夢路と検問
朝から冷たい雨が降り続いていた。それはまるで空が冬に向けて夏の名残りの一切を刈り取っているかのようだった。
こんなときは野良仕事ができないが、いまは助かった。游が力仕事ができる状態ではなかったからだ。
游の左のまぶたはすこし腫れ上がり、首はむち打ちの症状があるのか、起きあがるときは自分で首を支えながら起きていた。マウスピースを噛んでいたが、口のなかも切ったのかもしれない。味噌汁を飲むときに、染みているような素振りをみせた。しかし本人は「いやいや、全然、大丈夫っス」と強がっていた。俺に心配をかけたくないのか。俺が加賀とのスパーリングですこし怒っているのを察しているのかわからない。ただ大丈夫と口にしていても身体の損傷は大きいだろう。被弾を恐れずもぎ取った勝利の代償だ。
游がこんな状態だから加賀も酷いものだろう。游が加賀を投げ、抑え込みからのパウンドを俺は止めた。游が加賀に必要以上に殴られないために審判役をかって出たはずが、まさか游が加賀を必要以上に殴らないようにスパーリングを止めることになるなんて思いもしなかった。それにどこか飄々としていて大人しい少年だと思っていた游がこんなにも好戦的だったのも意外だった。
本当に恐れ入った。 素晴らしい。 だが意味はない。
この戦いで加賀が上達したわけでもなければ、誰かの為になったわけではない。ただ游が加賀より強い、ということが証明されただけで、お互い身体を痛めただけだ。
「馬鹿。あんなガチになって、なんか意味あったんかよ」
俺の言葉に「ありましたよ。僕はそうしなければならなかったんです。ああいう集まりは誰も強くなれません。上を目指すなら『おれは弱くていい』なんてひとは集まらない方がいい」といった。確かにあの練習会はあの三人のためだけの集まりだった。
「誰もが強くあろうとしなければならない。そのためには弱さに甘んじないようにしなければならない」
それは游自身から語られた言葉でなく、どこかの誰かの言葉のようだった。あるいは昔、游が日常的に聞かされていた言葉かもしれない。
游はすこし頭を抱え「ちょっと横になります」といってソファ(游のベッド代わりになっている)に寝転んだ。
「だから僕が一番強いひとに向かっていったんです。あの場の誰もが僕と同じ結果をもたらす可能性があったんです。誰かがやらなければならなかった。そうでないとただ流されて終わってしまう」
俺はそういう集まりでもいい、と思っていた。ただ以前、游が「夢路さんが強いとわかったら組まなくなったじゃないですか?」といっていたのを思い出していた。
「日常を疑わなくては、当たり前を憎まなくては。真実はひっそりと忍び寄るようにしてやってくるんだ。聞き耳をたてなきゃ。そうしなきゃ真実は僕の横をそっと通り抜け、日常は騙し続ける。いまある日常こそ真実だと騙し続けるんだ」
その言葉は俺に話すというより、自身にいい聞かせているようでもあった。ただ疲れているように言葉に張りがない。やはり頭をしたたかに打ったのだ。すこし寝かせてやるのがいいかもしれない。
「確かにおまえのいった通りかもな。でも事実上、俺たち出禁だぜ」
「そうなりますね」
悪びれることなくどこか晴れやかにいった。そして「なにかが変わりますよ。決定的になにかが」とささやくように予言を呟いた。
「今日は寝てな」
「すみません」
そういうと游は目を閉じ、静かに寝息を立て始めた。脳に障害がないか心配だったが、熱はないようだった。ただ、たまにうなされていた。声にならないうめきのようなもので、夢なかで誰かと話しているようでもあった。言葉は理解はできないが、なんだか切なそうだった。
俺は勉強をしていたが早々に切り上げた。今日は雨だが米の注文があったからだ。俺は精米してあった米袋を軽トラに積むと配達へ出かけた。遠方なら配達業者を頼むが市内や隣市なら自分で運んでいた。しばらく游は休んでもらう。身体は思うように動かないだろうし、あんな顔でお得意さんに会っても驚かれるだけだ。
夕方には配達は終わり、俺は体育館へ向かった。軽トラックには常にジャージが入れてあった。いつでも気軽にトレーニングするためだ。
体育館の更衣室で着替えてランニングコースに行くと雨の日のためか十人くらいが思い思いに走ったり歩いたりしていた。そのなかに見知った顔もあった。
「よう」
俺が見知った顔に声を掛けると「よう」といって走るのを止めて俺の方に来た。
「聞いたぜ。游のやつがやりやがったんだってな」
蛇渕は楽しくもないことを楽しそうにいった。
「止めたんだがな」
「おまえらしいよ」
蛇渕は汗を拭きながらいった。以前はどことなく暗い顔でここに走りに来たようだったが、俺と話すだけで帰っていった。しかし今日はたっぷりと走っていたようだ。なにか彼女と進展があったのだろう。
「いいことでもあったのかよ」
「別に」
俺に気取られたのがすこし嫌らしい。
「それより、游はどうだ?」と話題を変えてきた。
「かなり殴られたからな。休んでる」
「そうか。加賀相手じゃあな。あっちは色々試合出てるしな。よく勝てたとおもうよ。ラッキーパンチか?」
「いや、戦略だな」
蛇渕は口笛を吹いて「やるじゃん」といった。
「加賀に謝っといてくれないか?」
「なんで? あいつは色々試合出てるから慣れっこだって。そりゃ、落ち込んではいるだろうけど……たぶん」
「たぶん、かよ。それにしたって游のやつだ。あいつ、なんか問題あるというか。過去になんかあったな、ありゃ」
「俺も実はあんまり知らないんだ」
蛇渕はそういうと視線を外した。こいつは確実になにか知っている。だがいえない事情でもあるのだろう。
「あと、游のやつ俺のところからいなくなるかもな」
「おいおい、歳上ボコしたからって、あんまりイジメんなよ」
「そうじゃねぇよ。なんつうか俺は習慣が好きなんだよ。一応の目標ときまりをつくって、それに従うっていうのが。例えば使ったものの置く場所とか、今日はなにをするとか、あらかじめ決めておいてそれを達成することがな。だけど游はそれに従いはするけど、ちょっと習慣から外れたことをしたがるというか……ストレスになってるみたいだな。家に誰もいないときのほうが伸び伸びしているかもしれない。もしかしたら親に虐待されてたのかも」
俺の言葉に蛇渕は笑った。
「いやいや、游からのLINEで『夢路さんはなんの興味も持たないし、自分自身がない』っていってたからさ。ちゃんと考えてんじゃん。ただ大丈夫だと思うぜ。どうせ、行き場はないようだし。ストレスの発散くらい自分でするさ。もし游に行く場所があったらあったで快く送り出せばいい」
「そうだな」
話し終えると蛇渕は汗を拭きながら帰ってゆき、俺はランニングコースを走り始めた。
十分に走り汗を軽く流して帰ろうと階段を下りた。俺はまた体育館の事務所に阿田さんがいないか気になったが、当たり前だが彼の姿はなかった。ただ、帰り際に事務員に会釈されたので阿田さん絡みで顔を覚えられたのかもしれない。俺は軽く会釈し返した。
外に出ると体育館に入る前の柔らかな秋雨は、雨音に加え雨脚はさらに強まり小さな滝のようになっていた。俺は急いで軽トラに乗ったが、体育館でしばらく雨宿りするんだった、と後悔した。ワイパーを動かしてもすぐにみえなくなるくらいの豪雨だ。
左右に激しく振れるワイパー越しにようやくみえる視界に気をつけつつ、ゆっくりと走行した。
ラジオをつけていたが、雨音にかろうじて聞こえる程度でなにをいっているのかわからない。米の配達中でこんな雨に出くわしたら配達どころではない。玄米は紙袋なので濡れたら大ごとだ。配達が終わっていて本当によかった。
家の近くで雨越しいくつかの赤いライトの光がみえた。
なにかの検問か、数人の赤い誘導灯を持った白いレインコートに反射ベストを着た男たちがいた。そのなかのひとりに車を停められた。ウィンドウを開け「なにがあったんですか?」と訊いた。レインコートの男はなにか返事をしたようだったが、雨音のせいでなにをいっているのかわからないし、顔も目深に被られたフードによってみることができない。
ただなにかみせるように、と指示されたような気がしたので免許証だろう、とポケットに手を入れて免許証を出すつもりが、指先にふれたのは硬くざらついた質感のものだった。俺はなぜだかそれを手のひらに乗せてレインコートの男にみせた。それはいつか、田んぼでみつけた獣頭型土器だった。その小さな獣の頭はレインコートの男の方を向き、無言で睨んでいるようだった。
「すみません。間違いました」と俺がいうより早くレインコートの男はいっていい、と促すように赤い誘導灯を道の向こうに指し示した。
俺は「ご苦労さまです」というと、指示に従い道を走った。しかしそれは道ではなく橋だった。家の近くに橋なんてなかった。そもそも昭和初期に灌漑が進んで△市の真ん中にあった川は田んぼや道に変わっていたはずだ。こんなところに川や橋はないはずだ。俺は道を間違えて△市の端っこまで来てしまったのかもしれない。どこかで車を停めてナビを観なければと、頭の片隅で考えてはいたが、むしろそれよりは視界の悪さに注意深くハンドルを掴むほうが重要だった。
けれど道は間違えてはいなかった。やはり走っていたのは家の近くの道だったのだ。家に着くと雨はまた小雨になった。そして来た道を見返したが、そこには検問もなければ川も橋もなかった。
狐にでも化かされたのかもしれない、と游に話してやろうと家のなかに入ったが、家のなかは暗く、游はまだソファのうえで寝息を立てていた。
俺は游が起きないよう、そっと晩御飯の支度を始めた。そのうちにさきほどの雨のなかの検問のことはすっかりと忘れてしまった。




