53.画鍵と開炎の去凍【滴がしとりと】
キャンバスに向けていた筆を取り落とし、クラヴィオが呟く。横にいたストラダは、その筆を拾った。
「……異景は、かの伝説の画家ネイウスの作……。それを画廊の頂点に飾るのは納得がいく……」
「ああ、そうだな。私もそう記憶しているし、その点は同意する」
「……だが、あの2人を助けた時に見たあの絵画。それからは何も感じるものが無かった……」
「……どういうことだ?」
「あの絵画は間違いなく異景そのものだ。あのようなバケモノが出てくる以上、普通の絵画というのはあり得ん。だが……。あれが異景の全てだとは、到底思えん……」
「……確かに。私の知るネイウスの絵画はもっと引き込まれるものがあった。……『戦血英雄』の絵画を巡って、ゼレンホスで10年ほどの抗争が起こったという事例を聞くぐらいだ。それほどに人を狂わせる何かが、ネイウスの作品にはある」
「……熱鍵作戦の傍らに、その調査を進めることにしよう。……アンタにも手伝ってもらうぞ」
「ああ。私の知恵も、役に立てて見せよう」
ストラダから筆を受け取り、クラヴィオは再び筆を走らせた。
混色の人型だった粘液が辺りに広がる。周りの絵画をも塗りつぶすそれが示しているのは、ルオーダの兵たちの快進撃だった。彼らの持つ片刃の剣には、様々な色が混ざり合った粘液が血のようにべっとりと付いていた。
「恐らく元を断てばこの発生を止められる! 上に進撃だ!」
「うおおおおお! 進め進め!!」
「私も負けていられません! うおおおおおお!!」
ルオーダの兵士たちに混ざって、アウラも勢いよく回廊を駆け上がる。そんな彼らの後ろを必死でついていくリトスは、魔術によって兵たちの闘争心を高め続けていた。魔術を習い始めた彼が陥っていた興奮状態と、理屈は同じである。
「血の気の……、多い人って……、どうしてこんなに……」
戦いの始まりから少ししか経っていないのにも関わらず、リトスは既に疲労困憊といった様子だった。普段通りであれば、多少離れた位置からでも大丈夫だっただろう。しかし彼が今持つのは普段とは違う杖だ。効果の及ぶ範囲も限られている。しかしその分普段よりも強い魔術が使えるのだが、この状況においてはむしろそれが仇となっていた。半ば理性を失って突進する猪のような一団にひたすらついていくことは、体力に乏しいリトスには過酷なことであった。しかし援護を請け負った以上、その期待に応えねばならないと彼は思っていたのだ。
「こうなったら、自分にも……。……って、もう耐性が付き始めてるから無意味か」
濃い天素に一番近い距離で曝されていながらも、リトスは普段の調子を崩していない。アウラたちの興奮状態は天素を過剰に取り込んだが故のものであり、それは不可逆なものであった。
「あっ、行き止まり。全員止まっ……て!」
そしてどれほどの時間が経った頃だろうか。回廊の終わりを見たリトスは、一団を止めるべく天素の放出を止めた。最初の内は昂ぶりと共に突撃していた一団も、次第にその勢いを失うと共に、理性を取り戻していった。
「これは……。そうか、これが天素を浴びるということなのか……。だが、案外悪くは無いな。定期的に浴びるのもいいのかもしれない」
「ちょっとずつ耐性が付いていくから意味ないと思うよ……。というより、皆初めてだったんだね……」
「ああ。こんなことをする魔術師などいないからな」
「確かに……。リトスのやり方って、魔術師としては型破りもいいところですから」
回廊の終わりにある『異景』の前に立った兵士たち。そんな彼らの目は、一様にその絵画へと向けられていた。
「さて、こうして剥滴共の根源に辿り着いたわけだが……。どうする?」
「どうするって……。破壊していいんじゃないですか?」
「よし、じゃあ……」
言うは早く、兵士の1人が意気揚々と剣を振りかぶる。
「ねえ、ちょっと」
「はあっ!」
リトスの静止は間に合わず、絵画に向かって剣が振り下ろされる。額ごと裂かれたそれは壁から外れて落ちる。しかしその直後、切られた絵画の縁から、混ざり合った色の粘液が血のように溢れ出した。
「な、何か変じゃないか? 切った絵画から、剥滴みたいな色の粘液が……! 止まらないぞ!」
「ほら! 言わんこっちゃない……! 何かやばいのが来る……!」
リトスとアウラ、兵士たちは最初は咄嗟に距離をとる。小さな水溜りのようだった粘液も、次第にその量を増して山のように盛り上がっていく。
「これは、まずいな!」
「でも止められませんよ! こんなに大きくなっちゃったら、もう……!」
もう誰にも止められない程に、粘液は大きくなっていく。そして見上げるほどに大きくなったそれは、やがてその前面を大きな口のようにゆっくりと開き、多くの悲鳴が混ざり合ったような咆哮を上げた。咆哮と共に散る粘液が地面に落ち、剥滴となる。それらはまるでその粘液塊を守るように、兵士たちへと立ちはだかった。
「何だこれは……! こんなの、見たことないぞ……!」
「こいつらが『滴』なら、さしずめこのデカいのは『源泉』といったところだな……。皆、改めて武器を取れ! リトスも今から攻撃に転じてくれ!」
咄嗟にスケイルが指示を飛ばす。武器を構える兵士たちやアウラに続いて、リトスも天素を励起させる。勝負の大一番。この戦闘を越えなければ、絵画脱出など夢のまた夢だ。
「『異景の源泉』、討伐開始だ!」
剥滴の集団と兵士たち。リトスの魔術による蒼い残光と共に、戦いの火蓋は切って落とされた。
微かに聞こえた咆哮に、男は眉を動かした。手にした透明な刃には一切の穢れは無く、まるで磨き上げられているように輝いていた。
「これは。そうか、上で……」
男は自身の足元へと目をやった。壁と同じ分厚い氷で出来ているその床には、しかしその無色を上書きするかのように混色が広がっていた。その中心には、切り刻まれたキャンバスがある。
「もうすぐ、か」
そして男は再び壁に寄りかかるでもなく、歩き出す。その足取りは不確かながらも、彼は燃え盛る炎へと迷うことなく歩んでいくのであった。
第五十三話でした。誰かさんが余計なことをしたおかげで、とんでもないことになってしまいました。しかしこれをどうにかしなければ、作戦の遂行に障害が発生してしまいます。さあ次回は、異景の源泉との戦いです。皆さん、次回までお待ちください!