43.繁栄と清廉の巨塔【尊き普遍の光景】
アトラポリスの旅人街と市民街を隔てる階層は、アトラポリスに循環する水を周囲の湖から汲み上げて清浄化するための階層となっている。また湖から水を一斉に汲み上げる関係上、その過程で多くの魚介類が巻き込まれて流入してくる。そういった魚介類を回収して選別するのが、アトラポリス名物たる新鮮な魚介類の供給の一部となっている。
割り当てられたその部屋は、シンプルながらも清潔なベッドが2つと、壁で区切られた小部屋がある、アトラポリスの宿泊所としては標準的な、しかし2人が見たことも無いほどに上質な部屋だった。
「取り敢えず荷物を一旦置いて、しばらく休もう」
「そうですね。……いい加減、お風呂にも入りたいところですし……。……! リトス! ここお風呂がありますよ!!」
リトスと会話しながら荷物を置き、部屋を物色していたアウラは、区切られた小部屋の中を覗いて喜びの声を上げる。その様子を見たリトスが彼女に続くと、その部屋には蛇口と浴槽が設置された浴室となっていた。喜び勇んで浴室に入り、水を出すアウラ。そして蛇口から出る水に触れて、また喜びを顔に出す。蛇口の横についているつまみを弄り更に表情を変えたアウラの様子を、リトスは不思議そうに眺めていた。
「アウラ……? そんなに、ねえ、どうしたの?」
「お湯が……! このつまみを弄って温度の調節ができるんですよ! 結構細かく調整できます! すごいですよ! ペリュトナイのは、もっと極端な作りでしたから!! そうだリトス! 私のカバン、取ってくれませんか?」
言われるがままに、リトスはベッドの上に放置されたアウラのカバンに手を伸ばす。その大きさからは想像もできない程の重さがあるそれを、リトスはアウラに手渡した。
「今からお風呂入ります! リトスも入りたいならお湯残しておくので、どうしますか?」
「あ、うん……。じゃあ、お願い」
彼女の勢いに若干押され気味なリトスは、しかし次の瞬間には小部屋から締め出されていた。そこで彼は、自身の荷物をまだ下ろしていなかったことに気付く。
「……荷物の整理、しようかな」
何もすることがなくなったリトスは、空いていたベッドに自身の荷物を広げ始めた。この現状がどんなものであれ、それは彼にとってかけがえのない平和そのものであった。
荷物の整理のために、リトスはベッドの上に持ってきていた物を広げていた。数日分の衣類、読みかけの本に資金。使っていたカバンから次々と物が出てくる中で、同じように取り出したある物に、リトスは眉をひそめる。
「あれ……。こんなもの、持ってきたかな?」
取り出されたのは、金属製の細長い箱。まるで箱の材質をそのまま金属に置き換えたようなその箱は、彼にとって見覚えのあるものであった。一応の確認の意味も込めて、リトスは箱を開けて中を確認する。
「……紛れ込んでたのかな?」
中に入っていたのは、彼の知る通り金属の小さな杖だった。先端に埋め込まれた黒水晶が、鈍い輝きを放つ。その輝きは、スクラから渡された杖のそれとはまた違ったものであり、リトスを魅了するには充分であった。思わず手に取るリトスに、同封されていた紙の記載が飛び込む。
「使った感想、か……。……ちょっとなら、ここでも大丈夫だよね」
そう言ってからが早かった。リトスは早速杖を取り出すと、天素を励起させる。するとこれまでのように周囲に蒼い奔流が起こり始めた。ただし、これまでとの決定的な違いがあった。
「……なんか、小さいな」
これまでであれば、この部屋全体を覆いつくすほどの規模の奔流が起こるはずだった。それをリトスは気付いていなかったわけではなかったが、好奇心には勝てなかったのだ。しかし今起こったのは、リトスの手の届く範囲程度の規模でしかなかった。しかしこれだけで検証を終えるほど、リトスも浅はかではない。魔術の使用を以て、初めて実戦的な検証ができるのだ。とはいえここは宿泊所の中である。なので、リトスは蒼護壁での検証をすることにした。早速天素を集中させ、まずは壁を形成する。そうして問題なく壁の形成はできたわけだが、またしても違う点が見受けられた。
「……やっぱり、小さいな」
本来であれば彼が隠れるのに十分な大きさの壁が出るはずだった。しかし今目の前にあるのは、中盾程度の大きさしかないものであった。しかし、それだけではない。何気なく壁を叩いてみたリトスは、あることに気付く。
「……! いつもより、固い?」
確かにその壁は小さいものであった。しかしその強度は、普段のそれ以上のものであり、またその色もいつにも増して濃いものであった。それに何かを閃いたリトスは、続いて別の魔術を試してみることにした。試すのは蒼護壁と同じように、既存の魔術を彼なりに強化した蒼断刃であった。同じく天素を集中させ、刃を形成する。短い杖と相まって、それは蒼い刃の刀のようにも見えた。
「……確かに、小さいな。でも……、頑丈だ」
この杖の真価は、規模の縮小と引き換えに魔術の精度を高めるというところにあった。これをスクラに見せたら何と言うだろうか。リトスはそれを想像しながら、蒼い刃を1人眺める。どこかそれは、セレニウスの永劫にも見えていた。
「これは、いい物をもらったかも」
ひとまず十分に検証を終えたリトスは、展開していた魔術を全て解除し、杖を箱に戻す。ちょうどそのタイミングで、浴室からアウラが出てきた。風呂上がりのアウラは、先ほどに比べて明らかに生き生きとしていた。
「いやあいいお風呂でした! こんなに手軽に入れるなんて……! 流石は水の都ですね! あ、リトスもどうぞ! ……何してたんですか?」
「あ、ああ! 何でもないよ……! じゃあ僕も入ってこようかな」
無意識に箱を咄嗟に隠し、リトスは衣類の一式を手にして浴室へと入っていった。その様子をアウラは疑問に思いながらも、この後にすることで頭がいっぱいになっていたのだった。
しばらくの時間を置いて、リトスも浴室から出てくる。しっとりとしたその黒髪は、先ほどとは見違えるほどにつやがあった。それを見たアウラは、少し驚いたような顔をする。
「……綺麗な髪なんですね。意外でした」
「そうかな……。……まあいいや。じゃあ、そろそろ行こうか。市民街に」
「はい! 私お腹空いちゃいました……! 市民街でご飯にしましょうご飯に!」
「いいね。……じゃあ持つ物持ったら、出発だね」
リトスがそうは言ったものの、アウラは既に準備を済ませていた。それは彼女が腰に付けた、少し膨らんだポーチが全てを物語っていた。それを見たリトスは、準備を急ぐことになった。ちょうどいいことに、彼の持ってきたカバンの中にはアウラのものと同じようなポーチが忍ばせてあった。これは、基本の荷物を持たせたスクラの計らいであった。
「えーっと、まず鍵は当然として、次にお金……。まあ三千エルドぐらい持っていけば足りるか……。後は本と……。……これも、ついでに」
そうして選んだ物を入れたポーチは、ちょうどそれらしくなった。それを杖の代わりに腰に取り付けると、リトスはアウラに声をかける。
「準備できたよ。じゃあ、行こう。確かここの最上階からリフトで行くんだったよね」
「そうですね。楽しみです……!」
そして2人は部屋から出る。そして誰もいなくなった部屋にガチャリという施錠音が響いたと同時に、静寂が部屋を支配することになった。その静寂の中には、2人の力を振るうための武器2つが鎮座していた。
何階分の階段を上ったことだろうか。宿泊所の最上階に辿り着く頃には、リトスはすっかり疲れ切ったような顔をしていた。それを横目に、アウラはため息をつく。
「しかし、リトスの体力の無さも考えものですね。今度鍛えてあげましょうか?」
「……お手柔らかにね」
しかしリフトの前に来ているのは事実である。これに乗ってしまえば、市民街までは一直線だ。しかもちょうどよくリフト乗り場は2人以外誰もおらず、更にちょうどいいことにリフトが一基残っていた。
「早く行きましょう!」
「ああ、ちょっと! 引っ張らないで……!」
疲弊したリトスを引っ張って、アウラはリフトに向かって走り出す。そしてアウラがリトスを乗せるとリフトのレバーを引く。すると歯車の軋む音がしたかと思えば、すぐさま歯車の回る音がする。
「いよいよですね……! 楽しみすぎて緊張がすごいです……!」
「僕は着くまで休んでるよ……。しばらくは、そうしていられそう……」
興奮するアウラと疲弊するリトス。そんな2人を乗せて、リフトは市民街へと上昇していった。
そんなわけで第四十三話でした。こんな感じの日常回を、しばらく続けて行きます。早く不穏にしていきたいですね。では、また次回。