游と雫
△市に来たときの記憶は夢をみたときのように曖昧です。
僕が目を覚ましたのは……いえ、目を覚ましたという感覚ではありませんでした。まだ夢のなかにいるような感じでした。そしてあのひとに会ったのです。確か周囲をフェンスに囲まれ、夕闇迫る藍色の空がどこまでも広かった……おそらくそこは建物の屋上でした。
そこにいたるまでの経緯を思い出せないか? すみません。思い出せないんです。さきほどいったとおり夢をみているような感覚で記憶すら曖昧なのです。まるっきりの記憶の欠損ではありません。確かに▽町の駅の地下にいったはずなのに次に気づいたときには建物の屋上というのはおかしいですね。ですが、僕にはそういう感覚しかないのです。なにぶん初めての体験でしたので申し訳ないですが、くわしく説明はできません。
時間の感覚ですか? 疲れた休日の朝に二度寝したら夕方だったという感じでしょうか。すべてが漠然としていて。もしかしたら僕の頭に衝撃が加わったのか、それともなにか薬を飲まされたのか、特殊な注射を打たれたのか。ともかく脳の認知機能に障害が起こり、一時的に自らに起こったことが記憶できなくなってしまったのかもしれません。それくらい曖昧ですが、話せるところは話したいと思います。
目に飛び込んできたのは藍の夕闇に沈もうとしている薄紅色の夕日でした。
再構築以来、この世には日が差さないといわれていましたが、そこでは日が西の空の一角を淡く薄紅に照らしているのです。まるで映画で日常を切り取った繊細な場面のようで、吹く風も心地のよい涼しさで頬と髪を撫でます。そんな場所に僕はいきなり連れ出されました。そのまえは曖昧で以前話した、苔むす深林と花と蜜、生殖器を模した肉の花々が咲き乱れる奇怪なイメージが重なり合った夢をみているようでした。ですから当初、僕は夢の続きのひとつをみているのだという認識でした。後ろに気配を感じ、振り返るとふたりの(僕と同年代くらいの)女子がアロマボトルのような小さな空瓶を不思議そうにみていました。
そのひとりに僕は目を奪われてしまいました。
なぜなら、そのひとりはあきらかに第三成長期を経ているひとでしたが、身体的変化はなく、人類としての形を保っているのです。ただ毛髪の色素が薄くなり白くなってはいましたが、それくらいしか身体変化がないのです。それは僕の理想の姿でもありました。
第三成長期を経たクラスメイトに嫉妬し、憧れ、同時に異形の姿に嫌悪していました。その嫌悪感は僕が幼いときに窓ガラス越しに出会った夜の住人のせいもあるかもしれません。
その白髪の女子に対し……不躾ではありましたが、仕方ありません。僕はこのとき、この状況は僕のみている夢だと思っていたのですから。
彼女に近づきその頬に指をふれると、その絹のような肌が春の夕風に冷やされた感触をともない指先に溶け込み、肌の下にある確かな甘く柔らかなぬくもりを感じました。瞬間、彼女は僕に気づき、手を払おうとしました。しかしその手は僕の手を捉えきれず、霧を払うように僕にふれられないのです。
どうしてそうなったのかわかりません。ですが僕はそのとき、そんなことを疑問にするより、彼女が手を払い、僕から逃げようとしたのが許せませんでした。その彼女にもっとふれたいという欲求……いえ、獣欲にも似た思いに支配されていました。ただただ、もっとふれていたかったのです。
白髪の彼女の背中に腕を絡ませ、彼女の身体のぬくもり、柔らかさ、髪からかすかに香る匂いに僕は満たされるような思いと、さらに胸を焦がすような欲求に駆られました。それは彼女という存在を僕が感じれば感じるほど強くなっていきます。海で漂流した哀れな遭難者が喉の乾きから海水を飲み、かえって身体から水分が失われて乾き、その乾きにまた海水を飲む、ようなものでしょうか。そのとき彼女が堪らなく欲しくなり、またぐちゃぐちゃにしたいというふたつの相反する欲求に襲われました。
彼女は僕を睨むと「おんあびらうんけんばざらだとばん」と左右の手の指と指を絡ませながら、あの呪文を唱えました。それは拝屋礼が▽町の夜道で、また僕との電話で唱えた呪文です。まるで僕を夜の住人か、怪異だとでも思っているかのようでした。
ひどく気分が悪くなりました。
左右の指の動き……印というんですか? 物知りですね。僕は初めて聞きました。できますか? できない、と。知識として知ってるだけ?
はいはい、話の続きですか? いつもそうだ。僕の知りたいことは後回し、あなたの知りたいことだけを話せって。まぁ、いいでしょう。
本来、呪文だけでなく、その印を含む一連の動作が本式なのでしょう。ですが僕は聞き慣れていましたし、夜の住人でもありません。その言葉で少し気分が悪くなるだけです。いえいえ、気だるくなるとかそういうことではなく。そういうものと同一に考えられていることに気分が悪くなるのです。僕はただの人間です。そんな呪文で立ち退いたり消えたりするはずないのです。たぶん彼女は僕となにかを勘違いしているのでしょう。すこし慌て始めた彼女はポケットからなにか出そうとしました。
僕はそうさせまいと両手首を捕まえます。
彼女は恐ろしいものをみる目で僕をみました。彼女が欲しいという欲望に支配された僕はきっと凄まじい表情だったのかもしれません。
そして彼女は意を決したかのように深呼吸をすると怯えた表情から一変し僕を睨み、言葉を発しようとしました。おそらくは違う呪文を唱えようとしたのでしょう。しかしその口に僕は舌をすべりこませました。
そのときの瞬間はいまでも忘れられません。あたたかく湿った彼女の感触を。滴る彼女の液体は僕を迎え入れるように湧いてきます。そして彼女を抱きすくめて胸と胸を合わせたときの、その柔らかな感触に安らぎました。もっと感じたくて腕を背中に回し、一際、強く抱き締めます。僕の強い抱擁に彼女の肺から息が漏れる、その甘い香りに僕はうっとりしてしまいました。
僕はもう夢中になって彼女のなかへなかへ向かいます。彼女のなかはまるで僕を受け入れるかのようにあたたかく潤いを帯び蠢動しているのです。そこに僕自身が入り込みました。きついのでしょうか。当初、彼女は苦しそうでしたが、僕はしばらくじっとしているとその彼女の周囲はさらに潤いを帯び、僕を受け入れる準備をしているようでした。そして僕と彼女との境目を浸潤してゆくように熱くなっていきました。しかし彼女の意思だけは僕を拒んでいるという矛盾した状態でした。
彼女のなか、それは体内という意味ではありません。言葉通り彼女のなかです。体内というのは外側のことでしょう? なにごとにも外側があれば内側があります。むしろ内側が存在しなければ外側は存在できないものです。
そこはとても心地よく安らぎます。僕は彼女と一緒に溶け合いました。僕と彼女との境目がなくなり、同じ呼吸、同じ鼓動の旋律すら奏ではじめました。もう僕と彼女とは同一の感覚であるはずだったのです。けれど彼女はその心地良さを拒んでいました。呼吸が甘い吐息となるくらい忘我の快楽だったはずです。それなのに彼女はそれを無理に拒んでいるようなのです。顔を紅潮させ首を振るように。もっと奥に潜って意識を飛ばそうとしました。僕と彼女との境目をなくしひとつになるために深く深く潜って行きます。そのとき彼女の持つ力の源、周囲と馴染めない孤独、あきらめに似た覚悟……そういった感情に出くわし僕との共通の一体感を感じたときです。
「ぶっ殺してやる! 出ていきやがれ! それとも私もろとも……」
彼女のなかで叫び声が響きました。
彼女は意思と快楽に反しフェンスの上へと登り、空を見上げると、深呼吸をし、はるか下のアスファルト目掛けて今まさに飛び落ちようとしていました。
あまりに彼女の内側を意識していたため、不意をつかれ僕はどうすることもできません。そのとき、脚を掴まれ、屋上のコンクリートのうえに落ちました。
強かに頭を打ったのか朦朧としました。なにがどうなったのかわからないまま、首を掴まれました。ちょうどいらずらした子猫を叱る飼主にされるように僕は軽々掴まれ、彼女のなかから簡単に引き摺り出されたのです。
僕を引き摺りだしたのは、もう片方の女子でした。
顔ですか? わかりません。なぜならそこにあるべき目や鼻はなく黒い空洞が広がっているだけでしたから。残った口がニヤリと笑った、と思います。もしかしたら僕の恐怖心がそうみせただけかもしれません。それくらい恐ろしかった。なぜならその女子にはあるべきものがないのです。さきほど外側と内側の話をしましたが、彼女には内側がないのです。どうして動けるのか不思議なくらいに決定的に欠損している。そして彼女の内側には暗く冷たい空洞が広がっているのです。それは僕に博士がみせた深淵の闇を思い出させました。ここは△市であり、博士の力の及ばない場所ですが、もしかしたらこの女子は博士の奇怪な数多くの実験の一部なのかもしれない、とすら思いました。
僕はとにかくこの恐ろしいものから逃げようともがきました。それこそ全身に汗を滲ませ、ありったけの全力で。筋繊維が千切れ、骨が軋むくらいに。けれど彼女はなんなく僕を捕えていました。僕はなにもできないまま彼女の内側の空洞にほおり投げられ、落ちてゆくばかりでした。
これが△市にはじめて来たときの記憶です。
そうですね。わけがわかりません。なぜ僕が彼女らの内側に入ることができたのか。なぜそのときそれがあたりまえのことのように感じたのか。それを説明しようとすると本当に夢を語るようになってしまう。けれどそうなってしまったものはなってしまったのです。まるで『不思議の国のアリス』だ。でたらめがでたらめのまま存在している世界。
あのときのことを思い出すたびにただの夢だと思うようになります。だって僕はいまは内側に入ることはできません。ですからあなたもそんな仰々しいマスクや防護服を着なくてもいいですし、僕もこんなに拘束されなくてもいいはずです。僕は猛獣か放射性廃棄物かなにかですか?
でもなぜあなたは僕を危険だと認識しているのですか? もしかしたら僕が△市に来た直後のようなことをしたひとがいたんじゃないですか? それは勇や翔という名前ではありませんか?
続きを話せと。ええ、僕に拒否権はないようですし、話せることはすべて話します。そうしなければここから出ることはできないのでしょう。ただ約束してください。すべて話したら僕を自由にしてください。




