游と月と水
頭は痛く、奥歯がぐらつく。顔は腫れぼったい。蹴られまくった太腿の痛みで立つのに一苦労だ。肋にもヒビが入っているに違いない。咳をすれば痛む。むしろ痛くない場所を探すのが難しいくらい身体中まんべんなく痛く、あちこちの腫れによる炎症のせいか、熱っぽい。一応、熱を測ったが微熱程度で特に危険な状態ではないだろう。
夢路さんに寝ていろ、といわれたのが助かった。正直、頭が痛くて夢路さんとなにを話したのかよく覚えていない。なんだか僕の気持ちをそのままに熱く語ってしまったようで、気恥ずかしい気持ちだけはあった。こんな調子では今日はろくな仕事はできないだろう。とにかく寝て体調を整えるしかない。
さすがに加賀さんは強かった。一発一発が鋭く、重い。どの攻撃が虚で実なのか、わかるまで後手に回るしかなかった。そして虚実入り交じる攻防のなかで一手先をいった。その刹那に僕のすべてをぶつけた。加賀さんはどうだか知らないが、本当に僕はすべてを出し尽くした。あの瞬間を見切られたら、あるいは次にやったら僕の方がカウンター一発で意識を飛ばされる可能性が高いだろう。思い返すだけで冷や汗ものだ。
だがやりたかった。本気でやらなければいけなかった。その理由は霧がかって断片的にしか思い出せない僕の過去にあるような気がした。成長のために競い合う。あの▽町での学校の教育方針の基本ようなものだった。人類は皆が皆、上を目指さなくてはならない。そういった教育だった。ここでは違うらしい。第二成長期止まりで第三成長期へ移行しない、猿の幼形成熟である人類は、その優しさを肥大させ、幼いままでいたいのだ。それでは成長は限られている。成長を糧にして発展する社会設計のはずなのに、なんて生温いことなのだろうか……いや、僕はいったいなにを考えているのか。
僕は立ち上がり水を飲む。冷えたコップを左まぶたにあて炎症を冷ますと一時的に痛みが引く。
ため息とともにまた倒れるようにソファに横になった。
こんな雨音が聞こえる薄暗い一日に疲れ切った身体はすぐにまどろみへといざなわれた。
雨音は次第に遠くなり、身体の痛みは引いては返す。疲労は意識をぼやけさせた。
それは幼少期のころの夢だった。
いつも一緒に遊んでいたふたりの友達がいた。
戌井勇、狗山翔のふたりだ。僕を含めて三人とも母親がいなかったのも仲良くなったきっかけのひとつかもしれない。ほかにも共通していることが多くあったが、仲良くなってからはそういった理由なんて、たまになにかの拍子に思い出されただけで特に関係はなかった。どこへいくにしても一緒にいた。話せば時間を忘れいつまでも気楽に話せた。学校から帰ると三人の内の誰かの家に行くのが習慣だった。だがある日、唐突に行方不明になったのだ。手品師が手にとったカードを一瞬で隠してしまうように。
町内会で集まり、仲の良かった僕が連れてこられて周囲の大人に囲まれながら詰め寄られたのを覚えていた。あのときは僕自身が責められているようで怖かったが、思い返してみれば皆、必死にふたりを探そうとしていたのだ。
そのふたりが目の前にいた。
「よう。やっとこっちに来たか」
勇がいった。散々探し回ったのは僕の方なのになんて言い草だ。それにみつけるのは僕の方だとも思っていたのに逆にみつけられてしまうなんてな。でも会いたかったよ。積もる話なんて陳腐な言葉、年寄りが使うもんだとばかり思っていた。
勇の背は高くなり、僕より高かった。顔も声も成長し変わっていた。だが行方不明になったときの面影がいくらかあった。
「成長したなぁ。最初、君だってわからなかったよ」
お互い語り肩を叩き合ったが、「お互い第三成長期にはならなかった」と慰め合いもした。その一方で翔はなにも話さず、ただ俯いていた。
「どうしたんだよ」
僕の言葉に悲しそうに首を振った。その姿は幼いままで行方不明になったときのままだった。そして、別れの挨拶みたいに悲しく手を振った。
僕も悲しくなり、そのわけを訊こうとしたが、そんな僕の肩に勇が手を置いた。勇の顔は悲しみにあふれ、ただ首を左右に振っていた。
僕はそれが理解できなかった。いや、理解したくなかった。翔の方を再び向くと彼の姿はなかった。ただ地面には二筋の血痕がついていた。その二本のバイクのタイヤ痕は延々と夢の果てまで続いていた。
「遠山さん、遠山さん!」
後ろで声がした。僕とそんなに年の変わらない若いバイカーたちがバイクから降り、地面に横たわっている大きな男を助けようと声をかけていた。しかしその声はそのひとには永遠に届かないだろう。彼の頭は踏み潰された空缶のように潰れていた。そこから出ている血が翔の残した血痕と交わっていた。
ふと僕が拝屋雫の内側にはいったときのことを思い出した。僕はそのバイカーたちに交じり「翔、翔!」と大男の(もう鼓動をしていない)胸を揺すった。しかし男はもう立ち上がらない。なにも語らない。
どこからか声が聞こえてきた。
「いいか、日常を疑え、当たり前を憎め。真実はひっそりと忍び寄るようにしてやってくる。聞き耳をたてるんだ。そうでなければ真実は君の横をそっと通り抜け、日常は君を騙し続ける。いまある日常こそ真実だと騙し続けるんだ」
そこはどこかのアパートの一室と思われた。見覚えのある老人が僕に語っていた。僕は真剣に訊いていた。いや、聞かなければならない。彼の言葉は勇や翔を探すために必要な言葉なのだから。
テレビがついていた。ニュース番組で「……先日、山中へ向かう国道沿で性別不明の遺体が発見されましたが、検査の結果、行方不明の戌井勇くん(十二歳)、狗山翔くん(十二歳)と断定されました……」
ああ、やはりだめだったのか、という落胆に心は深く暗いところに沈んでゆくようだった。それは暗く寂しいが、それは夜空の暗闇に染め上げられる寸前の、赤い落日のように儚く美しくもあった。
そうだ。落日はあの日の記憶でもあった。その日に僕は彼女に染め上げられたのだ。彼女は僕の隣にいてくれた。こんな夢のようなこともあるものだ、と満たされる思いと、彼女の姿を脳裏に刻もうとした。彼女は△高の制服を着ていた。あのときと同じ姿だ。「雫」と声をかけた。その手に僕の指を絡ませようとするが、僕の指は彼女の手に届くことはない。彼女は意味深げに微笑むと僕と彼女との距離が離れてゆく。それは次第に長くなり、僕の手の届かない距離となってゆく。いや、もしかしたらそれが元々の距離だったのかもしれないという諦めが支配するくらいの距離だった。まるで夜空にある月のようだ。はっきりとみえるのに、手を伸ばしても梯子をかけても届かない。どこまでも果てしない距離。
結局、なにもかもが手にはいらないのだ。
手で水を掬うみたいに掬ったそばから、指の間からこぼれ続けてゆく。なにも確たるものはなく。ただ僕の周囲は曖昧なものばかりで信じるに足りない。
遠くで、あるいは近くかもしれないが、誰かの足音が聞こえた。それは僕に気遣ってくれているのがわかった。まるで父親のように。そしてふわりと漂ってきたのは味噌汁のいい匂いだった。起きて手伝おうか、とも思った。けれどいまは夢路さんの気遣いに甘えたかった。
夢路さんの気遣いが僕の指から零れ落ちる水を少しだけ受け止めてくれるような気がした。
ただ気がしただけだろう。いつもそうだ。結局は零れてゆくのだ。




