72.透明に確かな色を見る
少女は夢を見る。見たことのない景色、行ったことのない場所、それら全てに触れ、『セカイ』を知ることを。
男の夢は潰える。かつて見た少女の姿。かつて聞いた少女の声。それら全てが消え、男は『現実』へと踏み出す。
「さあ、こっちだ! 手を伸ばせ!」
何よりも先に、何よりも早く。扉の向こうへ引っ張られ続けながらも、俺はその言葉と共にパレットに手を伸ばした。それほど離れていない位置にいる、ほとんど色を失ってしまった少女に向けて。このまま放っておけば、彼女は炎に巻かれて苦しんで消える。こうして手を伸ばして救おうと、結局彼女はいずれ消えてなくなる。それは避けられない運命だ。理性では、そんなこと理解しきっている。しかし俺の衝動が、それを許さずに身体を動かす。手は届く。パレットが少しでも手を伸ばしてくれさえすれば、俺は手を掴んで引き込むことができる。そうして伸ばした手に、何かが触れた。
「このまま……、このまま行かせてなるものか……! 私の全てを……、持って行った対価を……!」
強く、痛みを感じるほどの力で俺の腕を掴むのは、その美しい白い髪と青い瞳が台無しになるほどの憎悪に塗れた表情のイノシオンだった。俺とパレットの間に入り込んだイノシオンは、しかし出ようとはしていなかった。
「お前の命を! 私の失った価値には遠く及ばないけれど、今はそれで我慢してあげるわ!」
イノシオンの状態は万全とは程遠いものであったが、それでも強い力で俺を引き摺り込もうとしている。悔しいことに俺はその力に負けつつあった。俺の身体が、扉から少しずつはみ出していく。いずれ、完全に扉から出てしまうだろう。
「『今は』? 変なこと言うね。貴女には『ここまで』しか無いのに!」
突然、俺の腕にかかっている強い力が弱まり、腕が軽くなる。目の前には後ろに倒れゆくイノシオンの姿。そしてその前にあったのは、一振りの剣を振り下ろしているパレットの姿だった。
「こ……の……!!」
「パレット……!? どうして、お前がそれを……!」
それは俺がアウラの為に描いた、剣の絵だった。俺の問いかけに、パレットは何も返さない。手にしていた剣を放り投げ、斬り捨てたイノシオンには目もくれず、彼女はただ俺を見つめていた。
(ありがとう)
パレットの口が、動いたように見えた。俺には炎の音だけが聞こえていたが、それは音が無くともはっきりと聞こえた。そして、俺の意識は真っ白になった。
白く白く、どこまでも白い。自分たち以外の全てが白いこの空間で、俺はパレットと対面していた。どういう訳なのか、彼女の色が元に戻っている。
「…………! ……!?」
叫ぼうとした。何かを言おうとした。しかし、声は僅かたりとも出てこない。
「クラヴィオ」
パレットが口を開く。すっかり聞き馴染んだ少女の声。ある種の安心を覚えるその声が、今は鋭い刃となって俺の心臓を抉る。そんな俺のことなど気にも留めず、パレットは続ける。
「本当に、ありがとう。貴方は私を描いてくれた。私という存在を生み出してくれた。貴方がいたから……、私は最後に嫌いなことだって克服できた。勇気をくれたんだよ、クラヴィオは。私に違う誰かを見ていたんだとしても、本当に全部が嬉しかった」
俺だって感謝している。あの時のお前とは違うとしても、もう一度その姿で、その声で、自分の意思で俺と居てくれた。そんなささやかなことが、俺だって何よりも嬉しかったんだ。だが、パレット。それなのに、どうしてお前は悲しそうにしているんだ。
「でも……。もうそろそろダメみたい」
やめろ。
「さっきの剣で、私の全部を使っちゃったよ」
それを、言うな。
「もうみんなここから出たよ。後はクラヴィオだけ」
今更そんなものどうだっていい。お前が居ないなど……。
「大丈夫だよ。……少し前と同じになるだけだから」
でも……。
「……貴方にはもっと、生きていてほしい」
それは俺だって同じなんだ……!
「だから、行って。広い全部を見に、ここから出るの」
だから、お前と一緒に……。お前がいないなら、意味なんて……!
「……ああ! もう! まったく最後まで仕方ないんだから! いい加減うじうじするのやめなって! いい? 私は絵で、貴方は人間! 元々会うはずが無かったの、わかる? これは一時だけの奇跡みたいなもの。奇跡っていうのは永遠にはならない。そうなっちゃったら、奇跡だなんて言えないからね」
……でも。
「そう。奇跡はいつか終わる。それが今ってこと。……私だって悲しいけど、そういうものだから」
……それでも。
「でも、確かにこうして顔を合わせて、一緒に話して、笑って、怒って、泣いたりして。もう二度と出来ないことだけど、それは確かにあったこと。だから、だからさ……」
……それでも。
「私とのこと。貴方の想う『誰か』とは違う、『私』との全部を、どうか、ずっと覚えていてね」
白い空間が、徐々に黒に崩れていく。それと同時に、パレットの身体から色が失われていく。
「……ああ、そうだ。最後に、これだけ」
最後だなんて、言わないでくれ。まだ何も、お前にしてやれてないのに……!
「……『いってらっしゃい』。どうか貴方に、良き道程がありますように」
希望のように明るく、しかし俺には絶望的に明るく、パレットは穏やかに笑った。
あれは一体何だったのか。白い空間はいつの間にか消え、元の空間に戻っていた。目の前には、炎を背にした色の無いパレットが立っている。
「……パレット!!」
思わず手を伸ばす。しかしそうして伸ばした手の先で、まるで繊細なガラス細工が割れるように、パレットは崩壊していった。最後までその笑顔のままで、色が無くとも鮮やかに色付いて。同時に俺の身体は扉へと吸い込まれ、そして俺の意識も、夢から覚めるように晴れていくのだった。
第七十二話、クラヴィオとパレットの別れでした。この作品にしては珍しく全編一人称でお送りしてきましたが、これでしか書けない話だと思っております。それでは別れを乗り越えて、アトラポリス編も終局へと向かっていきます。それでは、また次回。
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