游と真実の足音
老人の名前は久方沙汰といいました。▽町に来る前は東京というところで暮らしていて日々会社勤めをしており、大変忙しく日々の暮らしは仕事の進捗がすべてであり、自身の身体や心は二の次となっていたそうです。ここまで話すと自虐気味に「よくあることさ」と独りごち「忙殺される日々のなかで私はここにいるべき人間では無い、と強く思っていた」というと、久方さんの目は輝き、話は奇っ怪なものになっていきました。
僕自身としては東京や外の世界の話を聞きたいのですが、久方さんの話したいことは別のようでした。
「人類の形成した社会は誰かの犠牲のうえに成り立っており不完全なものだといわざる得ない。おそらくはまだ試行錯誤の段階だろう。なぜなら我々はこの社会が不完全だと知っているからだ。なぜ不完全だと認識するのか? 以前、完全な世界というものを知っていたのではないか? そもそも本来、人類の形成すべき社会とはなにか? それを教祖さまは人類発祥のときまで遡り発見した、といった。古来よりの宗教、神事、秘儀……そういったものから紐解き我々が感じる理想郷を現実のものとすべく立ち上がったのだ。新世界秩序の一端として、まずは志をともにする者たちの共同体をつくり理想郷を実践してゆく。そして世界を一変するような再構築は可能なのだといった。私はその言葉を信じた。いや、信じなければ日々の生活に潰されていたかもしれない。信じなければならなかったのだ。そうだ。逃げ道はここより他なかった。だから私は教祖、拝屋樹に着いていったのだ。……そして到着したのが、この地だ。確かにここは新世界秩序へとゆく再構築の途中なのかもしれない。だが私や教団、教祖が本当に望んだものなのだろうか」
そう一気に話すとため息をつき、お茶をすすると朧気に思索にふけっているようでした。その思索は自らの言いたいことを何分の一も説明できない歯がゆさのようにも感じられました。僕より何倍もの人生を歩んできた老人です。僕には想像もつかない苦労があったのでしょう。その苦労に身も心もすり減って自由を失ってしまったかのような姿で深い思惑をしているようでした。
久方さんのいうことは家族や学校で聞かされた話とだいたい一致します。ただ外の世界には人類はいなくなったと聞かされていました。そして教祖、拝屋樹や教団とは誰なのか、どういう団体なのかわかりませんでした。
久方さんからは老人ゆえの知識の豊富さと頑固な性格……そしてなにより正気を失いつつある(それが老いからくるものなのか、境遇からくるものなのか僕にはわかりません)のが見て取れました。ですから変に質問すれば僕の知りたいこととはまったく違う方向に話がいくかもしれません。それに僕はまだ久方さんがどういう人なのかよくわかりません。慎重に話さなければならないと思いました。
ふと窓の外をみると空は暗くなりつつありました。
「勇と翔はあなたに会いましたよね?」
まずは僕が知りたいことを訊き出そうと単刀直入にいいました。
「ああ……ここで生まれた子だ。飲み込みが早かったよ。私は外の世界に帰れる可能性を模索している、というと好奇心が抑えられないようだった。そうだ。君らは外の世界の人類は滅んだ、と聞かされているね。それは真実では無い。人類はまだ生存している。……それに勇と翔は本当に死んだのか?」
久方さんの口から思いもかけない言葉が発せられました。確かにふたりの葬式はとり行われましたが遺体の断片が発見されたのだろう、と皆が勝手に思っているだけかもしれません。葬式でみた棺にはなにも入っていない可能性もあります。いえ、僕ら子供らが勝手にあの棺には彼らの一部が入っていると思っているだけで大人たちはなにもないと知っている可能性だってあります。
「あくまで可能性だが、ふたりは死んでないかもしれない。それどころかここでない場所にいったかもしれない。この▽町はなんでも起こる。私はここに来たとき、ここの歪さに驚いた。ここで生まれた君には気づかないだろう。太陽も月も星々も青空すらない。この空……」
久方さんのいっている単語の意味はわかりかねましたが、外の世界にはきっと空にそういったものがあるのでしょう。
「だが、あちらにいける可能性が出てきた。拝屋樹には拝屋仁という子がいる。その子は(子、といっても、もう中年だがね)樹を嫌っていた。新興宗教を始めたのが気に入らないようだった。辞めさせようと説得していた。だがよほど父親のことが気になっていたのだろう。表向きは教団に席を置きながら事ある毎に父親と対立し教団を解散させようとしていた。そんな仁を樹はなぜか教団の跡取りにと考えているようだった。あのふたりは本当によくわからん。だがあの再構築以来、なにもかも変わってしまった。仁は再構築に立ち会わず、外の世界に取り残されたままとなった。その拝屋仁がこの▽町に来たことがある。私と秘密裏に接触した……」
そのとき町内のスピーカーから音楽が流れました。もう午後五時になったという知らせです。
「そろそろ日も暮れてきました。僕は帰ります。今日のお話は大変興味深いものでした。またここに来てよろしいでしょうか?」
「君は」久方さんは少し躊躇いながら「この曲は知っているか?」と訊いてきました。
「いえ、知りません」
「外の世界ではドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』の第二楽章、が普通らしいが、君たちの聴いているこの曲は……お経だ」
お経の意味がわかりませんでした。ただ日常に流れるている曲です。
「誰かはわからない。スピーカーを通じて決まった時間に読経しているのだ。その人は教団が再構築と称してここに来る以前から存在していたのだ。いいか、日常を疑え、当たり前を憎め。真実はひっそりと忍び寄るようにしてやってくる。聞き耳をたてるんだ。そうでなければ真実は君の横をそっと通り抜け、日常は君を騙し続ける。いまある日常こそ真実だと騙し続けるんだ」
さようならの間際の言葉をいまでも思い出します。いまならただの陰謀論者の戯言だと一笑に付すこともできます。ですが当時の僕はまだ幼く無知だった。その言葉をすんなり信じてしまいました。そしてそれは僕の行動原理のように刷り込まれました。ですから僕はいまでも聞き耳をたて真実の足音を探し続けているのです。
その後、久方さんに会うことはありませんでした。
住宅団地三号棟が取り壊されて更地になってしまったからです。
それは唐突でした。
久方さんの言葉は他人にいってはいけないという約束でしたし、久方さんと毎日会っていてはいけないような気もしていたからです。ですから小学校が早帰りのときに伺おうとしていたのに……ある日伺ったら住宅団地の五棟のうちなぜか三号棟が更地になっていました。まるで最初からそこになにも無かったようでした。
僕は途方に暮れました。
知るはずだった外の世界のこと、▽町の創設の経緯、拝屋樹と拝屋仁の親子のこと……そして、なにより勇と翔の生きている可能性のことを訊けると思っていただけに。
僕は色々なことを大人に訊こうと想いました。
そうはいっても小学生の人間関係は家族と学校と近所の地域のなかに限られています。
それに誰かれ構わず訊いていいものではないかもしれません。もしかしたら三号棟が更地にされ久方さんと会えなくなったのも、久方さんが本来、▽町の住人が知り得てはいけないことを知ってしまったからかもしれないのです。そもそも三号棟に人が住んでいる気配はありませんでした。久方さんだけが住んでいて、来訪者に怯えているようでもありました。嫌な憶測が頭を駆け巡ります。ですが単純に三号棟がなにかの欠陥や事故で取り壊され、久方さんは引っ越しただけの可能性もあります。しかし、引っ越すなら僕に連絡くらいくれるはずだと思いました。久方さんは明らかに僕に自らの知り得た真実の足音を教えたいようでしたから。
そこで僕はまず父親に話しました。
夕飯の際、何気なく「下校途中にあった団地の一棟がなくなっていた」と訊きました。すると父親は「ああ、あそこは外の世界から来た人の療養所を兼ねているから」とさらりといい「でも、もう必要なくなったらしい。外の世界から来る人はごく少数であまり使われていなかったようだ。汚染や感染症の心配でもあったのだろう」と食べ終わった食器をかたづけ始めました。
「でも他の棟は残っているけど」
「ああ、撤去された棟が外の世界からの人の受け入れで、他の棟は普通に▽町の住人が暮らしている。もともと、▽町に慣れ親しむために真ん中の棟を療養所にしたのだろう」
「そこに住んでいた人はどこかに引っ越したの?」
「さぁ、身体を悪くしたか、亡くなってしまったのかもしれないな」
父親は「可哀想に」とため息をついて食器を洗い始めました。
僕は残った食べ物を冷蔵庫に入れ、テーブルを拭きながら考えていました。
父親の話は嘘なのか本当なのか判断がつきません。もっともらしい言葉ではあります。けれど久方さんが僕と別れた数日で死んだとは思えないのです。
「拝屋という人を知らない?」
思い切って父親に話しました。そのとき、洗い物をしていた音が消えました。咄嗟に僕は父親の方を向きました。そこには彫刻のようにじっとこちらを見る父親の目がありました。
「いまなんていった?」
「ううん、なんでもない。味噌が少なくなってきているから味噌屋に買いにいかない? ていっただけ」
「そうか。日曜日に買いにいかないとな」
父親はほっとしたような口調でした。
僕は冷汗をかいていました。父親は僕の咄嗟の嘘に騙されてくれたのだ、と思いました。もし、他の人に話したら僕は久方さんのように消されたのかもしれません。家ごとまっさらに更地にされて。
つまり久方さんのいっていた言葉は本当のことという可能性が高いのです。ですが、なぜ僕にあのような話をしたのか疑問でした。そしておそらくは勇と翔には僕にこれから教えたかったことを語ったに違いないのです。
なぜ僕ら三人だったのか?
そして、僕にはなぜ教えるのが遅くなったのか?
勇と翔、僕。共通するのは小学五年男子くらいでしょう。身長も体重も違います。成績は三人ともよかったのですが、久方さんが小学生の成績を知ることはないでしょう。そして、勇と翔はなぜ、外の世界を知ったにも関わらず、僕に伝えなかったのか。彼らが消える前日まで小学生男子がやるようなくだらない遊びで笑い合い、ふざけ合っていました。まるでこれから特別なことをするふうでもありませんでした。彼らは意図的に僕にだけ外の世界のことを伝えなかったのではないか。あんなに仲良かったのに僕一人をのけ者にするということは考えられません。もしくは危険性が少ないと思ったのでしょうか。ふらっと行って帰ってこれるような。それともふたりが実験台となり安全性が確保されてから僕に教えるつもりだったとか。……なにかしらの意図があったに違いないのです。僕らは三人で一組だった。なぜなら……僕らは学校のみんなと違って三人とも片親だったから。産まれたときにすでに母親は存在せず、父親に育てられていたのです。
もしかしたら久方さんは僕らの母親を知っていたのではないか。いや、もしかしたらふたりは知ってはならないことを知ってしまったから消されたのかもしれません。久方さんがそうされたように。それとも本当に外の世界へといったはいいけど帰って来れないかもしれません。
妙な考えが沼にわきたつ泡のように浮かんでは消えてゆきます。
なにか調べるにしても行動するにしても僕は幼く弱い存在でした。だから耳を澄ますことにしました。いつか真実が僕を通り過ぎないよう、その足音を聞き逃さないように。日常に騙され繋ぎ止められてしまわないように。
大きく強い男になる、その日まで。




