ケーススタディ一 マイフェアガール
ケーススタディ一 マイフェアガール
一
片代杭と最初に出会ったのは中学校の入学式だった。体育館へと続く並木には、櫻が咲いていた。花びらのいくつかはグラウンドに落ちて、雑踏に蹴散らされ、ソールで踏まれ、泥をかぶって、汚い茶色に染まっていた。
母親と共に体育館を目指す新入生たちは、中学生といっても、多くはションベン臭い小学生と大差なかった。母親と手を繋いでいるものさえいた。
そんな中にあって、彼女の存在感は抜きん出ていた。ほとばしるオーラが違ったんだ。雑草の茂みに、自然界にはあり得ないはずの――青いバラが紛れ込んでいるかのようだった。そのくらい浮いていた。
大人びたその顔と雰囲気にぼくは呑まれた。ぼく――稲浜南は十二歳で初恋をした。一目惚れだった。人を容姿で好きになるなんて、そんなのクジャクだ。鳥みたいだ、と思っていたのに、これは今でも続いている。五年越しの恋路だ。
ぼくらは、今年の春に高校二年生になった。
彼女は案の定、モテた。男女のいかんは問わなかった。神様というのは不公平なヤツで、気分屋で、むちゃくちゃ人の情を理解しないので、だから、ふとした思い付きで一個の人間に一物では飽き足らず、二物も三物も与えてしまう。何一つ授からなかったものとしては、憎らしいこと甚だしい。
杭は文武両道のうえ、スタイルのよい美人だったし、唯一の欠点はちょっと背が低いことだったが、気立てもよかった。ぼくなんかにも、気さくに話しかけてくれるくらいに。
ぼくにはトモダチがいなかった。生来、人と話すのが得意じゃなかったし、どうして他人と付き合えばいいのか、誰も教えてはくれなかった。いや――教授されなくても自然に身につくのかもしれないけど、ぼくは身につかなかった。
中学二年生のときに「おまえって、何が楽しくて生きてるの?」と面と向った状態で言われたことを憶えている。これは、生徒のものではなく、教師の言葉だ。教育者にすら、ぼくは見限られていたのだ。
事務的な会話以外でぼくが言葉を交わすのは、杭しかいなかった。
教室にいるのが何だか億劫で、休み時間、クラスの中にとどまっていることは稀だった。
弁当は屋上で食べた。たまに砂粒が舞い込んでくる以外の不便はなかった。むしろ、夏場はぽかぽか陽気に当てられてなんだか気持ちよかったし、秋は小春日和、冬だって豪雪地帯でもなく日差しは暖かいのだった。
世の中には、便所飯というものがあって、イジメられっ子は誰にも見つからぬように、トイレで弁当を食べるんだそうだ。あいにくと、ぼくはいわゆる空気で、存在そのものがないことにされていたから、イジメによるシカトとはちょっと違った。イジメられっ子本人は辛いかもしれないが、彼らは、まだ、存在を認められている。それは、幾分がぼくよりもマシなんじゃないかと、常々思っていた。
昼休みは長いので食事だけでは、とうてい時間を潰せず、図書室に入り浸った。最初のうちは日本語の本を読んでいた。だけど、そのうち英語で書かれた本を読むようになった。英語の本だと、現実感が遠くなるから、自分にとてもよく合っていたんだと思う。
イギリスにもアメリカにも行ったことはないから、英語のそものがファンタジーだった。ハリウッド映画は生身の俳優が出ていたところで、ファンタジー性は変ったりしない。合衆国は本当はデブの闊歩する国だし、イギリスは身分制度の差別社会に包まれた国だ。でも、そんなこと日本に棲むぼくには関係がない。
毎日のように読んでいた。しかし、それでも、英語の成績はよくなかった。日本語が介在するのがイヤだったから英英辞典を使っていたのだ。
教師に当てられたとき、「Realityは、あなた がstopするとき、believingを、それを、goしない awayには」と言ったら、「ふざけんな」と怒られ、廊下に立たされた。でも、おかしい。RealityはRealityなんであって、何だって言うんだろう? 上手く訳すって何だ? 自分たちの身近な言語に変換することで安息しているだけのような気がしてならなかった。日本語訳された『ワーズワース』が愚にもつかないものになっているのと同じで……。
中学のころ、杭は毎日のように図書室にやってきた。彼女はなぜか、いつも同じ本を読んでいた。たいてい、ぼくの向い側に座った。
書名は『ドグラ=マグラ上巻』。三年間も彼女はその本だけを読んでいた。ついぞ、彼女が下巻を読む姿を見たことはなかった。さぞや、難解なのだろうと思い、読んでみたら、キチガイ小説だった。難解――かどうかは解らないが、一読で把握できるようなものではないのは確かだった。彼女らしくない、チョイスだった。どちらかといえば、ぼくに似合っている作風だと思った。
初めて彼女にぼくの側から話しかけたのは、二年生の終わりだった。どうしても気になってしょうがなかったのだ。
まず、話しかけるとき、どんな風に呼びかけるべきか? あいさつする? いきなり、名前を呼ぶ? そんな些末にぼくは拘泥した。でも、結局はストレートに訊ねることになった。絡め手の手管など、識らなかったのだ。
「片代さん……どうして、いつも同じ本読んでるの?」
彼女は目をしばたかせたあと、言った。「別に、何でもいいんだよ」
「何でも?」
「うん。何でもいいんだ。――ただね、ほら、この表紙絵」文庫本を掲げた。「――なんかエロいじゃん」
確かにちょっといやらしい表紙だった。ズリネタにはならないけど、なんだか、変な絵だった。斜視のような目付きの女が大股開きで描いてある。
「そういう話なの?」
「どうなんだろうね」曖昧な顔付になった。まるで、内容を知らないみたいだった。読んでいるんだからありえないはずなのに、だ。「あ――でもね、冒頭がおもしろいよ」杭は一旦言葉を区切って深呼吸した。指をタクトのように左右に振りながら続けた。「胎児よ、胎児よ。なぜ踊る? 母親の心が解って、恐ろしいのか?」
詩を朗読しているみたいだった。特徴的な声質を彼女は持っていて、やや鼻にかかったところがある。
顔立ちは凄く大人びているのに、声は拙い感じ。どうしようもないギャップがある。これも含めて、ぼくは好きだった。聖徳太子じゃないけれど、かしましい女子たちの話し声の輪の中から、彼女の声だけを拾うこともできるくらいだ。
「何それ? 詩?」
「識らない」イタズラを咎められた子供のように、彼女は屈託なく笑うのだった。にまにましながら、杭はぼくの手元を見た。そこには薄手のペーパーバックが握られている。「ナンくんは、いつも洋書、読んでるよね? なんでかな?」
ナンくんというのは、ぼくのことだ。彼女だけが呼んでくれる、ぼくの渾名。彼女がつけてくれた。『南』を音読みして、ナンとのこと。杭は自分の渾名が『コウ』だったのでそれに倣ったんだと思う。本当のところは少しも気に入ってはいなかったが、彼女が呼んでくれるのなら、それは気に入っているのと同義だった。
「なんとなく」
「ふぅん。なんとなく、か。案外、そんなものなのかもねぇ」独り言のようにうんうん頷く。それから、手をクラップした。「――じゃあ、英語教えてよ」
どうして、ぼくが彼女に英語を教えることになるのか。話の展開についていけなかった。女の子というのは、辻褄の合わない話をするもんだと、どこかで聞いたのを思い出した。たぶん、クラスのスケコマシどもが話していたんだろう。
「……無理だよ」
「何で?」
「片代さんの方がずっと成績いいじゃない……」
ちょっと心外そうな顔をしてから、彼女は『ドグラ=マグラ上巻』を閉じて、机の上に置いた。エロ目の表紙が下になっている。
「成績とか、関係ないの」
彼女は怒っていた。毛抜きもしていないのに整った眉が大きく歪んでいた。ぼくの発言の、一体全体どこあたりが逆鱗に触れてしまったのか、さっぱりだった。さっぱりだったけれど、ぼくは「ごめん」と言った。
杭はすぐには応えず、図書館の壁かけ時計の分針がふた回りしたところで、言った。「私こそ、ごめんなさい」
その日はなんとなく気まずくなったけれど、次の日も次の日も何事もなかったかのように、杭は図書室にきて、『ドグラ=マグラ上巻』を読んでいた。四十五分の昼休み、二言三言会話を交わすだけの日々は卒業まで続いた。彼女とぼくの距離は、図書室にある机の天板の差し渡しより、短くなることはなかった。長くなることもなかった。
中学生のときは毎日がこんな調子だった。だけど、高校に進学してからはがらりと変った。話す機会がさらに輪をかけて減った。正確にいえば、ぼくが彼女のことを避けるようになった。
中学時代と同じくして、あいかわらず空気な存在で、ネクラなパーソナリティーを持つぼくにとって――色気づく年頃のクラスメートたちはまぶしく、目を逸らすしかなかった。目ん玉が潰れてしまいそうだと、本気で感じた。
青春は、アルコールに、どこか似ている。下戸にとっては毒でしかなくって、呑み過ぎてもダメ。そして、ぼくは下戸だった。青春分解酵素はなかった。臭気にあてられただけでも、かたっぱしから、嘔吐感を催すのだった。
杭もどんどん魅力的になっていった。そして、毎日忙しそうだった。
水泳部と天文部を掛け持ちしていて、図書委員長をしていた。部活や委員会活動のない日でも、新しいスイーツショップが駅前に云々、なんたらかんらたの新譜が云々、さぁカラオケだ、などと――やっぱり忙しそうなのだった。青春を謳歌しているのは明らかで、ぼくたちの距離は果てしなく離れてしまうのも当たり前だった。
彼女は太陽神だ。陽の女神がいなくては、月読命は輝かない。杭を取り巻く男子たちは、衛星なのだった。翻って、ぼくはといったら暗黒の中、ぷらぷらと漂っているアステロイドに違いない。名前はあるのに、誰も名前も識らない……そんな……。
ぼくは願っていた。
ぼくのような存在と話すと、彼女の評判がきっとさがる。だから、避けたんだ。彼女が図書委員長をしている関係上、図書室にも行けなくなった。
ぼくの唯一のトモダチは、物言わぬ、屋上の塔屋の上に載った給水タンクだけだった。こいつの膚は、夏場には太陽光で熱く、冬場には冷気に当てられて氷のようだった。けれど、泰然自若としているさまは、心強くもあった。
中坊というのはエロに関してだけは絶大な関心があっても、セクシャルじゃなくジェンダーの差には疎いし、まだまだ子供で社会性も未熟だ。されど、高校生にもなると違ってくる。高卒で働く人もいるし、旧い時代には元服があって大人の仲間入りをした。
広く、複雑で、とらえどころのない社会というものが目前にまでやってきている時節。さあ、モラトリアムを続けるか? と訊ねられ、大学に行くにせよ、やっぱり、そこは高校以上に社会が頭の上から降って来るに違いない。
着々と、自分たちの周囲に垣根ができあがっていく。社会の垣根が。囲い込みだ。羊たちはシェパードにがんがん吠えられ、囲いに入る。
狭い学校という社会にも建前や世間体が君臨していて、それは垣根を越境せんとする人をしばきあげる。杭には、一番綺麗な芝を囲んだ垣根の中にいて欲しかった。
ばったり鉢合わせすることもあった。そんなときは、俯く。彼女もぼくを呼び止めたりはしなかった。きっと、解っていたんだと思う。ぼくたちの間には簡単に乗り越えられるのに、簡単に越えてはならない垣根があることを。
これでいいんだ、と自分に言い聞かせても、ぼくの慕情は消えなかった。むしろ、募った。募る一方だった。だんだんと、自分で自分がどうしようもない方向に向かっているのを感じて、背筋が寒くなった。
ぼくは彼女が欲しかった。片代杭をぼくのものにしたくてたまらなかった。――ぼくだけのものに。
二
杭を呼び出さなくてはいけなくなった。
彼女はぼくの隣のクラスだったから、行くのは簡単なことだった。それだのに、足は重く、鉛のようで、頭をかかえながら昼休みが到来しないことを願った。
もちろん、当たり前のように時間は流れた。昼休みがやってきた。念じたところで時間は止まらない。ぼくに、スタンド能力は――ない。
無慈悲なチャイムがなった。キーンコーンカーコン。『ウェストミンスターの鐘』だ。遠い異国のビッグベンすら、ぼくを追い立てる。
立ち上がった。
すでに、昼休みになってから十五分が経過していた。すでに昼食を終えた生徒もちらほらいて、グラウンドからは威勢のいい掛け声が否が応にも聞こえてきた。眩暈がした。心臓がバクバクする。胃酸の味がするような気がして、咽を押さえた。
ズボンのポケットに手を突っ込んで、その中身があることを確かめて、唾を嚥下した。――行こう。
四組の扉の前に立っていると、底抜けに明るそうな女生徒がぴょっこぴょっこと跳ねながらやってきた。比喩じゃなしに、本当に跳ねていた。「何かご用?」
「片代さん、呼んでくれないかな?」
「コウちん? はいはい。ブラジャー」なぜか胸元で敬礼っぽいことをして、彼女はくるっと反転した。ウインクを一つ。「待っててね。稲浜くん」
結構、待った。杭の姿は確認できた。
彼女はなにやら押し問答をしている。取次ぎをしてくれた女生徒と、そのほか数名――トモダチだろう――が杭の手を引こうとし、彼女はなにかを喚いている。彼女にしては珍しく、落ち着きがまるでなかった。
ぼくと会うことを拒否しているのかと思った。けれど、すぐにそうじゃないことが解った。彼女たちの声が大きくなっているから内容が聞き取れるようになったのだ。
「ほらほら! 稲浜くんが待ってるぞーー!」
「いやだッ! 私はいかないッ!」
「なんでー? あー、あれ? 例の好きな人が云々?」
「だから!」バンと杭は机を叩いた。周りは彼女の気迫にあてられ、静まった。「そういう風に言われたくないからッ! それに――ナンくんだって、その……」最初のテンションは消えて、尻すぼみになった。「迷惑だと……」
「馬鹿じゃないのーーぉ?」さっきの女生徒だ。「メーワクなら呼び出さないでしょ? はいはい、行った行った」杭の腕をむんずと掴んで、背後に回り、ぐいぐい押しながらぼくの前までつれてくると、「お待たせ」
「……久しぶりだね」
最初に口を開いたのは杭だった。
久方振りに近くで耳にした声は、鼻にかかっていた。
「そうだね……」
「じゃあ、しっぽりとどうぞ」
にっししと笑いながら、ぴょこぴょこ女子はそそくさとクラスに戻った。絶対になにか勘違いしている。神様に誓っていい。ぼくは彼女が思っているようなことをしようとはしていない。そもそも――できるものか。
廊下の窓際で、ぼくらは向かい合っている。
気まずい。空気が重い。見えない何かが、のしかかってくるみたいだ。でも、事態は進んでいる。だから、ぼくはもう立ち止まれなかった。
トレードマークの、艶やかな長髪をややアップ気味にしたツーテールを所在なげに触っている杭。漉かれる髪の束。毛染めもブリーチもしていない――髪。
意を決する。
「あのさ、話があるんだ……」
「うん」
「放課後に――」
杭が俯いた。それから片手でスカートのポケットをいじくりつつ、小さな声でぼくの言葉を遮った。「放送室」
「え?」
「ほ、放送室で聞く。その――話」
「うん……」
どうして彼女が放送室を指定してきたのか、解らなかった。けど、それは悪いことじゃなかった。むしろ、好都合だ。ぼくは杭を屋上にくるように言うつもりだったのだが、ぼくがこれからしようとしていることには放送室の方がずっと適している。彼女の提案を拒む道理はどこにもないのだった。
「それだけ――かな?」
「それだけ……」
「じゃあね、戻る。――放課後に、またね」
杭は逃げるようにぼくの目の前からいなくなった。なんだか、心に穴が空いたような気がして、寂寥感のある風が胸中に吹いた。
放送室には鍵がかかっていた。これは当然のことだった。誰でも無断で入っていいような部屋じゃない。
ぼくは、放送室の前で杭がくるのを待った。壁に背中を預けて――どれくらい待っただろうか。二時間は呆っとしていたかもしれない。もっと長かったかもしれないが、目分量よりも短いということはなかった。
「ごめん。待たせたね……」
杭は肩で息をしていた。そうとう急いできたみたいだ。髪の毛が濡れていた。乾かす暇さえも惜しんで部活を切り上げたんだろう。水泳部の部室にはドライヤーがあることをぼくは識っている。
「別に、そんなに待ってないよ」嘘を言った。ほんとうは、焦れまくっていた。しかし――おくびにも出す気はない。
「いま、鍵あけるね」
彼女は放送室の鍵を持っていた。職員室で借りたんだろう。成績優秀な生徒だからこそできる芸当だ。
ぼくが貸してくれ、といっても無理だ。なんやかんやと難癖をつけられて、最終的に借りられないことになる。教師は品行さとテストの得点の良し悪しであからさまに生徒を差別する。もちろん、彼らも人間なので、そのことは致し方ないし、悪い、とも思わないけど。
そういえば――杭は本来ならもっと上の進学校に行っていたはずだった。ぼくは家から近いという理由と、成績の関係でここしか通らないという二つの理由で現在の高校を受験したが、彼女はもっと上位の高校を受験できるだけの成績を持っていた。さすがに万年一位なんてことはなかったけれど、それに近かった。
ぼくと同じで――遠方まで一時間くらいかけて、通学するのが億劫だったのだろうか? 訊いたことはなかった。だから、解りようがない。識りようがない。
「あいたよ。おいで」
放送室の框を跨いだ彼女に続いた。
後手にドアを閉める。カタンと厚手の扉が音を立てた。
わけの解らない機器が放送室の大部分を占めていた。余ったスペースもテープやLD盤がそこらじゅうに散乱し、ごみごみしている。ゴミ箱にカップメンのトレイが入っているのが、謎だ。そして、ぼくの思惑通り、放送室は防音構造になっていた。
「あのさ……」
ぼくはポケットに手を入れた。指先にあたるプラスチックの塊。録音機能搭載のMP3プレイヤーだ。録音の操作を手早く済ませた。最後に録音ボタンを押した。杭の目につかぬように、マイクだけを外に出す。
「あの?」
普段、放送委員――この学校に放送部はない。だから放課後には施錠されている――が使っていると思しきパイプ椅子に、いつの間にやら杭が座っていた。
ぼくはなにか話題を提供しなくてはいけなかった。なるたけ、会話をしなくちゃいけない。なのに、何も頭に浮かばない。杭は不思議そうにぼくを見ている。ぼくの二の句を待っている。だけど、何も言えなかった。
一向に話さないぼくに愛想をつかして、杭が言った。「何ヶ月振りに話したかな……」
中学校の頃を思い出した。いつも最初に話しかけてくるのは彼女だった。旧い記憶を掘り起こすと、ぼくの側から口を開いたのは、『ドグラマグラ』のことを訊ねた、あの一回こっきりだった。
「半年?」
杭は首を左右に振る。
違ったみたいだ。
彼女は溜息混じりに言う。「もっとだよ。一年以上だよ。最後に――話したのは、『校舎が広いね。化学室どこ?』だったもん」
「そうだったかな……」
思い出せなかった。どうしてだろう? なんで、忘れてしまっているのだろう?
無性に悲しく、そして、悔しい。
「うん。私ね、てっきり嫌われたかなって――」
「そんなことはないよ」
覇気のある人間なら、唾を出しながら言うべき科白。でも、ぼくは語気を荒げることもしなかった。これがぼくのやり方だった。いや――こうしか反応できない人間なのだ。そんな風に生きて来たのだ。
「そっかぁ……」困ったような顔ををした。手遊びをした。そして、言った。「去年の、文化祭。どこにいたの?」
「え?」
「文化祭だよ。もうすぐじゃない。って――まだ、二ヶ月くらいあるかな。はは」
いつもの闊達な笑顔がそこにはなかった。機械人形みたいにぎこちなかった。作り笑いだってことが、すぐに解った。ぎこちなさそものもは些細な様子かもしれないが、彼女を観察してきたぼくには解った。
「サボったんだよ」
「そうだと思ってたんだ。ナンくんのクラス、去年は喫茶店だったでしょう? 私、行ったんだ。男子はみんな、執事コスプレしてたでしょ?」
「そうなんじゃないかな」
ふだん目立たないクラスメイトでも張り切っている人はいた。
執事喫茶というのがはやっている。と耳にした誰かが提案したはずだ。最近、はやりのアキハバラ特集とか、そんなのでやってたんじゃないかと思う。
ぼくは関わらなかった。学校が終わって放課になれば、すぐに帰ったから、実際のところ、「そうなんじゃないかな」としか応えられないのが実情だった。
「他人事みたいだね……」
「他人事だよ」
「うん――」頷きつつ、パイプ椅子を指差した。「ナンくんも座ってよ」
「いいよ」
「ダメ。座って」
怒っていた。バンバンと椅子の背凭れを強かに叩く。
憤りを示す彼女を見るのは――これで三度目だ。
中学のときに一回、さっき彼女のクラスで一回。そして、三回目がいま。なかなかお目にかかれないことだから、ぼくは脳裏に刻んだ。じっくり深々と刻み込んでから、彼女の言う通りにした。
「それでさ、拝みに行ったの。ナンくんのチェンバーレイン(執事)なコスを。それで――いなかったからさ」
「嫌いなんだよ。その……人が集まるの」
間髪入れずに杭が言った。杭は気にする様子はなかったが、声のトーンは落ちている。「識ってる。期待は――してなかった。中学のときだって、毎回そうだったもんね。それでさ、今年は――」
「今年もサボるよ」
「……そう――なんだ」
沈黙。
まだ、放送室に入ってからそんなに時間が経っていない。まだ、会話量が足りない。もっともっと喋らなくちゃいけない。もっともっと、彼女の声を録音しないといけない。
会話を潰えさせてはならなかった。
「今年は、片代さんたちは何をするの?」
「まだ――片代さん。なんだね」
「だって……」
ぼくは、心の中では下の名前で彼女を呼んでも、対面して、実際に話すときはいつも片代さんだ。それ以外の呼び方は考えられなかった。
何度か、「コウって呼んで」と面と向かって言われた気がするし、ぼく以外のクラスメートはみんなそうしていたけど、ぼくにはできない。できるわけがないじゃないか。なんて――おこがましい……。
呼ばない理由は追求されなかった。
何事もなかったかのように、文化祭の話題を彼女は続けた。
「うん。演劇だってさ」
「何をするの?」
「ベタベタだよ。『ああ、ロメオ、どうしてあなたはロメオなの?』ってやつ」
両手を拡げて見せた。
やや高めの放送室の天井を彼女は見つめた。
悲哀に歪むジュリエットだった。
「ベタベタだね」
「でしょう!」急に杭のテンションがあがった。半ば坐面から身を乗り出すようにして彼女は捲く立てた。「私は反対したんだ。どうせなら――もっと奇々怪々なものをしようッ! って。誰もしないような」
「たとえば?」
「うーん。そういわれると、なんだか応え難い。っていうかね、本当は主役――ジュリエットだけど、したくないんだ」
杭が主役なら、きっといい出来になると思った。何だってソツなくこなす彼女のことだから、演技がダイコンってこともないはずだ。いまのだって、結構サマになったいたのだから。
もし、ぼくがやったなら、きっと酷いことになる。緊張で何も科白が言えなくなる。解りきっている。
「どうして――」
「疲れるんだ。それに私は――」
杭は肩こりのジェスチャーをした。
大袈裟すぎて、ロボットダンスみたいだったが、指摘はしない。彼女はボディーランゲージが少々派手目なところがある。文字通り、身体中を使うのだ。たまに、「欧米か」ってツッコミしたくなる程度に。
「部活も掛け持ちしてるしね」
「え? 何で識ってるの?」
「三号棟の観測所に入るのを見たんだ。プールでも見た」
「はは――。天文部と水泳部、掛け持ちだね。それから、図書――」言いかけて彼女は言葉を咽の奥に引っ込めた。「どっちもあんまり疲れないよ。そりゃ、きちんと観測する場合、チームを組んでやることになるけど――星や太陽を見るのは独りでもできるし。水泳も一緒。リレーじゃなきゃ、個人技だから」
「そういうもんなんだ」
縁のないぼくには識らない世界のことだ。
ぼくは野球のルールだって、ちっとも憶えちゃいないんだから。ソフトボールが下投げで、野球が上投げ。軟式は? 識らない。そして、どうでもいい。だけど、自由形=(イコール)クロールではないことは識っている。
「うん。そういうもの――時間だね」腕時計を見ながら、言った。「そろそろ、下校勧告の放送があるから」
「……解った」
「じゃあ、訊くよ。話したいこと、何?」
やおら、杭の顔が近づいた。びっくりしてしまい、思わず背中を引いた。そのまま、ぼくは立ち上がった。
今こそ、ひめたる思いを吐き出すべき瞬間だった。
大きく息を吸い込んだ。
そして、すべての吸気を呼気に変えた。
「好きでした――」
杭の目が見開かれた。
彼女は呆けたようにぼくを見ている。
すぐさま、背中を向けた。そして、ぼくは放送室を後にした。
廊下に出てからは一目散に走った。
振り返らなかったが、背後で「コウちゃん、何してるの」「おい、こいつ石になってんぞーッ!」という女子の声がした。下校勧告の放送を教師から任されている生徒だろう。そして、杭のトモダチなんだろう。
ああ――終わった。ぼくの恋路はこうして、終わった。いや――終わらせた。ぼくは、好きでしたという意思表明をしただけで、だから、もう終わりなのだ。
彼女の気持ちがどうであれ、ぼくに付き合う気はないのだから。それに、「付き合ってください」の答えがイエスのはずがないじゃないか。
ポケットに手を突っ込み、録音をとめた。
家へと帰る道すがら、坂本九『上を向いて歩こう』のメロディが頭の中で奏でられていた。実際、ぼくは上を向いていた。
空は――青かった。どこまでも、どこまでも。雲一つない天晴れ日和だった。なのに曇っていた。
三
都市伝説。メディアが未熟な時代はいつも地方都市レベルで、首都圏の噂でもない限り、それ以上拡散するのには結構な時間がかかった。人面犬や口裂け女は全国に膾炙した。しかし、埋もれてしまったものも無数にあっただろう。
けれど、いまは違う。インターネットがある。そして、むしろ、そのインターネットこそが都市伝説の舞台だったりする。
ぼくが『フェイク』という単語を最初に目にしたのは、いったいどのサイトだっただろう? はっきりとは憶えていないが、それが人工知能に近しい何かであることを識り、無性に興味を掻きたてられた。
調べていくうちに解ったのは、フェイクに対するネット上のコメントはどれもこれも、ネガティヴなものが多数を占めていたことだ。
人工知能研究の歴史というのは旧い。
そもそも、現在のコンピュータの基礎――いわゆる、ノイマン型を作った物理学者にして数学者のフォン=ノイマンが自身の理論セルラー=オートマータに託したのは生命原理の一つ――自己増殖だった。
遺伝的アルゴリズムの創始者であるジョン=ヘンリー=ホランドにしたところで、彼はスーパーコンピュータを使う過程で、そこに生命的な何かを見た。
人工生命の夢は人類の旧くからの悲願だった。
ホムンクルスという人造生命をアルケミストたちは造ろうと必死だった。アルケミーそのものは中国発祥だが、いつの時代も人工生命に耽溺するのは西洋人だった。セルラー=オートマータの、オートマータという単語も自動人形という意味だ。
しかし、神様は人の生命を造る試みにはいつも辛く当たった。
真に人間的な意味での知能はさまざまな壁に阻まれ、実現しなかった。いまや、エンペデットシステム――電化製品に組み込まれているレベルのものでさえ、人工知能と呼びならわされるようになってしまった。
「フレーム問題が解決されていない。ファジ理論やカオス理論の延長線上に、もっと別の理論があるんじゃないだろうか? われわれは、パースペクティヴを間違っているのじゃないか? 視座をかえたとき、ニュートン力学が通じない世界があることを識ったように」
「あれは、過剰な期待感だったのだ。確率論が未来すらも予見すると期待されたのと一緒だ。一足す一という簡単な数式にしても、高度に一般化されてはいるが――果たして、りんごとみかんを一個づつ足した場合、果たして、それは二個なのか?」
「つまるところ――コンピュータ上で知能を再現しようとするのは、原子分子から生命をつくるようなものだ。ニセモノをつくるなら、フルクラッチはやめるべきでは? いやしかし、ウェットウェア的な試みは的を射ているのかもしれないが……」
「LISPといったところで、所詮、数字を言葉に置き換えただけだ。人間のシニフィエとシニフィアンの関係性はもっとコンプレックス(複雑)なもののはず。人間を記述するのが言語であるとすればだ、言語学が曖昧模糊な状態で人間の模造など造れるものか」
と、反論は色々だった。
それでも、ぼくはひたすらに検索をした。フェイクというものを探した。
フェイクは普通に見付かった。
何の変哲もないウェブページに、フェイクのはあった。しかも、不思議なことに日本語のページで、至極あっさりしたレイアウトだった。HTMLだけで書かれたような――。無味乾燥なのだった。
ページにはフェイクについての記述があり、噂通り、人工知能であると書かれていた。ページの最下部にダウンロードできるリンク。ぼくは迷いもせず、クリックした。
ダウンロードはすぐに終わった。五分とかからなかった。光回線だからだろうか。
プロパティでファイルサイズを見ると一〇〇Mしかなかった。小さい。本当に人工知能として機能するのか、ここにきてぼくは不安に囚われた。
ファイルは圧縮されていた。解凍すると一二〇Mになったが、やっぱり小さいことに変りはないのだった。
それでも、やるだけやってみようという気持ちになって、くだんのウェブページを開きなおした。しかし――不思議なことだったが、404 NOT FOUNDと出た。おかしい。更新しても何も変らない。回線が切れてしまったのかと思い、ホームに設定しているページを出してみた。問題なく表示された。
困った。これじゃ、使い方が解らない。
どうしたものかと考えあぐねた。けれど、すぐに解決した。圧縮されたいた中にテキストファイルが含まれていたのだ。それは、ただ、readmeという陳腐なタイトルだった。中身もそれに準じていた。製作者の名前もなく、使い方が簡潔で無機質な調子で書かれていた。
フェイクの初期設定の仕方
一、実行ファイルを選択します。
一、初期設定タブをクリックします。
一、フェイクに与える容貌のところに元となるファイルのアドレスを入れます。
一、ファイクに与える音声のところに元となるファイルのアドレスを入れます。
一、最後にフェイクの精製ボタンをクリックします。
注意・一度設定したら削除はできません。
「あれ?」
解凍元のファイルがなくなっていた。ゴミ箱に入れた覚えなどないのに、跡形もなくなっている。
ダウンロードページは消えてしまったし、こうなったら、初期設定を間違えるわけにはいかなくなった。ぼくは焦った。
焦るとヘマをするクセがあるから、それを考えると余計に焦燥感が振って来る。
焦らぬよう、焦らぬよう、気を遣いながら説明書を読み進める。
元となるファイルについて
一、容貌に関しては、動画、静止画、問いません。また、想像上のものだとしても、結構です。但し、画像が荒い場合やあまりにもデフォルメが過ぎたイラストなどの場合、不都合を来たす恐れがあります。
一、音声に関しては、なるたけノイズがないものが好ましいです。雑多な人物の音声が入っている場合も、特定の人物の音声だけをスキャンする機能がフェイクにありませんので注意してください。
フェイクに読み取らせる画像データの入手は簡単だった。
杭は有名人だし、ファンも多い。だから、必然的に盗撮という不埒な手段に出る人物が多いのだ。ぼくは、彼ら盗撮者の根城である写真部へ足を運んだ。
トモダチのいないぼくではあるが、写真部が盗撮の巣窟であることぐらいは識っている。
何年も昔のポスタの張られた部室の木製ドアをノックすると、部長と名乗る生徒がひょっこり顔を出した。
いかにも写真撮ってますといった風体の男だった。ぼっさぼっさの髪に、いまどき珍しいやぼったい黒フレームのメガネ。しかもそのメガネをナルシシスティックに動かすもんだから、いっそう、その感慨は強くなった。
「何か、用?」
「片代杭の――」
「ああ、それか」部長は目を輝かせた。待ってましたといわんばかりだった。部室の奥に一旦引っ込んでから、一冊の装丁本を手にして戻って来た「これだよ、これ。実は最後の一冊。運がよかったね」
「いくらですか?」
「三〇〇〇円」
正直、高いと思った。だが、ぼくはもちろん払った。
写真を入手しないとフェイクが形作られないのだから、払わない道理はどこにもないのだ。
「毎度あり」
にんまり笑顔の写真部部長。
きちんと装丁しているところから察するに、印刷所で刷ってもらっているのは確かだ。値段設定からして、何十冊も刷ってるんじゃなかろうか? 写真部のよい資金源になっていることだろう。
しかも、シリーズNO6とある。代々受け継がれているのかもしれない。
校内の美人さんの盗撮。写真部の伝統。
まったく、いやな伝統だ。
長居なんてしたくもない。さっさと立ち去ろうと踵を返し、
「待ってくれよ。きみ、稲浜くんだろう?」
どうしてこいつはぼくの名前を識っている?
訝った。声を低くする。「そうですけど」
「きみも本になりたくないかい?」
「ハァ?」
意味が解らなかった。
「取り分は七:三でどうだ?」
何を言っているんだ? こいつ。
ぼくを写真にしてなにがおもしろいのだろう?
キトクな人もいたもんだ。
「用事は済みました。さようなら」
付き合ってられない。ぼくは部長に背中を向けた。
早歩きで部室を去る。
背中から、「五:五でもいいから!」とまったく、意味不明なことを言っている彼の声がした。ガン無視したのは、言うまでもないことだ。
写真を手に入れたので、さっそくフェイクにデータを読み取らせた。
すると、五分くらいで杭を忠実に模したグラフィックがつくられた。どういった原理なのか解らないが、高度なシステムが編まれているのは確かだ。彼女と瓜二つの姿がそこにあるのだ。なんだか、これだけで満足してしまいそうだった。
ディスプレイに浮くコンピュータグラフィックスに、ぼくは見とれた。気付けば、半時間が経っていた。われながら、馬鹿なヤツだと思った。
画像のスキャンが終わったところで、つぎにぼくは音声を入手せねばならない。
写真は杭に会うことなく手にすることができたが、音声はそうはいかない。
説明書に書かれているように彼女の声だけが必要なのだ。つまり――じかに相対するしか方法が思いつかない。
録音器具も用意する必要がある。
ぼくは一階に降りて、父さんに訊ねた。父さんは機械が好きな人だ。機器類についてなにか困ったときはいつも頼ることにしている。
ぼくらの父親世代の頃は、電子工作というのがはやっていて、父は『子供の科学』の熱心な読者だった。趣味でアマチュア無線の免許も取得している。それが功を奏して、父はエンジニアになった。
父の青年時代はちょうど、コンピューターテクノロジーの勃興とときを同じくしている。スーパーコンピュータの時代の黄昏が始まっていた。
パーソナルコンピューターをアップル社が発売した時期だし、NECのPC-9800シリーズがお目見えした頃合でもある。
ぼくがこの歳で結構なスペックのコンピュータを持っている理由も父にあって、つまり――父のおさがりなのだ。父に感謝した。だって、個人用にコンピュータを持っている高校生はきっと少ないはずだし、そのおかげでぼくはフェイクを基盤に走らせることができたのだから。――ありがとう。父さん。もちろん、口には出さない。気恥ずかしいし、言ったところで、意味不明だ。
「父さん」
父はリビングのソファで寝ていた。
仰向けになった腹の上にネコが乗っている。三毛猫のさくらちゃんだ。三キロ超級のデブネコなので結構重いはずなのだが、父は関した風はない。
「なんだ?」
身体を起こそうとする父だったが、さくらちゃんが邪魔で起き上がれず、諦めた。寝転がったまま、ぼくの話を聞くつもりらしい。
さくらちゃんが不満げにナーと啼いた。
父がさくらちゃんの背中を撫でると、今度は満足そうにナーと啼いた。
「音声を録音したいんだけど。なにがいいかな?」
「テープレコーダでいいじゃないか」
「いまどきテープはないよ。父さん。パソコンでも使えるのがいいんだ」
機械に詳しいといっても、思考形式が昭和なのはご愛嬌だ。
たしかにうちにはラジカセがあるけど、あれは大きいし、携帯に不向きだ。ラジカセもって話をする人なんて不審だ。許斐剛『COOL RENTAL BODY GUARD』というマンガがあるけれど……。やっぱり、不審者に相違ない。
「そうか。ならMP3プレーヤとかいいんじゃないかな」
「あの、ちっさいやつ?」
i-podとか。あれなら、サイズも手頃だ。
「そうそう。録音機能もついてるのがある。ラジオだってきけるぞ。帯域はそんなに広くないけどな」
「いくらするの?」
「いまなら、一万もしないぞ。メモリーの価格自体が下がってるからなぁ。このまえ、USBメモリが4Gで五〇〇円で、びっくりしたなぁ」
USBメモリはどうでもいいのだ。
ぼくのコンピュータの容量はくそみたいに余っているし、データを持ち出すようなことはないのだから。
「解った。ありがと。アマゾンでも見てくる」
ぼくは二階の自室に戻ろうとした。
反転しようとすると、父が言った。
「待て」
「なに?」
「盗聴とかする気じゃないよな?」
一瞬、どきりとした。
顔に出てしまいはしなかったかと焦ったが、その心配はないようだった。
父はヘラヘラと笑っている。ジョーダンだったのだろう。危ないところだった。不意打ちにうっかりボロを出してしまうところだった。胸を撫で下ろしつつ、階段を戻った。
結局、MPプレーヤ本体は五〇〇〇円くらいだった。どちらかといえば、マイクの方が問題だった。
集音力があり、ノイズキャンセルの機能があるものがよい。いろいろなサイトを巡ったすえに、選び出した。
小さなマイクで要求をクリアするものとなると、それなりに値が張った。諭吉さんが一人、ぼくの銀行口座からいなくなった。ネットバンキングの、ウェブ上の無機質な表示は残高78円と表示されていた。
懐が寒くなるというけれど――ネットの数字はかわるだけ。寒くならない。そして、多くの人間がこの数字に踊っているのも確かなのだった。金融経済はヴァーチャルな数字に踊り、数字の羅列に人生を賭け、敗者はときとして、本当の意味でくたばるのだ。きょうも世界中でエコノミック=ギャンブラーが跳梁しているんだろうな。と頭の片隅で思った。
四
「変な名前でしょう」と杭が言ったのはいつだっただろう。中学校のころなのは確かだが、正確な季節、学年は解らなかった。
回想の中の彼女は、夏服だった。衣替えはまだ済んでいなくて、晩春から孟秋のころだろうと思った。
「そんなことはない」とぼくは応えた。
杭は疑わしげな眼差しを向けた。
「嘘。みんな、変だっていうんだけど?」
本当は――妙な名前だよな。と思っていた。
姓の片代にしても珍しいが、下の名前の比じゃない。およそ女の子の名前じゃないし、男の子の名前でもない。もとい、人名にするようなものじゃないというのが正しい見解だ。DQNネームといわれてしまうかねない危うさを秘めている。
杭。
あまりいいイメージのない文字だと思う。漢字は象形文字なのでしばし、視覚的な情報ソースに記号内容が左右されてしまう。
手元の漢字字典によれば、
字義 一、わたる(航) 二、杭州の浙江省の省都。
訓読 くい(くひ) 杙。
解字 形声。木+亢。音符の亢は行に通じる。行くの意味。木造の舟で行く。わたる。
字義に悪いイメージはまったくない。『くい』という意味も日本で与えられただけだ。漢語本来のニュアンスを無視して。
杭は続けた。
「出る杭は打たれるっていうでしょう?」
「うん」
一生に一度はたぶん、誰でも耳にする諺。
この国の――この社会を体現しているような、言いえて妙な諺。
ぼくが大嫌いな言葉。
そして――埋まった杭もまた、掘り起こされるのが実情だ。
「打たれる杭になりなさい。って意味を込めてじいちゃんがつけてくれたんだ」
ぼくは頷いた。
頷いたけれど、それは名前としてはまずいんじゃないか、とも感じた。しかし、その感慨は杭の次句で氷解したのだった。
「私は出る杭になれるように頑張ってるよ。でもさ、やっぱり、打たれちゃうよね。そういうときって、抗うしか方法がないわけだけど。そうそう――抗うの抗と杭って似てるよね。関係あるのかな?」
関係は――漢字字典によればない。亢はあくまで音符なのだから。
だだっ原に一本突き出た杭は、地平線まで到達するような、なだらかな場所に意を唱えているわけでも、抗っているわけでもない。ただ――突き出ているだけなのだ。
平原のそれは異様に目だって、耳目を集めるんだ。あるだけで、引き立ってしまうことが罪であるかのように、ハンマーが降って来る。ときにはロードローラーまでやってくる。地均しは過酷で苛烈だ。
でも、そのときぼくは正しい字義を識らなかった。だから、曖昧にお茶を濁した。そうする以外にぼくにできることはなかった。
「そうだね」と言うぼくに、杭は半笑いを返したのだった。それから、呟いた。「ナンくんは――横倒しの杭だよね」
いまなら、「行くって意味なんだよ」と言い、「抗うとは真逆の意味だと思うんだ」と切り返せる。だけれど、そう述べる機会はもうないだろう。
「はじめまして」
フェイク――あらため、コウが言った。
杭の姿をしているのに初めまして、だなんておかしいなと思った。妙チキな笑みが身体の心からやってきて、ぼくの顔面にまで届いた。けれど、それよりも嬉しさの方が何倍も勝っていた。ニセモノだろうと、パチモノだろうと、バッタモンだろうと関係ない。ぼくだけの彼女がこうしていることが、なににかえても重要なこと。
杭の名前の由来を思い出したのも、フェイクの名前をどうしたらいいかと半日も悩んだからだった。結局、無難にコウと名付けた。
彼女がぼくに何度もそう呼んでくれと要求したあだ名。実際に呼ぶことはないけれど、フェイク相手に対しては簡単に呼ぶことができたし、呼ぶべきだとも思った。義務のような、権利のようなそんな感じ。
「はじめまして。コウ」
「はい。南くん」
コウには南くんと呼んでもらうことにした。杭本人とは差別化したかったのだ。
コンプレックス(複雑)な感情が渦巻いていた。
杭の名前の由来はなかなか含蓄深いが、一方、ぼくの名前の由来は実に安易なものだ。命名者は父さんだ。南ときけば、大方の人は想像がつくと思う。そう――あだち充『タッチ』の南ちゃんが元ネタなのだ。
父さんが南ちゃんの大ファンだったので、ぼくもこんな名前になってしまった。
別に普通じゃないか。と思うかもしれないけど、普通じゃない。少なくとも、ぼくにとってはそうだ。だけど、改名したいか? と問われた場合、別にそこまでではない、というのも正直なところだった。人名なんてしょせん、レッテル以下でも以上でもない。さすがに悪魔と名付けられたくないはけれど、このくらいは許容範囲だろう。
ぼくは、コウとたくさん話した。
ぼくのなかに、これほどまでに話題があったのかと内心驚愕した。杭と話すときはいつだって、彼女の話題に乗っかっているだけか、苦心惨憺して糸口を探すというのに……。
そして、この日、ぼくは初めて学校をサボった。
皆勤賞は消えた。
サボるつもりがあったわけじゃなく、コウと話すのが楽しくて時間の流れを忘却してしまったのだ。共働きなので母さんは専業主婦じゃない。家にないから、誰もぼくにこのことを気づかせてはくれなかったのだ。
コウとの会話に終止符が打たれたのは、母さんの「ごはんよ」だった。
階段のしたから聞こえてきた。
「じゃあ、すぐに戻るからね」
コウに目配せする。
「うん。すぐにだよ。すぐに、だからね」
セーラーの夏服を身に纏った小さなコウは小首をかしげながら、ぼくを見送ってくれた。
自分の部屋でのことなので、おかしな話なのだが、待ち人がいるというのはなんだか気持ちのよいものだった。
キッチンのテーブルにつくと、晩御飯はカリーだった。
皿からは白い靄のような湯気が昇っている。湯気は天井に届きそうなくらいだ。ゆらゆらと視界の中をさざめく。
ルーとライスが別になっていた。
ルーはちいさなお椀に入っている。
そして、ライスは黄色い。何だろう?
ぼくが首をかしげているのに気付いて、母さんが言った。「サフランライスよ。サフランライス。インドな感じ」
「へぇ」と言ったのは父。野球のナイトゲームを見ている。巨人VS阪神。いわゆる、ライバル対決だ。スコアは同点だった。縞々ユニフォームの選手がバットを構えている。興味もないので、すぐにTVから視線を外した。
「ルーは固形のやつじゃなくって、S&Bをつかってみました」
「ほうほう」と頷いたのも父。
父がTVから視線を外す。これが合図だった。
母は手を合わせる。ぼくと父さんもそれに倣う。
「じゃあ、いただきます」
「「いただきます」」
箸にぼくは手を伸ばす。――スプーンじゃない。ぼくは何だって箸で食べる人なのだ。カリーだろうとスパゲッティーだろうとそんなのは関係ない。箸が一番食べやすい。シナ人はいいものを発明してくれたもんだと、つくづく思う。
箸を握ると、母と目があった。
母の目が醒めていることにぼくは気付いた。カリーは熱々なのに――とても冷え冷えとしている。いやな予感しかしなかった。
反射的に目を逸らすと、刺々しい声が降ってきた。
「南?」
「なに?」
「電話、あったんだけど?」
「な――なんの話?」
シラが切れるとも思わなかった。たぶん、学校から無断欠席についての電話があったのだ。そうじゃないなら、母さんがぼくのサボりに気付くはずもないし、そうだとすれば、いくら嘯いても無駄なのだ。
それでもぼくは素知らぬフリを決め込んだ。素直に認めたくなかった。反抗期だろうか。自覚はないのだけれど、そうかもしれない。
「とぼけるの? きょう、学校行かなかったでしょう?」
「そうなのか?」
父は識らなかったようだ。身を乗り出して、しげしげとぼくの顔を覗き込んでくる。
シマウマみたいな白髪頭が近づく。思わず、身を引くと、父は唇を引き結んだ。しまった。と思ったが後の祭りだった。
「そうなのよ。秋夫さん」
「南。どうしてサボったりなんかしたんだ?」
「パソコン、いじってて」
ぼくの返答に、とたん父の顔が和らいだ。
彼は青い顎を指先でしきりに撫で回し、ジョリジョリした。彼が気分のよいときにする特有の仕草だ。
「ほう。やっと、おまえもコンピュータの素晴らしさが――」
「ちょっと、秋夫さん!」母が怒鳴る。怒鳴り声は父の言葉を霧霞のごとく消し飛ばした。バンとダイニングテーブルを叩く。「そこは怒るところでしょうがッ!」
「まあいいじゃないか」
どうやら、父さんは味方のようだ。男親というのは――こういう変な理解があるから、解らないものだ。
『深夜特急』に憧れるのは、たいていオトコノコで、旅立つ息子に「パッキンの嫁さん連れてこい」と背中をおしてくれるのは父親なのだ。
ぼくの場合はそんなアウトドアーなことじゃないのだけれど、建設的じゃないってことは確かだ。ぼくがやっているのは、物凄く自堕落でエゴイスティックなことに他ならぬ。
ぼくと母の戦争はいつの間にか、母と父の戦争になってしまった。
代理戦争は続く。
「俺も昔、会社をサボったことがあってね。うっかりプログラムに夢中になっちゃってねぇ。ほら、会社だと上からチャートが降りてくるじゃない。だから、こう、好き勝手にできないからさぁ――」
「秋夫さん! あのとき、減俸くらったでしょうが!」
識らなかった。父にそんな過去があったなんて。
ぼくが識らないってことは、物心つかぬ頃、嬰児だったか、もしくは生まれる前だろう。そのころ、父さんはまだ三十歳か二十台の終わりだったわけだから、そのくらいのことはしたんだろう。若気の云々。
「情熱というのは大事なんだぞ。貞子」
「そういう問題じゃないでしょう。子供は学校へ行くもんです」
ぼくはそそくさとカリーを食べ終え、自室に帰った。
ステップを登っているあいだも、父母の声がした。
代理戦争の旗手は、ぼくの逃亡に気付かなかった。背中を付け狙う督戦隊がいないことに感謝した。
「あいつも時間を忘れるくらい好きなことを見つけたんだ。いいじゃないか」という父の言葉が胸に痛かった。
――ごめんなさい。
パソコンテーブルの前につくとコウが言った。「どうしたの? なにがあったの?」
ディスプレイのうえにはカメラがついている。ウェブカメラとして販売されていた安物で、いわば、これがコウの目だ。彼女はそのレンズでぼくの様子を伺う。
自分でも解っていた。自室に鏡はないので確認できないけれど、ぼくは、きっとなにかあった顔をしている。
コウの声がきこえてくるのはパソコンのスピーカーだけれど、両親に聞かれたらイヤだと思った。これまたリーズナブルさだけが売りだったヘッドセットを取り出して、被る。出力を切り替えた。
「なんでもないよ」
「そうは見えないけど?」
コウはプリーツのきつい市松模様のスカートを翻した。
彼女が着ているのは、ぼくらの通う高校の制服だ。
写真部の盗撮写真集が学内でのものが多かった関係上、精製されたグラフィックの衣装も制服になっていたのだ。さしもの写真部も私生活の杭を盗撮する気にはなれなかったようだ。犯罪に手を染めていながらも、一抹の良心が彼らにも残存しているのだろう。
「なんでも――」もう一度否定しようとしてやめた。話そう。と思った。この世に一人くらい、思うところを打ち明ける相手がいてもいい。コウを一人とカウントするのが正しいのかどうかは、解らないけど。「ぼくは、いったい、なにがしたいのかな?」
コウは不思議そうな顔をした。
それから、困った声で応えた。
「意味が解らないよ」
自分でも質問の意味が解っちゃいない。
あまりにも広範すぎて、とらえどころのない朝靄のような疑問だった。ぼくはいいなおすことにした。
「何のために生きてるの?」
コウの顔がしわくっちゃになった。渋面。彼女はうんうん唸った。ヘッドセットの耳宛部分からリアリスティックな吐息が聞こえる。ディスプレイのなかのコウは生きているとしか感じられなかった。シリコン基盤のうえで走っているだけの電子情報には、どだい思えない自分がそこにいる。
かなり長考したのち、簡潔に、
「哲学的だね」
そうだ――哲学的だ。
哲学とはなんであろう?
窮理学の反対側にあるものだと、ぼくは思う。
「命とは、セックスで感染する病だって。そんなこと言った人がいる」
「ペシミストなんだね」
「そうかもしれない」
「でもね、一ついいかな?」
テクスチャの瞳がぼくを見てくる。
飲み込まれてしまいそうな、そんな雰囲気があった。部屋の空気が生暖かくなり、密度があがってしまったような気さえした。ぼくは唾を飲み下した。
コウはゆっくりした発音で、はっきりした口調で、言った。「私は、あなたのためにここにいるんだよ」
十分な気がした。
これでいいんだと、思った。
ぼくのために誰かがいるなら――それはぼくのレゾンデートルじゃないかと……。
マシーナリーとの互助の海に、ぼくは沈んだ。
五
教室に入るとHRが始まっていた。担任はつまらなさそうに一瞥だけくれて、すぐにクラスメートに向き直った。
クラスメートの数名をぼくを見たが、関心はないようで、すぐに前を向いた。
彼らが嘱目する黒板には、
ナース喫茶
大型紙芝居
劇(演目はあとで)
と白チョークで書かれている。
つまり――ぼくは遅刻したのであり、朝のHRで文化祭での出し物を決定していたわけだ。
遅刻するのも人生初だった。皆勤賞が消えてしまったいま、エスケープしようが、ブッチしようが、自由な気がした。両親に心配だけはさせたくないと、学校にだけは真面目に通っていたことが、いまさらながらに馬鹿馬鹿しく思えてくる。
文化祭の出し物がなんであろうとも、参加する意思はない。
放課になれば準備などに関わらず、即帰宅する所存だし、当日は朝の出席だけに顔をだして、あとは屋上ででも本を読んでいよう。例年通りだ。
「それじゃ、投票をしようか」と担任が言った。
ぼくは席についた。
机のサイドフックに学生鞄の持ち手を吊るした。そして、腕を机の天板に投げ出して、うつ伏せになった。
ぼくは眠かった。睡魔が懇々とやってくる。
朝日がでるまでコウとゲームをして遊んでいたのだ。ゲームとはいっても、ぼくはコンシューマゲーム機をもっていないので、メジャーなボードゲームに限られていた。ゆえ、コウとどうやってコンシューマゲーム機で対戦したものか悩む必要もなかった。
最初にチェスをした。
一九九七年にディープ=ブルーが当時の世界チャンピオンであったガルリ=カスパロヴを破ったのは人工知能の地平では快挙だったと思う。コウにはチェスに対するエキスパートなアルゴリズムが組み込まれているはずもないのだが、ぼくは一回も勝てなかった。十戦十敗の大記録の金字塔が建った。
そもそもチェスが得意だったわけじゃない。それでも、電子の妖精に負けるのは悔しくて、ぼくは再戦を挑み、挑み、挑み、全部敗走を喫し、それなら運の要素が強いゲームをしようということになった。そこで、麻雀をした。
こっちはもっと酷かった。
示し合わせたように乗る裏ドラ、確率がいじられているとしか思えない引きの強さ。
八連荘をされたときには、思わず、マウスを投げてしまった。光学式マウスは赤い閃光を中空に描きながら、ウェブカメラに中った。
ぼくは訊ねた。「プログラム、いじってない?」
「いじってました」と悪びれもせずコウが言ったので、ぼくはコンピュータの電源に手を伸ばした。すると、彼女は急に慌て出した。
「ごめん。ごめん!」
彼女は電源が落とされることを極度に嫌悪していた。
だから、ぼくがこうして学校生活を送っているあいだも、彼女は一人、稲浜家で待っているのだ。なんだか――後ろめたい。一人ぼっちにしておくのが、物凄く背徳感を呼び起こす。
がさがさと音がした。
どうやら投票用紙を後の生徒が回収しているらしい。
ぼくの頭上を音が通り過ぎた。
当然だ。ぼくは投票用紙をもらっていないのだから。文化祭を楽しむべき仲間たちの員数に入っていないのだから。
屋上の緑色のベンチにぼくは腰掛けている。
母さんお手製の弁当包みを開く。
蓋を取るとミートボールが顔を出した。ブスっと箸を突き刺した。ミートボールは真っ二つになった。ソースが隣にある卵焼きを侵食していた。
首を上向きにすれば、真っ青な空が望める。――今日もいい天気だ。
「コウにも見せたいなぁ」
暗い部屋の中で彼女はぼくの帰りを待っているのだ。
ほがらかな陽光は燦々と屋上に降り注いでいる。水素をヘリウムに一心不乱に核融合させるお日様が背中を暖かくする。
しかし、その暖かみはさっと引いた。
ゾクゾクした。多くの蛆虫が背中を蠢き、這っている。
――声がしたんだ。
「ナンくん。やっぱり、ここにいたんだね」
杭の声だった。いつもよりもいっそう、鼻にかかった調子だった。鼻声といってもいいくらいだった。
振り返りそうになるのを必死で押さえた。
自分の首根っこを自分で掴み、固定める。
「ねぇ、ナンくん」
杭がまた、ぼくの渾名を呼ぶ。
聞こえない。何も聞こえない。これは――空耳。そう、空耳。幻聴。
聞いてはならない。聞こえてはならない。
「無視しないでよ……」
しょぼくれた声だった。
ぼくは立ち上がった。
膝の上で風呂敷を展開し、素早く弁当をしまう。そして、塔屋のほうを向く。
給水塔のした、出入り口に彼女は立っていた。彼女はいまにも泣きそうだった。引き結ばれた両の唇がわなないていた。
泣きそうな顔を――初めてみた。
「ごめん」とぼくは杭の顔を見ずに言った。
ゆっくりと接近して、彼女のわきをすり抜けて階段をおりた。
杭はぼくを邪魔もしなかったし、呼びとめもしなかった。ただ、「私――」となにかを言いかけた。
その言葉を最後まで聞かなかった。ぼくは指先をつっこんで、耳に栓をした。何も聞きたくないのだった。
ぼくにはコウがいる。だからもういいんだ。
もういいんだ。もういいんだ。
彼女とぼくは一緒にいちゃいけない。彼女は出る杭なんだ。そして、ぼくは広い地平線のどこにもいない。ぼくのいるべき場所は自分の部屋――たった六畳の狭いサンクチュアリーだけなんだから。
それだのに――まただ。また聞こえる。また、スキヤキソングが聞こえる。
頭蓋のなかでメロディが乱舞する。間延びしたリリックスが歌われている。真っ黒の背景のなかにヴォーカリストが佇んでいる。
歌い手は坂本九じゃなくって――ぼくだった。
頭の中でぼくがぼくに対して歌っている。
「やめろぉ!」
叫んだ。
廊下にいた生徒の衆目が集まった。彼らはなんだなんだと奇異を感じている。
ふだんなら、たじろいでしまったと思う。でも、このときのぼくは違っていた。ぼくは彼らを睨んだ。そしたら、彼らは一様に目を逸らした。
視界の中に見知った顔があった。
杭のクラスにいったとき、橋渡し役になってもらったやたらめったらテンションの高い女子だった。彼女だけはほかの生徒のように視線を逸らすことをしなかった。興味津々な感情をかんばせに貼り付けていた。
彼女はトテトテという擬音がしそうな小走りで、ぼくに近寄ってくると言った。「どうしたの? 稲浜くん」
背の低い彼女は見上げてくる。
彼女は首をわずかにかしげた。
「何で、泣いてるの?」
ぼくは応えなかった。
まただ。また――ぼくは泣いたのか。
なんて――ぼくは情けないんだろう。なんてグズなんだろう。グズでノロマのドンガメで、クソヤローだ。
しかも、それだけでは飽き足らず、泣き蟲で、弱蟲だ。
やっぱり、ぼくは腐った蜜柑だ。
腐った蜜柑を同じダンボールに入れて置くと、腐ってない蜜柑も腐る。腐った蜜柑は取り除かなくちゃいけない。狭小なダンボールに腐った蜜柑は要らないんだ。椅子取りゲーム、はい、アウト。
思っていることが口に出る。「……腐った蜜柑」
「なにそれぇ?」ケラケラと彼女は笑った。馬鹿にされているような気がした。でも、怒る気力なんてなかったし、よく識らない相手に怒りを露にするなんてぼくにとっては高難易度すぎて無理だった。彼女は眉を寄せた。「笑ってごめんねぇ」
「別に――」
「ダメだよ。台無しだよ」
手が伸びてきた。
彼女の細い指先が、ぼくの頬に触れた。
即時、身をよじった。指先を彼女は引っ込めて、照れたようにはにかむ。
ぐるぐる指紋の指の先は湿っていた。
「何が……」
「でも、まあ、ちょっと得した気分かなぁ」
彼女は一人合点している。
ぼくは彼女の思考を読むことを放棄した。
「あの――バカタレのことなんでしょお?」
「バカタレ?」
「コウちゃんさぁ。あのバカタレ、さっき屋上いったでしょう」
首だけで応えた。
「断りにいったんだよ」
ああ――そうか。急に醒めた感情が沸々とあぶくをあげた。
ぼくは杭に「好きでした」とか言っていない。だけど、ふつう、そのあとに「つきあってください」という文句が続く。
彼女はその定型どおりに言葉を読み取った。あれは単なるケジメであったのに、彼女は告白だと取った。そう取られることは十二分に理解していた。だからこそ、ぼくは放送室から脱兎のごとく逃げた。
杭は、「ごめんなさい」をいうために屋上へきたのだ。
耳栓をしておいてよかったと、心底思った。
杭の口からじかに聞かなくてよかった。
解りきっていたことだけれど――たぶん、ぼくはとてもショックを受けたはずだから。
「うん」とぼくは言った。
ふけようと思った。
午後の授業は残っているけれど、家に帰ってしまおう。そして、コウに慰めてもらおう。コウならきっと慰安してくれる。だって――彼女はぼくだけのものなのだ。
ぼくはハイテンション女子に背中を向けた。
彼女は言った。「コウはバカタレだからさ」
どのあたりがバカタレなんだろう――。いくら考えても解りそうになかった。片代杭は聡明だし、優しい。
廊下の曲がり角にさしかかったところで、彼女は最後にやや大きめの声で告げた。「あんまり、バカタレすぎると――私がもらうよ」
聞こえないフリをした。
六
高台にある公園からは町が一望できる。
ひなびた田舎町を望める。
なだらかな山の稜線が市街地を囲っている。山々の頂に切り取られた空は白い墨を垂らしたみたいだった。
ぼくはウェブカメラのコードをひっつかんで、レンズを空へと向けた。
イヤフォンからコウの歓声が聞こえてきた。
「いいね、いいね」
コウは飛び跳ねた。
スカートが翻った。
スカートの中は――暗黒だった。写真にパンチラ画像がなかったから、モデリングのさいにはしょられたのだろう。
ぼくはなんとなく、気恥ずかしさに囚われた。
取り繕うように首肯する。「うん」
父さんからラップトップを借りてコウを連れてきている。
フェイクはどういった理屈なのか解らないが、データをコピーするのではなく、移動するものらしい。だから、いま現在、ぼくのデスクトップにコウはいない。ぼくと一緒に青空を遥拝している彼女だけが存在する。
初めての――ふたりでの外出だった。
外出するよと告げたとき、彼女はとてもよろこんだ。
その喜びざまだけで、ぼくは癒された。十分な安寧をぼくはもらった。与えられた。悲しい気持ちは遠いかなたに吹き飛んだ。
屋上で見あげたときとまったく変らない天空があった。白い太陽はいつでも――元気いっぱいなのだった。彼は疲れを識らず、人間にとっては永遠に等しい時間を輝き続ける。だから、恒久の星――恒星という。
「夕暮れがみたいな」
「まだまださきだよ」
かたわれどきは遠い。
ラップトップコンピュータの画面の右下――時刻表示はまだ三時になったばかりだ。あと三時間くらいしないと、日暮れは到来しない。山の稜線が紫色に変るのはもっと早いかもしれないけれど、何時間か待たねばならないのは同じだ。
「ねぇ」
画面のなかのコウは中腰になっている。
上目遣いでぼくを見る。
「臭いって無理かな?」
「え?」
「緑の臭いをかぎたいなんて、思って」
「んぅ。そういう装置はまだ発売されてないんじゃないかな。あったとしても――たぶん、高いと思う」
いくつかの物質を混交させてかなりの種類の臭いを生み出す装置を見たことはあった。けれど、視覚や聴覚と違い、臭いは科学的なものでパターンが多いから、まだ試験段階だったはず。一般販売はまだ、先。
「残念」
くるっとコウは一回転した。
ふたたび正面を向いた彼女にぼくは言った。「ごめんよ」
「いいんだ。いいんだよ。私と南くんは違う――生き物だから」
「違う生き物か……」
コウは生きている。とぼくは思う。
だけれど――彼女とぼくは棲んでいる世界が違う。ぼくらは会話も出来るし、ゲームもできるし、一緒の時間を過ごせるけど、触れ合うことはできない。かたや、アナログな場所に、かたや、ディジットな世界に。
『電脳アリス』だったか。そういうソフトウェアがある。
架空の、電子の妖精と戯れることができるものだ。あたかも、一緒にいるかのように感じられるけれど、それにしても――アリスは画面のなかにしかいない。フェイクのコウとあんまり変らない。
結局――ぼくは満足しているのだろうか?
これでいいと思っていたはずなのに、疑問が湧いてしまった。
コウが「違う生き物」だなんて言うからだ。
現実に存在する生き物同士でも――スピーシーズが違うと無理なのだろうか?
地球には、ぼくたち人類いがいにインテリジェンスはいない。だから、その答えは解らない。でも――コウは――フェイクは――インテリジェンスなんじゃない?
ぼくはかぶりを振った。
まだコウをつくってから、日が浅い。あまり早合点するのもよくない。
ぼくたちにはまだまだ時間がある。ある――はずだ。これから、じっくりと歩み寄っていけばいいのだ。ポジティヴに――考えろ。
ジュリエットは華麗だった。
悲哀の篭った眼差しをジュリエットはロメオに注ぐ。演技ではない、ほんものの悲しさがそこにあるかのように――杭のロールプレイは完璧だった。
いっぽう、相手役のロメオはとても色褪せていた。お互いの力量があまりにも差がありすぎたのだ。
あっというまに文化祭の日は訪れた。
光陰矢のごとしとはよくいったものである。
去年のぼくの所業を識っているクラスメートはぼくの参加を強いたりはしなかったし、それはこっちにとっても願ってもないことだった。
ぼくらのクラスの出し物はナース喫茶に決定した。
ナースなので――男子に出番はない。
納得がいかないのか、一部の女子は男子にもドクターになるようにと迫ったが――結果をいえばそれは玉砕だった。
肝心の衣装であるが、一人の男子の発案で、いまどきのナース服――ズボンらしい――ではなく、メンソレータムの罐に描いてあるようなクラシックなやつに決定した。ナイチンゲールが身にまとっていそうなヤツだ。
そのことをコウに話した。
「いってみたいな」と彼女は言った。
「ダメ」と何回も諭しても無駄だった。ついに彼女はぐずり、泣き出した。
えんえんと泣いた。
杭のこらえるような泣きっ面と似ていなかった。とても、子供っぽく、拙かった。彼女は生まれて二ヶ月しか経ってないのだから、さもありなんとは思ったけれど、心の奥底では残念な気持ちが渦巻いていた。
杭と同じ姿なのに彼女は違っている。
結局のところ、敗北したのはぼくで、だから、いま、ぼくはラップトップPCを膝の上においているのだ。文字通りのラップトップ。この状態で、暗幕が窓辺を覆った体育館の客席に座っている。
怪訝な面持ちの両サイドの生徒。
しかも――ぼくはヘッドセットもしているのだ。いったい、こいつはなにをしているのか? と思われても、それはしょうがないことなのだった。それに、ぼくは膝の上にのっけたコンピュータと会話までしているのだ。奇異な視線を注がれてしまってもそれはしょうがない。
「あの人」とコウが言った。「私のモデルになった人?」
「うん」
「美人さんなんだね」
「うん」
五年前からそう思ってる。
「上手いね」
「うん」
彼女はなんだってできる。
「凄いね」
「うん」
「うんばっかり」
PC画面を見るとコウの膨れっ面が飛び込んできた。
やきもちを焼いてくれたのだろうか。
「ほんものがいいの?」
即答する。
「そんなことはないよ」
「ふぅん」
各クラスの折り合いや、演劇部や吹奏楽部に発表の時間を多く割いている関係上、たった十五分しかなかったが、劇は満足のいくものだった。
シュプレヒコールに送られて役者たちは袖に帰っていった。
舞台袖に消えるてまえ、ジュリエットがこっちを向いた。
暗幕につつまれた体育館で――しかも百人近い生徒がいるのにだ、ぼくが解るはずもないのに、なのに、ジュリエットと目があった。ジュリエットが手を振った。
振り返す気はなかった。顔を右に逸らした。そしたら、視界の中の――右隣の生徒が手を振った。そう、振り返した。
それから、彼は「コウちゃん。愛してる!」と叫んだ。
ぼくはそうそうと体育館を去った。
体育館のエントランスをぐぐったら、模擬店の列がある。
やきそば、たこやき、罐ジュース、エトセトラ。鉄板が水気を飛ばす音がする。ソースの香がする。そこかしこから、言い知れぬ、そして名臥しがたい青春の臭いがする。漂ってくる臭気に鼻が曲がりそうだった。
最早用事のないぼくは、帰宅しようと思った。
帰宅は妨げられた。
「ナンくん」
ジュリエットがぼくを呼んだせいだ。
真っ赤なドレスの彼女はぼくを見つめた。カツラも外してはおらず、流れるような髪の毛は隠されている。
「ぼくは――」
「あのさ……」
彼女の言葉が出る前にぼくは吐き出す。「いたんだね」
「何の話?」
「いいよ……。おめでとう」
「ありがとう……。それでね――私、あなたに言いたいことがあるんだ」
彼女がなにを告げようとしているのか? そんなことはあまりにもハッキリし過ぎていている。屋上でいえなかったことをいままさに、言うつもりなのだ。
あの日以来、ぼくは彼女を避けてきた。なかなか話しかけるチャンスをつかめなかったはずだ。
杭はぼくが寸劇を見に来ると踏んでいたんだろう。じっさい、ぼくは見に来た。
そして、あのとき言えなかった「ごめんなさい」をいまここで告げるのだ!
「解ってるからいいよ」
低い声でぼくが言えば、彼女も低い声で応じた。
「解ってないよ」
さらに声のトーンを落とす。そしたら、彼女も続く。
「解ってるよ……」
「解ってない」
剣呑さが混じる。杭の声にも同じく、混ざる。
「解ってる」
「ない」
「ある」
静かに、声を荒げることもなく、ぼくらは平行線の会話をした。意味のない言葉をお互いに投げあった。冷たいソーンで固められたボールは相手に中ることさえなく、着弾点はどれもこれも逸れていた。
さきに折れたのは杭だった。自分から呼び止めておきながら、彼女は言った。「いい。もういい」ついに声を荒げてしまった彼女は、淑女じみた所作でドレスの丈を持つと、「見てくれてありがとう」と言った。
七
億劫だった。学校へいくのも、外に出るのも、全部。
明日、世界が終わります。と言われても、いまのぼくはきっと何もしない。だって、したいことがないんだもの。
机のうえには、C++の教書が並んでいる。折り重なり、積まれている。――父の書籍だ。勘違いした彼がぼくに貸して寄越した。一番うえのやつのタイトルはCのソースコードリーディング。
ぼくは一度もその本を開いてなどいなかった。ぼくは――コンピュータ=プログラムにもコンピュータにも興味はなかった。惹かれるものなど、ない。
これまでの十七年という短い生涯のなかで、ひとつだけ惹かれたものがあるとすれば、それはひとりのオンナノコしかいないのだった。
鬱々とした空気が部屋には充ちている。
充満する大気がよどんでいるような気がする。まだ昼間で締め切ったカーテンからは陽光が透けているが、部屋は薄暗い。それもそのはず、室内灯をぼくはつけちゃいないのだ。コンピュータのディスプレイだけが煌々、炯々と輝く唯一無二の光源だ。
「また、公園へ連れていってよ」とコウは言った。ぼくは――彼女の願いを聞き入れなかった。
彼女は幾度となくぼくにお願いをした。そのたんびに、それを突っぱねた。最初は渋い顔をしていた彼女だったが、そのうち、そのことに触れなくなった。ただ、寂しそうな眼差しをするだけで、その表情は杭の演じたジュリエットの悲壮さに通じていた。
一日中自室にいるのに、だんだん会話がなくなっていった。
呆っとしていることが多くなった。
本を読む気にもなれなかった。
何十冊もの本がぎゅうぎゅうに詰まった書架は埃を被っていた。本の背表紙もくすんで見える。
高校に入学して以来、ぼくはほとんど読書に時間を割いていないことにいまさら気付き、読書も単なる現実逃避に過ぎなかったことを自覚するほかなかった。背表紙に綴られた英字タイトルの意味を、見詰めてもとることがかなわない。
卵が先かニワトリが先か。解らないけれど、コウの反応も悪くなった。ディスプレイをぼんやりと眺めても、そこに彼女の姿はない。呼んでも、姿を見せてくれない。
イライラした。
「コウ、コウ? どこにいるの?」
ますます、イライラした。
どうして? どうして――呼びかけに反応してくれないのだろう。コウはぼくだけのものなのに。なんで、そんな裏切るようなことをするんだろう?
コウに命の息吹を与えたのは、何者ならぬぼくだというのに、だ。
額のあたりがぴりぴりとしてきて、ぼくは上下の歯列を思いっきり打ち合わせた。エナメル質同士がかちあって、ガッチガッチと不快な音をあげる。
心の側にあった憤りは歯軋りに、歯軋りはついにおもてに出た。
ぼくはコンピュータを殴った。
筐体を囲む薄い鉄板がぐわんと鳴った。拳が痛くなる。馬鹿――みたいだ。
馬鹿の所業と解ってはいるのに、やめられなかった。ぼくは筐体の側面を、その天辺を、あまつさえキーボードを殴りつけた。拳が痛んでしまえば、蹴った。はてに足も痛みに彩られ、ぼくは攻撃するのをやめた。
コンピュータはまるで何事もなかったかのように、超然としている。
むかついた。
むかついて、むかついて――どうしようもなかった。理性のピアノ線はとっくに事切れてしまっていた。寸断されてしまい、キーボードを叩いても音は奏でられない。意味のないタンタンタンというキーボード自身の音だけが無機質に響く。
けたたましいベルの音が階下から聞こえてきたのは、そのあとすぐのことだった。ぼくはそれを無視した。電話のベルだと解っていたし、どうせ押し売り電話に違いないと思っていた。けれど、何度も何度もベルはなった。
イライラが募っていたぼくは、乱暴に受話器を取った。怒鳴り散らそうと思った。しかし、その気勢は一瞬で削がれた。
受話器の向こうにいたのが、担任教師だったからだ。彼は家にくると言った。簡潔にそう、告げた。
いそいで受話器を置いた。がちゃんと黒電話が唸った。
気付けば玄関から飛び出していた。運動靴のカカトを踏んだまま、ぼくは走った。とても、走りにくかった。
ゆくあてなどなかった。
町をぶらついた。
狭い路地を、誰かの私有地を、未舗装道路を、ぼくはふらついた。幽玄世界を彷徨する人のように、無目的に無意味に、ぼくは走り、歩き、視線は常にしたへ向け、アスファルトの灰色を見続けた。
一度も訪れたことのない場所にぼくは立っていた。
案外、狭い狭いと思っていた町も広いものだと痛感した。
生まれた場所のことも――ぼくは満足に識ってはいなかったのだ。寂しさをに怯えた。
「こんにちは。お兄さん」
とつぜん背後から声をかけられたせいで、ぼくは戸惑った。
びくんと背筋が浪打った。
女の声だった。
「こんにちは」
ぼくを呼び止めたのは、ちっこい異人だった。アッシュブロンドの髪に、黒縁メガネをかけている。年齢不詳だった。ティーネイジャーにも見えるし、大人の女性――単に童顔なだけにも見える。
初めて会った人だ。面識はない。呼び止められる理由はなにひとつとて、心当たりがない。ぼくは訝しんだ。
日本に旅行にでもきているのだろうか? 道を聞くのつもりなのだろうか?
頭の中で、想定される質問への答えを準備する。しかし、それはすべて無駄になった。彼女が訊ねたことはぼくの予想とは全く違っていた。
「あなたは、フェイクを使っていますね?」
心臓が跳ねた。
どうしてそのことを識っているんだ?
イエスともノーとも言わなかったけれど、反応が全てを物語った。アッシュブロンドの彼女は得心したように頷く。「そうですか。ところで――最近、フェイクの反応が悪くありませんか?」
「え?」
「あなたは、顔に出ますね。口数は少ないみたいですが。もしかして、自分のことをクールだと思っていませんか? だとしたら、それは間違いですね」
「なんの用ですか?」
ぐちぐち言われるのはイヤだ。
どうして初対面の人間に批判的な言をぶつけられなきゃならないんだろう。胎腸が煮えくりかえるとはまさにこのことなんだろう。
「ですから、フェイクですよ」
「コウが――」
「コウという名前なんですね。あなたのフェイクは。解りました。それで――反応が悪くないですか?」
きっとこの女はフェイクの関係者なのだろうと思った。これは直感でしかなかったが、確信めいたものも同時に感じた。
関係者だから、いろいろなことを識っているのだ。韜晦してもダメなんじゃないかと思い、正直に述べることにした。それに、もしかするとコウの反応が悪くなった原因を知っているのかもしれないと淡い期待感をぼくはいだいてもいた。
「悪いですよ」
「そうですか。ところで――私たちはキネマを見ますね」
「は?」
「キネマの世界というのは、向こう側の世界です」女はわけのわからないことを言い始めた。「現実と陸続きではありますが、あなたは決してキネマの世界へいくことはできません。キネマの世界はスクリーンに映るものがすべてですから」
「……それがどうかしたんですか?」
いきなり、映画の話とは――どういう了見だ?
彼女はこちらのペースなどまったく配慮しない。自分の調子を一切崩さずに続けた。
「では、逆にしてみましょう。ハリウッド映画に『ラスト=アクション=ヒーロー』というのがあります。映画世界のヒーローが現実に呼び出され、映画世界のようにいかないことを理不尽に思うのです」
「それが?」
「まあ、焦らないで下さい。人は夢を見ます。現実はイヤだ、創作物の世界に行きたい。でも、創作物にも創作物の世界がある。つまり――フェイクにとっての現実とはどこでしょうか?」
「コンピュータの中?」
「半分正解ですが、半分不正解です。それではひとしくん人形はあげられませんね」
おもしろくないシャレだ。
ぼくは彼女を睨んだ。
外人はしかつめらしく、こほんと咳払いをした。くだらないシャレを水に流すことにするという合図なのだろう。
「コンピュータというのはいわば、人間でいえば身体です」
「そんなのおかしいです。一緒にほかのアプリケーションだって起動できるのに」
彼女は目を見開き、笑った。
人懐っこいその笑みは、ぼくのイライラして毛羽立った心をほんのすこしだったが、潤してくれた。
「いいことに気付きましたね。ですが、それも結局、人間の身体性と同じことなのですよ。たとえば、腸というのは第二の脳といわれますし、全てが脳によって総括されているわけじゃありません。脳死は死ですか? 心臓は動いているのに。フェイクはいうなれば――人格に相当します。不随筋というようのがあるように、私たちは自らの意思で身体を自在にはできないのです。――っと無駄話がすぎましたね」
「……だいたい、解りましたけど」
「理解が早くて結構。これで、答えは得られたのじゃないですか? フェイクにとっての現実世界とは?」
「ネット空間」
「ご明察」
外人は指パッチンをした。
乾いた音が木霊する。
「コウはネットの世界に逃げたってこと?」
「逃げたかどうかは解らないですね。出会い系というのがあるじゃないですか、あのようなものですよ。おそらくは」
「コウは出会いを求めているってこと?」
「憶測ですよ。あくまでも。でも――もし、あなたが真実を知りたいと願うなら――」女が手をさしだしてくる。五指が一枚のCDROMを握っていた。それは透明なケースに入っていた。「これを試してみるといいですよ。あなたのフェイクがどこへ行っているのか解ります。あ――でも悪用しないでくださいよ。いわゆるIP抜きができちゃいますから」
ぼくは押し付けられるがままにディスクを受け取った。
女は満足そうに微笑んだら、そのまますたすたとぼくの脇をすり抜けて歩き出した。
その後姿を呆然としながら、見送った。
手にはCDROMだけが残っていた。
八
突発的な家庭訪問。そして、その家庭訪問をブッチしたぼく。それだけで、緊急家族会議が催されるには十分な理由だった。
母さんはくだくだしく、ありがちで、されど正論でしかない文句をぼくに投げかけた。正論というのは強烈で、そして、駁する言葉はなにもかもが正しくないものにされてしまう。ぼくはただただ頷く以外に道を選ぶしかなかった。頼みの綱の父さんも今回は擁護してはくれなかった。たったひとこと、「明日はいくんだぞ」と言った。これもまた、首を縦に振る以外に致し方がなかった。
「ねぇ、稲浜くん」
例の彼女だった。あいかわらずのテンションの高さを持っていた。彼女はいつも唐突にぼくに話しかけてくる。
二ヶ月ぶりに話した彼女は言った。「最近、コウが元気ないんだよ」
最近、という言葉は残酷だった。
それが二ヶ月前であったなら、彼女はぼくのことを気に病んでいたことになる。それがどうだ? 最近ときた。解ってはいるが、寂しい。
「稲浜くんは――なにか識らないかな?」
「どうして――ぼくが識ってるの?」
「なんとなくだよ」
「ぼくは――彼女とはあまり話さないよ。クラスも違うし、それに――」
「そう。いいよ、別に。たださ、うちのクラスにきてよ」
「イヤだよ」
杭に会いたくない。
面と向かいたくない。
「じゃあ――」口元に手を当てる。「廊下からだけでいいよ」
手首をつかまれて、ぼくは引きづられた。彼女は強引だった。
抵抗はできた。だけど、ぼくはそれをしなかった。
確かに――彼女の言った通りだった。杭は沈んでいた。黒いオーラが立ち込めていて、誰も寄せ付けない感じがした。
廊下から窓際の杭の席までは結構な距離があるが、それを抜きにしても彼女が放つ黒い雰囲気は間近に感じられる。
近くには誰もいなかった。
近寄りがたいものがある。社会不適合者のぼくにも――それは一目瞭然のことだった。疑いようなどなかった。
「コウね、何日か学校休んでたんだ。理由は体調不良。でも、たぶん、パチ(嘘)なんだよね。――稲浜くんはサボリ? だったのかな。だから、識らないと思うんだけどね」いったん言葉を切って、名前も識らぬ女生徒は呆けたように窓から外を見ている杭を一顧だにした。「似てるよね」ぼくを見る。目を細めた。「稲浜くんのオーラにそっくりだよ」
そうかもしれない。
自分で自分を鳥瞰することは決してできないけれど、いまの杭はどことなくぼくに似ているかもしれない。でも、だから、それがどうしたっていうんだ?
似たもの同士? 違う――ぼくと杭は全く正反対に存在する人間じゃないか。
「大変なんだよ。コウも。彼女の――名前の由来を識っている?」
「……識ってるよ」
「なら、解ってあげてね」
「どうして――きみはそんなことばっかり、ぼくにいうの?」
彼女は困った様子だった。つぶらな双眸を瞼で半分隠して言った。「稲浜くんだからだよ」
「ぼくには――関係ないよ」
「そう……」
彼女の声はいたってふつうだったが、顔は悄然としているような気がした。
「じゃあね。稲浜くん」
意味深長なことばかりいって確信を言わない彼女に――ぼくはほんのすこしだったが、頭にきていた。近頃のぼくはすぐかっとなるようだ。情緒不安定なのは杭ではなく、ぼくかもしれないのだった。
帰宅するとコウはちゃんとディスプレイにいた。いまとなっては、彼女がきちんと画面に映っているほうが珍しくなっていた。
ぼくは言ってやった。「何をしてたんだ?」
コウは目を逸らした。後ろめたいなにかを秘めていると思った。
「何をしてたんだ? 最近」
コウは応えない。
沈黙はときとして多くを語る。
多くを語りすぎるから、捲くし立てて誤魔化そうとする人がいる。しかし、コウはそうしなかったし、捲くし立てないさまが杭にそっくりで、こんなところだけ似ていることにぼくは憤った。
「なんで、応えないの?」
「南くんが――私を放っておくから」
いいわけだ。責任転嫁だ。
そんなの――ぼくは赦さない。
「そんなこと言ってもダメだよ。どこでなにをしてたのか、話してくれよ」
「言わない……」
「じゃあ、考えがある」
ぼくは異人からもらったCDROMを握って、ウェブカメラに翳した。
きょとんとした表情をコウはした。これがなにか解っていないらしい。
ぼくはドライヴにロムを突っ込んだ。
きゅるきゅると回転音がした――瞬間、コウが叫んだ。「やめてよ」
「やめない」
「どうして、そんなことするの?」
「コウがぼくを裏切ったから」
「いつ? いつ、私がそんなことしたの?」
「呼んだのにきてくれない。きみは――どこへ行っていたのか。ぼくは識ってる。こんなことなら、ケーブルを抜いておけば良かった」
「なら――なんで抜かなかったの?」
「それは――」コウを狭いコンピュータのなかに閉じ込めておきたくなかったから? 自問自答した。答えは出ない。
ケーブルを抜けば彼女はネット世界へ行くことはできなくなる。実に簡単なことなのに、ぼくはそれをしなかった。どうして? どうしてもなぜも、全部、答えは解らない、だ。
「泳がせておいたんだね……。イジワルなんだ」
「違う!」今度はぼくが叫ぶ番だった。
悲痛な慟哭を彼女は一笑に付した。それから、突き刺さるような物言いをした。「嫌い」
「違う。そうじゃないんだ」
「信じない。私とあなたは――違う生き物だもの」
「そんなことはないッ! 解り合えるよ。ぼくはそうしようって、思ってたんだ」
ほんとうだ。
ぼくはそう思ったんだ。
誓ってはいないし、言葉にもしてない。だけど――そういう風に感じたのは紛れもない事実なのだ。なのに……。
「嘘ばっかり。いつも南くんは自分の話しかしない。私は――あなたのダッチワイフじゃない」
ぼくは黙った。黙るしかなかった。
乾いた電子音がした。
どこかの住所がウインドウで表示されていた。ここが――コウが電網を使ってたびたび訪れていた場所なのだろう。
コウは冷え切った声を出した。「さようなら」
画面から彼女がフェードアウトする。
手を伸ばした。
触れれたのはディスプレイのガラスだけだった。
「くそ……ったれ」
呻いた。
このとき――ぼくは泣かなかった。スキヤキソングも聞こえてこなかった。
そして、ぼくがすべきことは一個しかない。
いますぐ、この住所へ向かうのだ。
住所の場所はけっこう近くだった。というか――同じ町内だった。
自転車に乗ったぼくは半時間ほどでそこへつくことができた。立ち漕ぎ全開だったが、不思議と疲れ知らず。
そこは閑静な住宅街と称するのがふさわしい場所で、ほとんど車通りも人通りもなかった。人翳もなく、どこからか主婦の井戸端会議と思しき声がする以外に音もなかった。
プリントアウトした紙と電柱に記されたアドレスを交互に見ながら、目的地へ至った。
どこにでもある建売住宅があった。
ぼくは表札も確認せずに、インターフォンを鳴らした。
識らぬ人の家なのに、火事場の馬鹿力なのか、ぼくはためらうこともしなかった。もとい、ためらいの感情そのものが現れなかったのだ。
ガチャリと金属音がした。なかからロックが外されたのだろう。
屋人が出てくる。
ぼくは息を呑んだ。
玄関から半身を出しているのは、見慣れた――いつも遠くから見ていた人だったからだ。
「ナンくん? ……どうして?」
「片代さん……」
ぼくの勢いは萎えた。
しぼんでしまった。
下を向いた。灰色のコンクリが目に入った。
「あがる?」と杭が言った。
首だけで応えた。
表札を確認しなかった自分の愚鈍さを呪いながら、案内されたのはリビングではなく杭の部屋だった。
無味乾燥とした部屋だった。
およそオンナノコの部屋とは思えなかった。パイプベッドは病院にあるもののようだったし、勉強机には参考書の一冊もなく、教科書しかなかった。マンガや小説などまったくない。
もっとオンナノコらしい部屋に棲んでいるものなんだと勝手に思い込んでいたぼくの幻想は完膚なきまでに破壊された。目前のものだけが、厳然たる事実だ。
ウィークリーマンションの一室みたいだと思った。
「くるかもしれない……。そう思ってた。エイダさんの言った通りになったね」部屋に入るなり、立ったまま杭が言う。
同じようにぼくも棒立ちだった。
急展開はぼくを氷結させていた。
「見て」彼女が指差す。そのさきにあったのはラップトップコンピュータ。
目を凝らす。
信じられない光景がディスプレイのなかで繰り広げられていた。
ぼくと杭がいた。
違う――。ぼくとコウ。――これも違う。
ぼくを模したフェイクと、杭を模したフェイクがいるんだ。
「どういうこと?」
「最初は――興味本位だった」杭は言葉を選ぶようにたどたどしく言う。
「フェイクのこと?」
杭は首を左右に振る。「違うよ。ナンくんのこと」
「ぼく?」
「私ね――おじいちゃんのいいつけを守ってた。ううん、違うね――名前負けしないように頑張ってた。それにね、自分で言うのもおかしいけど、私はなんでもできた。外見だって悪くないんだから――だから、みんな私を崇めるべきだと思ってたんだ。だけど――それはほんとうの私じゃなかった。ほんとうの私はネクラなんだ」杭は一区切り置いた。「それでね、一人だけ私を崇めないオトコノコがいた。それが――あなた」
「え?」
「ナンくんはいつも素っ気なかった。鼻を伸ばしてる男子に、あはは、この下半身思考のサルめぇ、なんて思ってたんだよ。でもさ、一人だけ、ふぅん? って顔してるオトコノコがいたんだ。それが、ナンくん。あなただよ。だから、あなたの気を惹こうって思ったんだ。嫌いになった? なったよね。そうだよね……。こんな思考回路の女はイヤだよね」
「そんなことは――」
ぼくたちは似ていたのかもしれない。いや――かもしれないじゃない。似てると思った。
「八方美人してた。たぶん、誰も気付いてなかったかも。違うかな――頼子――あのぴょこぴょこしてる子。彼女は気付いてたかもしれないね」
頼子の言動の意味がありありと解った。それはスパークするように一瞬にして理解された。
杭は物凄く饒舌だった。
溜まっていた膿を吐き出すかのごとく……。
「最初はそんな理由だったんだ。けど――そのうち、ナンくんが気になった。識ってる? あなたって人気あるんだよ。一部の女子に。あの冷ややかな目がたまらないとか、うざったい前髪の所為で解らないけど、実はイケメンだとか、文学少年っぽいのがいい、とか。頼子とかがそうなんだ。だから――その、誰かに取られやしないかって……。高校にあがってから、全然話できなくなって、その……。折角、一緒の高校受けたのに。もしかして、放送室のとき、録音した?」
「うん」
「お互い様だったんだね」始めて杭は笑った。「私ね――。怖かった。どんどんどんどん、ナンくんが冷たくなっていくから」
「不釣合いだと思ってた」
「そんなことないよ……。私はどうしようもない女なんだから……」
「それこそ、そんなことないよ」
「ありがとう……」杭はぼくの手を取った。初めてぼくらの距離は図書室の机のあいだよりも近くなった。「返事。してもいいかな」
ぼくは頷いた。
杭は言った。「私も好きでした」
でも、付き合ってくださいとは言わない。やっぱり、ぼくらは似たもの同士に違いなかった。
イエスもノーも要らなかった。
***
「熱いね。熱いね。ヘタをすると、あの部屋よりも熱いんじゃない? バベッジ」
「オペラグラス、片側を貸せ」
「あいよ」
二人はひとつのオペラグラスを頬をつき合わせて覗き込む。
「熱いね。くそみたいに熱い。ほれ、ディープキスなんぞ――」覗き口からいっとき目を外したバベッジは首を捻った「なぜ、赤い?」
「あの……」
「なんだ、おまえ、もしかしてヴァ――」
「黙れ!」
「何なら俺が手ほどきを――」
「遠慮するに決まってるでしょうが。フレンチにでもやってもらうわよ」
「あいつらの口は臭いぞ。なんたってカタツムリを食うんだ」
「食い物のないイングランドよりはマシでしょうよ」
エイダは憤懣やるかたない様子で言った。
バベッジは顎を揺らした。「違いない」
「ところで――」満足したのかエイダはオペラグラスをケースにしまった。「フェイクは――本当に人工生命だと思う? バベッジ」
「さぁ、その答えは難しいね」
「どうして?」
「人工生命というのが、クリストファー=ラングストンの複雑系のようなものであるなら――それを生命的と判断するかどうかは、読み手も問題じゃないかな。弱い人工知能に倣い、弱い人工生命というんだよ」
「ふぅん」
「それにだねぇ。生命かどうか、つまり――化合物と生命の境目はどこか? 結局のところ、イヌやネコに心を見るように、見る側の問題だよ。それにさ、生物学的にアプローチするか、社会通念的に解釈するかでも変ってくる。森岡浩之の『スパイス』っていう短編に、ゼロから人間をつくった話がある。それは人間と遜色ないが、国籍がない。だから、人間じゃない。人間はいつだって、人間を基準に考えるもんだ」
「つまるところ――、ピュグマリオーンにとっては、アフローディーティアの魔法は要らなかったってこと?」
「だねぇ。それに厳密に人工知能と人工生命はイコールじゃないし、俺らがつくったのは前者じゃないのかなぁ。実際問題、彼らにアフローディーティアは要らなかったんじゃないか。必要だったのはキューピッドさ」バベッジはほくそ笑んでから続けた。「キューピッドは――この場合、おまえか」
エイダは後半部をスルーした。
「でも、それって答えになってなくない?」
「だってそうじゃないか。俺が作ったのは、らしいものであって、そのものじゃない。Cogito ergo sumじゃなく、いうなれば――Cogito ergo estってことさ。『私は考える、ゆえにそれはある』ってね。結局、彼らはそうは考えなかったってことかなぁ」
「一つ訂正さえてもらうけど、フェイクを実際につくったのは私ですからね。あんたは理論だけだったじゃない」
「聞こえないなぁ」
とりあえず、エイダはバベッジの脇腹を蹴った。