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匣の街  作者: Mr.Y
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晶と神 #1

 私は病院に着くと逃げようと暴れた。どこでどうなったかわからないが、このままではあいつの思う壺だ。はやくあそこに帰らなくては、と脅迫観念に任せ飛び出そうとした。救急隊員はそんな私を抑え、なだめた。風邪で弱った身体に力は入らず私はあっという間に疲れ、搬送用のベッドに座って、おとなしく渡された薬(鎮静剤かなにかだろう)を飲んだ。

「色々あって大変だったね。今日はゆっくり休んでね」

 個人用の病室に運ばれ、私は淡い水色の患者着に着替えさせられた。汗が酷かったからだ。どれだけ熱が出たのか。確か一度着替えたはずだ。あれからまたどれだけ寝ていたのだろうか。そのあとに点滴を受けたのを覚えている。しかしそれから記憶は曖昧だ。私は寝たのだろうか、それともいまのまま眠ることもなく、覚めることもないあやふやな時を過ごしていたのだろうか。私は間接照明に照らされた薄暗い病院のトラバーチン模様の白い天井をみていた。その虫食いのような模様が私の弱った頭にいくつかの不思議な妄想を駆り立てたが、身体が楽になっていくに従って、そんな妄想は忘れてしまった。

 私はベッドから起き上がると点滴針を外した。腕に小さな痛みと小さな血液の球体ができ、それが重力に従って落ちてゆく光景を眺めながら頭が明瞭となってゆくのを待った。

 変化はなにもなかったはずだ。

 けれど確実に変化していた。扉を隔てた病院通路は静まり返っており、室内の足元に間接照明が灯っている。私はカーテンをゆっくりとめくり外の様子をみたかったが、ガラス越しの外の暗闇は鏡のように私のやつれた顔を映し出していた。

 ガラス窓を開けるな、と本能的な恐怖が襲ってきた。この部屋にいるうちは大丈夫だとなにかが告げていたが、それよりあの老人が、神さまの名を呼んだ老人がこの病院のなかにいるのだ。みつからないほうが重要だった。

 私は本能に逆らい、手にべっとりと汗を滲ませながら窓をゆっくりと開けた。そこには真っ暗な街が広がっていた。ここまで真っ暗な街なんてみたことがない。ただ街灯とまばらにコンビニエンスストアらしき灯りが所々にあるだけだ。

 そのとき、とんとん、と病室をノックする音が聞こえた。私はするりと窓の外へと飛び出し、小さな(足がなんとか置ける)(ふち)に立った。掴まるところといえば窓の枠くらいしかなかった。

 誰が病室に入ってきた。カーテンのせいでなにもみえないが、それは慌てた声をあげると布団や枕を叩いたりしている。私を探しに来たのだ。窓とカーテンの向こうにいる誰かがなにをいっているのかわからなかった。日本語のようでいて違う言語のようにも聞こえる。

 やはりここは△中央病院ではないのだ。いつからか異界の病院に連れ込まれたのだ。あえていえば▽中央病院と呼ぼうか。

 そして、なにより風邪の怠さがなくなっていた。患者着一枚で夜の外、しかも三階の窓枠になんとか掴まっているだけなのに寒さを感じなかった。全体的に現実感が希薄な印象を受ける。私は私なのだろうか、という感覚にすらなった。

 だいたい病室の窓は完全に開かないはずじゃなかったのか。重病を苦に自殺するひとがいるから換気程度にしか開かない、と聞いたことがある。昭和を過ぎ平成、令和ともなるとどこの病院でもそうだと思っていた。だがここでは当たり前のように開け放つことができる。

 私は音もなく病室へと戻る。

 ベッドには布団も枕も投げ出されたようにめちゃくちゃにされていた。点滴は床へ落ち、その内容物は水たまりをつくっていた。

 私の部屋に来た誰かは私に敵意をもっているのは理解できた。おそらくこの病院自体がそうなのだろう。私はすこし前にこの病院にいる老人に宣戦布告をしたのだから。

 私は連れさらわれたのだ。異界では私は神さまと共にあり、手出しができなかったためだろう。だから現世に干渉したのだ。どうやったのかわからない。あの老人はいったいなにものなのだろう。神さまが憎み滅ぼそうとしていた。けれど神さまをみると歓喜に湧くような表情すら浮かべていた。

 誰かが廊下を歩く音がした。

 私は隠れるところはないか探したが、簡素な病室に隠れられるような物陰はない。窓へ行っても物音が出てしまう。私は覚悟を決めると点滴に使っていたスタンドを持ち、足音の主が病室へ入ってきたらこれで叩こうと構えた。

 足音は重そうだった。なんらかのトラブルで疲れ果てたマラソンランナーがあと数十メートルのゴール地点を目指すような足音だった。

 私は点滴スタンドをそっと床に下ろすと病室の戸を音を立てないように開ける。そしてその足音の主をみた。背は高く一八〇を少し超えているかもしれない。頭にある髪は癖毛で長時間寝ていたためか寝癖も酷かった。私と同じ患者着を着ていたが、その所々に血痕が着いている。私は男が味方か敵か考えあぐねているうちに男は廊下を曲がっていった。

 しかし、ここでじっとしているわけにもいかない。私は部屋を出ると男の曲がった通路へといった。

 そのにはトイレとエレベーターがあり、壁には棟別、階層別の簡単な区分が書いてあった。いまいる場所が別棟三階の中央で、エレベーターの逆の位置にナースステーションがあり中央棟へといくエレベーターがある。一方、トイレ側の方の奥に階段があるようだ。おそらく男はエレベーターで下にいったようだ。番号がついたランプが下へいき、やがて一階で止まった。

 私は悩んだ。私はいったいここでなにができるのかを。

 そのとき複数の足音がした。

 苛立ちを隠せない音を響かせながら、こちらに近づいてきている。私は女子トイレの入口付近で身を隠した。エレベーター側に立てば死角になる場所のはずだ。深呼吸をする。みつかりそうになったらゆっくりとトイレに入ればいい、呼び止められても慌てなければあちらも気づかないだろう。ここは病院だ。私と同じ格好で私と同じ背丈のひとも多いはず、きっとわからない、と自分に言い聞かせて。

 エレベーターのまえで止まるとそのふたりの話し声(幸い男の声だった)は聞こえるが、肝心の内容はわからなかった。ただ、酷く苛立っていた。その声に力強い暴力性を感じた。猛獣の唸りを聞いたように本能的な恐れが心の底から滲み出してくる。しかも彼らは深夜の病院だから、その声を抑えているのだ。

 おそらくは病室にいた私ともうひとりがいなくなったから苛立っているのだろう、と自分勝手に推察するしかない。

 やがてエレベーターが一階で止まっていることに気づいたのか、驚く声を出してエレベーターに入っていったようだった。

 私は壁にもたれかかって目を瞑った。

 あのとき、神さまと共にあったときの全能感が戻ってくることを願ったが神さまの声は聞こえなかった。それに目を開け、もうひとつの目を開けてもただ病院の景色があるばかりで神さまの姿がみえないのだ。

 なんとなくわかっていたが、確信に変わると私は焦った。そして心細くなってくる。

 神さまがいなくなったのだ。物心ついたときから(かたわ)らにいた神さまがみえないのだ。寒気すらしてきた。異界にあって脆弱な私にいったいなにができるのか。

 あいつらが私を見つけたら、なにをするのかなんとなく理解できる。病室に転がった点滴の内容物のように私自身も床に無惨な水たまりをつくるのだろう。そうでなくてもただ本能的な恐怖を感じていた。

 そうだ。あれらはひととは違うのだ。

 神さまの視野からみたあれらは影だった。実在に照らし出された浮き出された非存在。きっと実在する人類はあれらにとって嫌悪すべきものなのだろう。この▽中央病院も外も同じだ。すべては現世を模倣した影だ。そしていま△市のいたるところから這い出てきている。神さまの意思は推し測れないが、おそらく神さまはそれらを滅ぼしに私を通して現世に顕れたのだ。

 私はなんとしても神さまをまた呼ばなくてならないと感じていた。

 私は歩き出した。

 通路は電灯が灯っていたが暗かった。その暗さは病院全体から醸し出されている暗さだ。電灯くらいの光源では照らし出せない暗さだ。やがて私もその暗さに沈みそうな気もした。だが私にはそれをすべて祓う。神さまを再び呼ぶのだ。

 どうやって私と神さまが離れたのかわからない。ただ、それは確実に起こった。過去をふりかえっても確実なことはなにもいえない。どのようにこうなったかと推察、詳述できても、なぜ それが選択されかつ可能性だったのか説明できない。ただ起こったのだ。私から神を引き剥がすというペテンが。

 それをひっくり返すため私が目指したのは手術室がある中央棟四階だった。

 途中、ナースステーションを通らなくてはならない。どうやっていったらいいものか思案しながら歩く。

 通路にある部屋は実は誰もいないのではないか、という妄想に駆られはじめた。それらは使われずただ闇が閉じ込められているのだ。この病院全体にひとは私とさきほど出て行った男だけだったのではないか。すべてが悪い方へ悪い方へと考えが巡る。

 しかし、ナースステーションの明かりがみえたときその考えは最高潮に達した。明かりの向こう側にエレベーターと階段がみえるのだ。しかもエレベーターの扉は移動式ベッドが簡単に入るように大きく作られている。これでどうやってひと目を盗んでエレベーターを使えるというのか。

 しかも隠れられそうな物陰なんて観葉植物の植木が二本あるだけだった。

 私はそっとナースステーションを覗きみた。

 そこは電灯で照らされたパソコンや書類、薬剤、点滴が白く照らされているばかりでひとがいなかった。あの男たちがふたりとも私と血の着いた患者着の男を追ったのだろう。

 そんなとき病院内にあるカメラの映像が並べられている画面が目に入った。さきほど私がいたエレベーターからふたりの看護師の男が出てきたのだ。

 私は走って中央棟四階に向かうエレベーターに乗った。

 ナースステーションは常に誰かひとりは常駐するはずだと思っていたが、ふたりとも出て行ったということは本当にこの病院(少なくとも三階には)には患者がいなかったのだろうか。それとも私とあの男が特に重要だったのだろうか。

 なにもかもが不確かな中で私の頭は様々な考えが浮かんでは消え、また別の考えが浮かぶ。そうやっているうちに四階へと到着した。

 エレベーター内の光が真っ暗な四階を照らした。

 私がエレベーターから降りるとエレベーターは閉まり、暗闇が訪れる。私は暗闇のなかで目がその闇に慣れるのを待った。

 この病院内にいる老人がなせ歓喜したのか、圧倒的力量の差があるにも関わらず。老人は死にたかったのだろうか。それとも死んだとしても神さまをみてみたかったのだろうか。そしてなぜ、神さまの旧い名を知っていたのか。

 そんな疑問ももうすぐに終わる。疑問として心残りにすらならない。なぜならもうすぐで私は再び神さまに会えるのだから。

 私はずっとなぜ私だけが神さまをみることができるのかわからなかった。だから神さまに関わる色々な資料を漁ったことがある。

 特に興味を持ったのが柳田国男だった。彼の著書『一目小僧』(十九十七)人身御供論のなかで「ずっと昔には祭り度ごとにひとりずつの神主を殺す風習があった」というセンセーショナルな仮説を打ち出していた。 一つ目の妖怪や隻眼の神、または一つ目の魚を引合いに、それらの伝承はかつての祭りの折に行われていた、神の名代である臨時神主がその聖別のために片目を潰されたり殺された風習の痕跡を示しているのではないかと推論している。それが本当なら話は簡単なのだ。あとは私の覚悟しだいじゃないか。

 そうなるとこの病院にいる連中かなぜ私を探しているのかわかってくる。私が自らを生贄(イケニエ)として捧げるのならば、あいつらは(ニエ)として私を捧げたいのだ。どちらも神さまの捧げ物だ。けれど捧げられ食されることを望む生贄と、神さまに捧げ共に贄を食することはわずかに異なり、また大きく意味することが変化する。神に捧げられたものを共食することは神と共に食うこと、もしくは、さらに暗喩的には神を食うことになる。ましてや私はかつて本当に神と共にあったのだから、その意味合いは確実に直接的なものになるだろう。

 ペテンの果てに神喰までしようとしていたとしたら、あの老人はなにを企んでいるというのか。この▽町の根源でもある存在だろう。いったい、いつから(たくら)み、裏で糸を引いていたのか。しかもそれを意図的にすべて行っているとしたらどうだろう。偶然、神さまがいて私がいて、神さまと異界に押し入った。けれど引き剥がされ、老人が私を狙うなんてことが偶然あるだろうか。確実にこの状況になるべく老人は動いていた。いま私が老人の手のひらで転がっている。この一切合切は老人の計画だろう。そうなると老人にとって人類は矮小な存在に過ぎないのではないか。実験で使われる哀れなモルモットのように。

 目が暗闇に慣れると私は手術室を目指した。

 かけまくもかしこき、神頼み。

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