々と、まるで楔のように突き刺さっている。
柳田國男は私と同じように神様をみたことがあったのではないか、とすら思えた。
ふと霧がかった記憶のなかから湧き上がってきた景色があった。町を見下ろしながら晴れ晴れとした気持ちで、この世のすべてを見下し叫んだときがあった気がした。あのときの神様は八つ目だった。あれはいつだったか、妙な夢の出来事だ。
あのとき、私は神様と合一したのだ。なぜかはわからない。そして目を捧げたときも、また再びひとつと成り得た。私は神であり、神は私であった。柳田國男がいうとおり身体を捧げ、神に近づけるのなら私はあのとき神であったのだ。様々な姿をみせる神様のもうひとつの姿として、八つ目のひとつとして、私は夢のなかで存在していたのかもしれない。
それなのになぜ代償として神様をみる視力を失いつつあるのだろうか。
私は私の知らないうちになにかを決定的に失ったのだろうか、それともなにか絶大なことを成し得た代償なのだろうか。なにもかもか理の範疇を超えていた。
「どうしてですか?」
Y村図書館の片隅で神様に語りかけても、応えてはくれず、私はただ独り言ちるだけだった。
そして、この時期になると少しY村自体が賑やかになる。図書館も例外ではなく、どこか忙しない。
十一月ともなると、Y村菊祭りが執り行われているからだ。Y村菊祭りは一ヶ月間、ずっと執り行われていた。神社の境内はもちろんのこと、参道にまで並べられる大小色とりどりの菊花は見事なものだ。出品者数、出品品目において全国随一の規模を誇る菊花大展覧会らしいが、小さいときから菊祭りといったらここしか知らないから、こういうものか、と思い、あまり特別な感動も起こらないが、やはり賑わうとどこか心が躍っていた。
だから今日は気分を変えて△市図書館ではなく、Y村図書館で勉強していた。だが、いささか勉強に疲れ、無駄な思考を巡らせ神様に語りかけていた。
私の独り言なんて誰も聞いていない。大きな祭りの最中の小さな図書館の片隅では特にそうだ。
「前に、少し前にたくさん話した気もするのですが」
朧げな存在はなにも答えず、ただ私をみているようだった。
「ああ、あったね。花をみせてあげた」
「生命を花と見立てた」
「そうそう」
「美しいものでした」
「ではまたみにいこう。いま、祭りじゃないか。しかも菊祭りだ」
「私は勉強中です」
「いいじゃないか。祭りだよ、祭り。神が降りて人草が喜ぶはれの日さ」
「そうはいわれましても勉強がありまして。祭りを誘われるのならばご一緒しましょう。見返りといってはなんですが、大学は合格させてくださりますか?」
「勉学、努力せよ」
「御籤じゃあるまいし」
もちろん、全部独り言。
こんな独り言に興じるなんてよほど疲れたのだろう。明日は塾もあるし、疲れがたまって明日に差し支えがあるといけない。私は参考書とノートをしまうと家路に着いた。
図書館からは神社の近くまでバスが出ていた。田舎のバス停なんて一時間毎に出ていればいい方なのだが、初詣、七五三、春の大神楽、秋の菊祭りともなると三十分毎になる。まるで都会のようだ、と感じるのは私が田舎者だからだろうか。いつもの空いた車内ではなく、なんとか座席に座れるほどのひとがいた。その顔はどこか見知った顔で、神社付近に住んでいるひとたちのように思えた。菊祭りの忙しさから一時の休憩に私のように村周辺の施設や店に退避していたのかもしれない。
車窓からは逆に村から去る県外ナンバーの車が列をなしていた。それは思い思いに今日の日の終わりに向かう車なのだろう。逆に向かう私もまた同じだ。
バスから降りると境内、参道にある杉林の下、菊祭りの喧騒は静々となり、夕暮れの暗さに仄かに菊花が照らし出されていた。
私は家路を遠回りし、神社を巡るように脚が向いた。
「まさにいつかどこかでみた花と光の光景」
「その模型だ」
「形ばかりの模倣」
「模倣は論理的に構築できる。事実と配置、再考が可能だ」
「なにがいいたいんですか?」
「この祭りの初めを。君と同じ霊能を感じないとは」
「そうなんですか?」
「答えるのは……nonsense、というんだったか」
「でも善悪、価値、人生の意味、神様。それら模型では表すことはできない」
「無意味、と感じるんだね。だがこの菊祭りは君の生命の終わりより永く続く。模倣だがそこには存在がある。命が、魂がある。意味があろう意味がなかろうが。言語化しようが言語化しまいが、伝わろうが伝わらまいが、知ろうが知るまいが……それもまた良し」
いつもと変わらず私の隣には神様がいた。その言葉は静かに耳元から聴こえるのか、心の奥から聞こえるのか定かではない。だが確実にどこからか聞こえてきた声だ。もしかしたら私の独り言かもしれない。神様の姿は相変わらず光と影のようにしかみえないが、それは私の姿のように感じられた。こうやって話すのはいつ以来か思い出せない。それこそ夢の果て、雲をつかむような話だ。
参道を歩き、本殿へと至る。鈴緒を振り本坪鈴ががらんがらんと辺りに響いた。私は静かに手を合わせた。
隣にいる神様も私と同じように手を合わせていた。
なにを願っているのかわからないが、神様がなにを願い、考えているのか知ろうなんて、そもそもナンセンスなのだろう。
「あなたが見えようが見えまいが……それもまた良し」
菊花は夜の暗さに静かに沈んで尚、そこに咲き誇っていた。




