犬飼游、▽町を語る
僕は確かに▽町というところから来ました。
どういう暮らしをしてたかといわれても、いたって普通ですよ。朝起きて学校に行って授業を受けて、終わったら家に帰って寝るというね。きっとあなたの好奇心を満たすような話はないと思います。だって普通ですから。
それにしてもいまは夜ですよね。すっかり日も暮れましたし辺りは暗い。それなのになんで外は騒がしいんですか? もう寝る時間ですよね。それなのに車が走っている音、テレビの音、人の生活音がしている。カーテンなんて開けてはいけません……なんで怯えているかって? だって当たり前でしょう。夜はゆっくり家のなかで寝るものですから。
なるほど△市は違うんですか。だって日の光の当たらない時間はあいつらが出るじゃないですか。特に夜霧の出るときは危険です。
なにが出るって? それは僕にはわかりませんが、昔からいわれていることですよ。『きまり』は守らなくては命を落とします。仲の良かった同級生ふたりが『きまり』を破ったせいで亡くなっています。
夜に家にいる以外で『きまり』がないか?
『きまり』に興味があるんですか? そうだなぁ。山を超えてはならない。川を下ったり上がったりしてはならない、とか他にも『きまり』がありましたが、ようは決して町から出るな、というものでしょうか。
それなのに僕が△市に来てるのが不思議なんですね。ではそれを話しましょう。話せば長くなるかもしれません。でも夜は安全というのなら話し終えるのはあっという間かもしれませんね。
△市のことを教えてくれた老人がいたのです。
あの人は近所の変わり者というか、なんというか、みんなから避けられていました。
その老人とは小学校高学年の頃会いました。
きまりを破った同級生二名が行方不明となり、自治会の班で捜索が行われました。そのときの集まりに僕は呼ばれたんです。行方不明の子たちと一番仲が良かったので、どこにいったか、なにをしようとしていたのか、なにかしらの手掛かりがないか訊くためでしょう。ですが僕はまだ幼かった。僕の周りにぐるりと大人たちが取り囲み、僕を見下ろしながら話を訊く様子はまるで皆が僕を責めているようにも感じられ、泣き出したくなるようなひどい罪悪感を感じました。
僕がふたりを家から外へ出るのを止められたのではないか。もしかしたら彼らの行方不明の原因は僕にあるのではないか。そんなことが頭のなかに駆け巡りました。そのせいか、両親や先生に話したことの何分の一も話せず、あとはしどろもどろの返答になってしまいました。大人たちは当然、両親や先生から僕が話したことを知っているわけです。捜索を始めるにあたり一応、それ以上の情報が得られるのではないか、と直接訊いてみただけでしょう。ですが、僕の消え入りそうな声と怯える様をみて訊きたいことを訊けないとわかると僕を慰め、周囲の雑木林や丘にある遺跡の発掘現場などほうぼうへと捜索に向かったようでした。
僕は帰っていい、ということでしたが、さきほどの罪悪感がまだ胸の奥でくすぶっており、行方不明の同級生らの家周辺の道端を捜索する人たち(それは高齢者がほとんどでした)に混ざって道端の草を棒でかき分け、なにか手掛かりがないか歩き始めました。
そのときです。
「君はどこの家のものだい?」と老人に話しかけられました。僕は素直に「犬飼游です」と応えました。
「なるほど、話には聞いてるよ。勇と翔の友達か」
僕は「そうです」と頷きながら道端の用水路を覗いたり、草むらをかき分けていました。
「彼らはおそらく助からん」
老人は草むらを棒で突きながら、独り言のようにいいました。それは誰しも思っていたことです。ただ口には出しません。この捜索だって家族にせめて彼らの一部でも家に返してあげたい一心の行動なのですから。
「どうしてこうなったのか。私たちはなにもかもが間違っていたのかもしれない」
老人は捜索しながらまた独り言のようにいいました。けれどその言葉は僕に向けられていました。当然、そのときの僕にはその言葉の本当の意味はわかりませんでした。
「私はね。東京から来たんだ」
老人は周囲に僕とふたりきりになったときを見計らったように聞きなれない地名を口にしたのです。この町にそんな地名はありません。ということはこの老人はこの町の外からやってきたことになります。僕は手を止め、老人の顔をこの時始めてはっきりとみました。
痩せて頬骨が飛び出たような顔に薄い白髪、分厚い老眼鏡。細い骨ばった浅黒い体を包む白いポロシャツの胸と脇には汗が滲んでいました。そしてその黒い目は僕になにか期待するかのような眼差しを向けています。
「よかったら、住宅団地の三号棟の三〇三号室へ来なさい。お茶でも出すよ」
「はい」と僕は消え入りそうな声で応え、小さく頷きました。
なぜだか僕はこの人が行方不明の友達にきまりを破らせたのだ、と思いました。
ただそれは僕の勘であり、なんの確証もありません。
ですがこの老人に対して友達の仇討ちのような激しい気持ちと溢れるような好奇心で僕の小さく幼い心はいっぱいになってしまいました。
その後、老人のところへ行こうか行くまいか悩みました。悩んでいる間に数日が過ぎ、同級生ふたりの葬式がとり行われました。それは同時にふたりの身体の名残りがみつかったことを意味します。
子供たちには聞かされませんでしたが、新聞を盗み読んだところによると、彼らの名残りは山へ続く国道の道端に落ちていたらしのです。国道は町の真ん中を通り、山道で封鎖されています。彼らはその先をみにいこうとしていたのではないか、ということでした。つまりはこの町から出ようとしていたのです。それは誰しも一度は夢見ることなのかもしれません。同じ日常、同じ町並み、同じ風景、季節は巡らず(季節という言葉は教科書に出てくる言葉に過ぎません)ただ同じように繰り返される毎日は新鮮さに欠けます。そんななかにあって僕はあの老人の言葉を思い出していました。
「私はね。東京から来たんだ」
東京とはどこなのか気になって仕方ありません。地理の教科書を引っ張り出して地図をくまなく調べたとしても、そんな地名はありません。やはり老人は外からやって来たに違いないのです。行ってはならない、といわれたところから来た人がどうしてこの町にやってきたのか、そしてどうして帰らないのか、疑問に思いました。
親にもそれとなく訊きましたが、「外へは行けないんだよ。ここが一番安全なんだ。昔は行けたらしいが、教祖様がいま町の外を調査をしているんだ」と学校で習ったことと同じことをいうばかりです。そのあとは決まって「やがて新しい世界がやってくる」という言葉をつけ加えます。
「外からやってきた人っているの?」
僕は親がいうであろう言葉を遮るように疑問をぶつけました。
「ああ、いる。たいていは▽町中央病院に運ばれる。なんでも山を越えてくるから衰弱してるって話だ。外はよほど汚染されているのだろう。もしかしたら人類はここ以外絶滅しつつあるのかもしれない」
僕は親の返答に納得しました。闇夜や山を超えられるなんて常人ではできません。世界がこうなる前には人々自由に行き来できたらしいのですが、明るいうちはなんとかなるにしても暗くなってしまってはいけません。
「お父さんはそういう外の人に会ったことはある?」
親は難しい顔をして「ない」と応えました。
後で知ったのですが、体力を回復して病院から出てこれる人は稀で、大抵は病院で亡くなるらしいのです。
「末世末法の世になり世界は汚穢に満ち々々たのだろう。▽町の外の人々はわずかな人々が生きているのみで、我々は教祖様に救われたからここにいることができたんだ」
まるで学校の道徳の授業のようないい方でした。それは耳馴染みのある言葉でいつも聞かされている言葉です。その言葉は話す方も自らを納得させるために話しているようでもありました。そのせいでしょうか。僕はその言葉を受け入れることはできませんでした。それは欺きであり、大人たちは僕ら子供の知らないことを知っているのではないか、と幼心に思っていました。
僕はどんなことであれ、真実を答えて欲しかったのです。自ら目隠しをし、真実から目を背け、真実を知りたいものに自らと同じように目隠しをさせることになんの意味があるのでしょう。そんなに真実とは知ってはいけないものなのでしょうか。
ですから僕はその言葉を家族から聞いた瞬間、あの老人に会おうと決めたのです。
なぜならあの老人の言葉には皆がいうような欺きがありませんでしたから。それに町の外を知っている人でもあります。
きっと勇も翔も僕同様に思ったに違いありません。
けれど彼らは帰らぬ人となりました。
老人はいったいなにを考えているのか、そして彼らはなぜきまりを破ってしまったのか……老人の招きを無視して日常に戻ることも可能でした。しかし僕は好奇心には勝てませんでした。学校帰り、ランドセルを部屋に放り投げると自転車に乗って住宅団地三号棟の三〇三号室へといったのです。
住宅団地は五階建てで五号棟からなる建物でした。子供心に鉄筋コンクリートの薄灰色に静かに佇む階段や廊下ははまるで巨大な迷路のようにみえました。そんな住宅団地の階段をあがってゆくと足音が周りにこだまします。その音は反響し建物に広がってゆくようでした。そして僕の足音以外の音はこの建物からは聞こえないのです。人の気配のない住宅団地はまるで死んだ巨獣のように静かに横たわっているようでもありました。
僕は正直、こんな場所にいたくはありませんでした。本来、ここに来ては行けない場所なのかもしれないとも思いました。ただこのまま帰るには惜しい気もしていました。勇気を振り絞って来たのに無為に帰るのが惜しかったのかもしれません。
僕は震える指で三〇三号室のチャイムを鳴らしまして、しばらく待ちました。
もしかしたら僕はチャイムを押した気になって、ただドアの前に立っているだけではないだろうか、と不安になるくらい待ちました。そしてその不安感に命じられるままチャイムのボタンを押そうと指先に触れた瞬間、ドアが開きました。
その半開きの暗がりからあの老人の目がやたら白く光っているのを覚えています。
その顔は恐れているようにもみえ、はじめて会ったときのような優しげな顔とは違うものでした。
僕は優しく出迎えてくれるのだろうと暢気に思っていたので、その顔と思い描いた様相との違いに戸惑いましたが、老人の顔は僕の顔をみると次第にほころんでいきました。
「よく来たね」そういい、玄関ドアを開け僕を招き入れました。
僕はこの老人のもとへ訪れる人々はきっと恐ろしい人ばかりなのだろう、という想像が頭のなかを巡りました。そして僕はいま一度後ろを振り返り、誰もいないことを確認すると、さっと逃げるように老人の部屋へと入りました。
老人の住む部屋は六畳一間で生活に必要なものが必要最小限あるばかりの部屋でした。 その真ん中のテーブルを挟み座り、老人はお茶と茶菓子を用意してくれました。白い粉をまぶしたサクサクとした煎餅のような茶菓子を僕はいただきながらお茶を飲みました。その最中にも老人の部屋特有の匂いが鼻をくすぐります。それは死に向かってる人の匂いなのか、老人が常用している薬の匂いなのか僕にはわかりませんが、僕はなぜだか落ち着きました。
「僕は犬飼游、十二歳、小学校五年生です。知ってのとおり、先日、葬式があった勇と翔とは友達でした。ですが、彼らがどうしてきまりを破ったのかはしりません。お爺さんはなにか知っているのではないでしょうか?」
僕は単刀直入に疑問を老人にぶつけました。
「どうして、そう思ったのだ?」
「勇と翔の捜索の際、僕がひとりになったときを見計らって家に誘ったこと。地域のみなさんは僕になにか知っているのかと訊いてきましたし、僕がなにも知らず怯えきってしまうと気遣ってくれました。しかしお爺さんは僕になにを訊くでもなく、逆に僕に話しかけてくれました。怯えてしまったあとなので、それは普通のことかもしれません。しかし、その言葉の裏に僕にすまないと謝るようにも聞こえました。そして『東京から来た』という言葉。僕になにか教えたいということなのではないでしょうか? そして、僕は外の世界に興味があります」
僕の言葉に老人は頷き「勇と翔もそうだったが、小五でこれだけ語れるのか。やはり我らの子らはたしかに一段上の存在になっているのかも知れない」と目の前の僕に話すわけでもなく独言のようにいうと自らのことを話始めました。