58.比類なき絶踏【氷焦燥】
欲しいものがあった。ある時は花束、またある時は陶器人形。どうして欲しいのか、それは今はもちろん、当時だってわからなかった。ただ私の中にあった、欲しいという衝動に逆らえなかったのだ。しかしそうして手に入れてきた数々は、手に入れた瞬間に飽きてしまった。
パレットの能力により、『凍てつく焦燥』の絵画の表面が、水面のように静かに波打っている。そして当のパレットは、壁の方を向いて顔を見せていない。
「先程、この絵画について印象深いと言ったが、その意味を教えておこうと思う。別にいい、という者は先行してもらって構わない」
ストラダの言葉から少し間をおいて、何人かの兵が絵画の中へと入っていく。しかしそれも数人にとどまり、大半がその場に残った。
「よろしい。では、急だが軽く授業としよう。この『凍てつく焦燥』。並びに、画廊より消え去った絵画たちについてだ」
絵画を背にするストラダは、後ろ手に組んでリトス達に向き直る。彼らは何を言うでもなく、ただ黙ってストラダの方に視線を送っている。
「あれだけ広い大画廊であるが、収められる絵画には限りがある。そのようにして画廊からあぶれた絵画というものは、大画廊に至るまでの回廊や、アトラポリスの各所に飾られることが多い。だが、ごく一部の絵画は回廊や街にも行くことも無く行方をくらませる。そのような絵画たちを、私たち画廊関係者は『忘却百景』と呼んでいる。この『凍てつく焦燥』もその1つだ。そしてそれら絵画の行方は誰にもわからない。だが1つだけ共通していることは、あれらは全て初代画廊主の頃からあったということだ。……まさかこんなところで実物を目にすることになるとは、思わなかったがね」
そう言いながら絵画の縁に触れるストラダ。それに送る視線は、何処か悲しげであった。
「一応ここからは私の推測だ。話半分程度に聞いてくれると助かる。……この絵画の中は、恐らくこれまでの絵画とは明らかに違う。これまで以上に警戒して進んでいかなければならないだろう。……それを踏まえた上で、先行した数人が心配だ。最大限の警戒をしながら、進んでいくとしよう」
そう言うは早く、ストラダは誰よりも先に絵画の中へと入っていった。
「俺たちも行くぞ!」
兵の誰かが叫んだ。最早誰が言ったのかすらわからないまま、兵たちは大挙して絵画へと入っていくのだった。リトスとアウラも、それに続く。やがて絵画の前にはパレットとクラヴィオだけが残った。
「よし、俺たちも行くぞ」
「……うん」
壁を向いたままのパレットは、クラヴィオの言葉に息を詰まらせながら答える。
「どうしたんだ。さっきまでは何てこともなさそうだったじゃないか」
「ああ、うん。ちょっと、変な気分になってさ」
パレットは絵画に触れていながら、しかしすぐに振り向く。
「そんなこと、気にしすぎたらダメだよね。ほら、先に行って。私が触れてないと、こんなに大きな絵画は長く実体化できないよ」
「そうさせてもらおう。……自分のタイミングで、来てくれればいいからな」
そう言い残して、クラヴィオは絵画へと入っていった。ただ1人残されたパレットは、しばらくうつむいたままであったが、程なくして顔を上げた。
「きっと大丈夫。まだ、きっと……」
誰に語り掛けるでもなく、言葉は寂しく放たれる。パレットは手を離すが早く、絵画の中へと入っていった。そして誰もいなくなった回廊で、水面のように波打っていた絵画は、やがてその動きを止めるのであった。
すでに絵画の中にいながら、その中でまた絵画の中に入る。不思議な入れ子構造の真っただ中にいるリトス達は、新たな光景に目を奪われる。
「こんな光景が……! 現実なの、これ……」
「絵画に現実も何も無いでしょうが、でもこうして目にしているという事実は確かなものです……! 信じられない光景ですよ、これは……!」
そこは高台だった。そこから見渡す光景は、完全に凍り付いたアトラポリスの街そのものであり、そして何よりも異質であったのは、その氷の街を覆う業火だった。氷は融けることも無く水晶のように煌めき、炎を反射し街全体に光を行き渡らせていた。
「これは、壮観だな」
「ああ、違いない。……だがこれはどこか間違っている」
遅れて入ってきたクラヴィオの言葉に真っ先に反応するストラダ。だが何度も手元にある複製の『凍てつく焦燥』を確認すると、やがてそれを懐にしまった。
「やはりそのままの保存状態な訳がないか……。皆、聞いてくれ!」
確信を得た様子のストラダが、光景に圧倒されているリトス達に声をかける。その一声で我に返ったのか、一斉に視線がストラダに集まった。
「やはりと言うべきか、この絵画は一部改変が加えられている。その最たるものが眼下のこの光景だ」
街を見下ろすストラダ。それは相も変わらず燃え盛る、氷漬けのアトラポリス市民街だった。
「先程も言ったが、この絵画は初代画廊主の時代からあったものだ。そんな昔の絵画に、今のアトラポリスの光景を模したものが描いてあるなど、あり得ないことだ。ただでさえ絵画の中など想像しがたいものであるというのに、このように大きな改変が加えられていては本当に何が起こるか分かったものではない……」
そう言いながら、ストラダはある一点に向かって歩き始める。
「だからこそ、先行している者たちが心配だ。早く行かねば手遅れになるかもしれない」
彼が向かっていたのは下へと続く階段。それは大画廊へ続く道にもあった、長き螺旋大階段と同じものだった。
異常事態に直面しても、兵たちの歩みは止まらない。皆がただ、階段を下りている。
「まさか、ここでこの階段を下ることになるなんてね」
「これをもう一度下るのは、脱出後かと思っていましたよ」
「……本当に、出られるのかな」
「……今は信じて、進むしかないですよ。何もやらなければ、停滞するだけですから」
リトスとアウラの語らいは、他の介入も無いままに続く。そうして取り留めのない会話が長々と続くかと思われたその時、それは突如として終わりを迎える。
「階段が終わるぞ!」
兵の誰かが叫んだ。それに反応し、2人の会話は断ち切られる。だが2人は違和感を覚えていた。
「ねえアウラ。この階段ってこんなに早く下に着くっけ?」
「いえ。もっと長かったと思うんですが……」
「これは絵画であるが故の差異だろうな。元はこのアトラポリス市民街の光景とはまるで違うものなんだ。むしろ、ここまで一致していたことがおかしいんだ」
「クラヴィオ、いつの間に……」
そうして着いた螺旋大階段の終着点。そこは眩い煌めきを湛える、凍り付いた街への入り口だった。
「おい、これを見ろ!」
「これは……! 皆もこれを見てくれ!」
先んじて階段を下りていた兵の何人かが、何かを発見する。それを見て表情を変えた彼らは、慌てて全員を集合させる。
「この白い布の切れ端……。僅かに入った銀糸の刺繍……。間違いない。これは俺たちルオーダ兵団の装束に違いない。しかもこの黒ずんだ汚れ……。考えたくはないが、まさかな……」
そこにあったものをまじまじと見つめるスケイルは、その正体を推理しながら顔色を青くする。そして一通り考えを巡らせたスケイルは、街へと目線を送った。ただ美しく煌めくその街は、底知れない不気味さを覗かせていた。
第五十八話、完了です。やって来た凍てつく焦燥の中は、誰も想像していなかった光景が広がっていました。道中はなべてアドリブで、既定の終着点に辿り着けばそれでよいと思っております。ではまた次回。