匣の街
小説を書き始めるにあたりまず題名を決めよう。なにをするにしてもまずは名前が必要だ。気に入らない名前なら(人の名前と違って)また改めればいいだけの話だ。ただ書き始めるには少なくとも方向性が必要だろう。
ふと思いついたのが『匣の街』だった。△市は鉄鋼業に強く、刃物からエンジンの鍛造まで幅広くやっていた。とくに近年は包丁、ハサミなどの手軽に購入できる品がテレビなどで紹介されて脚光を浴びている。その△市でつくられた貴重な品をおさめた鉄の匣。私の抱く△市のイメージがまさにそれだからだ。
それと△市はなにか隠しているのではないか、という疑惑が私のなかにはある。近年、△市がおこなった事業で公共施設の改築がある。表向きは東日本大震災があり、建物の耐震性基準が変わった。調査をするとその基準を満たさない公共施設が△市には多くあり、かつ老朽化が著しかったため、改築しようというながれができた。しかし、その改築に選ばれた事業者はわざわざ東京から出向いてきた建設業者が選ばれたのだ。地元の事業者は抗議をおこなったが、地元の事業者と東京の建設業者との見積もり書の差はあきらかで、地元の事業者はなにもいえない形になった。
しかし、一部では市長と東京の建設業者と繋がっており優遇したのではないか、という噂がたっていた。市長はこの△市出身だったが、東京で暮らしている時期も長く、どこかの政治家の秘書をやっていた、とのことで△市の首長を足掛かりに県政、国政に打って出ようとしている。そのために東京で力を持つ建設業者をつかったという噂は一定の説得力があった。けれど説得力があっても証拠がない。どんな噂がながれても地元の事業者が競争入札で負けて愚痴をいっているだけに聞こえた。
私は噂話からその話の一部を知っているだけに過ぎないが、やはり火のないところに煙は立たないと思った。なにかしらの力が働き、東京の建設業者が優遇されたに違いないという証拠を手にしている。それはいま読んでいるひとが思うような政治と金の問題ではない。もっとオカルティックな事柄なのだ。私自身にわかに信じられないし、まだ政治と金の話のほうが説得力がある。
いや、これは本編で語る内容だった。
いまはその本編を構築するためのものを書き連ねていこう。
そうそう、これを書き始めたのは小説の題名の話だった。
あと△市は二本の川に挟まれた地形をしているので地理的にも『匣の街』はあっている気がする。しかし、書き進めるにあたり(理由はまだいえないが)この△市がもっている二面性も題名に入れたくなってきた。だから□(ハコ)では二面性が出てこないのだ。それで半分にしよう。□を半分にすると△と▽になる。再び合わさるとまた□(ハコ)になる。だから『△▽(カタワレ)の街』はどうだろうか、とも考えている。まとまらないので一応として、この小説は『匣の街』という仮題で書き進めてみようと思う。
けれどUFOの事柄も含みたい。『匣の街のUFO』だと『の』がふたつ重なり音が悪くなるような気がするし『匣の街とUFO』ではあまりに違うものが一緒になりすぎている気がする。
『想像の片割』
いまでも骨格標本特設教室にあった縄文時代の火葬で葬られた女性の遺骨について、ときどき思いを巡らせる。彼女を葬ったのは誰なのだろうか? 彼女の夫だろうか? あるいは子供だろうか? 棺桶なんてない時代だろう。彼女の亡骸を焚き木のうえにのせ、火を着けるときの気持ちはどうだったのだろう。普通とは違うやり方だ。特別な葬送儀礼を執り行うときの気持ちは? 焼けたひとの臭い、煙、焼かれ収縮した筋肉が遺体を起き上がらせたときの驚きはどうだっただろう。そしてあますことなく骨を拾い、壺に入れ、埋葬するときの気持ちは? そして四千年のときを超えて、大学の一室で復元された彼女はなにを思うのだろう? もし話せるのならなにを語ってくれるのだろう?
こういった想像がたまに働く、それは侵入思考のように私の意思とは無関係に湧き上がっては消えてゆく。だから書き留めなくてはならない気がしている。形作られた思考が消えるのがたまらなく勿体なく、また寂しいからだ。
想像力で思い出したが、ネットでみかける陰謀論について興味がある。私自身、△市の公共施設の改築業者問題をネットで調べていると多くの陰謀論が目に入ってきた。
私自身も△市の市長と東京の建設業者の黒い繋がりを調べて、いまやちょっとした陰謀論者かもしれないが、少し俯瞰的に陰謀論について書いてみようと思う。
陰謀論者についてみてみると、どうやら彼ら陰謀論者はマウントをとりたがるようだ。
「あなたの知らないことを私は知っている」
その感覚が快感らしい。それを「目覚めた」という表現をつかい、さらに優越感に浸るという行為をしている。そして同感者を増やそうと腐心する。なぜならひとりで「目覚めて」もまわりが目覚めなければ、ただの変人だからだ。そうやって同じ思考のひとと集まり、目覚めたからこそみえる世界を共有する。
ここまで書いていて実に頭が痛い。まるで私のことを書いているようだからだ。私も空想を書き連ねて私と同じように空想に感動するひとと繋がりたいと思っているからだ。
けれど陰謀論者と作家(作家、といっても私の場合は素人だが)の間には明確な差がある。
陰謀論者は自身の説を真実だと確信しており、作家は自身の空想を嘘(と、ほんのちょっぴりの真実味。そして物語を語らなければたどり着けない真理)だと確信している点だ。
だが私は陰謀論者が悪いとかは思っていない。ひとや社会に迷惑をかけなければ、おおいに社会や企業、政治を疑うべきだとすら思う。漫然と行き過ぎる日常はひとの心を腐らせる。ゆっくりと変わりゆく異常性に対しての警戒心を殺し、気づいたときには首輪をはめられ、周囲を柵で覆われ、誰かの所有物となりうる場合だってありえるかもしれない。今回、私が調べていたものがそういう事柄だったのでなおさらだ。
まぁそのことについては本編で小説として語ろう。
想像力に任せて情報収集をしているとき、私が気をつけた点を書いてみたい。自戒のためでもあり、再び書くことによってまた新たな発見があるかもしれないからだ。
まず私は「世の中は誰かに操作されている」ということを知ってしまった。すると身の回りの事象すべてはなにかしらのメッセージに思えてしまうのだ。創作するうえでは限りなく有用かもしれない。なんにでも意味を見いだせる。けれど取材となると、それはもはや病気だ。目につく番号や他人が読んでいる雑誌、休憩時間に向かいで読んでいるマンガのタイトル、ニュースで起こった事件にすら、なにかの暗号や陰謀として解読を迫られ続けることになってしまった。扱っていた△市と建設業者の繋がり、その裏で暗躍していた<組織>について知ってしまったからなおさらだ。社会の裏で秘密裏に動いている存在がなにもかもを操作している。つまり物事はなにかの陰謀と繋がりがあり、すべて解読可能となってしまっていた。意味を見出すため、随時、解読作業を強いられるのだ。そのときの思考負荷といったらなかった。丈夫なことだけが取り柄の私が日曜日、買い出しに出かけるのすら億劫になったのだ。だから思考負荷を減らすために「世の中、偶然と無駄で溢れている」と思い直した。世の中を動かす陰謀はあるにはあるだろうが、それ以外のほうが圧倒的に多い。つまりは思考負荷は小説だけにとどめることにしたのだ。自分で考え、想像力を働かせ、まとめられる限界が私の場合、小説という範囲ということになる。「社会人なら仕事に思考負荷をかけろ」というご意見があると思う。ごもっとも。確かにそうだ。けれど無駄な暮らしがない生活というのは奴隷生活といえるのではないか。
まとまりのない話で申し訳ないが、つまりいいたいことは思考的奴隷生活を強いられるのもまた陰謀論者にはありがちのような気がするということだ。
自由闊達な想像力をはばたかせ、ひとや社会に迷惑をかけず、形にすらならない自説を物語として書き形づくってゆく。それは「目覚めたひと」とは逆に「夢見るひと」になることかもしれない。それは世の中を解放する力はないが、本当の意味で世の中にある力を気づかせてくれるものだと私は信じたい。
今回、本当は△市UFO事件前後にあった話を書き連ねるはずが脱線してしまった。しかし、まるっきり△市UFO事件と離れているわけでもないような気もする。
それというのも△市には『拝天會』という新興宗教が存在していた。いまから半世紀より少し昔に発足した宗教団体だが、その拝天會は信者を集め一村、集落を運営していた。しかしその存在は一部の雑誌に特異な宗教として紹介されただけだった。事件性はない、と思われていたのだろう。
けれど実際のところはわからない。私が思考的奴隷生活を強いられていたときに『拝天會』にたどり着いた。職場に向かう道の小路に看板をみつけたのだ。それは某キリスト教系の看板にも似ていたが、錆つき辛うじて『拝天會』の文字が読めるばかりだった。そこに書いてあったであろう住所や電話番号はもはや錆により剥がれていた。そこで拝天會について調べ始めたのだ。ネットで検索してたどり着いたのはオカルト雑誌『MU』だった。図書館に運良くバックナンバーがあったので(大変助かったが、△市はこんなものに税金をかけるべきじゃないと思う)借りてみた。本当の神や心霊現象をみせてくれる(よくあるといえば、よくある)宗教団体として紹介されていた。しかし初掲載時に△市の拝天會の村という写真を最後に住所は一切書かれていなくなった。そして、三回ほど記事にはされたがその後の拝天會を追うことはできなくなっていた。ちなみにネットで拝天會を調べるとかなり昔に宗教法人は取り消されていた。単純にひとが少なくなり解散したということだ。だがこの△市のどこかに拝天會の集落跡があるはずなのだ。
私がこの拝天會に執着するのには(偶然みつけた看板以外にも)もうひとつわけがある。
△市UFO事件のときネットを賑わせたUFOか気象現象かでSNS上で喧々諤々やり合っていた際、みかけたのだ「△市なら拝天會の天狐かもしれない」と。そして、拝天會は神を通じて人類社会を動かす。それを証拠に数々の心霊現象を信者にみせていた、と語っていた。もちろん、この流れを無視した荒唐無稽な話は皆からスルーされた。
宗教団体がUFOと繋がっていたのだろうか? 神は宇宙人とか? あまりに陳腐すぎる思考に我ながらうんざりする。
想像力を働かせてみる。私が拝天會の信者であったのならば? この人類社会を動かす神の存在を発見したのならば? それを証明する神秘的な体験をしたのならば? それを信じたのなら私はきっと目覚めるだろう。神をみるべく思考的奴隷生活をすすんでやるに違いない。だって私は目覚めたのだから。私のまえに目覚めた教祖を崇め、目覚めたばかりの後輩を指導する。思考的奴隷生活をさらに強固なものにするため同じ思考を持つ者たちと世界を共有したい。つまりは同じ生活をすればいい。同じ思考を共有する集落が形成される。
「なるほど」と私は深夜にひとり頷いた。
作者 : 月空 リリ