游と新
あのガスマスクの男はあれ以来僕の前にあらわれてはいない。思い返してみれば、あれは悪夢の一種で覚めてしまえばもうみることのない類のようでもあった。けれどあの悪夢からの地続きのように蛇渕新という人物のアパートに住まわせてもらっている。
彼の歳は二十代中盤だろうか。痩せ型で背は高く、細い目をしていた。朗らかな雰囲気をまとっていたが、時々なにを考えているのかわからないような風だった。そして話してみると気さくだが我を通すということは少なく話し相手に対し聞き役になるほうが多いようなひとでもあった。
当初、僕は蛇渕さんもガスマスクの男の仲間かと思って用心していたが、どうもそうではないらしい。仲間といえば仲間だろうが親密ではないという意味でだが。
ただ彼はガスマスクの男のことを<組織>と呼んでいた。たまに仕事の依頼を引き受けるだけで日々、工場で金物のプレスをしているのが本業だそうだ。<組織>のひとの顔をみたこともないし、話もしたことがないという。ただスマートフォンのSNSアプリで指示された雑事をして報酬を得ているらしい。
「派遣会社みたいなもんだよ。本業のスキマ時間にやるバイトみたいな。それで今回の依頼はお金やるからおまえをしばらく預かってくれっていう依頼が来たんだよ」
顔も名前もわからいひとの依頼をよくできるものだ。犯罪に加担(実際僕は被害者だ)していたらどうするつもりなのだろうか。しかし当の本人はそんな疑問が頭をよぎったこともないようなあっけらかんとした語調だった。おそらく蛇渕さんはただ単になにも考えていないに違いない。もしくは顔も名前もわからないただの金の繋がりと割り切っているのか。だがこの蛇渕さんと<組織>は金の繋がりだけとしても、僕がまたあの男に捕まる可能性もないわけではないだろう。逃げるならいまのうちかもしれないが、逃げようにもツテのない僕にはどうすることもできない。警察を頼るか? いや、僕は▽町の出身だ。蛇渕さんの話を聞いているとこの△市は▽町とは別世界のように聞こえる。第三成長期や夜の住人もなく、ましてや霧の壁もないこの世界は新世界秩序を経てない別の世界のようにみえる。僕がこの世界の公的機関を頼ったところで保護されるとは限らない。そもそも僕の話を聞いてくれるのだろうか。なんだかみえない縄で捕縛されているようないいようのない不快感があったが、その不快感は「せっかくだからおまえもバイトしないか?」と蛇渕さんの提案によって少ないものになった。
そして蛇渕さんからマイナンバーカードと呼ばれる身分証とスマートフォンが渡された。それは蛇渕さんによると<組織>からのプレゼントらしい。
ますます<組織>とやらがよくわからなくなった。
僕のことや▽町のことを調査しているのだろうが、僕を蛇渕さんという青年に任せたり、僕に身分証を与えこの世界で過ごしやすいようにしたりする。もしかしたらこうやって身分や自由を与えつつ、僕を監視しているのだろうか。そしてそれはいったい何のためだろうという疑問がわきあがってくる。ほかにも掴みどころのない疑問が多く存在したが、答えの出ないときは無理に答えを出さないほうがいいかもしれない。一応の答えなんて真実とは遠いところにあるものだ。とにかくあちらはあちらのことだ。僕は僕のことをしよう。緊張感を持って。とにかくいまはこの世界の片隅に居場所をつくり、どうやって生活できるか模索しなければならない。
危険を避け、じっくりと聞き耳を立て足音を探るための足掛かりをつくらなくては。僕の横をそっと通り過ぎようとする真実を逃さないために。
「じゃあ、履歴書書いといてくれよ」と履歴書を渡され、さっそく記入欄を書いていると蛇渕さんが笑った。
「おいおい、昭和八十二年生まれっていまは令和だろ? それに▽高校って△高校の間違いじゃないのか」
僕は蛇渕さんと一緒に笑った。「ついつい、おじいちゃんっ子だった影響で」とか適当なことをいいながら、この世界はいま令和であり、自分自身の年齢では平成生まれだということを知った。
ここでは迪宮陛下はすでに崩御なされたらしい。人魚の肉は召し上がらかったのだろうか。▽町へはいっていないとすると▽町の新聞に度々出ていた彼はいったい何者だったのだろう。
蛇渕さんに△市の外れにあるテラスという名の喫茶店に面接に連れていかれた。道中、車のなかで「おまえさぁ、ホントはどこから来たん?」と蛇渕さんに訊かれたので、僕は<組織>に話したように▽町のことを話し始めたが、蛇渕さんは手を振って「そういうのはいいから、ホントのこといえよ」とまるで信じなかった。けれど僕にとっては真実なのだ。けれどはなから信じてもらえない。それが歯痒く言葉を繋いでいれないと蛇渕さんは笑い「なるほど、事情があるんだな。わかったよ」と独り合点して納得しているようだった。それがあまりにも自然なのだ。そのせいかもしれない。僕が▽町での過去にいまいち実感がもてなくなっているのは。
だが僕には相変わらず▽町の記憶がある。いや、半生のほとんどを▽町で暮らしたのだ。しかしこの△市での生活の現実味はあまりにも鮮烈なのかもしれない。太陽はあたりまえのように東から昇り西に沈む。霧けぶる早朝は▽町を思わせたが昼には晴れ渡り空が天高く広がっている。あの薄暗く仄明るい▽町の日々より、ここの生活のほうがどこか真実めいていた。
店に着くとまだ扉にはCLOSEと書かれたプラスチックの札が掛けられていた。蛇渕さんは「日曜の朝はやってなかったかな?」と独り言をいってから「裏口から入るからちょっと待っててくれ」と僕にいうと店の裏にいった。
喫茶店テラスは国道沿いの店だった。近くに川があるため堤防になっているのだろうか。国道は少し周囲より高く、店から下は果樹園が広がっていた。そして店より駐車場のほうが広い。もしかしたらトラックの運転手相手の食堂だったものを改修した店なのかもしれない。店の入口上部には『terrace』と筆記体で書かれた大きな看板があり、その脇に蔦に絡まった壁に古びた小さな看板があった。ぱっとみるとそれは壁の一部にみえるが、そこには『果樹園テラス』と書かれていた。そして店の前にあるメニュー表をみると口を大きく開けた鯛焼きにソフトクリームがのった(鯛焼きをコーン代わりにしている)ものや、それをさらにグレードアップした器を鯛焼きにしたパフェもあった。見た目がよく、いかにもSNS映えを狙っているのがわかる。だがどこにも近隣の果樹園に関係するようなメニューはなかった。あえて店名をつけるなら『鯛焼きテラス』が相応しいように思える。おそらく初めた当初から試行錯誤してかなり路線変更をした喫茶店なのかもしれない。
そんなことを考えていると店の入口が開いた。
「ああ、あなたが犬飼くん?」と二十代中盤くらいのエプロン姿の女性(おそらく蛇渕さんと同年代だろう)が出てきて訊いてきた。僕は「はい」と返事をすると笑顔で応えて「まぁ入ってよ」と店内に招き入れられた。
店内は白を基調とした木目調で窓からは果樹園が広がっていた。確かに果樹園の一角にある店をコンセプトに造られているようだった。
あたりは香ばしい小麦の香りとコーヒーの香りが混じりあって広がっていた。そのなかで蛇渕さんはゆったりと椅子に腰掛け、僕に向かって手を挙げた。
「じゃあ、ここに座って」
僕はすこし緊張して椅子に座った。テーブル越しに女性と蛇渕さんがこちらをみている。
奥のキッチンから開店前の仕込みをしているのだろうか、たまに物音が聞こえた。
「私は店長の鹿島その子といいます」
自己紹介後に簡単な面接がはじまった。僕はバイト経験はないがお父さんとふたり暮らしをしていたときに料理はしたことがあること。日頃の立ち振る舞いは蛇渕さんが太鼓判を押して僕を鹿島さんに薦めていた。それにしても蛇渕さんと鹿島さんの距離が近い気がした。物理的ではなく精神的に。おそらくふたりはつき合っているのだろう。どこか微笑ましいようなうらやましいような気がした。そして心の奥底にひとりの女の子の顔がよぎったが、なぜだか名前が思い出せなかった。
「それにしても△高校の学生って凄いね」といわれ、僕は驚き我に返った。いま頭をよぎった女の子が誰だったのかを思い出そうと気をとられていたためだ。
「ああ、あんま突っ込まないでくれよ、そこは」
蛇渕さんが慌てた僕をみて(勘違いだが)気を使ったのか話し始めた。
「栄養失調で道端に倒れていたところを救急車で△総合病院に担ぎ込まれてさ。家族も見舞いに来ないんだわ。なんとなく境遇もわかるだろ? 仕方ないから、ほら看護師やってる古市に相談されて俺が引きとっているんだけど」
「ああ、そうだった。ごめんね」
そういうことになっているんだろう。だがそれはそれでいい。蛇渕さんもそうだったが真実をそのままいったところで誰も信じてはくれないだろう。とにかくいま一番必要なのは生活基盤をつくらなくてはならない。
それから挨拶や注文のとり方などの簡単な仕事の指導や、まかないや駐車場の場所(僕の場合は自転車置き場だった)、細かなきまりごとの説明、最初の一ヶ月は研修期間で県が決める最低時給で雇い、その後に正式に採用するかどうか決める、とのことだった。そして給料は振込みが基本らしいが僕はあいにく銀行に口座を持っていなかったので店長も少し悩んだが「俺がこいつの口座つくってやんよ。マイナンバー持ってっからネットバンクでも地方銀行でもいけるぜ」と蛇渕さんが気軽にいってくれたのですぐに働けることとなった。
正直、僕は蛇渕さんに対し不信感を持っていたがその不信感は薄れてきていた。<組織>と繋がりがあるから不信感は仕方ないだろう。だが僕を監禁していた得体の知れないひととは違って、異様な雰囲気も気味の悪さもないからだろうか。どこにでもいそうな気のいい青年にみえるからかもしれない。少しは信頼してもいいひとのように思えてきている。
あと僕の左腕に刺された注射針の跡がいまはもう完全に消えているせいもあるかもしれない。それは蛇渕さんのアパートに居候した翌日には消えていた。何度も刺され、最初のうちは僕が暴れたせいで注射痕というより擦過傷のようになっていた箇所もあったというのにだ。あまりにあのできごとが非現実的すぎて恐怖する対象としてもぼんやりとしつつある。
「ああ、バイトついでにうちでの晩飯の用意と掃除全般やったら俺からもバイト代出すよ」
帰りの車でカーオーディオから流れる曲を鼻で歌いながら(あきらかに音程が外れていた)嬉しいことまでいってくれた。
「あと、身体動かそうぜ」と仕事終わりに帰宅すると格闘技を僕に教え始めた。夏の暑い夜に男ふたりがアパート前の駐車場で交互にミットを持ちあって拳足を叩きつけたり、グローブをつけて軽く当てながらマススパーをしていた。いま思えばよく通報されなかったと思う。
当の本人は空手といっていたが、僕にはキックボクシング的な近代格闘技に思えた。だいいちに技がすべて横文字なのだ。ストレートにフックにアッパー、ミドルにロー、クリンチから首相撲……かろうじて首相撲が日本語なだけだ。空手と称して元キックボクサーが教えてるのか、アメリカン・カラテなのかは判断がつかないが、習い始めると少し楽しくなってきた。なぜ蛇渕さんが僕に教え始めたのかわからないが、たぶん最初は自分の練習相手として教えていたのかもしれない。ただ僕の方が蛇渕さんより才能があった。夏の終わりには蛇渕さんの攻撃は当たらなくなってきたし、ミット越しにでも蛇渕さんは前腕部が赤く腫れるようになっていた。
そんな時だった。
蛇渕さんがプレス作業中、失敗をして左手の中指の第一関節を失ったのだ。
「ごめん。三日ほど家帰れないからよろしく」
そのときは呑気なメッセージが送られてきたから、てっきり旅行でもいったか彼女の家にでも泊まりにいったかと思っていたが、指の手術をして入院をしているなんて知りもしなかった。もともと夜は出歩いているひとで帰ってくるのは僕が寝ている深夜だった。(けれど早朝には起きて仕事にいく。睡眠時間が少なくていいひとなのかもしれない)だからテラスで鹿島さんから「アラタいなくて大変でしょ」なんて訊かれても「あのひとのことだから、のんびりしてるんじゃないですか」と少し薄情なことをいってしまっていた。
正直にいえばひとり暮らしが少しキツかった。
寂しいことがこれだけ堪えるとは僕自身思ってもみなかった。だから僕をほっといてどこかにいってしまった蛇渕さんを少し恨む気持ちもあり、あの薄情な言葉をいってしまったことにも繋がっていた。
仕事をしているうちはいい。すべては仕事中心に回り頭のほとんどを周りに向けなければならない。仕事内容だったり、職場の人間関係だったり(おおむね良好だったが)、しかし、ひとりの部屋に帰ると途端、自分自身と向き合わなくてはならなくなる。それを拒否するように晩御飯にこだわり、煮干しから出汁をとって味噌汁をつくってみたり、徹底的にトイレ掃除をしてみたり、蛇渕さんが教えてくれた空手の練習をしたり、筋トレをしたりした。けれど必ず自分自身と向き合う時間がやってくる。
寝入り間際「僕は何者だ?」と振り返らざるえない。▽町で暮らしていた。確かにそうだ。けれど思い返すたび、それはただの幻想なんじゃないかと思えてくる。どうやってこちらに来たのか、またあちらに帰れるのかわからない。もしかしたら蛇渕さんのいうとおり僕自身や周りに酷いことがあって、僕は幻想に逃げてよくわからない過去をつくりあげてしまっているのではないか。そんなことすら思えてきた。
深夜、夢をみた。
あのショートヘアの白髪の少女の夢だ。
夕暮れのどこかの屋上で僕は無力な彼女を組み伏せ、彼女の意思を無視して自分の心地よさを求めて蹂躙していた。
「ぶっ殺してやる!」
顔を赤くし、やり場のない怒りをあらわにしつつも、僕の行為に抵抗できない悲しさに目には涙をたたえて彼女は叫んでいた。その涙声に僕はやるせなさを感じるのだが、身体は心地いい方へと欲情するのだ。そして彼女の身体は確実に僕の欲望を受け入れる準備をしていた。その証明を僕は優しく諭すように彼女の眼前に突きつける。僕は本当はそうしたくはない。彼女を傷つけることなんてしたくないからだ。だが彼女自身が僕に向ける敵意は場違いなものだと証明したいのだ。それが彼女にとって残酷なことはわかっている。けれど理解して欲しかった。彼女はそういうふうにできているし、そういう存在にすぎないのだから。
僕は跳ね起き僕自身を掴むが処理が間に合わなかった。反射的に脈打ち射出される欲情を手で受ける。熱くねとつく不快なものは体外から射出されるとしだいに冷めてゆく。そのとろりと指と指の隙間から零れそうになる欲情の残滓の不快さを堪え、洗面台で洗う。けれどうまく落ちないもので温水で洗うとねとつきながら排水口に落ちていった。その温かく、ねとつく自分の淫らな残滓をこすり、この不快なものを彼女にもかけてしまったのではないか、と思うと罪悪感とともに僕のなかで再び熱くなってくるものがあるを感じる。
こんなところひとにはみせられない。
はじめてひとりでよかったと思った。
朝、蛇渕さんがひとりの女性を連れて帰ってきた。しかも左指を包帯でぐるぐる巻きにして気怠そうにしている。
「よう、元気だったか?」と元気なさそうにいった。
「あ、はい」と間の抜けた返答をし「それよりどうしたんですか? 怪我?」と訊いた。
そこで事故のことを知ったわけだがはやくいって欲しかったし、見覚えのない女性がくるとか。ますます蛇渕さんがどういうひとなのかよくわからなくなってくる。
「はじめて古市 希美といいます。看護師で救急車で運ばれてきたあなたを介護したんだけど……覚えてないよね?」
覚えているはずはない。そんなはずはないからだ。僕は<組織>に監禁されていたはずだ。彼女のことは知らない。彼女はいったいなにをいっているんだ?
そして蛇渕さんと話す彼女をみているとお互いの関係はあきらかなものにみえた。だとしたら店長の鹿島さんと蛇渕さんとの関係はどういったものなのだろう。
なんだかすべてがよくわからなくなってきていた。




