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匣の街  作者: Mr.Y
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夢路と埋まらない傷跡

 時間が空けば市営体育館へ走りに行くのは日課のようなものになっていた。身体を動かすことは俺にとって重要なことだ。身体を動かしているとなにも考えなくていい。そして家に帰ってシャワーを浴びる。食事をつくって食べる。疲れた身体を布団にうずめる。そこに思考はない。ただ動物的な生活があるだけだ。

 帰る場所があるということ、目的があることはありがたいことだ。日々の生活に帰る場所がない、目的もなく生きることは、日々ただ徘徊しているということになる。外に出ればやることがあり、戻る家がある。そういう約束された習慣のなかで生きていくことがなによりのことだと思っている。

 生きる? 俺が?

 心の独白に思わず自嘲する。いつの間にか俺は習慣と日常に生きている。死ぬに死にきれなかった俺の臆病が俺を生きさせているのだ。

 彼女が首を吊ったあの日。天井から吊るされたロープは確かな重量を持って、地上に対してまっすぐに張っていた。その張りにかすかな揺れがあった。それが彼女が生きていた最後の証だった。そして彼女はその死顔を俺にみせてはくれなかった。紙袋をかぶっていたのだ。まるで紙袋が彼女自身の顔であるかのように。

 俺も後を追えばよかった。けれどそれができなかった。俺は彼女の死に自身の責任があると思った。もしくは彼女の病気か。それとも別の原因か。それを解き明かそうと思惟に埋没していた。いや、彼女がなぜ死んだのか理由が欲しかった。それを知ったところでどうしようもないだろうが、納得したかったのだ。納得すればすくなくとも前に進める。けれどその理由は解き明かされることもなく。ただ憶測ばかりがあった。彼女の親ですらその憶測で納得した。いや、納得せざる得なかった。けれど俺にはそれができなかった。理由を教えてくれる存在なんてないのに。結局、俺は彼女の後を追えず、無為に日々を過ごし、ただ死にそびれただけだった。そうだ。死を望んだが死にきれず死にそびれたのだ。けれど彼女の死とともに俺の一部は死んだも同然だった。いや、いまの俺を生かしているのは、ただ俺の身体だけだろう。俺のなかにある魂と呼ばれるものは彼女を追って死んだのだ。だから心の奥にはっきりと空満たされない虚ろがあるのがわかる。

 この世界に俺の魂は目的もなければ帰る場所もない。約束されたこともない。だから、俺の魂はただ徘徊するだけだ。

 いま、俺のいるこの世界は死後の世界だ。彼女の死と俺の死、そのどちらも起こって、だけれどなんの変化もなく続く世界。俺たちの死後の世界。


「よう」

 ランニングコースの入口に作業服姿の蛇渕がいた。

 俺は走るのを止め、歩きながら息を整えながら「よう」といった。蛇渕もランニングコースを俺と一緒に肩を並べて歩き始めた。

『並走禁止』という注意書きがあったが、俺たちの他にひとはいなかった。

「游のやつ、どんな?」

 俺は汗を拭きながら「いや、よくわからん。けど、なんか必死なやつだ」といった。確かに必死そうだ。いつもなにかしているし、常に気が張っているようだった。なにぶん親から離れてひとりで生きているのだ。深い事情があるだろうし、はじめてのことばかりで気が休まらないのだろう。

「ふぅん。まぁ、あいつ頭いいから、要領よくやるよ。そのうち慣れんだろ。それとさ。俺、しばらく道場の方、休むから」

「そりゃ、また怪我か? それとも病気か?」

「そっちだったらまだよかったんたが」

「よくないだろ?」

「いや、そっちはまだ休めば治るからな。こっち関係はこじれたら最悪だ」

 小指を立てながらいった。まさか蛇渕にモテ期が来るとは思わなかった。

「それはおめでとう」

 仲間を祝福すべくいった言葉だったが、口に出したら全然、祝ってなさそうな口調だった。

「めでたくねぇよ、修羅場だよ」

「ひとを好きになるって素晴らしいことじゃないか」 

 たぶん、俺はこういう話は苦手なのかもしれない。言葉がすごく嘘臭かった。

「まぁな。もしさ、どちらかひとり選ぶならおまえならどうする?」

「好きな方だろ?」

「だよな」

 蛇渕の口調からして、相手がどんなひとか想像もできなかったが、彼のなかではどっちもどっちなのだろうか。

「あえていえば、つき合いが長いほうだ」

「それなら悩むまでもない」と俺がいいかけたとき「でも一緒にいるとわかっちまうんだよ。この先どうなるか。そして、劣等感を感じる」と蛇渕はいった。

「いや、悩むまでもない」

 俺は蛇渕の言葉にいいかけた言葉をそのままつないだ。

「あえていえば、そっちなら、そっちがいいに決まってる。好きなんだから」

 蛇渕は思わず俺をみていた。

 彼のなかでなにかわだかまっていたのだろう。それがひとつの方向を向いたようだった。それは俺の言葉を求めていたというより、ただすこし背中を押して欲しかっただけのように感じた。

 俺は頷いた。

「まいったな」

 蛇渕はそういうとランニングコースから外れて「じゃあ、道場のやつらによろしく。あっ、あと游にも」俺に手を振った。むしろこちらの言伝のほうが重要だったのだろう。

 俺は一周、歩くと再び軽くジョギングを始めた。


 出会いなんてよく覚えていない。

 きっとそれは普通に出会ったのだろう。春になれば軒先にある巣に燕が戻ってくるくらいに自然に。もしかしたら彼女に訊けば笑いながら(あるいは怒りながら)答えてくれるに違いない。ただそれは永久に失われた関係性のなかにあるだけだ。始まりを覚えていない恋愛なんて人生みたいなものだ。振り返ってみて自分が赤ん坊だったことなんて覚えていないように。そして振り返れば思い出とその終わりだけが思い出される。その恋愛には続きがないためだろう。だから振り返るしかないのだ。何度も何度も。もし続きがあるとするならもっと思い悩み、もっと苦しく、もっと輝かしいものだろう。


 次第に息が切れ、脚も身体も走ることを拒んでいた。俺は歩きながら息を整えると、汗を拭いた。

 外は暗くなりつつあり、俺はクールダウンに歩きながら、なんとなく乙四のおさらいを頭のなかでしていた。疲れた頭では四割くらいしか思い出せなかった。あと一週間で乙四の試験だからすこし焦らなくてはならないかもしれない。

 俺は帰ろうと体育館の階段を降りると、出入口にある事務所前に見覚えある人物がいた。

「そういうことで、もうなにもないと思いますが」

 関西訛りで事務員に話をしていた。事務員は困り顔で受け答えをしていたので、またお祓いの押し売りでもしているのだろう。

 なんとなく知った顔でもあり、めんどくさくもあったが声をかけた。

「阿田さん、お久しぶりです」

「やぁ、夢路さんじゃないですか」

 朗らかな笑顔を俺に向けた。

 ちょっと事務員の方をみたが、事務員は俺にありがたそうな顔を向けたことから、やはり阿田さんはお祓いの押し売りでもしていたに違いない。

「近くに用事があったので、ついでにと、お昼過ぎに伺ったのですが、留守でして」

 話が長そうだったので「ちょっと場所を変えません?」と提案した。

 ここでまたお祓いの押し売りや霊能者談義をされても困る。かといって彼にはどこか憎めない愛嬌があった。そこにすこしばかり惹かれるものを感じていた。

「ええ、いいですよ。いやぁ、△市といったらラーメンじゃないですか。△市では工業の発展とともに工場が多くなって、賑わっていたと聞きます。それで工場仕事の残業時には、手軽に食べられるラーメンが人気でよく食べられていて、そこから鉄鋼業とラーメンが二人三脚で発展して、いまや全国レベルとか。近くに美味しいラーメン屋があったら食べてみたいです」

 放浪阿闍梨という霊能YouTuberをやりながら(阿田さんには悪いがまだ観ていない)全国を回っているらしいから、こういう話は得意なのだろうが、なんだか地元の俺より詳しそうだった。

「ここの近くにスタンダードな△市ラーメンありますよ」

「じゃあ、そこで」

 俺たちは市営体育館の近くにある中華飯店というなんのひねりのない名前の老舗に入った。

 この店には久しぶりに入ったが、注文が食券機に変わっており、その食券機の真新しさと店内の古びた感じがアンバランスだった。

 夕方でまだ開店したばかりなのだろう。お客は俺と阿田さんだけだ。俺たちはシンプルに醤油ラーメンを頼むと席に着いた。

「確か△市ラーメンといったら背脂なんですよね。出前が中心で冬場でも冷めにくいからって。それと太麺なのもゆっくり食べても伸びないように、とか」

 やはり阿田さんは地元生まれの俺なんかよりも△市ラーメンについて詳しいのかもしれない。

「それはそうと、なんで体育館なんかに……」

「そうそう。前に封印のこといってましたよね。駅にあるって。その関係でして、私の見立てでは△市には北斗七星になぞらえた七つの封印が……」

 もうすこし混んでいるときに入ればよかった。そうすれば店員に怪訝そうにみられることもなかっただろう。阿田さんはそんな視線には慣れているのか、スマホのマップアプリを開いて説明しだした。七つの封印は北斗七星を見立ててつくられ、しかもそれは神社仏閣ではなく公共建築という巨大なハコモノで行われた、と。

 なるほど。体育館の事務員も困るわけだ。これを素面で説明する坊主が現れ「いままで心霊現象があったかもしれませんが、もう大丈夫。それとなにか起こりましたらぜひとも私にご連絡ください」とかいわれたら、我々一般人には困るしか選択肢はない。やはりこういうひとは我々とはみている世界が違うのだ。でもこのひとはこのひとで、とんでもない体験の果てに、いまの平和を掴みとったのだろう。

 ただ彼の話はぶっ飛んでいた。裏世界やら神の降臨、人類上位種、秘密結社やら……昔子供の頃にやっていたロボット戦争アニメのほうがまだ説得力がありそうだ。

「大変だったんですね」

 俺は醤油ラーメンをすすりながら話を訊いていた。なるほど、太麺が伸びにくいという阿田さんの説明は正しいと言わざるを得ない。ラーメンが運ばれてきてしばらく経つにも関わらず、まだ手をつけず話している阿田さんのラーメンの麺は伸びる気配もなかった。

「そうですよ。霊能者だけではなんとも。まさか神さまがお出でになるとは……有り難いとはまさにこのことです」

 そして、ようやく「いただきます」とようやくラーメンにレンゲを入れ、恭しくスープを一口飲んだ。

「いや、飴色のスープの色が綺麗だ。味わいは。これは煮干し出汁かな。背脂といっても脂っこくはないな。ああ、ニンニクがあるな。後味の柑橘の香り。これは柚子か。このスープにして、腹ごたえのありそうな太麺。ニクいな」

 声が大きいためか、呟きがはっきりと聞こえていた。そしてラーメンをすする。それは食べるという行為というより試験官のように厳格な調査のようなものにみえた。

「この味の絡み合いはもうバンドというか。多重奏の交じり具合がもはやシンフォニーみたいな味わいですね。一口目と後味の深みに太麺の歯ごたえ舌触りが合わさり、そしてしっかりと腹ごたえがある。これで△市の産業に従事するひとたちを陰ながら支えてきたのかと思うと一気に食べてしまうのが惜しい」

 俺にしてみれば「美味い」で終わる話を阿田さんは詳細に語っていた。

「いつでもお待ちしてますので」

 ラーメンを食べながら阿田さんは静かにそっといった。

 なんのことだかは理解できた。だから「いえ、その件はお断りします」と答えた。やはり最初から阿田さんは俺の背後霊について話したかったのだろう。そして、断られることに気づいていたのだろう。だから、ラーメンでも食べながらそっといったのだ。

「それもまたいいでしょう。人生は重き荷を背負い遠き道をゆくが如し。徳川家康もいっておられる。私としてはおすすめできませんが、それもまた人生なのでしょう。でもお祓いして欲しくなったらいつでもいってください」

 俺はただ「有難う」と礼をいった。

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