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エピローグ

 エピローグ

 

 オーガスタ=エイダ=ラブレスには一風変った性癖があった。

 アナルファックが好きだったり、食糞趣味がやめられなかったりと、人には一つくらい、おかしなところはある。インダストリアルな産品であれ、全てが全く同一ではない。あくまで商品価値を失わない程度の個性――誤差として処理されるだけだ。だから、人間ともなれば十人十色になるのは必然といえる。

 彼女の性癖はとてもではないが、ひとさまにいえたものではなかった。

 実に変態的だった。なおかつ、実にきもいものだった。そして、そのきもさは本人が一番よく識っていた。だからこそ、バベッジのいない時間を選んでことに及んでいる。 

 彼女はひたすらにチラシの裏っ側にエンピツを走らせている。針のように尖っていた先端がぐんぐん磨り減り、その代わり、またたくまに紙面に現れるノード木。その姿は、ユダヤ密教に登場するセフィロトの大樹さながらだった。枝にぶらさがったノードのいくつかを選び出して、黒く塗り潰す。

「うふふふ。うふふふふ」

 奇怪で気の触れたようなものがあげる笑い声を口からダダ漏れにして、猛然と塗り潰したノードとルートノード間の距離を数え始める。

「Σ、Σ、Σ……」

 塗り潰したノードの数と各自ノードの持つ距離を上記のクラフトの方程式にあてはめた。laに距離を代入、あとはノードの数だけそれを繰り返すのだ。個々のaの答えをΣに従って加算する。

 求められた計算結果は、1.17だった。

 彼女はケケケと奇声をあげた。

「プレフィックス符合、失格! 失格!」喚いた。

 親の仇のごとく、自分で描いたノード木を指差してせせら笑う。口腔から溢れ出て、ガラステーブルに壮大に唾が飛んだ。サウナのごとき部屋はくそ暑く、額には玉汗が浮かび、頬骨へと際限なく伝っている。が、そんなことは気にしない。

 喚き散らすと落ち着いてきた。

 よし、次だ。次は、テキトーな表を書いて、MD復号した場合のビット誤りの確率を求めるのだ。さらにクールダウンする為に必要なのだ。

 エイダはイライラが募った精神状態にある場合、単純な情報理論の演算をするのが癖であった。学生時代から、イヤなことがあれば、こうして計算してきたのだった。

 数式を解いていると、心持はクールダウンするどころか、むしろ熱くなり、胸が躍っているのを感じた。全身の毛が逆立ち、毛穴という毛穴が拡大している。

 たまにはクラシックをやめて、流行ポップスを流している所為もあるかもしれない。丁度頃合を見計らったように、切り口上にも似た旋律が耳へとやってきている。

 一応これはラップなのだろうか、しかし、エミネムのようにその歌詞や歌い口にバイオレンスさは少しも感じられない。アメリカ発の黒人音楽は何だってそうだが……ゴスペルだろうと、ジャズだろうと、どこかに抵抗の声がある。もっとも、エミネムはコーカソイドなのだが。それに、流行というには、このポップス――ちょっと旧いか。

「おい……」

 肩を叩かれた。

 自分の肩を叩く人間なんて、今のところ一人しか思いつかない。チャールズ=バベッジ。こいつだ。

「うわあああ! 見たな! 見たなぁ!」

 ぎゅるんと音がしそうなほどの速度で肩を叩いた人物――バベッジを見た。彼は見るからに変ちくりんな顔をしていた。口の端が引き攣り、ぴくぴくしている。エイダは彼の仕草を憫笑であると取った。

「見たけど……ね」

 素早くチラシをくっしゃくっしゃにして、やおら屑篭へと放った。重力に引かれて放物線を描くには描いたが、残念なことに暴投だった。縁にかすりもしやしない。むなしく真紅色のカーペット上に落ちて転がった。

「と、ところで――バベッジッ!」

 紅潮する頬を隠しながら、エイダは叫んだ。

 唐突に怒鳴られてしまい、バベッジはたじたじだ。一歩後退すると、目を白黒させた。彼の反応は至極まっとうだった。

「何だよ。いきなり」

「どどど、どうして私がこんなことになってるのか、解ってるんでしょうねッ! 解ってるんでしょうねッ!」

 憤懣やるかたない彼女にバベッジは首をかしげただけだった。その態度がますますエイダを怒らせた。

「いや、さっぱりだよ……」

「預金通帳。この残高はいい」

 通帳をガラステーブルに投げた。今度は上手い具合に天板に載った。

「ふむ……」

 預金通帳に続いてエイダが取り出したのはびっちりと小難しい日本語が書かれた紙束。甲とか乙とかいう文字が特に目立つ。むんずと、それらをバベッジの胸元へと突き出す。「これに見覚えは?」

「ある」

「バーーーーベッジぃぃぃ!」

「だから、何なんだよ」

「何で、そんなに平然なんですかね、あんたは!」ばっしばっしと紙束を叩く。「借用書! これ、借用書だから」

「そうだねぇ」さも当たり前といわんばかりである。それがどうした? とばかりに顔色は変らない。

「借主があんたなのはいい。でも、何で保証人の欄にオーガスタ=エイダ=ラブレスと書いてあるわけ?」

「俺たちは運命共同体だ。それに、この国は印鑑社会でね、江戸時代はサインだったのに不思議だよなぁ。――でも、苦労したんだぜ? ラブレスの四文字をちっこい印鑑に入れてもらうのは……」

「はぁ?」もはや、エイダの綺麗なかんばせは、鬼の形相に成り代わっていた。それでも、バベッジは泰然としている。彼女は続けた。「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな」三回も言ってしまった。

「サービスは上手くいってると思うんだ」

「どこがよ?」バベッジを睨みながら、エイダは少しだけ矛を後退させた。「――このまえリストランテに連れていってくれたわね?」

「ああ」

「てっきり、纏まったお金が入ったからだと思ったのよ。メヌーはペッシェだったけど美味しかった。プリモピアットもパスタシュッタだったけど、なかなかだった。私はピッツァの方が好みなんだけれど……」

 バベッジは笑顔になった。自分がチョイスした料理屋を褒められて嬉しいのだろう。意外と厚い胸板を逸らした。ジョリジョリと剃り残しのヒゲをかきあげる。

「だろう? あそこは二つ星――」

 バベッジは最後まで言葉を言えはしなかった。エイダが大声を張り上げて、彼の言を遮った所為だ。

「バーーーベッジぃぃぃ!」

「だから、何をそんなに怒っているんだい? もしかして、月の……」

「このオタチンのトーヘンボクが!」一旦言葉を区切る。「you the fuckin’ fuck, fuck your fuckin’ mother ass hole!」ぜいぜいと肩をいからせて、さらに言い募る。「testa di cazzo, porco di puttana!」ズレてしまったやぼったいメガネを直す。「ハァハァ……で、この借金は? なんで金を借りる必要があるわけ?」

「そりゃ、βテストだから……。収入は……」

「ほう……」悪意がやたらめったら篭った歯軋りを二回。ぎっち、ぎっち。「あんたは――いったい、どこのオンラインゲームの会社のプレジデントなんだろうねぇ……。残念なことにね、世界の金持ちランキングに入るお兄ちゃんは、あんたにはいない」

 遂にバベッジの襟首を掴んだ。ぐいっと引き寄せるが、身長差があるので下方へ引っ張るかたちになってしまう。ただでさ、皺だらけの汚ったないアルマーニのシャツが、ますます汚くなった。

「――エイダ」

「βテストとサービス開始は違うでしょうッ!」

「まあ、いいじゃないか。俺たちはフェイクの色々な姿――いや、フェイクと人の関係性かな。見聞したんだ。何事も経験だよ。それでオールオーケーさ」

「全然、よくない……」

「俺は識りたかったんだ。とっくの昔に知性を求める人工知能研究は頓挫して久しいけれど、やっぱり夢があるからね――」

 いつのまにやらバベッジのペースになっている。彼は訥々と語っている。

「むぐ……」

「結果を言えば何も解っちゃいないんだがなぁ。チューリングテスト自体が何なのか――と言うか、知性の定義こそが曖昧だ。本当に知性があるのかどうかすら、誰も証明できちゃいない。哲学の領分だと人はいうだろう。しかし、本当にそうだろうか? 哲学なんてのは、社会的落伍者の放言に過ぎず、だからこそ――」

 ダメだ、こりゃ。エイダは頭をかかえた。

 この男はコンニャクだ。

 現代の技術では、つぶつぶのない綺麗なコンニャクだってつくれるのに、あえてそれを日本人はやらない。できるのに、やらない。そして、コンニャクはルパンザサードの相棒の一人――五右衛門の斬鉄剣でも切ることができないのだ。

 エイダはこれ以上の追求を諦めた。バベッジの漫談に耳を貸す気もさらさらなかった。だから、フランツ=シューベルトの交響曲第七番をかけてやるのだった。耳にうるさいほどの大音量で、だ。

 襟首の拘束を解くと、バベッジは襟足を整えてから言った。「未完成から始める物語ってのもオツだぞ」

 この男、こちらの意図を全く理解していない。βテストなんかしていることを皮肉る為に流したというのに……。

「バーーーベッジぃぃ!!!!」

 勢いよく机を蹴った振動で通帳がめくれた。最後のページに記載された残高は、あいも変らず五円だった。憎たらしい五円め。二度と賽銭箱に、あのくすんだ金色の穴空き硬貨を投げることはないだろう。

 交響曲第七番『未完成』は暑苦しい室内にオーボエの音色を響かせていた。

 そういえば、オーストリア映画に『未完成交響楽』という作品があって、その中のに「私の恋の終わらぬように、この曲も終わらない」という科白が出てくる。エイダはそれを胸中でもじった。

「私の悩みが終わらぬように、給料未払いも終わらない」……なんてね。

 

 了


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