61.比類なき絶踏【空と、底を見渡して】
1つの空間にいながら、様々な景色に触れる。数多の絵画が可能にしたのは、そのような体験だった。ある時は暖かな光が差し込む神秘的な森に。またある時は活気に溢れた大都市に。この街から出たことのない私にとっては、例えそれがその景色そのものではなくとも、全てが新鮮だった。そして私は心の底から、その景色を直に感じることを望んだのだ。
首の痛みを感じながら、僕は目を覚ます。目の前にいるメガロネオスの姿を見て、ここが現実でないことをすぐに悟った。
「首、大丈夫? まさか能力の上からここまでやるなんて、相当な手練れだね。あの男の人」
「……ダメだった。全く、歯が立たなかった」
首の痛みなど、今の僕にとっては目覚めさせるためのものでしかない。今一番心にあるのは、あの男に対して何もできなかったことに対する悔しさと不甲斐なさだった。
「早く、戻らないと……!」
「戻ってどうするの? 今の君じゃ、どうやっても勝てないよ」
メガロネオスが毅然とした態度で言い放つ。わかっている。そんなことはわかっているんだ。
「でも、このままじゃ皆が……!」
「落ち着いて。そうだな……。1つ、冷静になって考えてみてよ」
思わず立ち上がりそうになった僕を、拘束着が許さなかった。立てすらしない僕にメガロネオスが諭すような声で話しかける。
「まず第一に、今君は生きてる。死んでたら、こうして意識の中で話すこともできないからね」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
「わからないかなぁ。もしあの人が殺す気だったら、気絶して能力が切れたところで確実に殺しに来ると思うんだよ。だから確かなことは言えないけど、これ以上危険なことは起こらないだろうから、自然に目覚めるのを待った方がいいと思うよ」
そういうものなのか、と不服に思ったのが第一だった。しかし理性の部分では納得がいく。能力の硬度はそれなりのものであると自負しているだけに、その上から確かに傷を付けたのだ。それにあの感じでは……。
「……本気じゃ、なかったんだろうなあ」
刻まれた痛みは確かにあった。だがいつかに食らったイミティオの一撃に比べれば、あれには何というか、『気合』が入っていなかったように感じた。やるべきことをただやるだけ、といったような、極めて作業的な何かがあの攻撃にはあったのだ。
「……果て、無いんだろうなあ」
思わず言葉が零れる。途方もない何もかもを思うと、これを言わずにはいられなかったのだ。その壮大さに胸を打たれた時だ。不意に意識が薄れてきた。
「あっ……。そろそろ……」
「意外と早かったね。じゃあ、行ってらっしゃい。今度は無傷で会おうね」
微笑んで手を振るメガロネオスの姿を最後に見て、僕の意識は現実に引き戻されるのだった。だが最後に抱いた壮大さへの憧憬は、薄れゆく意識の中でもはっきりとした形であり続けた。
凍り付き煌めく地面の上で、リトスは飛び起きる。首が僅かに痛むようで思わず手を当てるが、血は出ておらず傷もかなり塞がっている。彼の周りには倒れたままの兵たちがおり、そしてパレットはそんな彼らに向けて、掲げた絵画から光を放っていた。
「あっ。目が覚めたんだね。よかった。この光がちゃんと効いたみたいだね」
「もしかして、その絵画で傷を塞いだの?」
「うん。これは『再起の曙光』。まあ詳しいことはストラダに聞いてみて」
「ところで、アウラは?」
「アウラならあそこだよ。あっ、でも……」
「わかった。ありがとう」
パレットが指をさしたのは、通路の角にあたる部分。アウラはそこで誰かと話している様子だった。言われたが早く、リトスはそこへ小走りで近づいた。そんな彼の様子に、アウラも気付いて笑顔を見せた。
「リトス! 目が覚めたんですね!」
「アウラ! 本当に無事で、よかっ……」
彼女に対して、リトスも笑顔を向ける。彼女に近づき、角の向こう側が見えるところまで来たその時、彼の言葉は固まり、笑顔は引きつった。
「起きたか。多少加減したとはいえ、首は大丈夫か」
そこにいたのは何てことのない様子で腕を組んでこちらを見ている、襲撃者の男だった。思わずリトスは、懐から杖を取りだそうとする。しかしそんな彼の腕を掴んで止めたのはアウラだった。
「離して……! こいつは、僕たちを……!」
「待ってください! これは、違うんです!」
「何が違うっていうんだ! 現にこいつに襲われて……!」
杖を取りだそうとするリトスを押さえるアウラ。そんな彼らに近づく者が1人いた。
「アウラの言う通りだ。リトス、ここは1つ落ち着いてくれないか?」
「スケイルさん!」
「スケイル……! これは一体どういうことなの?」
「私が説明する。だからその手を収めてくれ」
すっかり落ち着きを取り戻し、いつもの調子のスケイルがリトスを諭す。そんな彼に、男は視線を送る。
「スケイル。本当に、済まない」
「いいんですよ。こういうことも、もう慣れたものですから」
どこか申し訳なさそうな口調の男に、スケイルはやや呆れ気味に返す。どこか懐かしむように言った彼に、リトスは疑問を隠しきれていない様子だった。
「それでスケイル。この人は何者なの?」
「……この人こそ、私たちが探し求めていた人そのものだ」
リトスの問いかけを受けて、スケイルは一気に真面目な様子になる。
「この人はイゼル。私たちアトラポリス隊の隊長にして、この作戦の最重要人物だ」
スケイルが告げた男の正体。それはこの状況を打破しうる可能性を秘めた、鍵とも言える人物であった。
兵たちも全員目を覚まし、一行は合流したイゼルを中心に集まっていた。彼の横には、クラヴィオとストラダもいた。
「まずは全員に言わねばならないことがある。先の一件、本当に申し訳なかった」
表情を変えることも無く、最初に発されたのは謝罪の言葉だった。深々と頭を下げる彼に、誰も何も言うことは無かった。
「特に、リトス。抵抗されたとはいえ、傷を負わせてしまったな。この詫びは近いうちに必ずさせてほしい」
「……それよりも、どうして僕たちを襲うような真似をしたんですか?」
一応は杖を取り出そうとしないリトスだったが、その静かな声には怒りが籠っていた。
「皆が『凍てつく焦燥』に取り込まれかけて、危険な状態だったからだ。あのままではいずれ自我を壊しかねなかった。だから一度眠ってもらった。それよりも、そのことについて説明を受けなかったのか?」
申し訳なさはとうに薄れ、イゼルは不思議そうにクラヴィオとストラダを見る。そんな彼に対して、ストラダは目を逸らすしかなかった。
「まあいい。とにかく、皆のためには仕方なかったということだ。手荒だったのは認めるが。焦ったり思い詰めたりして頭が回らなくなった時は、一度眠るといい。そういう理屈だ」
「……それよりもイゼル。アンタは先行してこの絵画まで来ていたわけだが、何か掴んだのか?」
「ああ。それを言わねば始まらないな。ちょうど全員揃っているようだから、ここで情報共有だ」
クラヴィオの問いに、イゼルが答える。その言葉と共に、皆の視線が彼に集まった。
「1つ1つ片付けて行こう。まず全体的な絵画脱出の手掛かりなんだが、方法を見つけた」
「見つけたのか……! それは、ひょっとしてあの絵画か?」
「ああストラダ。元画商の君の見立ては正しかったようだ。この絵画の中で、『過酷への逃避行』を見つけるに至った」
イゼルの言葉に、殆どの者が頭に疑問符を浮かべた。そんな中で極僅かな者が何かに気付き、その1人であるストラダは、やや興奮気味に詰め寄った。
「『過酷への逃避行』……?」
「あ、ああ。知らない者が多いだろうな。その絵画は、この絵画と同じく忘却百景の1つに数えられるんだが……、他の有名な絵画に比べれば知名度が低い。目立つエピソードが全然ないからな。唯一あるのが、所有者が絵画の前で首を括ったという程度だ」
早口気味にまくし立てるストラダに呆れた顔を向けた後、クラヴィオはイゼルの肩を叩く。
「それで絵画はどこに?」
「情けない限りだが、目の前で持ち去られてしまった。その時のワタシは能力使用の代償で力を出せずにいてな。申し訳ない」
「弱体化していたとはいえ、まさかイゼル程の戦士が……」
腕を組み、クラヴィオは唸る。ここで、スケイルが静かに手を上げた。
「イゼル隊長。では、一体誰が絵画を持ち去ったのですか?」
「ちょうど言おうとしたところだスケイル。その持ち去った者についてだが、それならすぐにわかる。これから向かう場所に行けばな」
これまでにない信頼の籠った短い会話。だが肝心なことを聞いていなかったことに、アウラは気付いた。
「それで、ここから先はどうやって進めばいいんですか? あまりにもこの街、広すぎますよ……」
「それは簡単だ。ひとまず全員、ここから先は落ち着いてワタシに着いて来てもらう」
こっちに来いと言わんばかりに、いつの間にか先に進んでいたイゼルは後方にいる一向にハンドサインを送る。この状況を完全に理解しきっている者は少なかったが、もう彼らのどこにも焦りはなかった。
イゼルの導きで、一行は煌めく都市迷宮を進む。複雑な道筋ながらも、その足は迷いなく先に進んでいく。だがその道は長く、故に暇を持て余した一部は、雑談に興じるのだった。それはリトスも同様だった。、
「ねえスケイル。イゼルさんって、いつもあんな感じなの?」
「ん? ああ、イゼル隊長はあれでいつも通りだ。不愛想だの冷たそうだの色々言われているが、本当は良い人なんだ。それにわかると思うが、あの人は桁外れに強い。この中では一番と言える」
スケイルの語るイゼルの像に、リトスは先程抱いた壮大さへの憧憬を思い出していた。しかし会話はそれだけで終わる。突如立ち止まったイゼルに続き、全員が止まった。
「よし、ここだ。ここがこの絵画の出口。そして、『停滞の巨塔』の最深部へ続く道だ」
そう言ってイゼルが先の地面を指さす。相も変わらず煌めく空間。だがそれには不釣り合いなものが、そこにはあった。
「なっ、あれは……!」
「まさか、忘却百景がまたこんなところに……!」
そこにあったのは地面に置かれた大きな額縁。そしてそこに収められた絵画は、周囲の煌めきすら淀むほどに暗い大穴が描かれていた。
「ストラダ、あの絵画は……?」
この先のことを察して、顔をこわばらせるパレット。そんな彼女に顔を向けることなく、ストラダは口を開く。
「『淵源深』。異景に並ぶ、最も古い忘却百景の1つだ」
目の前に広がる大穴は、これまでのどの絵画よりも存在感を放ち、そこに鎮座していた。
第六十一話、完了です。イゼル隊長とも合流を果たし、アトラポリス編はいよいよ終盤に差し掛かります。つまりこのサブタイトルのシリーズも、次回で切り替わります。ぜひご期待ください。
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