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ケーススタディ三 星になった少女

 ケーススタディ三 星になった少女

 

 一

 

 薄い膜の向こうには何があるのだろう。

 空はどこまでも拡がっているような気がするけれど、実際はとてもとても薄い皮膜の中でぼくたちは生きている。空の果ては結構近くにあるもんだ。

 地球からすれば、大気は皮膚のようなもの。それも皮膜だ。膜というレベルに過ぎず、あつぼったい足の皮とは違う。

 ぼくらは皮膚に湧いた微生物。

 生存圏のすぐうえには、電離層やら成層圏やらがあって、そこには生命は棲めない。熱圏までいくと宇宙はすぐそこにある。

 人間なんてちっさい。

 個人はもっとちいさい。

 仲間もくそも――あったもんじゃない。

 ガイアは笑わない。地球は――神様じゃない。ゆりかごでもない。赤子のために、子守唄は決して歌わない。

 何も語らず、何もせず、ダークマターのうえに浮いている。

 それこそ――どこが終点か解らない宇宙の中にぷかぷか、漂っているのだ。

 月のうえには――ニール=アームストリングの残した足跡がいまもきれいさっぱりと、残っている。

 

 That’s one small step for a man, one giant leap for mankind.

 

 『これは一人の男の、ひとつのちいさなステップだ、そして、人類のための偉大な跳躍だ』と彼は言ったのだ。

 彼はどんな気持ちで、この言葉をいったのだろう?

 ぼくは彼じゃないから、識らない。

 すこしだけ思うのだけれど、彼はちょっとだけ傲慢だったんじゃないかな、と感じる。だって、自分が偉大だって吹聴してるじゃない?

 まあ、彼は初めて月面に至った人間だし、偉大なことは偉大だ。それは確かで、疑いようのない事実なのだけれど。きっと、彼に憧憬をいだき、アストロノートになろうと思った人もそれなりにいるのじゃないかな。

 月に彼の足跡が半世紀近く経っても残存しているのは、月に大気がないからだ。

 大気のない場所はそうそう風化しない。着陸船もさび付いたりしない。人類が滅んでも永遠に近い時間を、そこに刻み続ける。億年後の未来に――誰かが見つけて、首を傾げて、それから、笑うかもしれない。

 人類のことを異星人に伝えんとした、ヴォイェイジャーのゴールデンレコードはいまごろ、宇宙のどこをさまよっているのだろうか?

 一番近い恒星までの距離は四万光年。

 それまで人類は跋扈していますか?

 タイムマシンでもないと解らない。そして、ゴールデンレコードそれ自体がタイムマシンみたいな――いや、タイムカプセルだ。タイムカプセルは時間のとまった世界を、時間の流れている世界へ届ける。

 ゴールデンレコードにはいろいろなデータが封入されているけれど、そのなかには、いくつかの死語が含まれている。

 アッカディアン、スメリアン、アンシエント=グリーク、リングァ=ラティーナ。全部、ヴォイェイジャーが飛んだときには死んでいた。誰も喋らない。パピルスと粘土板と石版と――衒学する人だけが語る。そんな言葉。

 英語も日本語も収録されたが、果たして、四万年後に誰が喋っているだろうか?

 列島が四万年後の世界地図からなくなっていても、ぼくは驚かない。なにが起こるか解らないのが世の中で、一寸先は闇――とはよくいったものだ。

 言葉は流転する。

 

 thy ilcan drehton tha hergas on Eastenglum ond on Norðhymbrum Westsexna lond swiðe be thaem suðstaeðe mid staelhergum, ealra swithust mid thaem aecum the hie fela geara aer timbredon.

 Alfred’s War With The Danesより

 

 現代英語にすれば、

 

 In the same year the Danish armies in East Anglia and in Northumbria much harassed the land of Wessex along the south coast with plundering bands, most of all with the warships which they had built many years before.

 

 全然、違う。似ても似つかない。

 ゴールデンレコードを拾ったエイリエンは、人類に――どんな感慨をいだくのだろう?

 この問いはきっと、とても考えても詮無いことなのだろう。

 ドレイクの方程式や、フェルミ=パラドックスを持ち出す人がいるかと思えば、その裏っ側では、SETI――Search for Extra-Terrestrial Intelligenceというプロジェクトも大真面目におこなわれている。この計画の名称を直訳すると、『地球外知性の探索』だ。

 SETIは電波望遠鏡が受信した電波を解析したり、素数――自然界に素数の連続は存在しないという同意のもと――を発信したりしている。いまのところ、成果らしい実績はなにもあがっていない。

 それでも――とぼくは思う。

 哲学的な問題を考えるよりも、ずっとずっと現実的な命題なんじゃないか? って。

 人は、ふだん、すごく卑近なことばかり考える。

 ルワンダ内戦は遠い国のお話でしかなくって、何万人が死のうと、日本人は気にしない。アフリカの小国がどうなろうとそんなことは関係ないのだ。

 アメリカがおかしくなったら、それは大事だし、北朝鮮がテポドンを飛ばすのも大問題だ。されど――そのテポドンにしたところで、東部ユーラシアから離れたエウロパイキー(欧州人)には、たぶん、どうでもいい話なんだ。USAがでしゃばるのは、既得権益。そして、正義のため。利のないところに人は行かない。

 ニグロの死よりも、ニッシンのカップメンが99円よりも高くなることの方がずっと問題で、重要なのだ。ぼくだって――そう思うもの。

 そして、エイリエンの問題はそれらのどれからも離れている。

 目の前にあるのは果たして本当にリンゴか?

 あなたは夢を見ていて、何もないのではないか?

 実は世界はどこかのコンピュータ上のシュミレーションでしかなくって、あなたの幸せも苦痛も、情愛もすべて、ゼロと壱で記述されているんですよ?

 そんなの――答えはでない。

 政治的なこと、宗教的なこと、現実生活のこと、未来とか夢とかいう建前で装飾された将来のこと、そんなこととは一線を画した場所に、宇宙はある。だから、ロマンがあって、太古から人間は空ばかり見てきた。

 スメル人の主神はアンという。空もアンという。

 中国神話では、神様の名前がない。天、という。

 たいていの神話はいつも、空と海の創世から始まる。

 空への憧れは、人に鋼のツバサを与えた。

 ぼくは、イカロスになってもいいと思う。太陽に近づけるのならば――そのあとに墜落死が大口を開けて待っていても、ぼくはきっとためらわない。もちろん、蝋でツバサを作ったりはしないし、そのんなもので空を翔ることなどできないのは百も承知だけれど。

 兵器だったV二号の後裔でガガーリンは地球が青いことを知らせてくれた。

 人を殺す飛翔体が、人のロマンを乗せる箱舟になる。とても――素晴らしいことだって、ぼくは思う。

「とばしますか」

 ぼくはコンクリブロックから腰をあげた。

 きょうは考えごとをし過ぎた。

 すっかり身体が冷えている。ぶるっと身震いをした。それから、砂粒のついたズボンをおざなりにはたいた。

 嘱目するは、大海。月が照らす群青色の水面(みなも)

 寄せては返す潮。潮騒が間歇的にやってくる。

『えっと、次のリクエストです』

 ラジオの音だ。

 コンクリブロックのわきっちょには携帯式ラジオがある。ノイズまじりであまり電波状態はよくない。

 夜間の浜には誰もいない。誰もいないのは別にいいのだけれど、潮の音色しかないのはどこかわびしい。だから用意したラジオだった。

『東京都にお住まいのアメンボさん。グスタフ=ホルストの惑星組曲から金星、平和をもたらすもの、です』

 珍しい。リクエストにクラシックとは。

 しかし、おあつらえ向きじゃないか。

 だって、ぼくはこれからロケットを飛ばすのだ。

 とはいっても、まさか宇宙まではとどかない。なんてことはないモデルロケットだ。でも、数年前からすれば格段に進歩しているのは確かなのだった。

 砂浜に立てかけた発射台へとぼくは向かった。

 

 

 二

 

 宇宙少年団という組織がある。

 ぼくがその集まりに参加したのは、宇宙が好きだったわけでもなく、ロケットが好きだったわけでもなく、単に父さんの知り合いの進めだった。ちっともノリ気じゃなかったし、だったら家でゲームでもしていたいと思うのが本音だった。

 父さんに車に乗せられたときは――けっこう、憤慨していた。お気に入りのRPGの世界に耽溺していたのに、それを中座させられたのは幼いぼくにとって、恨みと怒りをいだくに足る十分な理由として機能した。

 入団式に際して、ぼくは宇宙服のスキンタイトみたいな団衣をもらった。衣装は黄金色に輝いていて、なんだかケバケバしいなと感じた。

 更衣室で着替えてから参加する手筈になっていた。

 入団式に参加しているのは中学生が多かった。もしくは小学生。ぼくは小学六年生だった。そして、大方の予想はついていたのだが、ほとんどが男子だった。丸刈り頭がパイプ椅子のうえに整然として並んでいるのが滑稽だった。

 オトコノコばかりの理由には、おおよその見当がつく。

 女子というのは星占いは好きなくせに、実際の星の問題になると凄くシビアな見解を持っている。

「あんなの石ころでしょう?」

 そう言う。

 ぼくも――ぶっちゃけ、そう思っていた。

 でっかい石ころ。

 宇宙空間をぐるぐると回っているでっかい石ころ、そんな風に思っていた。たまに、地球につっこんでくる危ないヤツ。木星がガス惑星で、ちっとも石ころじゃないことなんて、識らなかったのだ。

 パイプ椅子に座って、大人たちのお話を聞いた。

 壇上には土星をかたちどったと思われる団旗がさがっていた。

 肝心の講演の内容はあまり憶えていない。

 憶えているのは、松本零士がいたことだった。

 彼は宇宙少年団の顧問だか、なにかだった。『戦艦ヤマト』の作者だから、適任かとは思った。しかも、彼は団誌にもたった二ページだけれどマンガを描いていた。哲夫っぽいキャラクタとメーテルっぽいキャラクタが果てることない問答をしていた。

 トレードマークの帽子を被った老年の漫画家。

 彼はサインをよく描くといわれていて、新しい団員の人数分だけサインを描いてくれた。それをもらったぼくはそこそこ嬉しかった。そこそこであって、かなり嬉しかったというのとは程遠かった。

 世代的に鳥山あたりだと小躍りしたと思う。

 だけど、漫画家のサイン色紙なんて始めてもらったし、実際のところ、『スリーナイン』も『キャプテンハーロック』も読んだことがなかったけれど、そんなことはまったく問題がなかった。大御所のサイン――それは金糸玉条のようなものだった。

 ノリ気ではなかったぼくだったが、式が終わってからはけっこう、ノリノリだった。気分がハイだった。宇宙へも行けそうな気した。馬鹿な十二歳がそこにいた。

 そして、ぼくは同期入団の一人が女の子であることに気付いた。

 すぐにそれと解らなかったのは、彼女がショートカットだったからだし、背が高い割りに身体の凹凸がなかったからだった。スキンタイトを着てしまっても、解らなかったのだ。彼女はおそらく中学生だった。

 小学生なら、身体つきがオトコノコと大差ないのも納得だが、中学生にして――それはありえないのだった。

 ぼくは彼女に話しかけた。「ねぇ、お姉さん」

「なに?」

 彼女は首を回した。

 ぼくは言葉に詰まった。

 話しかけてみたはいいものの、話すべき内容なんて考えてもいなかったのだ。

 お姉さんは目を白黒させた。

「私は蜷河瀬(にながわぜ)蛍。よろしく、ね」

 ぼくの背筋が勝手に伸びた。

 蛍は――たしかに女らしくはなかったが、見てくれは悪くなかった。とくに、いま目の前にあるようにはにかんだように微笑むときがいつだって、彼女の最高の表情なのだ。初めてこのとき、ぼくは彼女のその笑顔のフックを浴びて、マットに沈みかけ、だから、沈まぬように背筋を伸ばした。

「きみ、名前、いいなよ」

「あ、うん」

「常識――だからね。礼儀だよ。礼儀」

 母さんがいいそうなことだな、と頭の片隅で思った。

 けれど、母さんにいだくような反感の情は湧くことはなかった。

 ぼくは――たぶん、むかしからずっと単純、単細胞にできていたのだろう。

 ぼくは緊張していた。声を上ずらせながら、なんとか自己紹介した。「お……音無郁人」

「よろしくね、郁人くん」

 蛍は手を差し出した。ぼくたちは握手を交わした。

 

 午後は入団式のあったセンターから近くにある科学館へいくことになった。

 科学館にはプラネタリウムがあるのだ。

 さして都会ではなく、かたや、田舎とも言いがたい微妙なこのあたりには唯一のプラネタリウムであり、唯一の科学的な展示のある場所だった。

 意味のないハコモノはたくさん立っているけれど、行政はあまり、科学的な事柄に関心はないようだった。理科離れというのが問題らしいので、つくっても意味がないと踏んでいるのかもしれない。

 貸切バスで、ぼくと蛍は隣同士に座った。

 保護者たちはとっくに帰っていた。父さんは夕方に迎えに来るからと言い残し、帰ってしまった。

「郁人くんは――宇宙が好きなの?」

 ぼくは首を横に振り、それから、父さんに強引に連れてこられたことをなにひとつ包み隠さずに開陳した。

 蛍はくすくすと含み笑いをした。

「そんなもんなのかな? まあ、動機ってなんでもいいよね」

「蛍は、好きなの?」

 こまっしゃくれたガキだったぼくは、彼女に敬称をつけなかった。また、彼女も咎めなかった。おそらく、弟のように思われていたのかもしれない。後日、識ったのだが、彼女は一人っ子だった。

「月の石って識ってるかな?」

「そんなアイテムあったよ。確かね――」

 最近プレイしたRPGにそんな名称のアイテムがあったのだ。

「もう……。ゲームじゃないよ」

「違うの?」

「ぜんぜん、違う。ほんものの、月の石だよ」

「そんなのがあるの?」

「それがあるんだなぁ」得意げに蛍は口の端を吊った。「アポロ計画って識ってるでしょう? あ――スペースシャトルじゃないよ?」

「月へいったんだよね」

 某チョコのかたちに似ていることをぼくは識っている。

「そのとき、持ち帰ってきたんだ。十七号なんて凄いよ、一〇一キロも持ち帰ってきたんだからね」

 十七号と聞いて最初に浮かぶのはDBの改造人間だったが、そのことはおくびにも出さず、ぼくは素直に感嘆した。実際、ぼくは感動していた。宇宙から一〇〇キロもの石っころを持ってくるというのはきっと大変なことなのだと、無知ながらも解らないほどぼくは愚かではなかったのだった。

「すごいんだ」

「ソビエトのルナ計画ってのも――ってこれはいっか。どうして、私が宇宙が好きなのか、って話だったね」

 蛍は居住まいを正した。

 すらっと通った鼻筋を彼女は自分の指先でなでつける。

「何の変哲もない石ころなんだよ。月の石ってさ。国立博物館(ナショナル=ミュージアム)にあるんだけど、ほんと、石ころなんだよ」彼女は遠い目をした。「だけどね、その表層にはマイクロクレーターが風化せずに残ってるんだよね」

「マイクロクレーター?」

「ちっさいクレーターのこと。宇宙にはね、大気がないから風化しないんだ。つまりね――単なる石ころみたいだけど、そこには悠久の何かがあると思う。それってさ、なんか、ワクワクしないかな?」

 納得はしていなかった。けれども、顔を寄せてくる蛍には言い知れぬ気迫があった。ぼくは頷かずにはおれなかった。

 頷くと、蛍は顔を引っ込めた。

「よろしい。いい子いい子」

 頭に柔らかいものが触れる。蛍の掌だった。

 彼女はぐっしゃぐっしゃにぼくの頭の天辺をなでくった。

 これからが凄かった。

 科学館につくまで、マシンガンのバレットのように打ち出される講釈にぼくは晒されることになってしまった。

 月のクレーターの命名に際しては、政治家、宗教家、軍事関係者の名前はNGだとか、月の引きこす潮汐の話だとか、小学生の知識では太刀打ちできない話題がぽんぽん出た。

 ぼくはただただ、目を回した。

 そして――蜷河瀬蛍というオンナノコをとても尊敬した。

 

 

 三

 

 ぼくたちが意外と近所に棲んでいることにお互い気付くのに、長い時間は必要ではなかった。

 いつも通っているゲーセンの自動扉のまえに蛍の姿を見つけたのは偶発的だったにせよ、それは幸福なことだった。

「郁人くんじゃない」

 ぱっと彼女は華咲くような表情をぼくへ向けた。

 彼女は私服だった。スキンタイト姿ではない彼女を初めて見た。団の集まりで会ってはいたが、そのときはいつもスキンタイトを彼女は着ていたのだ。

 宇宙大好き人間にしてはカジュアルな格好だった。少なくとも、ユニクロじゃなかった。

 とても普段、宇宙について語っているとは感じられず、どこにでもいる星占いに思い馳せるオンナノコが目の前にいる。

 母のお仕着せのままに服を選ぶことなど識らなかったぼくは、蛍が短いスカートを履いていることと、袖の膨らんだ上着を着ていること意外には解らない。とりあえず――眩しかった。頭上で照っている太陽なんか(かす)んだ。

 どこにでもいるオンナノコじゃなかった。

 ここにしかいない、オンナノコだった。

「誰か待ってるの?」

「ははん。カレシでも待ってると、そう思ったかな?」

「そうじゃないけど……」

「マセガキなんだね。ま――それはおいとこう。えっとね、誰も待ってないよ」

「じゃあ、何してたの?」

「単なる息抜き。ゲーム中に息抜きってのも変な話だけど。郁人くんさ、もしかして――私がゲームをしない人とでも思ってた?」

「思ってた」

 だって蛍はゲームが嫌いそうなことばっかりいうからだ。

 ぼくがゲームの話題を提供しようとすると、いっつも顔を顰めるのだ。

「グラディウスしない?」

「あたらしいやつ?」

「そうそう。グラディウスIV。復活! だってさ」

「自信あるよ」

 当時のぼくは、ほかのガキンチョに漏れず、ゲームとあらば――それが学習ゲームであってもだ――熱心になるタイプだった。

 ぼくは腕まくりをした。

 蛍が手を引いた。

「それじゃ、勝負しよう。どこまでいけるか」

 不敵に彼女は笑うのだった。ぼくはこの笑顔の正体をすぐに知ることになる。

 結果をいえば、けちょんけちょんとしかいいようがなかった。

 ぼくがいくたびもコンティニューしてやっとこさクリアしたのに、彼女はワンコインでクリアしてしまった。すくなくとも――コンティニューしてもクリアできない連中がぼくの周りでは大半だったので、とても打ちのめされた。

「自信あったんじゃないの?」

 にまにましている。ぼくはおそらく、膨れっ面をしていたのだろう、おかしそうに蛍は馬鹿笑いをして、ひぃひぃお腹を押さえた。その所作にますますぼくはムスっとする。

「ごめんねぇ。お姉さん、強くて」

「じゃあ――」ぼくは目でほかの筐体を示した。

 それは当時流行していた格闘ゲームで、STGでは敗北を喫しても、格ゲーなら――と思ったぼくは浅はかでしかなかった。

 こちらもボコボコだった。

 完全ゲームだった。

 彼女のキャラクターの体力ゲージは満タンのままだった。

 キャラクターの体力ばかりではなく、ぼくの精神力ゲージがゼロだった。

 悔しかった。ぼくはわんわん泣いた。

 ワイン持ちしたスティックをぐりぐりまわしながら、泣いたのだ。

 

「蜷河瀬さん。ごめんなさいね」と母は頭を垂れつつ、蛍に言った。

「いえいえ。郁人くんのお母さん――むしろ、私が大人げなかったといいますか。そんな感じなんですよ。悪いのは私ですよ。こちらこそすいません」

「しっかりしてるのね。この子と三つしか違わないのに」

 母は嘆息した。

 そして、ぼくを睨みやがったので、こっちも睨んでやったが、泣き腫らした真っ赤な目ではダメだった。

 母の眼差しがやんわりした睨みからジト目にシフトしただけだ。ジト目は余計にぼくの神経を逆撫でする。

「三つの差は大きいですよ。とくに――私たちはまだティーネイジャーも前半ですから」

「それにしても――近くに棲んでいたのね」

 蛍は愛想笑いで応え、

「そうですね。私も識りませんでした。なんでしたら――そうですね、夫婦水入らずをしたいと思ったりなんてしたら、郁人くんの子守、しますよ」

「あらあら。嫁さんに欲しいわ」

 あまりジョーダンには聞こえなかった。

 教会の鐘が鳴った。

 新郎と新婦がヴァージン=ロードを歩いているところで、ぼくの妄想を蛍の言がかなぐり消した。

「郁人くんは弟みたいなものですよ」

「そうね。こんなハナタレガキンチョは対象外よね」

「十年後は解りませんよ」

 お世辞モードだった。

 普段、蛍はこんなことをぼくに言わない。

「晩御飯、食べていかない?」

「そうですね。お邪魔します」

 てっきり断るのかなと思っていただけに意外だった。

 蛍はぼくにだけ解るように小さくウインクした。

 それが何を意味しているかこのときのぼくにはさっぱりだったが、夕飯の後にそれは判明することになる。

 夕飯はスキヤキだった。スキヤキなんて年一回あるかないか解らないのに豪勢なことだと思った。

 父が帰ってきてから夕食はスタートした。

 蛍は勘違いをしていた。

 父のススメでぼくが少年団にはいったのは事実だったが、取り立てて父は宇宙に関心のある人物ではない。

「――をどう思いますか?」と切り出した蛍に父はあんぐりと口を開けた。卵に絡め取られた肉が唇に届くか届かないかの位置で空中停止する。

 内容はいつも、彼女がぼくに話すことよりも高度だったので、しかと記憶にない。

「ごめんよ。蛍ちゃん。俺はそんなに詳しくないんだよ」

「あれ――。そうなんですか?」

「そうなんだよ。だから――蛍ちゃんがあいつを教育してあげてくれよ」

 蛍はちょっとだけ逡巡するような仕草をした。チラっとぼくを一瞥して、言った。「はい。よろこんで」

 スキヤキ鍋が空っぽになって、みんなお腹を押さえてダラダラし始めた。

 ソファに座ってなんとなくTVのお笑い番組を見ていたぼくに蛍が訊ねてきた。「プレステかサターンあるよね?」

「あるよ」

「お姉さんが郁人くんのリベンジを受け付けよう。ソフトはなんでもいいよ」

 リベンジは完了した。

 しかし――いま思い返すとあれはわざと負けていたに違いなかった。けれども、ガキのちっさな自尊心を快復させるのは単純なことほど効果覿面なのだった。

 

 この日以来、ぼくらはたびたび遊ぶようになった。

 ぼくが大学受験をする――センター試験の朝までぼくらの関係は続いた。

 

 

 四

 

 一口にモデルロケットといっても何種類かある。大別するならば、火薬を使うか使わないか。

 ペットボトルロケットというのは火薬を使わないが、ロケットの力学的な要素をきっかりと学ぶことができるので、けっこう日本では人気だ。

 ひとつには日本では火薬の入手が困難であることもあげられるだろう。

 しかも、ペットボトルロケットというのは基本的にはペットボトルだけでつくることができる。

 衝撃を吸収するためのトップはウレタン性のものを使用するし、ノズルには空気入れと接続するためのプラグをはめないといけないが――必要なのはそのくらいだ。

 羽もペットボトルの側面を切り取ってつくるのだ。

「だからね、郁人くん。お茶のヤツはダメだっていったじゃないの」

 ぼくはビニール袋に詰まったペットボトルの山を見て、それから蛍を見た。

 ビニール袋に入っているペットボトルはほとんどが角ばった形状をしている。

「炭酸飲料のものがいいのよ。空気を溜めるには。そう――なんで炭酸飲料、炭酸ガスが封入されているものの形状があんな風に丸いのか、円っていうのは――」

「解ったよ。蛍」

 解ったといわないと彼女の講義はとまらないのだ。

 蛍は燃焼不良な顔をしたが、それ以上レクチャーしてはこなかった。ぼくはほっと胸を撫で下ろした。

「まあ、羽の材料にはなるからいいかな」蛍はぼくからビニール袋を受け取る。「それじゃ、いこうか。郁人くん」

 

 ペットボトルロケット大会。

 主催者は誰だったか識らないけれど、世の中には物好きがいるものだ。参加者もそれなりにいて、一応三桁には届いていた。もっとも、チーム参加なのでチーム数でいえば二桁になってしまうが。

 大会は至って簡単。

 一時間でペットボトルロケットを拵える。そして、一番とおくまで無事に飛ばせたチームが優勝。

 使える材料はペットボトルのみ。

 ウレタントップとノズルアタッチメントは支給される。

 道具も制限されていて、ステイプラーとビニールテープとカッター、ハサミしか使用してはいけない。

 レフェリーが作業場の周囲で目を光らせているので、ズルはできそうもなかった。もちろん、そんなことをする気もなかったし、正々堂々勝負するのがぼくたちの流儀だった。

 なるたけウェイトを落とし、なおかつ耐久性を落としてはいけない。

 大会規定にあるように無事に飛ばさないといけないのだ。

 ウレタントップがついているとはいえ、なかに水が残った状態で落下してしまうとけっこうな衝撃になり、ペットボトルは潰れてしまう。

 水の量、匙加減もけっこう重要なのだ。

 いれすぎると鈍重になり、飛ばない。

 いれなさすぎると燃料が足りずに、やっぱり飛ばない。

 ぼくたちはこの日のために試行錯誤を繰り返してきた。

 水と送り込む空気の黄金比も完璧だった。

 あとは風だ。

 風は最早、運任せとしかいいようがない。

 ぼくは青空に祈った。

 青空を見詰めているぼくに蛍がよってきた。「ねぇ、郁人くん。宇宙っていってみたい?」

「いってみたいな」

 彼女とあって約二年。このときのぼくはすっかり洗脳されていた。

 うっかり学年の終わりのクラス文集の――尊敬する人の欄に彼女の名前を書きそうになったくらいだ。慌てて、ユーリ=ガガーリンに書き直したが、それこそがぼくが洗脳完了されているなによりの証に違いなかった。

「もし、余命が一年と言われたら、私は生きたまま宇宙へ送って欲しいな」

「宇宙葬ってやつ?」

「ダメだよ。死んじゃってたらちゃんと拝めないじゃん」

「確かにそうだ」

「ああ――ヴォイェイジャーのレコードになりたい」

 蛍の言葉と同じくして、コールがかかった。

『蜷河瀬、音無チーム』

「あの無味乾燥なチーム名、どうにかならなかったの?」

「いいじゃない。気取ってもしょうがないでしょうが?」

 

 ぼくたちは優勝した。

 空気入れで頑張って空気を送り込みすぎて、血管が切れそうになったのは蛍には内緒だ。

 

 

 五

 

 日本にはロケット打ち上げ場が二つある。

 内之浦と種子島だ。

 ロシアのロケット発射基地は四国並みの広さがあるけれど、狭い日本の打ち上げ場はとても小さい。

 そして、正確には打ち上げ場が二つあった、と表現すべきかもしれない。

 そのころはまだ内之浦は稼動していた。

 JAXAが生まれる前だったのだ。

 文科省の研究所と独立行政法人、特殊法人が合併してJAXAになったのは二〇〇三年のことだ。

 JAXA発足後は、内之浦はお払い箱になった。くわえて、内之浦町自体も町村合併で消えてしまった。

 ぼくと蛍は、内之浦へ行った。

 彼女の祖父母が内之浦町の隣町に棲んでいたからだった。泊りがけの旅行だった。

 中学三年の夏休みをぼくは彼女と鹿児島の大地で過ごすことになったのだ。ぼくは嬉しくてたまらなかった。高校生になっていた蛍は大学受験が差し迫っているはずなのに、素知らぬフリであった。

 飛行機が空港に降り立った瞬間、むわっとした空気がやってきた。さすがは南国だと思ったものだ。

 蛍の祖父母の家に荷物を置き、ぼくらは意気揚々と内之浦へ行った。

 かなり、くたびれた田舎だった。

 発射場もなんだか、元気がなかった。おそらく、管制室だと思われる場所のコンピュータは古臭く、あまつさえ、アルミサッシのアクリルガラスは割れている始末だった。ぼくは幻滅した。かたや、蛍はそんな様子を見せない。

 エントランスには、黒のまるにノズルが前後ろについたものが飾ってあった。

「なにこれ?」

「おおすみ、のレプリカだよ」

「おおすみ?」

「日本初の人工衛星」

 『おおすみ』は小さかった。人工衛星ってのはもっと大きいもんだとぼくは思っていたので、またしても、幻滅した。

 『おおすみ』は二十三キロしか重量がなかった。もちろん、スプートニク一号よりは小さかったけれど、エクスプローラー一号よりは大きかった。でも、エクスプローラー一号が飛んだのはおおすみが空にあがる十二年もまえだった。

 蛍はぼくの内心を悟ったみたいで、言った。「こらこら。しょぼいとか思っちゃいけないぞ」

「だって……」

「あのさ、宇宙開発ってのは、軍事技術と紙一重なんだよ。ソビエトのロケット技術の発展におおきく寄与したV二号は、もともとミサイルだったわけじゃない? それに、NASAは予算の半額が軍事費なんだよ。中国やフランスも人工衛星を飛ばしたけれど、全部、根っこには軍事がある」

 蛍はこんこんと話した。

「しかもおおすみを飛ばしたL-4Sは無誘導式なんだ。誘導装置に関して、当時の共産党から軍事転用へのクレームがついちゃったからね。それって、すごくないかな?」

「だね」

 誘導なしに水平軌道へもっていくとすれば、機械仕掛けになるのだろうか? エンペデットシステムが車の燃費制御に多大な成果を与えたように電子制御なら簡単なことも機械制御になると難しい。

「もっとも――日本の宇宙開発は特段、遅れちゃいないんだよ。世間はそう思ってるみたいだけど。ひとつにはさ、価値のなさがあると思うんだ。気象衛星や通信衛星には意味があるけど、宇宙を開発することに、ふつうの人は意義を感じない。軍事です。お国の為のです、だーって言ったほうがみんな納得する。結局さ、憲法九条とかいうけど――実際、誰も自衛隊がなくなることなんて望んでないでしょう?」

 蛍は平和主義者だった。

 だからこそ、現状に納得がいかないのだと思う。

「ま――そのせいで三菱重工の手垢がついてるんだよね。ボーイングとロッキードの争いみたいなのはないんだ。そこは残念かも」自嘲した。「それじゃ、いこうか。むこうに発射台があるみたいだから」

 図らずも、くだんの人工衛星『おおすみ』が消滅した日時はJAXA発足の二〇〇三年だった。日本の宇宙開発がパラダイムシフトしたことを示していたのかもしれない。

 ぼくたちはロケットを載せるトレーラーへ向かって歩き出す。

 

 たくさん写真を撮った。

 ほかの観光客や、職員に頼んでもらって、ぼくたちは同じフレームのなかに収まった。

 夏休みの大半は大隅半島で過ごした。

 いつまでも――この時間が続けばいいとぼくは思っていた。

 蛍にとっては祖父母の家に男友達といったというだけのことだったかもしれないけれど、ぼくは違った。

 南国で見た花火や、アクマキという変な食い物や、ほんとうに火山灰が降って空気が汚れてしまうところとか――ぼくにとっては蛍との大事な大事な思い出の時間が醸成されていた。

 

 

 六

 

 発射台からモデルロケットは飛んでいった。

 シュバっという爽快な音がした。

 プロペラントには黒色火薬ではなく、コンポジット燃料を使っている。ハイパワーロケット用のものでスペースシャトルにも同じものが使用されている。つまり、小さいだけで決してニセモノじゃないってことだ。

 高度がぐんぐんあがっていった。

 そして、小さくなって、見えなくなった。ノズルから立ち昇る煙も――火も、まったく見えなくなった。

 しばらくして、夜の帳の中に光点が見えた。

 パラシュートが開いたのだ。

 実際のロケットとは違い、モデルロケットは回収前提で発射する。あくまで、ロケットを飛ばすことが目的だし、ロケットの原理を学ぶことを目的とした教材でもあるのだ。無駄にしてはいけないのだ。

 もっとも、今回のヤツは筐体からぼくが自作したものだけれど。

 ぼくは光点目掛けて走り出す。

 ペイロード――本来なら人工衛星などを積載する場所――にパラシュートがつめてあるのだが、このパラシュートにぼくは蛍光塗料を塗っておいた。夜間でもきちんと回収できるようにとの配慮だった。

 とつぜん、大風が吹いた。ぼくは焦った。

 海に落ちてしまうかもしれない。そしたら、回収が困難になってしまう。パラシュートが開く前なら、そこまで大きく軌道がそれたりはしないがパラシュートが開いた状態では煽られるがまま、なすがままだ。

 だったら、最初から海辺で飛ばさなきゃいいと思うかもしれないけど、それは――砂浜で花火をする理屈とおんなじだ。

 モデルロケットは火薬をつかっているのだし、それなりに音がする。爆発の危険はないけれど、民家に落ちたらえらいことになる。それに何百メートルも飛ぶから公園じゃ無理だ。日本の公園は狭い。殊、都会ともなれば、猫の額だ。

 パラシュートの光点を見あげながら、海上に落ちないことを祈った。

 祈りを神様が聞き届けたのか、ロケットは波打ちぎわに落ちた。

 おかげで濡れてしまった。願いを聞き届けるなら、もっときちんと聞いて欲しいものだ、と悪態をつきながら、ラジオのある発射台へと戻った。

「あれ?」

 ラジオの傍に人翳があった。

 この時間帯に人と出くわすのは初めてだった。

 しかも、こんな時間――いまは深夜二時だ。

 ロクな人間じゃないはずだ、と自分のことを棚にあげてぼくは警戒しながら近寄った。

 その人物は外国人のようだった。銀髪をしていた。背の低い女だった。夜風で冷えるだろうに、薄着だった、

 彼女はぼくに気付くと流暢な日本語で言った。「こんばんは」

「こんばんは」

 深夜に浜辺をほっつきあるいているような人物には見えなかった。

 年齢は――よく解らなかった。十代前半かもしれないし、二十代かもしれない。ようするに年齢不詳だった。

「なにをしてたんですか?」

 ぼくは無言でモデルロケットを見せた。

 彼女はきちんと理解した。

「なるほど。ミサイルを飛ばしていたんですね」

 訂正――理解していなかった。

「ロケットだよ。ロケット」

「ああ、ロケットですか。でも、ロケット砲ってのもありますよ」

 そういえば、英語では飛び道具は何でもミサイルということを思い出した。鏃もミサイルなのだ。誘導兵器だけをミサイルと呼ぶわけじゃない。

「そういう話は嫌いだな」

「そうですか。平和主義者なんですね」

 女は馬鹿にする風でもなく、感心する風でもなく、ただ言葉を告げた。

「きみ、こんな時間になにをしてるのさ?」

 彼女は質問には応えず、

「きみじゃなくて、私はエイダです。よろしく」

 名前をいわれたら、こちらも言わないわけにはいかないだろう。一応、礼儀だ。ぼくも名乗ることにした。

「ぼくは郁人」

「イクトって有人って書くんですか?」

「それはアリトだと思うよ」

「なるほど。ロケットを飛ばしているんですから、有人飛行とかしたいのかなぁって」

「さすがに、名が体を現すってこともないよ」

「そうですか。私の場合は――名は体を現してますが」

「ふぅん」

 エイダの名前が何かの偉人と被っているのかどうか、ぼくは識らない。それにどうでもよかった。

 今日の発射は終わったので、発射台を片付けにかかった。

 海水浴に不向きな浜なので放置したままでもよいと最初のころは思っていたのだが、それは間違いだった。近所のワルガキというのは、なんにでも興味を示し――しかもタチの悪いことにその興味は破壊へ向かう。

 いきようようと翌日、浜辺に行ったら、発射台のステンレスフレームがひしゃげていた。それ以来、ぼくは多少重かろうとも、持って帰ることにしているのだ。二度と同じ轍を踏まないのが賢い。

 需要と供給の関係でロケット機材はけっこう高い。貧乏学生の財布は大ダメージだ。

 ぼくが発射台のネジを外しているあいだも、エイダは去ろうとはしなかった。

「そういえば――、ラジオからぴったりな音楽が流れてましたよ」

「グスタフ=ホルストだろう?」

「ええ」

「金星だったかな?」

 背中越しにぼくは応える。

 ぼくが惑星組曲を識っているのは、それが惑星に題材を摂っているからで、とりたててクラシックに篤いわけじゃなかった。

「平和をもたらすもの、ですね」

「むかしは――金星人も攻めてきたのにな。最近、地球はめっきり平和だな」

「そうですね。アダムスキーが沙漠のなかで、会いましたね。ま、彼のことですからウソなんでしょうけど」

 ジョージ=アダムスキーと金星人の話を識っているなんて――ぼくは嬉しくなった。ながいあいだ、ぼくはこの手の話題を話せる相手を欠いていただけに、ひとしおだった。

 エイダはけっこう、話のできる相手なんじゃないかと思った。

 ここで、ひけらかすプチトリビア。

「その金星人、オーソンっていうんだぜ」

「それはおもしろいですね」さすがに、金星人の名前までは識らなかったようだ。感心した様子でしきりにうなづきつつ、エイダは続けた。「アメリカでパニックを起こしたラジオ劇『火星人襲来』をおこなったマーキュリー劇場の主催者がオーソン=ウェルズですね。オーソン=ウェルズは金星人だったんですね。そいつはおどろきものの木、二十世紀です」彼女はさもおかしそうに笑った。

 つまらないダジャレはスルーだ。

「マーキュリー、ウェーヌス、マーシャンとそろい踏みだな」

「それもそうですね。水星は――ツバサのある使者ですよ。火星は――戦争をもたらすものですね」

「ホルストは『宇宙戦争』でも読んだのかな?」

「さぁ、どうなんでしょう」

 惑星組曲の初演は一九二〇年。『宇宙戦争』の発表は一八九八年だ。時期的にはぞんぶんに考え得る可能性だ。

「火星といえば『宇宙戦争』だけど、水星といったら『太陽の簒奪者』かな」

「後半の知性とはなにか? が興味深いですね」

 どうやら、彼女とぼくの着眼点は違ったようだ。

 ぼくはむしろ、前半部――主人公が水星の観測をしていて、不思議な現象を目撃するあたりから、水星にハニカム構造の構築物を発見するあたりまでがキモだと思っている。登場するエイリアンは水星人じゃないけど。

「個々の――パーソナルな生命体をノードのように扱う――集合知性とも呼ぶべきでしょうか。超個体などという仮説もありますが――」

「ちょっと待ってくれ」

 手を差し出す。待ての合図。

「どうしました?」

「生物は門外漢なんだ」

「そうですか。それは残念ですね。もっとも、いま、私は生物の話はしていませんけどね」

「え?」

「まあ、こっちの話です。たまにはいいものですね」

 エイダは目を細めた。

 遮るもののない海原から噴いてくる風に銀髪が煽られる。

「なにが?」

「こうして、潮風にあたるのも、ってことですよ。私は室内にいることが多くって」

「だけど、こんな広く思える世界もちっぽけなんだぜ?」

「そうですね。ミルキーウェイには――」エイダは天空を仰いだ。民家の明かりも街灯も届かない夜空は星がよく見える。天の川が煌いていた。「――たくさん、地球のような場所があるんでしょう」

「それがロマンだよ」

「なるほど、ロマンですか。男ってのは、好きですね。そういうの」

「はは。でも、違うんだ。ぼくに宇宙への興味をいだかせたのは、女の子なんだ」

「『太陽の簒奪者』の主人公のような?」

 くだんの小説の主人公は女性だ。エイリアンに会うためだけに、エイリアンの謎を識りたいがために全てを犠牲にする人物だ。

「いや――ちょっと違うかな。でも、彼女は宇宙へ行きたかったんだ」

「彼女を――連れて行きたいんですね」

「そうだよ」

 エイダの顔に一瞬だけ憫笑が走った。ぼくはそれを見逃さなかったが、彼女はすぐに背を向けてしまった。

 背中を向けたまま、彼女が言う。

「いつも、ここにいますか?」

「たいていは」

「解りました」

 それだけ言って彼女は堤防を越えていなくなった。

 

 

 七

 

 センター試験の一週間くらいまえに、大学生になっていた蛍が帰ってきて、肩をいからせながら、ぼくにつきつけてきたのは交通安全のお守りだった。

「学業祈願じゃないの?」とぼくは言った。

「まさか。学業ってのはね、菅原道真にお願いしてもダメなんだ。いい?」ずいと交通安全のお守りをつきだし、強引にぼくに握らせた。「でも、交通事故はいつ起きるか解らないよ。だから、交通安全のお守り」

「そうかもしれないね」

「そうかもじゃなくて、そうなのさ。じゃあ、頑張ってね」

「うん」

 ぼくは彼女と同じ大学へ進学する気満々だった。

 それはとてつもなく困難なことだった。

 蜷河瀬蛍は――勉学ができたのだ。それもそうだ――やたらめったら、小難しいことをレクチャーするのが好きなんだから、学ぶことは彼女にとって面倒事じゃないのだろう。

 担任に「無理」といわれ、ぼくは却って奮起した。

 合格圏内だった。

 ぼくはお守りを握り締めて受験会場へチャリを漕いだ。

 

 ***

 

「こんばんは」

 発射台を準備しているとエイダが姿を見せた。

 彼女は昨晩と同じ格好をしていた。

「きょうは――あなたにあげるものがあります」と彼女は言った。そして一枚のCDROMを手渡しされた。

 そして、彼女はすぐに帰ってしまった。

 翌日、ぼくはロムをパソコンに突っ込んだ。

 説明書を読んだ。

 なかのプログラムはフェイクというらしかった。

 

 フェイクの初期設定の仕方

 

 一、実行ファイルを選択します。

 一、初期設定タブをクリックします。

 一、フェイクに与える容貌のところに元となるファイルのアドレスを入れます。

 一、ファイクに与える音声のところに元となるファイルのアドレスを入れます。

 一、最後にフェイクの精製ボタンをクリックします。

 注意・一度設定したら削除はできません。

 

 

 元となるファイルについて

 

 一、容貌に関しては、動画、静止画、問いません。また、想像上のものだとしても、結構です。但し、画像が荒い場合やあまりにもデフォルメが過ぎたイラストなどの場合、不都合を来たす恐れがあります。

 

 一、音声に関しては、なるたけノイズがないものが好ましいです。雑多な人物の音声が入っている場合も、特定の人物の音声だけをスキャンする機能がフェイクにありませんので注意してください。

 

 ――つまり、蛍を再現できるわけだ。

 彼女の写真はたくさんあるし、一緒に撮ったビデオには彼女の音声が入っている。

 蛍は宇宙へいきたがっていた。

 フェイクを使えば彼女を宇宙へつれていけるかもしれない。

 だけど――ぼくは首から吊るしたお守りを握り締めた。ジャリっという音がしてしまい、慌てた。中身を開く。中身は――無事だった。少し、砕けてしまっていたけれど。

 ぼくは首を振った。

 このロムはエイダに返そう。

 蛍はきちんと――まだ――生きているのだから。

 

 三日連続でぼくのまえに現れたエイダはにこやかに告げた。「どうでしょう? 気に入ってもらえましたか?」

「返すよ」とぼくが言うと、彼女はきょとんとした。

「どうしてですか?」

「ぼくには要らないよ」

「彼女の代わりに宇宙へフェイクを送ればいいじゃないですか」

「どうして――蛍が死んでいるって解ったんだ?」

 エイダは言葉につまったようだった。「あなたの話し振りですよ」

 初対面の人間に見抜かれるなんてぼくも大したことはないものだ。

 ロムを彼女につきかえすと、ぼくは彼女に交通安全のお守りを見せた。

「このなかに蛍の遺骨が入っているんだ」

「……骨、ですか」

「うん。火葬場で――失敬した。ぼくはさ、これを宇宙にあげたいと思うんだ。それは彼女の本意じゃないけど、宇宙の一部になれるかもしれないだろう?」

「そうかもしれないですね」

 言うと、エイダはラジオを切った。

「なにするのさ?」

「星をみましょう」

 エイダは手にストップウォッチを持っていた。

「話すのも禁止です。ジョン=ケージの『四分三十三秒』。沈黙の音楽です」

 言うがはやいか、彼女はストップウォッチのボタンを押した。

 ぼくらは黙って四分三十三秒のあいだ、宇宙を見た。

 蛍の愛した世界を――見た。


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