游の邪悪
ただ心外だったのは、時給は県が定める最低時給だったことだ。せっかく鹿島さんの喫茶店『テラス』で認められて、すこし時給が上がったばかりだったので、残念だが仕方ない。それに住み込みになるし、出勤もないのだからかえっていいのかもしれないと自分を納得させた。
ただ問題はその仕事がほとんどないことだ。
晩秋は雨の日が多い、僕はやることがないので家事をかってでた。なにもしてないよりは、なにかしていたほうが落ち着いた。僕はいき場のない居候の身だし、物心ついた頃からふたり暮らしには慣れている。それにしても、お父さんとふたり暮らし、次は蛇渕さんとふたり暮らし、その次は夢路さんとふたり暮らしなんて、僕は男性とふたり暮らしをする呪いでもかけられているのだろうか。
このまま次も誰か男とふたり暮らしなんてことはなしにして欲しい。できれば女の子がいい。そんなことを考えると干しているボクサーパンツに虚しさを感じてため息が出しまう。思春期とはおおよそそういうものだ、と学校で習ったような気がするが、この欲求が満たされたとき、ひとは至上の幸福を感じるのではないか。女性はわからないが、僕には抑えきれないくらいの欲求はある。まだ生まれて十数年の間ではこのもて余す欲求こそが人生の源泉なのでは、と勘違いもしてしまう。もちろん、人生、そればかりではないだろう。しかし絶えず湧き上がる欲求は苛立たしくも感じるし、なければそれはそれで悲しいとも感じる。いまはまだ、これがなくなるなんてことは考えられないが。ともかく満ちては引く、この欲求とはこれから先、延々と人生の大半を一緒につき合っていかなければならない。つまり、なにがいいたいのかといえば、これを人知れずどうにか処理しなくては日常生活に支障が出るということだ。
「はぁ」
後ろからのため息で我に返った。
夢路さんのボクサーパンツを眺めながら物思いに耽っていた、僕は一瞬、焦ったが平静を装い洗濯物を吊るしはじめた。いくらなんでもみた目が悪すぎる。
一週間ほど一緒に暮らしてみて、どうやら夢路さんは勉強のほうは苦手のようだ。
いつも一時間を待たず、ノートと参考書を放り投げ、腕立て伏せを始めた。このところ雨続きでまともに外仕事をしていない。ただ、こうやって勉強をしては筋トレをしていた。これで食べていけるのか、と思うが、米の収入でなんとか凌げるようだ。
「それまで細々暮らしていけばなんとかなる」
自信があるというより、達観した語調だったのが心配だし、そもそも夢路さんも今年の春から始めたばかりだから、経験はないわけだ。説得力が乏しい。
なにも冬にひとを雇わなくても、と思うが、よくよく考えたら飛び込んで来たのは僕のほうだ。なんとかなる、という言葉を信じなくてはならない。もしくは春に忙しくなるまえにアルバイトにでも出かけようか、と心配になってくる。
「ちょっと走ってくるけど、どうだ?」
僕の心配をよそに夢路さんはどうも勉強には向かいたくないらしい。
「雨のなかはどうも……」
「市営体育館に行く」
「遠慮しときます。それよりいいですか? 乙四の試験は来週じゃあ……」
「まぁ、大丈夫」
なにが大丈夫なもんか、ちゃんとできていたら僕も心配なんてしない。ノートとって暗記するだけではできてないような気がした。昨晩、すこし参考書から問題を出したが正解率は五割くらいだった。試験が来週ともなると、もうすこし根を詰めたほうがいいような気もするが。
僕がそれをいおうとする前に、夢路さんはもうトレーニングウェアに着替え始めていた。夢路さんは日常的にハンドタオルを首に絞めたり、ベルトに引っ掛けたりしているのが、汗を拭くためなのだろう。なんとなく必要なのはわかる気がする。思いついたら、動いたり、仕事に行ったりするからだ。
一年ほど引きこもらなければならなかった、という心の病とやらはどういうものだったのか気になる。もしかしたら、その心の病対策として運動をしているのかもしれない。それならばすこし頷ける。
それにしても、ひとには向き不向きがあるという。夢路さんは僕が来る前に農耕車用免許証の試験に受かったらしいが、そういう身体を動かすことに関して、このひとには向いていて、完全に座学で学ぶ、危険物乙四となると向いてないような気がした。
「じゃあ、いってくる」
「晩御飯までに帰ってきてくださいよ」
僕の声は一応、届いたのだろう。こちらをみもせず手を振った。
けれどひとりになるのもいいものだ。僕は孤独な生活は嫌だが、ひとりになる時間は必要だと思っている。僕は手早く洗濯物を干し終わると、しばらくトイレに籠って煩わしい欲求に向き合った。
なにもトイレですることはないだろう、と思うが匂いや後処理を考えると僕にはここが手っ取り早かった。湧き上がる欲求の対象はいつもあの子だった。霧がかった記憶にいた彼女に対して今日もまた欲情を吐き出そうとする。
僕は本当はそんなことはしたくないのだ。本当は話してみたいし、また彼女の話を訊きたい。彼女がどんなひとで、どうして髪が白いのか、どんな思いから白く染めているのか、またなにが好きで、嫌いか。そんな幼稚な興味や好奇心がないわけではない。互いに優しさや好奇心を持ち寄って歩み寄りたい。
ただ僕の身体は本能的欲求が先に湧き上がってしまう。それは彼女の身体を知ってしまったからだろうか。いや、それはないだろう。もっと精神的な繋がりだったような気もする。▽町から来て、なぜ彼女が目の前にいたのか。なぜ彼女の名前を知り得たのかわからない。それは霊的な体験だった。振り返って思うことはあの体験に現実味がまるでなかったことだ。
拝屋雫。あの現実味のない体験で僕は彼女の名前を知った。彼女は結局、僕の妄想に過ぎないのかもしれない。だから名前だけを頼りに探すのも気が引けた。
その妄想に僕はなぜこんなにも欲情するのか。
もしかしたら彼女は僕にとって一種の理想像なのかもしれない。白髪のショートヘア、闊達そうな大きな瞳、透き通るような肌……好きなところは挙げればきりがない。
そんな美しくも可愛らしい理想像なのに僕は彼女に対して抱く欲情は汚いものだ。いかに彼女を苦しめ、辱めを与え、酷いことをし、穢することを妄想することで満たされ興奮してゆくのだ。彼女の柔らかな肌を、溌剌とした表情を歪ませ、身体の自由を奪い、僕の好きなように操る。優しく首を絞め、必死に無駄な抵抗し、赤くなる顔の彼女を愛でるような気持ち、僕の汚い身体の部分を彼女のその可愛らしい部分で拭いたい気持ちがある。
その湧き上がった欲情を吐き出さなくてはならない。これを抱いたまま日常なんて送れない。だからトイレで僕は処理するのかもしれない。これは排泄行為だ。汚く穢らわしいものだ。その汚穢を蠕動運動にも似た動きで、妄想のなかの拝屋雫に吐き出す。妄想のなかの彼女はその僕の行為を望み欲し悦んで受け入れてくれる。
僕は拝屋雫が好きだ。愛している。人柄を知る前に好きとか、愛しているとか勘違いも甚だしいだろう。けれどはっきりといえる自分がいた。
僕は(安易な言葉ではあるが)変態なのだろうか。特殊な性癖で女性をみてしまうのだろうか。もし変態でなく、特殊な性癖でないとしたら、僕は邪悪なのだろうか。
「夢路さん、白露夢路さんは、いらっしゃいませんか!」
突然の来客だった。
インターホンを鳴らしたあとに声が聞こえたのだ。それにしても声量が凄い。玄関にいるのにインターホンと同じくらいの音量だ。もしかしたら白露老夫婦のいる母屋にまで聞こえそうな声だった。けれど不思議と不快感はない声だ。
僕はトイレから出ると念入りに手を洗った。行為のあとなので匂いがついていないか(僕の汚れた欲求の気配の名残がないか)心配だったのだ。
「はい! いま行きます」
手をよくふき取ると、玄関ドアに向かって、そういおうとしたが、なぜだか総毛立って、出てはいけない、みてもいけない、と思った。
この感覚を僕は以前したことがあった。確か震えて布団のなかでやり過ごしたのだ。ただの来客なのに、僕は動くことすらできなかった。とにかく僕は出てはいけないし、物音すら出してはいけない、という強迫観念に支配されていた。
「あれ? 違ったかな。圭介さんから訊きました。すみません、いらっしゃいませんか! 阿田です。阿田大輝です! 放浪阿闍梨の。近くまで来たので以前、いってたお祓いでも、と」
なんのことかさっぱりわからない。
お祓いということは夢路さんはなにかに憑かれてでもいるのだろうか。それとも心の病とやらの案件だろうか。
「確かここだっていっておられたんだが……ん?」
声が大きいせいか本人はつぶやいたつもりなのだろうが、玄関ドア越しに声が聞こえていた。
圭介さんとか地権者云々とか、夢路さんの顔見知りかもしれないし、怪しいひとではないことが理解できる。しかし、その声に、声から発せられる雰囲気に僕は怯えた。なぜ自分が怯えているのかわからない。ただ玄関の靴箱を背に座り縮こまり、後ろを振り返って居間に戻るにも動くのが怖かった。かといって出ることなんてとてもじゃないけどできはしない。どうにも動けないでいた。
いつの間にか阿田とかいうひとも沈黙していた。
それはまるで草藪に潜む虎のように不気味だった。
『おんあぼきゃべいろしゃのう まかぼだらまにはんどま じんばら はらばりたやうん』
聞いたこともない念仏だった。さきほどの声と違って、囁くような声量だった。それが玄関ドアの向こうから聞こえてくるのだ。僕は総毛立ち、震えた。それが恐怖なのか、不快感なのかわからない。たださきほど僕が僕自身に感じた邪悪さを指摘され、白日のもとに晒されたような羞恥もあった。自らの存在を否定されたような不気味さと嫌悪感が僕の心を支配した。息は弾み、額に脂汗が滲み出た。
「ああ、阿田らったか。軽トラがねぇっすけ夢路は出かけたようらね」
遠くで圭介さんの声がした。
「ああ、そうですか……」
阿田というひとが圭介さんと話すため、念仏を止めた。
僕はまるで首輪を外された犬のように駆け出す。しかし音を立てないように滑るように廊下を素早く走り、居間へと戻ってベッド代わりにしているソファの上の布団のなかで丸くなった。
怖かった。とにかく阿田というひとに僕は会ってはいけないのだ。▽町での霧がかった記憶が呼び起こされてきていた。あれは第三成長期を経た夜の住人の気配と同質のもの。いや、それを超えた第四成長期に差し掛かっているような雰囲気があった。声からすると若くはあったが、あれはすでに拝屋樹と同質の雰囲気を纏いつつあった。
あの念仏による恐怖のためか、なにかが呼び起こされてきているような感じがした。脳が未知の危険を察し、打開策を過去の記憶から呼び起こさせるように、僕の頭も恐怖で怯えながらも、逃げ道を探る窮鼠のように冴えていた。
拝屋樹と同様の存在が△市に存在する。この△市側の世界にも博士に相当する存在がいるのではないか。そうだ。僕は▽町を捨てた。お父さんがお父さんでない何者かになってゆくのを僕は見守ることはできなかった。▽町が変化してゆくのを。あの暴動も受け入れられなかった。最終的に▽町が夜の住人ばかりになってゆくのではないか、という疑惑に耐えられなかった。
しかしもう一方で思い起こされるのは、博士は僕に神を知らなくてはならない、といったことだ。直に神をみることができる存在として僕を創ったとも。博士が▽町で神を、僕を待っているのだ。僕は博士を裏切りたいと思っている。そもそも神と会うなんて、そんな途方もない使命なんて果たされることはないだろう。けれど神についての足掛かりがすこしでもあれば、僕は博士の使命に従うべく行動するのだろう。
博士は僕のお父さんの上の存在だ。
そしてお父さんの願いは僕が博士に従うことだった。ただ利用されていただけだったとしても、望み生きていた。それ以外に生きる意味を持っていなかった空虚なひとでもあった。
僕も同様だ。
僕の生命に意味が見出だせない。ただ「僕はどうして生きているのか? なにを望まれて生まれてきたのか?」という疑問が止まらない。だがそれを応えることによって生きているという実感が得られるような気がした。お父さんはすくなくとも僕を必要としてくれた。それは無償の愛でなかったにしても。お父さんは自らの死ねない度胸のなさと、生きたいという本能に従ったまでだろう。だから僕を生み出す穢れた実験にも反対もせず、自らをなにか異形と繋がり、身を穢しながらも参加した。しかし、本当はお父さんはなにをしたかったのか、健全な人生を、豊かな人生を歩みたかったのではないか。僕と一緒にいた人生はすくなくとも望んだ人生の一端であって欲しかった。
なぜ僕はこうも親の望みを連想するのが止まらないのだろう。親が望んでいたことを良いことだと認知してしまうのだろう。
僕自身は本当はなにをしたいのか?
とにかく、いまは△市に溶け込むのだ。生きる術を身につける。ここの現実を受け入れ、その向こう側にいる神を見出すのだ。それでどうなるのかわからない。博士なんてもう会いたくもないし、会ったところでどうなることもないだろう。
馬鹿馬鹿しい話だ。
ただ、いまは布団のなかで阿田大輝というひとが帰ってゆくのを待った。




