59.比類なき絶踏【人の噂もバイラリティ】
ある時の私は絵画を欲した。なんてことの無い、無名の画家の描いた絵画が欲しくなったのだ。どうせまたすぐに飽きるのだということは、手に入れる前から思っていた。それでも私は抗うことが出来なかったのだ。こうして私は絵画を手に入れた。誰もが知る神話の英雄を描いた絵画。同じモチーフなら、これ以上のものなどいくらでもあるものを。しかし、それが私の何かに刺さったのだ。
都市迷宮は、永遠に等しい煌めきを放つ。しかしそこを進む一団の顔は、似つかわしくないものだった。
特に先頭に立つ男の顔には、尋常ではないほどの焦りが見える。
「おい待てって! 落ち着けよスケイル!」
「どうしたんだ!? 急に黙ったと思ったら早足になって!」
背後から投げかけられる声には何の反応も見せず、まるで何かに背を押されているかのように進み続ける。やがてその速度は走らなければ追いつけない程になり、ついには大きく距離を離すことになった。
「一体どうしたんでしょうか……? 明らかに何か変ですよ……」
心配そうな声を出すアウラ。そんな彼女の後ろで、徐々に兵たちの顔にも焦りが出てきたことを、リトスは見逃さなかった。
「ねえ。心なしか、他の人たちもあんな風になりはじめてない?」
「やはりこうなるか……。よし、周辺の者は集まってくれ。ああ、そうだ。後ろのクラヴィオとパレット。リトスとアウラ。あと、どうにか正気を保っているそこの3人も」
何か合点が言った様子のストラダは近くにいた者たちを呼び寄せると、一度立ち止まった。
「やはり起こったな。もう少し遅いかと思ったがな」
「こんなにわかりやすく起こるだなんて、ちょっと不気味なものだね」
ストラダと兵たちの様子から、クラヴィオとパレットも何かを察していた。
「お、おい……! これは一体どういうことなんだ! どうして急にこのようなことになったんだ!」
「そうだ! 特にアトラポリス隊で特に冷静なスケイルが真っ先に我を失うなど、余程のことが無い限りあり得ない!」
「ああ……! この迷宮に入ってから、居ても立っても居られないんだ……! 理由もわからないのに……! とにかく焦燥感に駆られて仕方がない……!」
一方で偶然近くにいただけの兵たちは、状況に戸惑ったり飲まれかけたりと様々だったが、冷静とは程遠い状態だった。
「はあ……、はあ……」
「アウラ、落ち着いて……。でも、この状況はどういうことなの?」
それはこの2人も同様だった。アウラはこみ上げる焦燥感から息を切らせ、一方でリトスはどうにか落ち着きを保ちながらも、この状況に戸惑っていた。
「リトスがそれなりに冷静で助かった。取り敢えず、君だけでも理解しておいてくれ」
兵たちを一瞥した後にため息をつき、ストラダは説明を始めた。
「要点だけ言えば『凍てつく焦燥』はいわくつきの絵画だ。大画廊に収まる前に、数々の収集家の手を渡ってきた。あの絵画ほどではないが、危険な絵画であることには変わりない」
「あの絵画って?」
「『異景』だよ。あれは一番古くて、一番危険な『忘却百景』なんだ」
何てことも無く言い放つパレット。リトスは彼女の言ったことに、ひどく驚いた。
「まあそれについては今はいい。『忘却百景』にはいくつかの危険な噂が立っている絵画が存在している、ということをまず覚えておいてほしい。それを踏まえた上で本題だ」
咳払いをして間を置いて、ストラダは話し始める。この場において、冷静でいるのはこの2人だけであった。
「現実においては噂程度で終わっていたが、この絵画の中という空間ではそうはいかない。絵画の中が具現化するという関係上、その絵画に着いた噂も同時に具現化する。この絵画の場合は、半ば脅迫じみた焦燥感、といった具合にな」
「それは、まあ一旦そういう風に理解しておくけど、人をあそこまで滅茶苦茶にする焦燥なんて……」
「リトス、そういったメンタルというのは思った以上に影響が大きい物なんだ。俺も長い人生を送る中で、数えきれないほどのそういう失敗をしてきたものだ……」
「はいはいストップ。それはまた後でね」
唐突に話に割り込んできたクラヴィオをパレットが引き剥がす。やれやれ、とでも言わんばかりにため息をつき、ストラダは話を再開する。
「異景を目の当たりにした君ならわかるだろうが、絵画の中において風評というものは大きな力を持つ。僅かでも、あれほどの力を持っている」
「……何か不穏なことが聞こえた気がするけど」
「聞き逃してくれていいぞ。それは今はどうでもいい」
何か気にした様子だったが、両者共にそれを一度飲み込んだ。それをしている場合ではないのだ。
「とにかくこの状況は、この絵画による影響をもろに受けたため、ということだ。私やクラヴィオ、それにパレットは事前に知っていたからどうにか対策をしておいたが、何人かは影響があまり出ていないようだ」
あっけらかんと呟いたストラダの最後の言葉。それにリトスは少し不満そうな顔をしたが、言葉には出さずにぐっと飲み込んだ。しかし隊の人間に強い影響が出ている原因はまだわからないままだ。それを察してか、ストラダが再び口を開く。
「アトラポリスの人間は幼いころから絵画に触れる機会が多かった。その一環で忘却百景に触れることもある。……そこの3人! 君たちの出身はどこだ?」
「俺はカレドールの出身だが、それがどうかしたのか……?」
「ああ!? どこってそりゃあ、秩序の国だ!」
「お、俺はゼレンホスだ……。絵画なんて碌に興味も無いのにこんなところに飛ばされたんだ……」
「なるほどありがとう。まあこのような感じで、絵画に対する印象次第で受ける影響が変わってくる、ということだな」
「それはよくわかったよ。でも、アウラはどうなっているの? これまでの様子を見るに、そういったことにはまるで詳しくなかったように見えるんだけど」
「恐らく周囲の影響が伝播したんだな。現実ではそうはならないだろうが、ここは絵画の中だ。そういうこともあり得る」
ここでリトスは、何となく周囲を見渡す。彼の目に映るのは、冷静でいるストラダと、不服そうにしているクラヴィオをなだめるパレット。そしてどうにか落ち着きを取り戻しつつある3人の兵とアウラだった。遠くを見渡しても、彼の周囲にはその7人しかいなかった。
「ところで、影響を受けた皆は何処に行ったんだろう」
リトスの一言。それはストラダにも気付きを与えることになり、彼も周囲を見渡して顔を青くした。
「……しまった。見失ってしまった。誰でもいい! 他の者たちは何処に行った?」
「あ、ああ……。あいつらならすごい速さで先に行ってしまったぞ……。止められなかった……」
気まずそうな兵の言葉は、ストラダの耳には半分ほどしか入らなかった。だが状況を察することは容易であり、彼は走り始めた。
「何ということだ。全員で追いかけるぞ!」
それを見たクラヴィオも、慌てて声をかけて走り始める。絵画の影響を受けずとも、彼らの焦りは止められないところまで大きくなっていたのだ。しかし、この時の彼らは知らなかった。絵画の影響以上の脅威が、迫りつつあるということを。
だんだん近づく足音を聞いて、男は舌打ちをする。彼の手にある結晶の刃が、周囲に負けないほどの輝きを放つ。
「これは、よろしくないな……」
彼は再び歩き出す。足音の近づくところへと、ただまっすぐ。
第五十九話、完了です。色々話し込んでいる間に事態が進行するのはよくあることですね。しかし、2つの視点が交わろうとしているこの状況。状況は確実に先に進んでいると言えます。
それではまた次回、お会いしましょう。