49.氷零と静謐の虚塔【来たり、秘匿の村】
絵画の中は本来隔てられた空間だった。しかし『停滞の巨塔』に隣接する絵画の凍結が始まったことをきっかけに、絵画間の壁が崩れ始めたのだ。
暗く、沈む意識の中でさえ混濁は続く。ここがどこなのか、今立っているのか座っているのか、そして僕が今どこを向いているのかさえ、判断が付かない状態だ。そして酷く、気持ちが悪い。中のものを全部吐き出してもなお余りあるほどの不快感が、渦を巻いているように感じた。しかしそれが、辛うじて僕の意識を保っているのだろう。これが無ければ、僕は全体に溶けて意識も保てないだろう。
「……い」
そんな混沌の中、不意に聞こえた声を僕は逃さなかった。
「……だ、れ」
聞こえた声を、必死に探す。だが方向さえまともにわからない僕には、そんなことはできなかった。
「お……い」
だが声は途切れ途切れでありながらも、次第にはっきりと聞こえるようになっていく。それでもなお、僕は必死で声を探す。嘔吐感に頼らずとも、意識は保てるようになってきた。
「だか、ら……、だれ……」
姿の無い声の主を探し続ける。だが、どこにも見えない。しかしその声は、何処かで聞いたことのある声だった。
「まったく世話の焼ける……。私だよ。私。……ああ、そうか。会ったことは、なかったね」
まるですぐそばで話しかけられているかのように、はっきりと声が聞こえる。そしてだんだん明るくなっていき、今の自分の状態もわかるようになってきた。そうだ、僕は…………。
やけに明るい部屋の中で、リトスは飛び起きた。額には汗を浮かべ、顔色は蒼白い。彼は立ち上がりこそすれど、その足取りはおぼつかない。そして嘔吐感が蘇ったのだろう。壁に手を付いた彼は、口を押えてうつむいた。そしてその不快感に耐え切れなくなり、口を押えていた手を離したところで、簡素なドアが開いた。
「う……、おえええええええッ!」
「お待たせ……、うわっ! ああもう! 何をしてるの……! 掃除したばっかりなのに……」
入って来たのは、見知らぬ少女だった。彼女はリトスの様子に嫌な顔をしながらも、持ってきていたバケツと布巾を一旦置くと、リトスの背中をさすった。
「まあ掃除した後で吐かれるのも面倒だし、出せるだけ出して」
仕方なさそうに背中をさすられて、リトスは更に嘔吐する。そして程なくして何も吐くものが無くなったころに、タイミングを見計らったかのように1人の男が入ってきた。身なりこそ洗練されているものの、その顔は疲労に染まっていた。
「ああ、はいはい。そこまでだ。さてリトス少年。私の名はストラダ。かつては画商をしていたが、ここに来てからは知識を活かして医者のまねごとをさせてもらっている。まあこうして挨拶も済んだところで……。問診だ。正直に答えろよ」
ストラダはポケットから小さなノートを取り出す。少しくたびれたそのノートの表紙には、掠れた綺麗な字で『メモ』と書かれていた。
「単刀直入に聞こうか。リトス少年。君はここに来る前に何か飲んだかな? ああ、飲み物とかそういうのではなく、薬品の類だ」
そう言われて、リトスはこれまでのことを思い返す。回廊でクラヴィオに助けられたこと、その前。画廊を巡ったこと、更にその前。そこに至るために上った螺旋大階段、その道中にまで記憶を遡らせたところで、彼は唐突にある人物の顔を思い出した。
「そうだ……。螺旋階段の途中で、知らない女の人に変なピンク色の薬を飲まされて、それで……」
「結構。君と一緒にいた患者の言っていたこととも一致する。まあわからないだろうが、一応君の身体に起こっていることを説明しよう」
開いていたノートを閉じて、呆れたような表情を見せるストラダ。疲労の溜まったような様子と相まって、見ているだけで周りの空気も重くなりそうである。
「あの薬に入っていたもの、『カンロバチ』の蜜と体液。それらには高い滋養強壮の効果があってだな。混ぜて摂取すると更に効果が高まる。それも濃縮したものとあっては、その効果は計り知れないものとなるだろう。そして彼女の言っていた仄かな花の香り。恐らくは『アカネツバキ』のものだな。これにも滋養強壮の効果があるんだが、すこし厄介な性質を持っていてな」
「厄介?」
「ああ。あれは効果が切れてしばらくすると昏睡状態に陥ってしまう。それにカンロバチの蜜や体液と合わせて飲むと、意識が飛んでトリップしてしまうんだ。気付かない間に階段を上り切っていただろう? そういうことだ。まったく……。素人目でもわかるほどに杜撰な作りの薬のようだ。これを作った者に薬師を名乗ってほしくはないものだ」
「お、おおう……。詳しいんだね……」
淡々と、しかしかなりの早口でまくし立てるストラダに、リトスは自身の具合の悪さすら忘れていた。言葉に気おされる彼をよそに、少女が何かを思い出したかのような顔をする。
「そういえば、貴方に聞きたいことがあるって人がもう1人来てるよ。……呼んでいいよね?」
「え? ああ、うん。僕に答えられることなら、答えるよ」
「ありがとう。……入っていいよ」
少女の言葉を受けて、ドアが開く。入って来たのはコートのような白い制服に身を包んだ、整った顔立ちで黒縁眼鏡の男だった。男は懐から、天秤と様々な武器を象った紋章が付いた手帳を見せる。
「リトス君、と言ったね。初めまして。私はルオーダ兵団アトラポリス隊のスケイルという者だ。君にいくつか聞きたいことがある。すまないが、しばらく時間をもらうよ」
立て続けに訪れる者たち。それに対応している間に、リトスは気付けばいつもの調子を取り戻していたのだった。
第四十九話、完了です。舞台を別の場所に移し、絵画の中の物語は続きます。訪問者たちは、まだ多く現れるでしょう。それでは、また次回。