50.氷零と静謐の虚塔【描き出す活路】
絵画間を渡る手段は限られている。その術の多くは失われてしまっているが、ある者たちが使う絵画の切れ端は出所が不明ながらも、絵画を渡る力を有している。
「銀髪の男、ですか?」
「ああ。我らがアトラポリス隊の隊長である、イゼル隊長だ。彼は独自で絵画の調査をしていたんだが、突如行方をくらませてしまったんだ。彼の能力は、絵画からの脱出に必要なんだが……」
リトスは思い返してみるも、銀髪の男は記憶にはない。それに、この絵画の中に来てから会った人間はこの村にいる人間だけだった。それよりも、彼には気になったことがある。
「絵画からの、脱出?」
「そうだ。ここにいるルオーダ兵団の人間は、この絵画からの脱出を主目的としている。そしてイゼル隊長が取りに行ったとある絵画と彼の能力が、脱出に必要なんだ。だから改めて聞く。イゼル隊長を、何処かで見ていないか?」
真剣な眼差しで問うスケイルに、リトスは望む答えを与えることはできない。そんなものを、見た覚えなどないからだ。黙っている彼を見て、スケイルは肩を落とす。
「……そうか。だが、大丈夫なはずだ。……あの人が死ぬはずがない。邪魔して申し訳なかった。休んでくれ……」
残念そうな声で、しかしまだ希望を捨てずにいるスケイルはゆっくりとドアから出ていく。そんな彼と入れ替わるように、入って来たのはクラヴィオだった。彼の手には、大きな魚の干物があった。
「邪魔するぞ。アンタに頼みたいことがある。……ああ、もらってるぞ。美味いなこれ」
「頼みたいこと……? ってそれ、僕のシャクドウマス……」
「中々良い物を持っていたんだな。これほどの一品、そうそう味わえるものではないぞ」
「この味の深み、たまりませんね……! 戻れたらあのお店にもう一回行きましょう!」
干物を齧るクラヴィオの後ろには、これまた大きめの干物を持っているアウラの姿があった。何かしようとここに来たクラヴィオとは違い、アウラは干物で釣られて着いて来ていた。その証拠に、彼女はひたすら干物を裂いては口に運んでいる。
「……僕の分は?」
「ああちょっと待ってくださいね……。……これだけですね」
「元々僕のなのに……。……あっ、これ美味しい」
アウラが袋から出したのは、数口分しか残っていなさそうなほどに小さな干物だった。不服そうにそれを受け取ったリトスは、アウラに倣って干物を裂いて口に入れた。
「はいはいそこまで。クラヴィオも大事な用があって来たんでしょ?」
「そうだったなパレット。軌道修正すまない。……さてリトス。そしてアウラも。アンタたち2人にはこの絵画脱出の協力を頼みたい。もちろん、そんなに難しいことを頼むつもりはない」
パレットと呼ばれた少女が、クラヴィオの頭を軽くはたく。不満そうな顔をした後で干物を袋にしまったクラヴィオは、一転して真面目な口調で語りかける。それにリトスとアウラは顔を見合わせる。
「ずっとここにいるわけにはいきませんもんね……。リトスは、どう思いますか?」
「……ここから出ないことには、目的も果たせない。何を、すればいい?」
顔を見合わせ、しかしすぐに答えを出す2人。そんな2人の様子に、クラヴィオは頷いた。
「いい答えだ。では、俺の工房に着いて来てくれ」
そのまま後ろを向いて、クラヴィオが出ていく。彼に続いて2人も出ていく。これから先に起こるであろうことを思い、2人に緊張が走る。そうしてしばらく歩いたところで、周りの建物と比べて一回り大きな平屋に辿り着いた。その正面に備えられた扉の先には、キャンバスと椅子のセットが2つ置かれていた。
「ようこそ、俺の工房へ。ちょうど人手が足りなかったんだ。早速で悪いがアンタたちに絵を描いてもらう。取り敢えず、10枚程やってもらおう」
「……は?」
「……それは、……え?」
突然告げられた『頼み事』は、連れてこられた2人を困惑させるのには十分だった。てっきり何か荒事をするのではと思っていた2人は、すっかり気の抜けた表情をしていた。
工房に来てから数時間が経った。しかし時間が経ったと思われない程に、外の明るさは変わらない。この数時間の間、リトスとアウラは手に持った筆で、オレンジ色と赤色をキャンバスに走らせていた。
「……これを、こんな風に。……よし、できた。10枚目だ」
「リトス、すごいですね……。私こういうのはどうにも苦手で……」
筆を置いて、リトスは大きく伸びをする。彼の横には描き終えた10枚の絵が重ねられており、それらすべてが燃え盛る炎を表していた。一方でアウラの横にある絵は、5枚にも満たなかった。
「リトスはいい筋をしているな。流石は魔術師、といったところか」
「……そういえば気になっていたけど、なんで僕のことについて色々知っているの?」
「大体のことはアウラから聞いた。後は……。まあ、長年の勘というやつだな」
リトスの横にある完成した絵画を見て、満足げに頷くクラヴィオ。続いてアウラの前のキャンバスに目をやると、少し顔をしかめた。
「アウラは……。まあ……、そういうこともあるだろうな。絵の上手さで人生が決まるでもない。そう気を落とすな」
「遠回しに下手って言いました!? まあ、私はこういうのは得意じゃないんですよ……」
そうは言いながらも、クラヴィオは2人の完成させた絵を運んでいく。
「ところでこうして大量に炎の絵を描かせて、何に使うつもりなの?」
「……そうだな。あと2人で40枚描いたら足りるから、その時に教えよう。さあ、再開だ。リトスはそのままでいいとして、アウラは雑でもいいからペースを上げてくれ」
残った絵画を持って、クラヴィオは出ていく。残された2人はキャンバスに向かったまま、しかし言われたこととは逆に手を止めてしまう。
「リトス、頼みがあります」
「……全部描いてはお断りだよ」
「そうは言いませんよ……。効率的な描き方、教えてくれませんか?」
「……残ってる干物で手を打つよ」
時間は経てども、描き殴られたような太陽の明るさは陰ることはない。その明るさと同じような橙と赤の軌跡が、キャンバスを走り続けるのだった。
様々な色が混ざり合った液溜りの中で、1人の男が仰向けに倒れている。その手に輝くのは、まるで芸術品のような美麗を誇る結晶の短刀が一対。氷の格子のようになっている天井を眺めるその目は快晴の空のように青く、しかし周囲に燃える炎を反射して仄かに赤く輝いている。そして液溜りに広がる長い髪は、鈍く艶めいていた。
「……どうして、こんなことになってしまったんだろう」
ポツリとそう呟いた男は、しかしいつの間にか周りに近づいて来ていた剥滴に気付くと、立ち上がって短刀を順手に構える。
「この焦燥に焼かれるまで、持ってくれよワタシの身体……」
すっかり染まってしまった白いコートのような制服をなびかせ、男は剥滴に向かっていった。凍てつくような煉獄で、男の戦いはまだ続く。
第五十話、完了です。絵画を描き続ける意味とは。炎にはどのような意味があるのか。その答えは次回に持ち越しです。というわけで、次回お会いしましょう。