玉川温泉
親孝行、したい時には親は居ず。
この言葉は誰もが知っているだろう。
しかし親孝行など何を指すものなのだろう。
親孝行しているつもりであってもそれは親から見て同じものに当たるのだろうか
親と同居して親の面倒を見るのが親孝行だろうか
中には子供に迷惑をかけたくない親もいる事だろう
親離れしていないだけと思われているかもしれない。
親へのプレゼントは親孝行かもしれないがプレゼントなど普段から送れるものであってはならない
親の死後、胸を張って親孝行したと言い切る自己満足を得るプレゼントとは一体なんだろう
社会に出て親の顔を見る機会が減った
毎年帰る者もあるだろうがそれは何時間親と過ごすのだろう
その合計は親が死ぬまでに自分が満足できる時間と言えるのだろうか
これは私が思うようにやってみた親孝行をもとに書いたものだが
概ね経験談だがそのまま書くわけにはいかない事もあり多少脚色してある。
どこがフィクションなのかはまぁ、ご想像にお任せする。
熊本県の高校を中退し、尾崎豊の歌の如く自由に生き
気ままに家を飛び出しアテもない旅に出て12年間
いろいろな職場に飛び込み住み込み、飽きたらそこを飛び出し、また別の居場所を求め続けた旅の果てに私は横浜にたどり着いた。
そこで出会った仕事は家賃光熱費のかからない住み込みの簡易宿泊所の管理人。
部屋から出るのは玄関や廊下の掃除をするくらいでほぼ毎日ネットゲームにハマっていた。
その掃除すら友人に頼み部屋からは出ることさえなく給料をもらう引きこもりニートだった。
最高の生活だった。
いや人としては最低かもしれないが衣食住不自由なく趣味に没頭する時間を持て余す
現代の貴族とも言うべき私が小さな頃から思い描いた理想郷はこれだった。
まぁそんな生活は安定し、たまに出歩く親しい店の店主の紹介で彼女もできた。
見事なまでに順風満帆、横浜までの路銀もない宿もない生活での苦労などはこの生活を手に入れる為の序章
給料をもらえない会社、仕事を教えるのでもないくせにできない事があると暴力を振るう会社
会社の金が足りないからと借金をさせる会社、吹きっさらしの工事現場で真冬にブルーシートで野宿ということも経験した。
そんな苦労が自分を押し上げこの生活へと導いたのだと考えるとそのどれもがありがたい。
そんな会社に無理して残らなかった自分を褒めたい。
ブラック企業はそれ自体で存在することはないのだ。
劣悪な環境に甘んじ頑張ったらご褒美がもらえると期待するバカが大勢で支えているからそう言う会社があるのだと知るべきだ。
法律でそれは縛れないし変わらない。続けられなくなるまで会社が間違いに気づくことはない。
辞めたいと思った時、その理由が自分の甘さや我儘さだけなのかもわからないから辞めれない。
そんな人を見ると社会に出るのが早すぎたと哀れむしかない。
2014年8月
恋人『のぞみ』との結婚も決まり結婚式を挙げる準備を進めていた。
連日招待状を送る先を書き込み、式場や旅行の準備を進めていた。
式を10日前にして母からの返事がない事に
縁を切ったとでも思われているのかと思い電話するもつながらず、最後に祖母が亡くなった時に母に教えたスカイプに目をやった
式の日程を書き込み返事を待っていると思わぬ答えが返ってきた。
母:「ごめんサイパンきてるから郵便物とか見てなかった」
私:「旅行?」
母:「膵臓癌になっちゃって余命2ヶ月しかないからやりたいことやってくる」
返答に迷った
帰ればいるはずの親だった。
構ってくれることはほとんどないが私がやる事に文句も言わない
理想の放任主義
しかしいて当たり前でいなくなることを想像したこともなかった母が死ぬ_
親孝行なども考えたこともなかった。
私:「いつ帰ってくる?」
母:「帰ってきたら友達にも会いに行きたいし行きたいとこもあるから」
母:「死んだらわかるようにしとくからその時は骨適当にどっか捨てといて」
私:「いや葬式とかいるだろ」
母:「それいらなくする為に先にみんなに会っとくから」
私:「俺とは会わなくていいの?」
母:「だからこうやって連絡してんでしょ」
いやいやいやいやそうじゃないだろ
いやこんな自由すぎる親だったおかげで今の私があるわけか。
こんなやりとりをしているところにのぞみが覗き込んできた。
「何お母さん死んじゃうの?」
「どうもそうみたい」
答えた後しばらくの沈黙が続いた。
そして私が先に口を開いた。
「熊本に帰ろうかな」
「仕事休むの?」
「辞める」
「はぁ?」
「親孝行しに熊本帰る。仕事はそのあとでまた探す。」
のぞみは現実的なことを口にした。
「無責任に辞めていいものなの?ていうか今の仕事辞めてどうすんの?」
対して私の言動はいつ思い出しても衝動的だった。
「仕事はいつだってできる。親孝行はいましかできない。」
「こんな仕事他にないよ?それに熊本なんて行きたくないし、言葉わかんないしめちゃくちゃ不便だよ?」
「外国語じゃないんだから慣れるよ。それに熊本でも仕事はある。」
「えっと、マザコンだったっけ?私とお母さんって言ったらどっちとる?」
私は考える間もなく答えた。
「もし君と離れたとしてもまた一緒になるチャンスはあるだろう
だけど親孝行するチャンスは人生で今一度だけしかない。」
「そんなチャンス来ないし、親孝行大事なのはわかるよ。私もお母さん大好きだし
けどね、人生棒に振ってまでやったら親孝行じゃないよ、わかってる?
仕事辞めて親孝行してその後いい仕事見つからなくて苦労したらお母さん喜ぶの?
それって本当に親孝行?ただの自己満足で終わらない?」
「親孝行は自己満足のためのものでしかないよ。後悔しないためにするだけのものさ
今君を選んだら僕は死ぬまで後悔するだろう
僕は独りよがりな選択をして、親孝行したんだって自己満足してこの先を生きていきたい」
「てそれまじで別れるって言ったら別れるつもりだったりする?結婚式来週だよ?
周りにもすっごい迷惑だよそれ、別に私別れたいわけじゃないんだけど
もう一回よく考えてみて、ほんとにお母さんが望んでるのか
さっきのスカイプもう一回見て頭冷やしてよく考えてみて」
私は母に頼らず身勝手に生き抜いてきた過去を誇っていた。
一人で生きてきたと思ってきた。しかし親が死ぬとわかっていて見過ごし、死んだあと骨だけ拾う
そんな事があってたまるかと、母は何もしてくれなかったのではない私が拒絶したわけでもない
母は何をしても私を縛らなかった理想の親だった。
恩返しと云えば仰々しいが何かしてやりたかった。
できなくても最後を看取りたかった。
毎年親の顔を見に帰っているのぞみが自分の親が同じ状況の時に同じことを言えるのか
もしそれであれば自分が死ぬ時もそう言う事になるのか
部屋の中で背中合わせに座ったまま私は答えた。
「一緒に来てくれないのなら別れよう。今から会社に辞表を書く。」
のぞみは顔を真っ赤にして私に結婚式場のパンフレットを投げつけ叫んだ
「自分勝手すぎない?こんなんでほんとに別れるとか言う?ほんとバカなんじゃない?」
結論が出てから私は思うがままに今後を決めた。
印鑑も押してあった婚姻届は結婚式にうつつを抜かし提出もしていなかったので
二人で端っこを持って破り捨てた。
そして招待状を送った相手を確認しながら別れましたという挨拶を速達でしたためた。
「最後の二人の共同作業・・・・」
「ケーキじゃなくて婚姻届が真っ二つ・・・ぷっ」
険悪な空気は手紙を書いている間に薄れ、いつもの二人の表情に戻っていた。
こんなこと言いながら二人の関係は楽しく終わった。
そして一緒に過ごす最後の夜に友達としての友情を誓い酒を酌み交わした
「二人は決して結ばれる事なく、以降お互いの生活に混乱を招かず
お互いが困った時に手を差し伸べる良き友人であり続ける事を誓います。」
そう言って乾杯した。二人で考え、何度も書き直したカンペを見ながら
2014年10月末日
私は会社を辞め、安寧の地を離れる事になった。
後任には掃除をしてくれていた友人が就き、社長や友人からの餞別を受け取り
のぞみからは
「私は別の男探して幸せになるから、私よりいい女見つけて連れてこい。そしたらwデートしよ。」
なんて事言われながら横浜を後にした。
二人で何度もデートした軽自動車に荷物を満載にして
二人で飼ってた愛犬と共に
どれほどの身勝手だったか
今後をどれだけの人が心配していたか
私の突然の退社にどれだけの人が尽力していたか
感謝に堪えない
親孝行って何をすればいいんだろう
その前に母はあれから連絡がつかない、今から帰っても日本にいるかわからない
それ以前に余命2ヶ月と言ってから2ヶ月が経っている。
母が死んでしまっていたら私は何のために帰るのだろう
そんなどうしようもない不安を抱えた勝手気ままな帰郷となった。
2014年11月10日
帰ってきてから一週間がすぎた
母の住所はわかっていたが母が居なかった
居場所さえわからなかった
母が既に他界しているという最悪のシナリオを思い描いていた時
母が帰ってきて第一声を放った
「なんで?おると?」
母は過去に知る姿ではなかった。痩せて小さくなりシワも増えており髪も真っ白だった。
「ただいま」
それだけ言って車を降りた。
望んでいなかった上に想像もしていなかっただろう私の帰郷を母は涙を流しながら迎えてくれた。
「おかえり」
21年ぶりに親子で食事をし、墓参りに行った
祖母や叔父が死んだ時私は葬式のために帰っただけだった
余命宣告を過ぎたもののまだ母は元気そうに見える。
数日間私は母の言いなりに母の友人宅を回っていた。母を隣に乗せて
そして横浜に残した友人の電話で忘れ物をしていた事に気がつく。
送ってくれると言うが母の元気?な姿を見て安堵したのもあり取りに戻る事にした。
2014年12月
最初の親子旅行
母に横浜に行くことを告げて準備し、買い物に出ると言った母を見送って戸締りし、
車に向かうと助手席にいるはずの愛犬がリアシートから覗いている。
違和感を覚えつつ車に向かうと
助手席を倒して母が乗っていた・・・・・
「なんで?」
「横浜何年ぶりだろか、中華街寄ってもらってよかね」
「いや途中車で寝るしもう若くないから1日じゃつかないよ?
それに荷物取りに行くから後ろで寝るとかも無理だよ?」
母は動じずにシートを起こした
「準備してきたけん大丈夫」
「何の準備・・・・・・」
親子旅行はこうして始まった。
これまで通過したことしかないサービスエリアで各地の特産物を見て
食べた事がないものばかりを口にしたゆっくりした旅になった。
楽しい時間を過ごしながら横浜に着き、友人や元同僚に母を紹介して回った。
なんてことない親子旅行
これが小さな何の変哲もない軽バンであっても冬じゃなけりゃ何の問題もない小旅行だった
冬じゃなければ
中華街で買い物をしたり横浜駅のそばに駐車し駅の周りをうろついたり
そして一泊して友人たちに見送られながら帰路に着いた
高速道路に乗ったその日、爆弾低気圧などという聞き慣れない天気予報の単語はスルーしていたのだが
新東名高速道路に乗って数時間、名古屋周辺で大きな橋を通過した時に突風に襲われた
「ぶつかるぶつかる!」
追い越し車線のトラックがミラーすれすれまで寄ってきた
今流行の煽り運転でなかったことはトラックが走り去った後すぐにわかった。
軽バンの後輪が空転し速度を落としながら路肩まで流された。
よろよろと走りながら辿り着いたサービスエリアは車でいっぱいだった。
しかたなく一泊する事になったのだが寝る準備する前に温かいコーヒーを買いに出た
車に戻ると母は助手席で寝袋にくるまって寝ていた
翌朝風もおさまり、気を取り直して出発
母は帰ったら友達との約束があるらしくちょっと急ぎたいと言っていた
半日以上を無駄にしたのでペースを上げる
休憩を最小限にして走れば余裕を持って着くはずだった。
予定が入っていたのは2日後だったのでそう急ぐ必要はなかった。
と思ってた時もありました。
高速道路が雪で通行止め
チェーン規制で高速を早めに降ろされてしまい一般道へ
広島県の見知らぬ道路で
まぁナビがあるしどうにかなると思った矢先に母がトイレに行きたいと言い出し
渋滞の先にコンビニがあるもののなかなか辿りつかない。
雪は降り積もり止む気配もなく車の進みは遅くなりついには止まってしまった
母は歩いてコンビニへ行き、その後運転を交代し私もトイレへ
しかし母が車を降りた時から私が戻るまで車の列は全く動いていなかった。
ラジオによるとトレーラーが国道2号線で立ち往生しているとの事だった。
行きは順調だった。高速から見える富士山を母は大喜びでスマホで写真を撮っていた。
横浜についてからは熊本での足取りの重さもなく以前と同じように歩き回っていた。
しかし、帰りの予定が大幅に遅れ、元々病人である母に氷点下の車中泊はこたえたのだろう
ようやく動き出した車からコンビニが見えなくなって数時間。
母の顔色は真っ青ではなく黒ずんできていた。
「お母さんの指ね、黒くなっとる」
そう母が言うまで私は気づかなかった
爪から関節一つ分血の巡りが悪く黒く変色していた。
暖房はつけているが深々と冷やされる。
「もう一回トイレ行きたいけど」
そう母が言った時あたりには建物も見つからない場所だった。
寒さでトイレが近くなっていた。私もそれは同じだった。
対向車が来ている。
先は見えないが道が通れないわけではなさそう
しかしいつ進むのか全く予想ができなかった
Uターンしようにも中央線には雪が積もり乗り越えられそうにない
近くにキャンピングカーでもいてトイレを貸してくれたらいいのに
自分がそう言う車に乗っていたら貸すかと言われたら微妙な事を都合よく考えながら車を降りた
その時数台後方で中央線の雪を削っている人がいた。
「もうこれ動かんで、戻って別の道いかな」
近づくとその人は独り言のようにそう口にした。
母のことを伝えると快く自分の車を置き去りにスコップを貸してくれて、一緒に私の車の横の雪をどかしてくれた
「戻ったら一個目の信号を右ぃ曲がり、そん先にガソリンスタンドがあるけぇ」
「ありがとうございます。」
無事にUターンし、ガソリンスタンドで母は窮地を脱した。
そして呉を目指し、海沿いに西に走ってようやく通行止め区間を超えて高速道路に戻れたのだった。
熊本に戻ってしばらくは母を連れて遠くに行くのはやめようと考えていた。
なにより余命はもうわからない。危険すぎる。
そんな心配をよそに母は楽しかっただのまた行きたいだのと子供のようにはしゃいでいた。
そして不穏な言葉を口にした
「秋田に玉川温泉って言って癌が治るって言われてる温泉があるんだって」
「そっかぁ、僕の軽じゃ無理な場所だねぇ」
「トイレがないとねぇ、それにやっぱり足伸ばして寝れないときついね」
「そうそう、軽で行ける場所ならどこでも連れてくけど秋田は無理だよ」
「玉川温泉はみんな車中泊しとるみたいだけどあんたは慣れとるでしょ?」
確かに横浜にたどり着く前に私は車で寝泊りも長いことやった
住み込みでない職場にも住み込みで働く事ができたからだ。
駐車場に止めた車ごと引っ越す事ができて仕事を変えるのも容易だった。
しかしそれはテントの代わりに過ぎないものだったし快適とは無縁でもあった。
母の暴走がここから始まる
「あんた貯金はあるとね?」
「あるにはある」
「車はずっと軽にのるとね、あんたキャンピングカー欲しいって子供の頃言いよったよね」
「今の車新車で買ってまだ1回目の車検うけたばかりだよ」
「ちょっとまた知り合いのとこに連れてってもらってよかね」
「唐突だねぇ、行こうか」
この時は母が何を言いたいのか分かっていても分からないフリをして適当に流していた。
昔世話になった朝倉自動車商会というお店だったのは確かだが母を知る先代の姿はないようだった。
そこはキャンピングカーを取り扱う板金屋さんだった
キャンピングカーの値段は高かった
貯金は300万、母があと300万出すと言ったが
それでも買える金額ではなかった。
「軽バンにトイレ付けたいです」
朝倉さんは一笑し、
「寝る場所も荷物置く場所もなくなりますよ」
「ですよねー」
「中古なら予算内があるかもしれないですね、まずお急ぎなら新車はどう頑張っても納車まで一年はかかりますが
中古ならお時間も間に合うかもしれません」
商売上手とは言えないながら的確なアドバイス
母のためとは言えもしも買えるなら自分の希望を入れたい
それはとても予算内では収まらない
無理とわかったら飛行機や鉄道で行く事に納得するかもしれない。
「バスコンでMTできれば6速、マルチルーム付きでシャワーとカセットトイレがないやつでできれば6気筒のトヨタ車で」
車中泊時代に乗りたかった理想のベース車両
ベース車の中古がまず予算を大幅に超える
他のマイクロバスとは次元が違う
万が一にも見つかったら全てを諦めて買おう
見つかるわけはないがもしあったら千載一遇の巡り合いだ
朝倉さんからの次の言葉は
「いきなりバスコンですか、マニュアルはキャンピングカーになってるのはないでしょうね
あと、キャンピングカーは基本的に予算を押さえるので6速や高出力はないですよ」
「ですよねー」
母が
「リーゼントのトラックじゃだめと?」
「ダメ、乗り心地悪いし遅いし荷物になった気分になるよ?軽とかわらないよ?」
朝倉さんからの
「いやいや足回り変えてあるのもあるからそこまでじゃないですしこの辺は予算内でたくさん」
私は頑なに理想を追い求め、叶わなければチケット屋さんで秋田までの旅行を企てる気でいたのだった
偶然、本当に偶然私が指定した通りの車が見つかってしまった
自己予算を少々オーバーするが官庁出の払い下げをベースにしたワンオフ車両
20年前から夢見ていた車がこの時点で18年落ち
母がもう一押しの一言を放つ
「国内旅行もっといっとけばよかったけどねぇ、もうこの体じゃ飛行機も電車もきつい
これで旅に出たら楽しかろね」
捨てようプライド叩き割ろう貯金箱
母が死んだ後どう生きるか、これまでと変わらない事をもう一度やればいいだけだ
「買うかどうかは車見てから決めよう、とりあえず車見てくる。」
家に帰るなり母にそう告げると私は広島に旅立った。
凍結した中国道を走っていると朝倉さんから電話が入った
「言うの忘れてたけど明日は広島のお店休みなので車見に行くなら明後日がいいですよ」
早く言ってええええええええええ
「寒いね、僕もう疲れたよパトラッシュ」
私は酷寒の中安芸の山奥でパトラッシュという名前ではない愛犬と休む事にした。
母が思い立ったら暴走機関車だったが
私もその母の子にすぎなかった
広島県の車屋さんは話を聞くなり全て込みで予算ちょうどを提示した
おかしいな、買えてしまう。
古いけど程度は恐ろしく良好
手直しまでしてくれる
バッテリー全部変えてくれる
「お母さん、俺貯金なくなるから旅費全部出してね」
電話口にそう尋ねると母は
「お母さんの貯金も使い果たす覚悟で旅行行こうか」
即金で買ってしまいました。
親孝行、したいときに親は居ず
親孝行適度にしないと人生詰む
なるようになりやがれ、宵越しの金はいらねぇって若ぇ頃に豪語してたじゃねぇか
やけくそで 親孝行を 言い訳に
夢を叶えて 文無しとなる
2015年2月
納車された車にはしゃぐ母
車用に様々な家財道具を買い漁る日々
母の友人宅巡りは母の息子と車自慢へと変わった
そして玉川温泉へ旅立とうとした矢先
冬は雪のため5月にならないと車では行けない事を知ったのでした。
母はそんな事お構いなしに、
「玉川温泉行けるようになるまで小旅行で練習しとこう」
とそんな感じで今日は別府明日は福岡、道中の温泉巡りを楽しんだ。
3月までに家にいたのは何日だったかという始末
慣れって怖いものでこの頃には距離感覚が鈍っており
母の頼み事の内容が
「お母さん今日は病院行くけどあんた暇なら明日おばさんにチョコレート持ってってあげたいから
ちょっと久山行って買ってきて」
ここ熊本県なんですけどー?
ちょっとコンビニがちょっとコストコになってんですけどー?
母はそんな人でした。
3月も終わりに近づき花見をしようと計画し、
母の容体もだいぶ回復したかに見えた頃、朝から母が起きてこない
母はベッドの横で倒れていた。
意識はあり救急車呼ばなくていいから病院に連れて行ってくれと頼む母
車が来てはしゃぎすぎたのか
楽しみにしていた旅行を目前にして緊急入院となってしまった。
病院では緩和病棟への入院を勧められた。
旅行の計画を伝えると、そんなこと考えるより親族を集めてくれと言われた。
一回でいい
母が行きたい場所のために偶然出会った理想の車
神か仏か知らないが、できすぎた偶然は中途半端な結末で絶望を味わうためか
母の退院予定を聞くと医師からは
「お気持ちはわかりますがお察しください。」
癌からの出血が止まらずもはや手術する事もできないと説明された
人は神も仏も信じていなくてもこんな時だけ頼る都合のいい奴の味方はしない。
事もない・・・・・
4月に入り秋田の雪解けも近い頃母の患部からの出血は手術もしていないのになぜか止まった
医師にも首を傾げられる不思議な状況をチャンスと母は友達と指宿旅行を企てる。
具合が悪くなった時離脱できるよう私も鹿児島で別行動する事にした。
すぐに向かえる場所で釣りでもしていようと
病院の警告を無視し無理やり退院した母と共に大分県中津市へ
友人と合流した母はそのまま大型バスで鹿児島へ向かう
私はそのまま福岡に向かい母が指示したものを買い鹿児島へ
鹿児島では何事もなく中津へ戻るというので私も母を迎えに中津へ
そして母は熊本には帰らないと言い出す。
「今しかないかもしれん。
このまま秋田まで行ってくれんね
途中で死ぬかもしれんけど死んだら棺にドライアイスいれて帰って
もし持たんようだったらどっか近くで焼いて骨にしてくれたら場所もとらんから」
「無茶言うなぁ、お母さんのっけて暗い山道は走れても死体乗せて夜道は走りたくないぞ。」
2015年5月
熊本に戻らずそのまま秋田へ
母がやりたいようにしよう反対はすまい
道中私の友人からバーベキューのお誘いがあったが
「ごめん今秋田向かって高速走ってる」
呆れられたが仕方ない、母を疲れさせないようこまめに休憩を取るようにし、この日は美東サービスエリアに泊まった。
これが楽しく過酷な旅の始まりだった。
この旅行に出る前に母は『旅のしおり』なるものを書きしたためていた。
旅行中行きたい場所や食べたいものがあってメモしているのか、
または予定でも立てていたのか覗き込むと抱きかかえるようにして隠し、決して見せてはくれなかった。
そして旅立ってからそれはスーツケースに仕舞い込み見ることはなく、それのことを私は気にもしなかった。
順調に高速道路を進み、秋田までの道中明石焼や近江牛などを食し日本海を臨みながら北上していった。
車内で自炊し費用を抑えながら母を疲れさせないよう3日をかけて秋田県に入った。
そして目的地近くなり道の駅鹿角で一泊した。
キャンピングカーで宿泊する他の車もあり、旅行が順調である事に安堵していた。
玉川温泉への期待を胸に車内に小さなかまどを置いて米を炊き、
ゆっくりと食事を楽しんで眠りについたのだった
道の駅かづのでの一泊を過ごしいざ玉川温泉へ
温泉の周りは山肌に雪が残り、5月というのに肌寒い。
ここが関東でも九州でもない事に感動を覚えながら風呂に入る。
ピリピリした肌への刺激が強く長時間浸かるのは避けたほうがいいと言われたのがよく理解できる。
風呂から上がり近くのキャンプ場で一晩を明かしに行く。
どこで車中泊すべきかなどの下調べもろくにせず場当たりで無料のキャンプ場にたどり着いた。
キャンプ場にはテントとキャンピングトレーラーがあるものの先客の姿は見当たらない。
軽く昼食を済ませ、湯治の計画を立てる。
ふきのとうを摘んだりしながら愛犬と散歩しゆっくりとした時間を過ごしていると先客が帰ってきた。
みな、癌の治療を目的に当時に来ていた方々だった。
見知ったばかりの方々との食事に母も会話が弾んで楽しそうだった。
そこで癌の治療目的の人は風呂に浸かるのではなく岩盤浴をするらしい。
下調べって大事だなぁと思いながら翌日岩盤浴しようとさっき立てた計画をいきなり書き換える。
母が膵臓癌で余命宣告を受けていてその宣告の日をとうに過ぎている事を完全に忘れ
一月くらい滞在しようと思っていた。
岩盤浴では大勢の人たちと話す機会があり、北投石や大吹など、活動する火山を感じながら
これから毎年こようと話していた。
吹き出す蒸気や岩についた硫黄、非現実的な光景が母の死が近い事を忘れさせてくれた
キャンプ場で知り合った人達とバーベキューをしながら談笑していた時
母が食事する手を止めた。
何も食べられなくなったと言い顔色は真っ白になっていた。
すぐに来るまで休ませるも心配になり、自前の道具だけを先に片付けさせてもらい車に戻ると
車内には血溜まりができていた。
下血だった
出血量は素人の私が見ても多く、一刻も早く輸血を必要とする事態であることは間違いなかった。
救急車を予防とするが山中で電波が入らない。
電波がつながる場所を聞きそこに移動する。
そして救急車が到着するが盛岡側から来たためそちらの病院へは時間がかかりすぎると言う
かづの更生病院が近いのでそこへ向かうと言うので私は救急車のあとを追いかける事にした。
かづの更生病院の看板は秋田に着いた時に目にしている。
大きな病院だったのでそこにいけばまず安心できるだろうと思っていた。
しかし救急車は山を降りた後知らないところにたどり着いた。
救急隊員の一言に少々驚いた
「すいません、無線で連絡は取れているのですがナビが古くて
以前はここに病院があったんですが今のかづの更生病院の場所がわかりません。」
そんなのあり?
しかし別の道に入った不安通り、私が先に目にしていたのが本物だ
ここからは救急車を先導する。言い訳してくれるという隊員を信じ気をつけながら信号を無視する。
救急車のサイレンに追われながら。
周囲から見たら完全に交通違反者
夜中でよかった
無事かづの更生病院へ着くと母が持ってきた病院に渡すCDが見つからない
口頭で膵臓癌であることなどを説明し、輸血を依頼する。
この一晩は長かった
担当してくれた医師から
「一時的に輸血で延命はできますが出血の度合いが分からないので親族の方を集めてください」
「旅行を続けると言うのは無理でしょうか」
「こんな状態でここまできてる事が奇跡みたいなものですよ!言い方は悪いのを承知で言えば
なんで旅行なんかしてるんですかあなた方は!」
ごもっともなお叱りを受けてしまった。しかもかなりお怒りだ
翌日母が医師を説得し、急いで熊本に帰ると言うと
先生はどこの病院に行ってもすぐに対応してもらえるよう紹介状を書いてくれた。
「青森ちょっと寄って行かない?」
病院を離れた時に母が口にしたのは能天気な一言だった。
しかし今回は下血が止まっているか不明でもあり、一度熊本を目指し一度病院に入り、7月に来ようと
秋田焼山を後にした。
帰りは太平洋側まで横断し高速に乗り途中休憩を挟みながら少しでも急いでの帰路を選んだ。
母に濃いヨーグルトを食べさせたりしてたら
「あんたが小さい時こうやってスプーンで食べさせよったよ」
「こういうお返しが親孝行ってやつなのかもしれないね」
ふと母の容体が緊急である事を忘れる瞬間が何度もあった。
そして突風にも大雪にも見舞われる事なく無事に熊本までたどり着いた。
熊本赤十字病院に入ると先生は驚きと安堵の混ざったような表情を見せた。
そして秋田土産に呆れた顔を隠さなかった。
5月も半ば、半月に満たない旅行で本州をほぼ縦断した事はしばらく母の自慢となった。
秋田から帰った母の手術箇所からの出血は医師に言わせれば偶然止まっている。
再手術ができない以上見守るしかないのだが母は相変わらずあちこち行きたいと言う。
私は自分が過去やりたいようにしてきた事を一切止められなかったように
母が行きたいと言うがままに車を走らせる。
7月にもう一度秋田に行くつもりで今度は綿密な準備をする
車に関しては電気が持たなかった
走行充電しかないため連泊するとバッテリーがもたない。
走れば解決するがそれは無駄な燃料費を予算に入れる必要が出てくる。
秋田で車中泊をしていた他の車は皆ソーラーをつけていた。
急遽朝倉自動車商会に向かいソーラーパネルをつける相談をする
6月に入ってすぐにそれは完成した。
トイレも小さいとすぐいっぱいになる上に処理できるところは限られていたので買い換えた。
そして母は7月を待たずもう一度秋田へ行きたいと言い出した。
病状が回復したわけではなく、偶然出血が止まったに過ぎない
しかし母に言わせれば7月になれば回復すると言う見込みがあるわけでもない。
母は最期の旅行である事を覚悟していた。
生きて帰るつもりがない旅行。
このご時世に冒険家でもないのにそんな旅に出る奴がいていいのか
医師には確実に止められるだろう。
医師には旅立ってから電話するという選択肢
病院でじっとして死を待つ最期は迎えたくないと言う母
家で死ぬのも旅行に行かなかった事を悔いながら死ぬ事になると言う
久しぶりに旅のしおりが机の上に置かれていた。
母は私がそれを見たのに気づきさっと隠す。
母を連れて行き一緒に帰ってこれる可能性はないわけじゃない
そう信じて母の意志を尊重し旅支度を始めた。
文字通り決死の選択
自分勝手で他人の心配を一切顧みない身勝手な死の旅行
そして身勝手をもう一つ
旅立つ前にどうしても会いたい人がいると言うので出発時に寄り道をする。
母の昔馴染みという鷲山さんという女性
鷲山さんは旅行のことを詳しく伝えられることもなく
久しぶりに会いたいという母の連絡に応じ私の車に乗った
母の車自慢を聞きながら走る車がどこへ向かっているのかさえ知らなかった。
どうも数日後に大事な用を控えているという事を聞いたのは
母が目的地と旅行日程を伝えた九州を離れしばらく走った頃の話だった。
なんだか大きな会議に出席予定だったそうだが諦めたように連絡を入れていた。
大事な予定を鷲山さんの帰還後にずらしてもらったようだった。
すごくご迷惑をおかけしました。関係者の方々もさぞ驚かれたことでしょう。
こんな迷惑の掛け方あるだろうか
いや、結婚式の中止で私もたくさんの人に迷惑をかけた気がする。
やっぱり親子なんだなぁなんて無責任な納得をする。
割とわがままな鷲山さんの注文に時折腹立てることもあったが
鷲山さんは母がこれから死ぬ事を知らない。
せっかく旅行に来たんだから楽しめるだけ楽しむ気持ちは間違えていない。
でも旅行に来てまで自炊してたら旅行の意味がないって言われても
車の改造やここ最近の贅沢で母の予算も残り少ないので全ての希望に添えるのは無理もあった。
なぜ母はこんな人を連れてきたのだろう、二人だったらもう少し自由だったのに
なんて事を思いながら車を走らせ、今回は太平洋側から高速道路で岩手県まで北上し、盛岡のスーパーで食材を買い込んだ。
150リットルのクーラーボックスいっぱいの食材は何日分あるのだか
道中別の温泉に入ったりもしながら
ナビだけに頼らずしっかり下調べした道を走り順調に秋田に着いたのだった。
初日はキャンプ場でゆっくりしてから翌日玉川温泉に向かう事にした。
前回とは顔ぶれが変わってもいたが見覚えのある人もいた。
そしてこの日の夜、目的地を目前にして母が倒れた。
前回救急車が来るまでにかかった時間を考えると直接病院に向かったほうが早い。
エアサスの恩恵もあり救急車より乗り心地は悪くない。
鷲山さんの看護の元病院へ急ぐ。
盛岡の病院を目指そうとしたがどうもナビの様子がおかしい。
新調し、異常などなかったはずのカーナビが示す目的地は盛岡の病院
向かっているはずなのに自車位置が逆に向かう
なぜそんな事が起きたのかわからないがカーナビの画面を動かしながら知らない病院へ向かうのは
一刻を争う時に狭い道なんかに入ったら取り返しがつかない。
カーナビをかづの更生病院にセットし直す。
Uターンしてかづの更生病院に向かうとカーナビの異常は治った。
病院に着くと母は立ち上がることはできるが歩くのはおぼつかなかった
病院の車椅子を借り、母を処置室に運び込む。
鷲山さんはこの時初めて母が膵臓癌である事を知った。
私は鈴木先生にこっぴどく叱られた。前回も対応してくれた医師だった。
たまたま当直でいたわけではない。呼び出しに応じて来てくれたのだった。
「輸血は健康な方が健康になって生きていけるように分けてくれた貴重なものです。
それをなんだと思っている!死ぬとわかっている人にどれだけ使わせる気だ!」
ひどい言い方だと思う人がいるかもしれない。
しかし母も私もこの言葉の意味はよく理解しているしこれに腹を立てる道理はない
鈴木先生の言葉は正しく、我々が身勝手なだけに過ぎない。
母の我儘のため、私の自己満足のために貴重な輸血を無駄にしてしまった事を悔いはしないが
献血で分けてくれた人たちのことを思えば非常に申し訳ない行いであった。
鷲山さんの貴重な時間の犠牲は、母が万が一風呂場で倒れたりした時に対応してくれる人がいればという
これまたものすごく勝手な考えによって作られたものでありもうこれも謝罪の一念に尽きる
翌朝、母は輸血が続いており身動きが取れなかった。
長い距離を歩くのは無理がありそうと言っていたので車椅子を調達した。
そして病院で待っていても仕方ないので連絡を待つ事にして
せっかく来たんだから目的地を見に行こうという鷲山さんと玉川温泉に向かった。
「せっかくきたけどあなたのお母さんはこの景色が見れないんだね。」
「車椅子も買いましたし、必ず連れて来ますよ。」
「このまま終わりじゃないだろうか。」
鷲山さんの不安な予想は外れてはいない。
その終わりが来る予定だった日はとうに過ぎていたのだから
今回の母の下血は時間はかかったもののどうにか止まった。
しかし鈴木先生は旅行の継続を良しとしない。
親族に看取られてベッドで死ぬのを母が拒否し
すぐに熊本の病院に向かうという約束をして病院をあとにした。
出発してすぐ母が
「どこに向かいよると?」
「熊本」
「せっかくここまで来たんだけんいっぺんでよか、10分でよかけん岩盤浴連れて行って」
母は生きて熊本に帰る選択肢を放棄していたのかもしれない。
祖母の死、叔父の死、父の死の際にも流れなかった涙が私の目に溜まった。
引き返して車椅子で母を岩盤浴場へ運ぶ。
本当に幸せそうだった。
「もういつ死んでもよか。」
私が覚えている子供の頃の母に笑顔はなかった。
私が帰ってから見せた母の笑顔の中で
この時の笑顔が一番嬉しそうだった。
しばし岩盤浴を楽しんだ後、温泉に行くという母の申し出を受け入れた。
鷲山さんが付き添い、私は車で待ちながらいろいろなことを考え不吉な予感を振り払っていた。
戻って来た母は笑顔だった。
しかしこの時、嗅いだことのある嫌な匂いが漂っていた。
新丸子で失踪者の荷物の片付けをしていた部屋の中に実は失踪していなかった人を見つけた時
簡易宿泊所で部屋から出てこない事を不審に思って部屋を開けた時
今回は母からその匂いがしていた。
「お母さんまだ死んじゃダメだ、熊本に帰ろう。」
母は自分の匂いに気付いてはいなかったがすぐに言った言葉が
「これでできるだけいっぱいお土産買って来て。」
「誰に渡す分?」
「後から考えたらいいからとにかく買えるだけ買って来て。」
母自身が熊本に帰りつかない嫌な予感を覚えながら両手いっぱいの土産を買って
熊本への帰路についた。
途中母はいろんなところに電話していた。
「今秋田まで来てる。もうすぐ帰ってくるからね。帰ったらまた遊びに行くから。」
気力回復のためについた嘘、この時電話を受けた誰が母がもうこない事を予想できたというのだろう。
血圧計を付け、鷲山さんに定期的に母の血圧を教えてもらう。
“帰る約束”をした後血圧が上がる。
効果的な自己延命処置
しかし帰り着かなければこれは悲しみを深めてしまうだけの行為。
高速に乗りつい速度を上げてしまう。
母の血圧は鷲山さんの読み上げで上がったり下がったり
そして血圧の幅が徐々に狭くなっていった
福島県に入りサービスエリアで母がトイレに行くと言い出した。
車内のトイレは狭い。車椅子の準備をしていると母は勝手に車内のトイレに向かおうと立ち上がり
尻餅をついた。そしてガタガタと震えだした。
震えがおさまった時母の目はもう焦点を捉えてはいなかった。
どうにか母をトイレまで連れて行ったのだが
何も食べていなかった母がトイレに行くと言った時点で下血だった。
母は譫言のように繰り返していた。
「これでよかった。」
「何がよかったんだ、熊本に帰ってから言え。」
「ありがとうね、最後に迷惑かけてしまってごめんね。」
「最後じゃねぇ、ガキの頃押してもらった乳母車の恩を車椅子押して返してるだけだから迷惑じゃねぇよ。」
「もう救急車呼んだら病院から出られんだろうね。熊本帰ろか。」
「帰り着いてゆっくり休もう。」
「本当に良かった。これで良かった。」
車椅子から立ち上がる事もできなくなった母を抱き抱えて座席に運ぶ
筋肉の感触がない、皮膚の下は骨と水だけのようだった。
鷲山さんが母の手を握り元気付ける。
熊本まで母の命がもちますように、祈りながら車を走らせた。
時折母に声をかけていたが次第に返事が小さくなる。
鷲山さんが母の状況を教えてくれる
「指で丸ば作っとらす。大丈夫じゃろ」
「血圧はいくつあります?」
「83の78」
「おいおっかさん!生きて熊本帰るんだろしっかりしろ!」
「だめばい、指ば握り返しならん!」
「帰るって約束した人たちに会ったらなんて言えばいいんだよ今死ぬなよ!
鷲山さんの手もう一回握ってくれ!」
「いごきならん」
最初に見えた高速の出口から降りてすぐ救急車を呼ぶ。
母は冷たく、この時すでに硬くなり始めていた。
救急隊員さんたちは手早く母を車外に出し、心臓マッサージを始めた。
南東北病院で心配蘇生を試みてもらったものの母の意識が戻ることはなかった。
2015年6月13日
母は永遠の眠りについた。
鷲山さんは予定をずらしてもらっていた会議の事もあり、空港まで送った。
「ありがとうございました」
「残念じゃったね、でも喜んどんなはるよ。よか旅行だったたい。」
「ありがとうございます。予定のほう大丈夫ですか、本当にご迷惑おかけしました。」
「しょんなかたい、帰ったら会議の遅れたつば説明せにゃんけん、どぎゃんしよかね」
飛行機代を母の財布から抜き取って渡し、鷲山さんを見送った。
その後母を熊本まで連れ帰るため、エンバーミングを依頼したが、母の状態は悪く
気温も高くなっていたので母の遺体は破裂の危険があった。
やむなく相模斎場にて簡易な通夜と葬式を行い、福島県内にて火葬する運びとなった。
通夜は母のいない祭壇だけの部屋で母は冷蔵庫に入れられた。
この日、愛犬が母の安置された建物の入り口で
数分間上を見上げたまま目を閉じて動かなかった。
まるで黙祷を捧げているかのような光景だった。
翌日簡単な葬儀を行い、棺に入れる前に母に装束を施した。
傘を被らせ手甲脚絆を付け六文銭とおにぎりを持たせ杖を傍に入れた。
熊本ではみない葬儀であり、まるで旅立ち
旅行好きな母だった。母は最後の旅立ちに相応しい姿で棺に納められた。
火葬場にて荼毘に付された母は小さな箱となった。
最後の親子旅行に無事帰還のシナリオは無かった。
箱に入った母を助手席に、無言の旅は続いた。
熊本が遠かった
岡山で就職していた横浜で知り合った友人が熊本に遊びにくるとの一報があった
5月の旅行中に合流し、母とも顔を合わせていた事もあり母を偲んでくれた。
熊本で友人と会う約束に気力を取り戻し、箱に入った母に語りかけながらの旅が続いた。
熊本にたどり着き母は無言の帰宅
母と暮らした家がやたら広く感じて家に入ることができなかった
そして岡山から来た友人永光氏と1ヶ月ぶりの再会
誰にも会う気が起きず車内から出ることができなかった私に
向こうから会いに来てくれた永光さんは悲しみを忘れる助けとなった
紹介したい人がいると言うので一緒に食事をすることになったのだが
光永さんが電話でその人に私の話をしていた時、奇異なる言葉があった
「親子旅行で秋田から帰って来たばかりでまだ疲れもあると思うから
ゆっくり一緒に飯でも・・・」
言いかけた永光さんの言葉を遮り
「お母さん連れて秋田に行ってお母さんが亡くなったって話ですよね、
その話知っています。」
道中かづの更生病院の鈴木先生には感謝の電話を入れた
後どこにそんな話してたっけ
永光さんの知人とは私は面識がない。
その後永光さんと夕食を共にする約束の時間までの間
知る限りの母の友人宅をまわり手を合わせてもらった。
そして母の荷物を下ろしていた時、旅のしおりを見つけた。
そこには旅行計画など書かれてはいなかった。
行きたいところも見たいものも書かれてはおらず、
自分の死後、変死にならないように警察宛に書かれた文面
死後に実家の墓に入らないということや、死後の手続きなど
火葬まで終わった今となっては杞憂でしかなかった母の不安
死ぬ準備だったが死そのものが旅行に織り込まれていたとすれば
確かに旅のしおりと呼べるものだったのかもしれない。
遺産のありか書いとけよなぁとか思ったがすっきり無かったので却って楽だった。
一通り車を片付け、永光さんと約束した店に向かう
永光さんの紹介で出会った人は、私たち親子のせいで予定をずらされた
鷲山さんが参加した会議の参加者の方の息子さんだった。
世の中にある偶然、不思議な巡り合わせもあるものだと思った。
母の死後、私は一人孤独に車一つを財産に住むところもなく放浪している。
20代の頃のように職場に車を置きそこで暮らしながら働いて収入を得る。
寮のない会社に住み込みで働く暮らしは昔と変わらない。
昔と違うのは車が広くなったことくらいか
実家があった10代
熊本を飛び出し風天の生活を送った20代
横浜で安寧の暮らしを貪った30代
そして再び風天の車生活となった40代現在
できる事を探しながら後悔のない気ままな人生を送っている。
人生を何度もやり直しているのでいい暮らしとは言い難い。
一つの人生で幸せを追い求めたほうがいい暮らしができるだろう。
美化して話を聞く人がいるがそれは誤りである
私がやったことは自己満足のためのものでしかない
親孝行のための選択肢を警告する人が予想した状況が今なのだろう
私は最初からそれを覚悟していたので問題はないが多くの人はそうではないだろう
誰が聞いても“いい話だね”で終わるのが私の自己満足の完結なのだ。