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ケーススタディ二 東雲春彦は二度死ぬ

 ケーススタディ二 東雲春彦は二度死ぬ

 

 三日目

 

 ぼくは監禁されている。

 同棲とか、そういう甘い香のするものじゃない。監禁と表現するしかない状況にぼくは置かれている。

 ぼくを監禁している張本人は、高嶋初華(ういか)という大学の同級生だ。ぼくと同じ――工学部情報システム学科に通っている二年生だ。

 いま、彼女は家にいない。

 ぼくの目の前にはほとんど家具のない六畳間が拡がっている。いまどき珍しい畳敷きのアパルトマンだ。一応、オンナノコの部屋なので、バストイレは別になっているらしいけれど、ぼくは使ったことがないから、つまびらかに識らない。

「まだかなぁ」

 初華はまだ帰ってこない。

 彼女が家に帰ってこないと、ぼくは暇でしかたないのだ。することがなにもなくって、暇で死ぬことはないといわれるけれど、それって嘘なんじゃないかと思えてくる。ほんと、暇で暇で死にそうだ。

 ぼくは箱の中に入れられていて、出ることができない。逃げることもできない。

 箱はとても頑丈にできている。もっとも、逃げる気なんてハナからない。どうして逃げたくならないのかは解らない。このままじゃ、ぼくは大学の単位を落とし、留年してしまうかもしれないのに。そうなると、両親に大学から連絡が行き、あらいざらいが露見する。

 でも――危機感はどこからもやってこないのが不思議だ。

 箱の一部にはガラス窓がある。そこから外を伺うことができる。狭く小さい窓だけれど、ないよりはマシだ。

 暗い部屋に長時間閉じ込められた人間は発狂してしまうんだそうだ。解放されてからもナイトメアーを見たり幻覚を見たりして、正気ではいられなくなってしまう。だから、初華がこの箱に窓を用意してくれたのはよいことだった。もしも――ぼくが閉所恐怖症持ちなら、いまごろお陀仏なんだろうけど。

 食事は彼女が与えてくれる。昼間は彼女は大学へ行ってしまうので、一日二食だけれど、動かないからそんなにカロリーは要らない。二食で十分だ。むしろ、一食でもいいくらいで、いつも残してしまう。

 排泄は箱の中でする。いつも、朝には綺麗になっているので、ぼくが寝ているあいだに彼女が処理してくれているのだと思う。

 問題があるとすれば――三日間お風呂に入っていないことだろうか。

「まだかなぁ」

 ぼくの声は虚しく響く。

 TVでも見ようか? と思うけれど、初華の部屋にはTVがない。

 TVを見ない女子というのは結構珍しいと思うのだけど、彼女はそういう人なのだ。

 流行に疎い。

 群れることが嫌い。

 通俗的なものには興味が薄い。

 ファッションというものにも関心がなく、大学に入ると女はケバケバしくなるというがそんな素振りのない人だ。化粧だってそうだ、いつもファンデーションくらいしかしない。

 もっとも、ぼくは以前の彼女を識らない。知り合ってから二年しか経っていないのだから、以前はもっと違った人物だったのかもしれないが知る由はないし、そんなことはどうでもいいのだ。人間は成長するというより、革新されていくものだから、昔の彼女がどうあれ、今の彼女こそが真実であり、すべてなのだ。

 彼女はいつも一人で学校にいた。

 トモダチはいないようだった。

 化粧っけのない顔につけたメガネの奥の双眸は、いつだって無表情に近かった。世の中にあまり関心がないのだと、ぼくは思っている。

 そんな彼女がぼくを監禁しているという事実は、彼女の関心がぼくへ向いていたということを意味している。それは、どこか嬉しいことなのだった。

 もしかすると、それが逃げる気の起きない理由なのかもしれない。

 誰かに必要とされることは、なんだか生きている心地よさを覚えるんだろう。

 仕事人間が濡れ落ち葉になって急速にボケるのも――奥さんからは「亭主元気で留守がいい」なんていわれ、だけど、仕事は定年しているから行かないし、だから、会社には最早必要じゃなくって、どこにも自分の居場所がないような気がする。そして、痴呆になってしまう。

 黄色い線を越えて、ホームに滑り込んでくるオレンジ色の電車に向い、ダイブする人間も――おそらくは同じようなことなんだと思う。

 だから、ぼくの居場所が初華の用意した箱の中でも、ぼくは幸せなのだった。

 ガラス窓越しの壁掛け時計が見える。

 ――三時半。

 そろそろ、午後の一限目が終わる頃合だ。

 彼女がもうすぐ帰ってくる。

 ぼくは浮き足だった。

 早く、早く、と思っていると、鍵の外れる音がした。

 すぐに、初華の声が続く。「ただいま」

 彼女の声は――その雰囲気に則している。とても平坦で、機械音声みたいな感じなのだ。冷たい感じがするというタメもいるけれど、ぼくはそうは思わない。

「おかえりなさい」とぼくは言った。

「うん。春彦くん。ただいま」

 初華はキッチンを抜けて、リビングとを隔てる框のうえで微笑んだ。

 たぶん、ぼくだけに向けてくれる笑顔だ。心臓がドクドクした。動悸がほんのちょっぴり高まった。

 鞄を壁際に放って、乱雑に靴下を脱ぐ彼女に訊く。「大学どうだった?」

「どうってことないよ。いつも通り。なんにも変らないよ」

「ふぅん」

「そういうものなの。世の中は」

 初華はハァと嘆息した。

 それから、肩をババ臭く揉んだ。そして、もういちど溜息をひとつした。

 ぼくは訊ねる。「宿題とかある?」

「熱力学が、ね。来週、レポ提出」

「いまからやるの?」

「んーん。春彦くんとお話」

 そう言うと、初華はガラス窓の前に座った。

 キィと椅子が軋む音がした。箱の前には椅子があるのだろう。見えないけれど。

「あのさ」とぼくは言った。

「なに?」

「日中、暇なんだ」

 暇がこんなに身にこたえるだなんて、識らなかった。

 大学生になって以来、毎日勉学に勤しむこともなしに、日夜遊んでいた。飲み会はすすんで参加していたし、二次会三次会とハシゴを続けたあげくに、日が昇るまで馬鹿騒ぎに余念がなかった。

 暇なんて言葉はすっかり、ぼくの辞書からその文字が薄くなっていて、消えかけていた。いまや、一番、大きなフォントで書かれているのだけれど。

「そっか。ごめんね。そこのところまで気が回らなくって」

「いいよ。別に、気にしないから」

 彼女がすまなさそうな顔をするから、ぼくが悪いことを言っちゃったみたいな気分になってしまう。

 罪悪感が哂った。

「ゲームでもする?」

「TVないじゃない」

「もう。春彦くんも情報工学科の学生でしょう?」

 初華のいうことがイマイチ飲み込めない。

 彼女はわざとらしいヤレヤレの仕草をしてから言った。「パソコンのディスプレイでもできるんだよ。ゲーム」

「パソコンはあるの?」

 部屋を見渡してみるが、それらしいものはない。

 きっとノートパソコンなのだ。鞄の中に入っているのかもしれない。

 最近はミニノートというものがはやっていて、ASUSの機種なんか一昔前のPDAみたいに小さいんだ。だけど、性能そのものはそんなに低くないし、ワードやエクセルを動かすだけなら問題はない。

「あるよ。当たり前じゃないの。大学生の三種の神器のひとつ」

「あと二つは何?」

「ケータイ?」

「もう一つは?」

「先輩の過去レポ?」

「持ってるの?」

「んーん。私、サークルにも入ってないし、トモダチ、いないし」

 クラスメートたちと少しも仲良くなっていない事実を少しも億劫に思っていない様子だった。毅然としていた。諦念とは、違った。

「だったら、ぼくの家にあると思うよ。このまえ、部室のロッカーの中のやつ、全部コピーしちゃったから」

「そうなんだ」

「取りに行こうか?」

「ダメ。逃げられる」

「逃げないよ」

「そんなのわかんないじゃん。秋町さんのところへ行ったりしたら困る」

「秋町さん?」

「こっちの話」

 初華は黙った。

 彼女の顔は、少しもぼくが逃げるなんて思ってはいないようだったが、秋町さんというのが誰なのか凄く気になった。聞き覚えがあるような、ないような、不可思議な思いがした。秋町さんって誰?

 それに、ふつう、逃げるなら警察に駆け込むものだとも思った。

 彼女には確信があるのかもしれない。ぼくが憲兵を頼ったりしないんだということを、理解しているのだ。

「ねぇ」

「ん?」

「暇潰しの道具が欲しいな」

 ぼくは話を戻した。

「うぅん。そうだ――」初華はいったん、椅子をたって、しばらくしてから戻って来た。その手にはA4判の大学ノートが握られていた。無味乾燥で、ダイソーで手軽に手に入るたぐいのものだった。「日記とかつける?」

「肉筆はイヤだなぁ」

 ぼくはワガママを言った。

 初華は困った顔をした。

「じゃあ――」

 カタカタという音がして、気がつくとぼくの前にパソコンがあった。

 いつのまに? すごい早業だ。箱が開く気配もなかったのに。

「ありがとう」

「どういたしまして。でもネットには繋がってないからね」

「別にいいよ」

 ぼくはネット中毒じゃないし、巡回しているサイトがあるわけじゃない。

 TVもネットもなく――外出もできない身の上じゃ、世間との隔世が拡がっていくばかりだけれど、ぼくは決して世界から寸断されてはいない。初華とぼくのあいだにはリンクがある。ぼくらは繋がっている。

「それじゃ、夕飯つくるから」

 そう言って、初華はキッチンに消えた。

 ジュウジュウという音がしてくる。

 臭いはしない。音だけがする。油の飛ぶ音がする。

 今晩のオカズは何だろう――?

 

 

 四日目

 

 小さい頃――漫画家になりたいって思っていた人はけっこう、多いんじゃないだろうか? オンナノコはケーキ屋さんとかナースさんとかが多勢を占めていて、オトコノコの場合、インドアーなら漫画家とかゲーム屋で、アウトドアーだとサッカー選手とか大工さんと相場が決まっている。

 だれしも、子供のころは絵を描くのが好きだ。

 子供は自分の絵がヘタクソか上手いか、を気にしない。

 一説には、子供のころはまだ視神経からの情報を脳が処理できていなくて、実際、子供たちが描くように見えているんだ。という話がある。だから、大人が「その絵はおかしい」っていってもダメだし、だからこそ――子供の描く絵はノビノビしている。

 父が画家だったばっかりに、ノビノビとした絵を描けなかったとピカソが悔やんだように、ときとして、それはとても魅力的なんだ。

 初華に大学ノートを見せられたときに思い出したのはそれだった。

 ぼくも無邪気に絵を描いていた。

 大学ノートのページを升目に区切って、そこにエンピツでお気に入りのマンガのキャラクターを描き込んでいく。

 本来ありえないキャラクター同士が、作品間の垣根を越えて邂逅し、戦う。それは子供心に、ユーフォリックなものだった。

 いつからだろう?

 描かなくなってしまったんだろう?

 自分の絵が取るに足らない愚物だと気付いてしまったからだろうか? それとも、試験受験勉強、そういったものにかまけてしまっていたからだろうか?

 そういえば――どこぞのアニメータが言っていたのを思い出す。「できる人間は十台のときに完成している」

 すごく、傲慢な言葉だと思った。二十歳になったぼくには、無理だといわれているのだから、頭にもくる。

 しかし、そんなことはいい。いま――ぼくは絵を描きたいんだ。

 ぼくはパソコンを起動して、MSペイントを立ち上げた。

 初華には絵を描く趣味はないようで、SAIもフォトショップも入ってはいなかったし、フリーウェアも何一つ入ってはいなかった。だから、MSペイント以外に選択肢が用意されていなかったのだ。

 きょうは土曜日で大学は休みだった。だけれど、初華は家にいない。

 会わなくちゃいけない人がいる。と彼女は言っていた。

 それがだれなのか、ぼくは詮索しなかったが、彼女は教授だと言った。名前は――告げなかった。聞いたところで、二年生じゃゼミもないし、授業で会うくらいだ。どうでもいい。しかれども、初華は何の用事があったのか? そこだけは気がかりだった。

 エンピツツールを選んだ。

 何年ぶりだろう。こうして、絵を描くのは。

 ぼくはがむしゃらになった。筆をひとたび取れば、エンジンがかかった。長らく調整してなかったエンジンはなかなか調子を取り戻さなかったが、排気量だけは人一倍だった。もくもくと吐き出されるCOはぼくの頭をクラクラにさせた。ランナーズハイならぬ、ペインターズハイが現れた。

 ぐりぐり動くマウスカーソル。生まれる線。

 間違った線を消しゴムツールで消す。

 何度でも納得がいくまで訂正を繰り返す。線たちは生まれては消え、そして生まれた。輪廻転生の世界があった。

 頭の中のイメージは見知らぬオンナノコだった。初華ではなかった。

 オンナノコは線の生死の中で形が整えられていく。

 彼女が降誕するのは――弥勒の現れるとき、とでもいうように。

「できた」

 久方振りにしてはけっこう、よくできたように思う。悪くない――もちろん、自惚れや自分贔屓も多分に含まれていることは否めないのさけれども。

 時計を見たら、描き始めから二時間も経っていた。凄い集中力だと、自画自賛してもいいんじゃないかな。

 勉強に転用できたなら、もっとうえの大学へ行けたかもしれない。けど、そうじゃなくてよかった。だってそうだろう? ぼくが他の大学へ入学してしまっていたとすれば、初華とぼくは出会わなかったんだから。

「ただいま」

 くだんの初華が帰宅した。

 靴を脱ぎ捨てる音が続いた。

「おかえり」

 このやりとりもきょうで三回目。なんだか、新婚夫婦みたい。

 ぼくはほくそ笑んだ。

 いつものように、初華は鞄を壁に投げた。それから、ぼくのもとにやってくる。これも常のパターンだった。

「日記書いたの?」

 窓から初華が覗き込む。

 半日家を空けていた彼女には、疲労感があった。五歳くらい一時的に老け込んでしまったような、そんな感じ。

 ぼくは「違う」と正直に答えた。

 彼女はあまり興味がなさそうだった。

 だけど、折角熱中して描き上げた渾身の力作を無碍にするのも気が引けた。「見せて」といわれることを暗に期待していた。「絵を描いたんだ」

「絵、描けるの?」

 彼女の吸い込まれるような漆黒色の瞳に、わずかな尊敬の色が生まれたことをぼくは見逃さなかった。頬が上気した。

 絵が上手いと褒められたことはない。だから、余計に嬉しく、ぼくは踊り出しそうだった。

 だけど、謙遜を忘れない。

「大して上手くないけど」

「見せてよ」

「いいよ」

 ぼくは箱の窓にパソコンのディスプレイを翳した。窓から彼女にぼくの力作を見せるためだった。

 十秒ぐらいそうしてからパソコンを床に置いた。

 初華がぼくを睨んでいた。

 どうして、睨みつけられるのだろう?

「なんで――秋町さんを描くの?」

 剣呑な音に乗せられた言葉がやってくる。

「秋町さん?」

 ぼくは頭に浮かんだオンナノコをそのまま描いただけだった。

 それが秋町さん、その人だなんて識らなかった。

「識らなかったんだ」

「そうだよね……」

 今度はうってかわって、消沈した声だった。

 癖っ毛の髪を指先で手遊びする。

「そうだよ。ぼくは秋町さんなんて識らないんだ」

「うん」

 彼女は得心したようだった。それを証明するかのように、何度も何度も首を縦に振った。あたかも、自分自身に言い聞かせているかのようだった。

「それ――消してよ」

「なんで?」

「私が気にいらない」

「ごめんなさい。でも――」

「でも?」

「一生懸命描いたんだ」

 窓枠の中から、初華の姿が消えた。不安になった。

 ぼくは捨てられてしまったんじゃないか、そんな疑念がやってきた。額から塩っ気の多い汗が出た。

 でも、それは取り越し苦労だった。

 彼女はすぐに戻ってきて、再びぼくにその姿を見せてくれた。

「だったらさ、私を描いてよ」

「初華を?」

「うん。そしたら――赦してあげるよ」

「解った。そうする」

 初華を描くのはイヤじゃない。全然OKだ。

 目を閉じて、頭の中に彼女の顔を思い浮かべようとした。浮かばなかった。瞑目して真っ暗になった景色にはなにもなかった。秋町さんとやらは簡単に思い描けたのに……。

 毎日、見ているはずなのに妙だった。

 頭をよじれそうなほどに捻った。

 無駄だった。

 最終手段にぼくは打って出ることにした。

「写真とかない?」

「待ってて」

 ぼくは何時間もかけて彼女を描いた。

 初華を描くのだからと意気込み過ぎていたキライもあるが、それだけじゃない。

 写真という資料があると、似せなくちゃいけないという脅迫概念があった。その所為で、なかなか最後の一筆にたどり着けなかった。線のひとつひとつのズレが無性に神経を逆撫でしてくるのだ。

 ぼくがMSペイントと写真のあいだを右往左往しながら、悶々と筆を振るっているとき、初華はレポートを書いていた。

 大学生協で販売されているレポート用紙と彼女は首っ引きしていた。

 エンピツをくるくる回したり、鼻の上に乗っけたりしていた。たまに熱力学の教科書に目を落とした。

 六時間くらいを費やしてようやく完成した似顔絵に彼女は満足した様子だった。

 さっそくプリントアウトして、自分の机の上に飾るんだといった。それは恥ずかしいと、だから、やめて欲しいと懇願した。ぼくの請願はリヒューズされた。

 彼女はほんとうにぼくの拙い似顔絵を机の上に飾ったらしかった。らしいというのは、箱のなかからじゃ、それを拝むことが適わないからだ。

 見えないということは、気恥ずかしさを漸減させるのに一役買った。

 

 

 五日目

 

 がさごそという音と共に目が醒めた。

 初華が前かがみになっていた。

「なにをしてるの?」とぼくは訊ねた。

 彼女は振り返ることなしに短く応える。「アルバム」

「アルバム?」

「そう。アルバムを――探してるんだよ」

「なんで?」

「なんででもいいでしょう?」

 ツンケンな様子だった。

 今日の彼女はご機嫌が麗しくないらしい。生理だろうか? おおいにありうる可能性だった。

 カノジョは生理痛そのものは大したことではないんだ、としきりにぼくに言うクセに、態度がふだんとがらりと違ってしまうので、ぼくのカノジョが月の日にあることを容易に識り得た。初華も同じなんじゃないかと思った。ぼくのなかでオンナノコの規矩となっているのは彼女ただひとりだからほかの可能性を慮ることをしなかった。

 しかも間の悪いことに、このとき、ぼくは自制心を忘れていた。それは遠い忘却の地平にあって、だから、自然に口が動いてしまっていた。

「生理?」

 訊ねたぼくが愚かだった。オンナノコにこんなことを訊くべきものじゃなかった。口は災禍のもとだ。

 ゆっくりと、緩慢に初華の首が上下した。彼女は厳しい眼差しをぼくに送りつけ、それから低い声で、

「馬鹿なこと言わないでよ」

 反射的にぼくは謝った。「ごめん」

「ま、いいよ。事実だからね――まったく、困りものだよね。人間、生きてるとさ、そういうシガラミがあるから。社会的なものってのは挿げ替えられるし、いざとなったら無視してもいいけど、身体は一つだからね」

 愚痴ったらしいものを述べたててから、初華は嘆かわしいといわんばかりの身振り手振りをしてみせた。

 生理であるのは本当だったようだ。

 初華の目が線のように細まった。

「いいよね。オトコノコは生理なくって」

 間髪与えず、応えるぼく。

「そんなことはないよ。男だって数日、やらないとダメなんだ」

「オナニー?」

 臆面もなく彼女は言った。

 あまりにも堂々としていたので、羞恥心を感じるのはぼくの側だった。

「……そう」

「なんで、春彦くんが照れるの?」

 きっとぼくの頬は紅潮していたに違いない。鏡があったならばぼくはそれを識ることができただろう。されど、箱のなかと外を連絡するガラス窓の反射率は悪く、そこにぼくの顔は映りこみはしない。僥倖だった。

「だって――」なにか言い訳を搾り出そうとした。だが、なにも浮かばず、ぼくは話題を切り替えることでお茶を濁すことにした。このままじゃ、男の生理について語らざるおえないような気がしていたのだ。「アルバム、見せてよ」

 三秒ほどの短いディレイがあった。

 初華は首を少しだけ動かし、箱の窓の上部へ向けた。彼女の丸っこい顎から首へのラインがそそりたつようになる。彼女は言った。「まだ――探してる最中なの」

 

 アルバムはそれからしばしして見付かった。

 もともとそんなものの多くない部屋なのだから、探すまでもないんじゃないかと内心思ってはいたけれど、口禍に見舞われるのは二度と勘弁だった。

 写真屋でもらえるような取り立てて特別さのないアルバムには『大学入学〜』とタイトルが油性マーカーで書かれており、世俗に関心のない彼女には意外な気がした。いや――初華は自分自身のことには関心があるのかもしれず、だとすれば、自分の思い出を外部保存して置こうと考えるのは至極当然の帰結ではあった。

「ほら――」と初華は一枚の写真のうえに指先を置いた。「これを憶えてる?」

 写っているのはどこかの山の頂上だった。

 彼女は登山服を着ていた。ぼくも着ていた。地味目の色合いの登山着はあつぶろしく、空気は濁っていて、撮影日は冬の時期であると思われた。

 ぼくらは肩を組んでいた。

 仲よさそうに笑っていた。

 初華だけがカメラ目線で、ぼくの視線はよこっちょへ流れている。カメラのレンズを見てはいなかったみたいだ。

 ふたりの背中を越えて、けぶるような雲があった。かかる山頂よりも低い山の緑が雲のしたにタケノコのように突き出ている。

「うん。憶えてるよ」

「よかった」と初華は手を叩きながら言った。とても嬉しそうな顔をする彼女は、口をすぼめると、「憶えてなかったらどうしようかと思った」

 きちんと記憶はある。

 ぼくらは二人で山へ登った。

「えっと――なんていう山だったけ?」

「――山だよ」初華は山の名前を言った。それは忘れているだけはある、実に憶えにくいものだった。

 何度もこれから山の名を訊ねることになるんだろう。ぼくは十回くらい耳にしないと記憶に残せる自信がなかった。

「そうだったね。そういう名前だったね」

「そうだったんだよ。そういう名前だったんだよ」

 アルバムにはぼくらの二年間が刻印されている。

 時間はその歩みを決してとめたりはしないが、(ふる)い時間を拘束させることはできるのだった。なによりそれを証明するのは写真という文明の利器であった。

 その日の朝食を忘れてしまうのはさすがに健忘症のケがあるのではないか、と疑ってかかるべきだけれど、一週間前の朝飯ならどうだろう。たいていの人は、「一週間前の朝食はなんでしたか?」と脈絡なく質問された場合、戸惑い、首をかしげ、十数秒頭を捩ったあかつきに得られる答えはおそらく――「憶えていない」じゃないかな。

 人は簡単に記憶を忘れるし、なにも人間に限った話じゃない――それなりに高等な哺乳動物であっても簡単に過去を忘却の彼方へ投げ捨てる。それが、ハードの問題か、ソフトの問題かは識らないし、ぼくの知識で明かすことはできない。そして、コンピュータといえども情報を完璧な状態で保存することはできない。

 CDROMに刻まれているデータの大半はゴミなのだということも――衆知のことであるし、ディジットなものは情報欠損しにくいように、情報の乱れを検閲できるようにタグがついている。

 けれども――人間に近しいマシンはどうなるのだろう?

 脳味噌は記憶と演算を司る場所が明確に分化されていない。コンピュータは違う――プロセッサとメモリーは別のものに違いない。

 ぼくたちは記憶を辿った。

 過去が収められた小冊子をめぐる旅路は面白いものだった。失われていた記憶が甦ってくるのだった。

 もしも――ロボット――人工知能ができたなら、彼らには《忘却できる構造》を与えたほうがきっといいし、素晴らしい結果をもたらすだろうとぼくは思った。

 すべてを憶えていたら、過去へ思いを馳せることができず、それは懐古趣味と紙一重だけれどもロマンティズムがそこにないとは、また、言い切れないから。

 ぼくたちはこの日、アルバムを観賞することに一日を費やした。

 それはとても充実した時間だったが、惜しむらくは――人物がフレームに切り取られたものが少なかったことだ。

 ニジマス釣りにいったという写真には、ニジマスのてかる緑と黄色の筋が踊っていたが、魚を握る白い手がぼくのものか、彼女のものか、判断がつかなかった。実際に釣りをしている風景は一枚とてなかったのだ。しかれども、ぼくは識っていた。記憶は嘘をつくかもしれないけれど、ぼくは彼女といったはずだった。

 釣果はあまりはかばかしくはなかったけれど、焼き魚にして、塩焼きにして――腹のなかにニジマスは収まったはずだ。

 けれど――と脳裏に不思議な色が現れて消えた。

 それは黒でもあり、白でもあった。しかし、灰色ではなかった。

 それは素朴な疑問の色だった。

 アルバムに刻まれた過去はどれもこれも、アウトドアなものだった。ぼくはたしかに、高校生のころは日曜とあらば釣りに出かけているくらいにツリキチであったのは事実だし、サークルのメンバー総出で山登りをしたこともある。

 だけど、初華には似合わない。

 どうしてか。

 似合わないとしかいいようがない……。

 

 

 六日目

 

 ぼくがそのことに気付いたのは単なる偶然だった。ぼくが目敏いわけじゃない。たまたま、のことだ。

 ウインドウズアップデートが「再起動しますか?」とぼくに語りかけた。

 初華は「ネットには繋がっていない」と言っていた。

 だから、常識的に考えればウインドウズアップデートがされるはずはない。インターネット経由でアップデート情報は配信される。アップデートされたのだから、回線がインターネットに通じているのだ。

 とするれば、彼女が嘘を言っていたことになる。ネット環境がないというのは事実無根だったわけだ。

 だけど、ぼくは彼女を信じていたし、昨晩彼女はパソコンをいじっていた。なにをしていたのかは識らないが、レポートでもあったんだと思う。

 つまり――。

 彼女はぼくに外界と接触させたくないから、いつもネット回線を切っていたのだと考えられる。それはそうだろう。ぼくがメールでもスカイプでもなんでもいいけれど、友人たちに連絡を取ってしまった場合、このイビツな関係性が露見してしまうのだ。しかし、きょうはそれを忘れてしまった。単純な不手際と考えるべきだろう。これがもっとも良心的で、彼女を信頼しているものが導き出すべき答えだ。

 約一週間囚われの身だったぼくは外の世界がいま、どうなっているのか、興味がないわけじゃなかった。しかし、他方、調べるべきことも頭のなかに思い浮かべられるわけでもなく、なんとなくのネットサーフィンをした。

 一週間行方不明なのだから、ぼくのことがニュースになってやしないか、仄かな期待感がマウスをクリックさせたが、ぼくに関するニュースはここ一週間のものなかでは皆無だった。

 当然だと思った。

 日本の大学生は最後のモラトリアムを満喫せんと躍起だから、一週間くらいがなんだっていうのさ?

 

 初華はぼくがネットの海に漕ぎ出していたことに気付かなかった。

 

 

 七日目

 

 初華はきょうも大学だ。

 また独り、ぼくは家に、箱の中に残されている。それでも、きょうは朝しか講義がないそうなので、彼女の帰りは早い。

 さて、本日も絵を描こうと意気込んでMSペイントを起動させようとしたときだった。

 ぼくは誰かの気配に気付いた。

 シックスセンスに誘われて瞳を向けた。その先に映ったのは二人組みだった。いつの間にか、ガラスの向こうに二人の男女が立っていた。

 ぼくは心底驚いて、言葉を忘れた。

 初華はきちんと部屋に鍵をして学校に行くはずだし、だとすれば、この二人は不法侵入者――窃盗犯。けれど、そうとも思えない。

 女のほうは小柄なアッシュブロンドで、品はよさそうだったし、男のほうはだらしない感じがしたが犯罪者には見えなかった。

 いったい、何者でなにをしにきたんだ?

 アッシュブロンドの女が言った。なんでもない風だった。はいこれから世間話の開幕です。そんな調子。

「あなたは、アイザック=アシモフをご存知ですか?」

「名前くらいは――」聞いたことがある。有名なSF作家だったはずだ。

 彼女はぼくの答えなど最初から気にしていない様子で、ぼくの言葉に自分の言葉を被せるように続ける。

「彼は――正確には編集者キャンベルとの共同で、ですが、ロボティクス三原則、というのを考え付きました」

「はぁ……」

「これくらいは――識っていますよね?」

 女は小首をかしげた。

 言葉らしい言葉はぼくの口からは出ない。

 出るのは漏れる呼気ばかりだ。

「はぁ……」

「もっとも、言語というのは恣意的ですからね、ロボティクス三原則には――いわゆる定義の範囲についての問題、フレーム問題といわれるものですね、これがついてまわります――」この女は何を言っている? ぼくは訝しむ眼光を送ったが、全く彼女は意に介さなかった。漫然と講釈を垂れ続けるのをやめたりはしない。「アシモフ博士は、『心にかけられたる者』にて、面白い解釈をしていますよ。――と、その前にあなたはどうやら、SFに疎いようですね」

 女は一旦黙ると、傍らの男に目配せをした。彼は何時の間にか、ホワイトボードを持っていた。瞬時に文字が現れる。

 

 ロボティクス三原則

 

 第一条 ロボットは、人間に危害を加えてはならぬ。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならぬ。

 

 第二条 ロボットは、人間によって与えられた命令に服従せねばならぬ。ただし、与えられた命令が第一条に反しない限りに於いて。

 

 第三条 ロボットは、第一条及び第二条に反する疑いのない限り、自己を守るべし。

 

「と、いうことです。ところで――人間って何でしょうね? まあ、アシモフ博士自身にとっても、後年ロボティクス三原則は言葉遊びのようになっていきますが、短編作品『心にかけられたる者』にて、ロボットが言葉遊びをするんですよ。人間ってのは、彼ら自身、つまりロボットたちのことだ、とね。のちに、『ロボットと帝国』で第ゼロ条が生まれた経緯もさもありなんと言いましょうか」

「何が言いたいんですか?」

 ぼくは焦れていた。

 なんなんだ? こいつら。

 こっちが箱の中から出れないと思って遊んでいるんじゃないか?

「んー。困ったね。バベッジ?」

 女が背後を振り返る。

 男はやる気のなさそうな声で言った。「ああ。そうだなぁ」

 アッシュブロンドが再びぼくに向き直った。

「もっともですね、あなたには関係ないことなんですけどね。東雲さん。あなたには三原則の枷はないですから」

 だったら、なんのために説明したんだろうか。

 解せないことばかりだ。

 そもそも、人間であるぼくにロボティクス三原則とやらを講釈する理由はいったいどこにあるっていうんだ?

 初華のためにずっと箱のなかに留まり続けるぼくは、あたかも人形のようだとそういいたいのだろうか? これは婉曲表現なのだろうか。なんていうイヤガラセ。一体全体、どこのどいつの差し金なんだ?

 ぼくはいろいろ考えながらも、二人組みを睨むのをやめなかった。

 こっちの思案など素知らぬ顔。銀髪女は言う。「人は嘘をつきます。なんのために嘘をつくのでしょうね? 人は人が嘘をつく前提で生きています。優しい嘘というのものがあります。これは――許される嘘と一般的には解釈されています」彼女はいったん言葉を切った。ホワイトボードを指差すと続けた。「ロボティクス三原則第一条の――人危害を加えてはならない。人間三原則というのがあるんですが――」

 彼女はホワイトボードを叩く。

 しょうがないといった顔付でバベッジなる男が頷くと、ボードの内容が書き換わった。

 

 人間三原則

 

 第一条 人間は、人間に危害を加えてはならぬ。ただし、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼすことがある。

 

 第二条 人間は、人間に真摯であれねばならぬ。ただし、嘘をつくことはままある。

 

 第三条 人間は自分のことを自分ですべきである。ただし、やる気がある場合に限る。

 

 ぼくの厳しい視線そのものはなんの効果もなかったが、女は長話をする気もなかったようだ。軽く肩を震わせてから、言った。

「では、こうしましょう。ここに短編連作『アイ、ロボット』収蔵の『うそつき!』のファイルを置いていきます。ついでに、『心にかけられたる者』も置いておきましょう。――あとで、読むといいですよ。――嘘のフレームはいったいどこにあるんでしょうね? それは写真のように区切り撮ることができるでしょうか?」女は意味深に笑った。「では、さようなら」

 二人組みはいなくなった。

 不思議なことに彼らは物音ひとつ立てなかった。もしかすると、やり手の泥棒なんじゃないかと思った。

 ほんものの詐欺師ほど身なりがよく、ヤクザの幹部ほど礼儀正しいというのと一緒で高等な泥棒ほど泥棒らしからぬものなんじゃないだろうか。

 だとしたら――なにを彼らは盗りにきた?

 ――解らなかった。

 玄関の開く音がして初華が帰宅したので、ぼくは考えることをやめた。

 ただ――「嘘のフレーム」というのが気がかりでしょうがなかった。

 

 

 八日目

 

 渡された小説を読んだ。

 ぼくは日頃読書なんかしないし、活字を見るのは好きじゃない。目が疲れるというのが正直なところだ。

 途中で投げ出しそうになること幾たび。

 読破できたのは、短編だったからだろう。長編小説であったなら、ぼくは読了することなど決してできなかった。

 まず、人の心を読めるようになってしまったロボットが人間に危害を加えないように嘘をつき、さらに嘘をつき、嘘を嘘で上塗りしていく滑稽な話が一つ目。

 二体のロボットがロボットにしか解決できない問題に取り組み、その結果、自分たちこそ人間であると確認してしまう話が二つ目。

 どちらもなにをいいたいのか。さっぱりだった。

 いや――ひとつ確かなのは人間の定義をめぐる問題だろうか。そう考えれば、わかりかしテーマは判然としている。

 定義の問題というのは、難しい。おそらく正しい答えはないし、答えがないことこそが、あの女がいっていたようにフレーム問題を引き起こすのだろう。どこに線を引いて区切ればいいのかが、マシンには解らない。

 

「また、似顔絵描いてよ」と初華が科をつくりながら、ぼくに言ってきた。

 ぼくは一も二もなく頷いた。

 なんだか『ミザリー』みたいだった。

 写真なしに描いた。

 ペインターズハイはやっぱりやってきて、無我夢中。熱病に冒された人のようにペンを走らせる。

 そしたら、どうだ! 描きあがったのは秋町さんという女性だった。

 ぼくは慌てて消そうとした。しかし、初華は目敏かった。

 彼女は癇癪を起こした。またたくまにやってきた地震だった。

 わけの解らない言葉を――罵詈雑言だったのかすら怪しい――ぼくに投げる。一方的に投擲の嵐に晒された。ぼくは耐えた。彼女の怒りが静まるまで、忍耐強く待った。待つことが唯一の講じられる手だった。

 箱の中にいるぼくには手を出せなかったし、こちらも手を出せない。あるのは口撃のみ。駁してもいいのだろうけれど、ぼくはそうしたくなかった。だって、彼女を憤らせたのはぼくの(せめ)なんだもの。

 オニババアやヤマンバのように髪を振り乱した彼女は言った。肩と胸が激しく上下していて、息が荒い。ハァハァという音が聞こえてくる。「どうして、秋町さんを憶えているの? 私は……そんなこと教えてないのに」

 初華の頬の筋肉がわずかに盛り上がった。奥歯を噛んでいる。噛み締めている。

 ギリギリという音がしそうだったが、幸いにもそのあまり心地よくない響きにぼくが晒されることはなかった。

「そっか――」彼女は両手を打ち合わせた。右手が拳で、左手の掌に打ち下ろされる。ポンという間の抜けた音がして、「彼女が生きているからだね」

「へ?」

「殺せばいいんだよね」

「なにを言ってるの? 初華」

 殺すだなんて物騒だ。

 そこまで怒らなくたっていいのに。

 ぼくは彼女を宥めすかそうとして――彼女が本気であることを識った。

 彼女の目は少しも笑っていなかったし、また逆に怒ってもいなかった。冷徹さだけがそこにあり、眼球は炯々と輝くように不気味で、つりあがった口の端っこから除く犬歯はいまにも得物に突き立てんばかりに小刻みに震えている。

「春彦くんは――私だけのものなんだから……」

 

 

 九日目

 

 玄関の扉があく音。

 続く足音はふたつ。

 いつもなら――ひとつ。

 だけど、きょうはふたつ。

 ひとつは初華で、もうひとつは――。

「どうぞ、秋町さん」

「ねぇ、なんの用なの?」

「ここに春彦くんがいるんだけど」

「ほんとうに!」

 驚きのこえを秋町さんがあげた。彼女はどたどたとした物音をたててキッチンを抜けてリビングへやってきた。

 彼女はぼくのあたまのなかに思い描かれたとおりの人だった。

 さして美人というわけじゃないけれど、やっぱり特別な人だった。

「いないんだけど?」

 しげしげと六畳間を見渡してから彼女がぼやくと、すぐさま初華が応じた。「お風呂場いってみなよ」

 ニタァと初華が笑った。その笑いはニタァとしか形容できない。

 悪魔のほくそ笑みだった。

「臭いんだけど……」

 秋町さんが鼻を摘むのが見える。

 見るからに眉根を歪ませていた。

「そりゃ、そうよ。ホルマリンがお風呂いっぱいぶんも見付かるわけないじゃないの」

 耳をつんざく音。まさにそれ。

 金切り声。

 秋町さんのものだった。

 彼女は洗い場から飛び出すように出てきた。

 彼女の顔は泪で濡れ、驚愕と恐怖と怯懦に顔がイビツに歪んでしまっていた。彼女は気が動転していて、立っているのもままならなくなり、床にへたり込んだ。

 震える声で彼女が言った。「なにを……なにをしたの? あの――あの黒ずんだ……」

 言葉は途切れ途切れだ。

 手で口元を押さえ、彼女はえずいた。

「殺しちゃったの。だってね、春彦くんいうこと聞いてくれないんだもんね」初華はキッチンへ向かった。なにかが輝き、翻った。光が白刃を呼び起こす。――再び戻ってきた彼女の手には包丁が握られていた。「でね――私、つくったの。私のためだけの春彦くん。なのに、なのに、あんたの絵を描くんだ。ねぇ? どうして? ねぇ、教えろよ!」

 初華が包丁を振りかぶった。

 彼女の狙いは明白だった。

 ぼくは叫んだ。

「逃げて!」

 初華の動きが一瞬とまった。

 雷に打たれたかのごとく、秋町さんが起き上がった。彼女は思いっきり初華の手首をはたいた。

「いま――ハルくんの声がした」

 さっきまでの怯えが嘘のよう、彼女は凛呼としていた。彼女は初華を()めつけた。

「春彦くんは死んだの!」

 包丁を失っても初華はめげない。やおら、秋町さんに飛びかかったが、彼女の身体は空を切った。

 すでに秋町さんはそこにはいなかったのだ。

 彼女は軽やかに身を躱してキッチンをあっというまに駆け抜けた。ブーツカットジーンズのポケットからケータイ電話を彼女が取り出すのが見え、それを最後に彼女の姿はぼくの視界から消えうせた。

 玄関の扉が乱暴に開閉される音色が六畳間に充ちていた。

「あはは」

 初華が哂う。

 初華が哂う。

 畳のうえに投げ出された包丁を握ると、ぼくのほうへとにじりよってくる。

 アイスホッケーマスクを欠いた女ジェイソンみたいだった。

「ねぇ、ねぇ。春彦くん。どうして、秋町さんばかり見るの? あのビッチのどこがいいの? ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ」

 ねぇがリフレインする。

 多重奏されるねぇが迫ってくる。

 ぼくは背中を逸らそうとして――。

「初華」

「あなたをつくったのは――私! 私なの!」

「なにを言っているの?」

「まだ――解ってないの?」

 初華は哂う。

 哂うのをやめない。

「あなたはフェイクなの。私の人形なの! 私のためだけに、私がつくったの。ほんとうの東雲春彦はもう息をしていないんだッ!」

「ぼくはここにいる」

 意外と冷静な自分にびっくりした。

 ぼくは彼女の言葉を鵜呑みにする。

「箱の中? そうだね――そう認識するように仕向けたんだもの……。そんなの、あたりまえじゃない!」大袈裟な動作で彼女は諸手を振りかぶった。包丁の腹が室内灯を反射する。「あなたはいつ、寝る? いつ、トイレに行く? いつ、ごはんを食べる? 髭だって伸びない! お風呂にだって入ろうとしない!」

 言葉を失うとはこのことだった。

 反論することがなにひとつできない。

 ぼくはきょうの朝食のメニューを憶えているが、その味を記憶していない。

 寂寥感が訪れたが、怒りや哀しみは微塵も訪問ぜず、ぼくは彼女を見守った。

 初華は哂いながら続ける。

「あなたと私のあいだには――二年間の思い出なんかない! 全部まやかし。私たちの道程はまだ始まってから一週間しか経ってないのッ!」

 登山の思い出は嘘だったのか。

 不自然なアルバム。そう――あれはきっと合成写真だったのだ。

「もう駄目だね。私も同じにならなきゃいけないんだ」

 血飛沫が飛んできた。

 箱の窓が赤黒く染まった。

 初華が頽れた。彼女の首元から噴水のように血潮が噴き出していた。

 そして――画面が真っ暗になった。ぼくは死んだような気がした。

 

 ポリゴンとテクスチャの園。

 ぼくたちは河のほとりに身を寄せていた。

 フォトンのようなものが河面のうえに踊っている。現実ではありえない演出だった。

「ねぇ、ニジマスつりを憶えている?」とかたわらの初華が言った。

「憶えていない」とぼくは言った。

 初華の首がしなった。

 手が伸びてきた。

「あなたは――あなたはッ!」

 彼女の指がぼくの首を捉える。

 ぎりぎりとした膂力。

 締め付ける握力。

 こんなことじゃぼくは死なない。

 ぼくは死なない。

 ぼくは――人形。

 なのに――頭の中がぼんやりしてきた。

 死ぬとき人間は走馬灯を見る。

 ぼくは人間じゃないのに、それを見た。

 ぼくのカノジョ――ガールフレンドの秋町彼方が微笑んだ。天真爛漫な笑顔がぼくを高天原に見送った。

 

 ***

 

 TVの画面でニュースキャスターが喚いている。

 緊急特番だ。

 番組の日程を変更して放送しておりますの注意書きがテロップとして画面下部を河のように流れている。

『凄惨な事件です』

 LIVE映像として映し出されたのはとあるアパルトマン。

 三階建てのボロっちいものだった。

『二人の死体が発見されました。一人は○○大学の二年生東雲春彦さん、もう一人は同級生の高嶋初華さん。東雲さんの死体は浴槽で発見され、その腐敗状況からすでに死後数ヶ月が経過していると思われます。いっぽう、高嶋さんの死体は数日内に――』

 報道員は興奮しているようだった。

 ニュース映像を見ながらバベッジが口を開いた。

「そういえば、彼らの通っていた大学には脳科学の権威がいるんだってね」

「僻み?」にんまりとした面持ち、そして弾んだ調子だった。

「いやいや。だって、おかしいだろう? フェイクが過去の記憶を持っているってのは」

「初華は――そそのかされたってこと?」

「さぁ、どうなんだろう。本人が死んでしまっては真相は闇のなかだ。ただ――一番卑近な可能性は初華が一から記憶を打ち込んだってことかな。彼女、大学へ行くといって春彦の過去を洗っていたようだしね」

「そうね。春彦の死体が死後数ヶ月ってのがなによりの証拠でしょうね――」エイダは溜息混じりに言った。「一から入力しても、過去が過去に共にいた女を想起させてしまうのは――皮肉なことね」

 バベッジは感傷的(ミセルコルディアータ)な雰囲気に与する気はないようだ。

 話題を彼は切り替えた。

「スケプティシストであるヒラリー=パトナムの思考実験に、『水槽の中の脳』というのがあるんだが――」

「――脳だけを取り出し、脳が死なぬように細工した培養槽に入れる。直接、神経細胞を外部から操作する。そしたら、そこには通常の人と同じような意識が生まれるのか。でしょう。もうなんか飽き飽きするくらいじゃないの? パンピーだって識ってるでしょ、こんな哲学ネタ」

 くだんの思考実験は水槽のなかというアイデアがよかったのか、中国語の部屋のような思考実験と違い、人口に膾炙しているたぐいのものだ。もっとも、シュレディンガーのネコほどに敷衍してはいないのは実情に違いないが。

「彼らには、脳すらない」

 押し殺したような声でバベッジ。

「そうね――」

「じゃあ、フェイクの初華がフェイクの春彦を殺したのを、どう考えるかい?」

「殺すってのはおかしいのじゃない? フェイクはデータよ。復元――」

「警察無線を聞くところによれば――」

「え? 復号できたの?」

 警察無線は筒抜けされぬようにパターンを数年ごとに変えている。

「まあ、聞け。高嶋のPCは完全に壊れていたそうだ。彼女たちは死んだんだよ。――『うそつき!』ってどういう話だったけか?」

「ロボットが人間の為に嘘をつき続ける話。危害を加えないためにね」エイダはつっけんどんに言い放った。「っていうか――バベッジ」アッシュブロンドをぞんざいな手並みでかきあげると、続ける。「フェイクには記憶情報をスキャンする機能はないでしょう? 確かに――初期状態でも一般的な大人と同じだけの語彙、知識は持っているけれど」

「ヒントはオープンソースと彼女の専攻」

「ハァ?」

「テスト中だって言ったじゃないか」

「サービス開始っていったような?」

「聞こえない」

「……そればっかりね、あんた……」

 今回はけたぐるのは堪忍してやるエイダだった。


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