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プロローグ

 プロローグ

 

「ねぇ、バベッジ」

 自慢のアッシュブロンドをたおやかな指先で軽く漉きながら、エイダは身体を半分だけよじって、背後を向いた。振り返りざまに、肩甲骨よりも遥かに長い髪が揺れては拡がった。木目細かい毛の一つ一つが電灯の光にきらめく。

 狭い部屋の中央のソファにふんぞり返っていたバベッジは、身を起こした。ぞんざいに頭を掻く。

 無精髭を生やした、いかにもウダツのあがらなそうな男だ。アルマーニのシャツを着てはいるが、長く洗濯されている様子がなくクッシャクッシャになって皺だらけ。ワイシャツの襟には汗のつくった黄ばみがありありと見て取れる。

「なんだよ。エイダ」

 声にも覇気がなく、めんどくさそうにしている。今まで寝ていたのだろう――うつろな眼球表面は湿り気を帯びていた。

 むっつりと頬を膨らますエイダ。筋の通った高い鼻にひっかけた容姿とおよそ不釣合い。見るからにやぼったい眼鏡のツルをくいくいと調整し、

「あのさ、そろそろいいんじゃないかなぁって」

「何の話だよ」

「フェイクよ。フェイク。ようやく完成の目処が立ったのよ。これで、このくそ暑い部屋からもおさらばできるってこと」

 エイダは部屋を見回してから、わざとらしい嘆息と共に告げた。

 本当にこの部屋は暑苦しい。蒸し風呂みたいなのだ。サウナ好きなら狂喜乱舞したかもしれない、けれど、いかにサウナフリークでも四六時中サウナに入り浸りたくはないだろう。

「あー、せいせいする。あーせいせいする」とてつもなく重要なことなので、彼女は二回続けて言った。

 彼らの部屋は本来、狭くはない。テニスコートくらいの広さは持っている。天井だってエイダの背丈の二倍近い。

 それが現在、四畳半ほどのスペースしかない原因は一つしかない。部屋中をぐるっと取り囲むようにして設置されたコンピュータどものせいだ。きゃつらは、住人のことなどおくびにも気にかけず、しかつめらしく部屋を占領しているのだ。

 幾重にも横方向、そして縦方向の両方に重なり合った本棚のような設備がいくつもある。ステンレス製のそれらには抽斗がついていて、そこに基盤の入ったケースをぶち込み、コンピューティングサーバーとして運用している。いわゆる、計算工学向けのスーパーコンピュータだ。気象庁が、天候や気象のシュミレートの為にと所持していそうな豪快なブツである。

 たった一基のコンピュータにできることなど、高が知れている。そこで、幾つものコンピュータをネットワークで連結することで性能の向上を図っているのだ。

 直列処理では限界がある関係上、各コンピュータをノード――特定の処理だけをおこなうもの――として扱い、並列処理を行う。正確には異なるが、ニューラルネットをパーセプトロンと結び付けて考えれば、人間の脳細胞に似ている機構と思えばいい。

 この運用方法はインターコネクト方式と呼ばれ、昨今一般的なスーパーコンピュータの構成方式として流布している。

 それぞれのコンピュータはルートノードではなく、一介のノードであるので、人体でいえば手足のようなものだ。手足だけでは、意味がない。なので、それらを統括する頭――脳味噌が必要になる。それがエイダが向かっているコンピュータである。

 ネットワークを介し、全てのコンピュータの演算結果を纏め上げ、キーボードからのインプットで命令をくだす。アウトプットはディスプレイ上にて、頭が痛くなるような文字列の列挙で示される。ルートノードの役割も持ち、それぞれの終端ノードを統率しているわけだ。

 見た目は普通の家庭用コンピュータと同じだ。GUI(ユーザー=グラフィカル=インターフェース)もMSウインドウズと少しも変ったところはない。機能自体も大差なく、その証拠にスピーカーから『胡桃割り人形』の第四曲部分が大音響で垂れ流され、部屋中に充ちている。通常のパーソナルコンピュータとしても、使われているのである。

 ボーズ製のばかでっかいスピーカーから飛び出す音が、むやみやたらに大きいのは、大量のコンピュータのファンが立てるざわめきがうるさいからだ。一人で音楽鑑賞するときのごとき音量では、聞こえやしない。

 スーパーコンピュータに独自のOSが用いられたのは昔のこと。互換性やコストパフォーマンスを重視した結果、既存のOSやアーキテクチャを流用した方がよいとエンジニアの多くが気付いた。

 おかげで、昨今では独自規格のOSやアーキテクチャのコンピュータにお目にかかれるチャンスがめっきり減った。もちろん、x86プロセッサ上を走っているのは、オープンソースのOSをマイナーチェンジして使っている場合が大半なのだが。

「ああ、暑い。暑い」

 空色の清楚なワンピースの胸元を広げて、エイダはそこに風を送り込もうと、手をうちわにしてパタパタさせる。彼女の胸は小さいので、ちょっと布地を広げただけで、胸部が見えそうだった。もちろん、色気もへったくれもないスポーツブラが好奇の目から彼女を守ってくれるから、心配する必要はない。

 室内気温は地獄温泉。床に敷かれた赤いカーペットがさながら、別府の『血の池地獄』に見えてくる。

 コンピュータのCPUの一つ一つが放つ拝熱量がささやかでも、総体となれば馬鹿にできない。何十台とあるのだから、ヒーターが幾つもあるようなものなのだ。窓は当然のように全開になっているが、気休めにもなっていない。夏場だから外気も蒸し蒸ししているし、舞い込む風も生温い。

 電化の宝刀、文明の利器エアコンなんて使えない。ただでさえ、コンピュータどもが大電力を消費しているのだ。

 電子の妖精たちのエンゲル係数はすさまじいことこのうえなく、月の電気代は目ん玉が飛びでんばかりの値段になってしまっている。電気メーターの検針係が、心配して「漏電してませんか?」と言ってくれたこともある。その次の検針ではたしか――「電気盗まれてませんか?」だった。

「で、完成したらどうすんの?」バベッジが言う。まるで他人事のような言いざまだった。

 彼の態度に、イライラが募った。エイダは呼気荒く捲くし立てた。「はぁ? あんたが設計したんでしょうが! 私は雇われプログラマーなんだから、あんたが何に使うか知ったことじゃないけどさ!」

「よく頑張った。偉い偉い」

 微笑みながら手を叩く。何だか気が抜けた。この男、マイペース過ぎる。絵に描いたような、典型的なダメンズだ。ダメンズウォーカーにでもサンプルとして提出してやろうか、とエイダは考えつつ言った。「それじゃ、お給金のお話をしましょうか」

 エイダはコンピュータ前の椅子から立ち上がって、バベッジの座るソファの対面に座った。ガラステーブルの上に肘をつき、両手の甲を合わせて、そこに顎を乗せる。十台前半にしか見えない童顔をビジネススマイルでいっぱいにする。

「は?」

 バベッジが背凭れから身を起こす。何で? といわんばかりの顔でエイダを見てくる。何で? はこっちの感慨である。エンプロイーがエンプロイヤーに金よこせ、というのは至って普通の行為だ。おかしいことは何もない――はず。

「は? って何? 私、変なこと言ってないでしょう?」

「給料なんて払えないぞ」

 机を思いっきり叩いた。ガラスがぶっ壊れるかと思った。机上の灰皿がぐわんぐわんと浪打って、中の灰をぶちまけた。はらはらと床へ落ちて、真紅色のカーペットが汚く穢れる。舞い散るモクの灰に一瞥くれて、再びバベッジを見た。

 白皙な膚に青い血管が浮いた。エイダの憤りがあらわになった。「ふざけんな! ふざけんな!」

 憤慨していたので、二回言った。

「だって、まだ、仕事終わってないし」

「ふざけ――」と言おうとして、「え?」

「サービス開始したら、色々あるだろう。客への対応、アフターサービス。つまり、そっちの業務も……」

「バベッジ! あんたって人はッ!」今度はガラステーブルの脚を蹴った。天板が少しだけ横にズレた。「私はプログラマーであって、サービスコールの嬢じゃないんだけど? そこんとこ、了解してんでしょうね?」

「解ってる。解ってる。技術的サポートだよ。うん」

「で? 給料は?」

 目を眇める。早く、出せ。手形でも小切手でもキャッシュでも何だっていいから、さっさと出せ。強引に怒りを引っ込める。マッククルーに是非なってくださいと懇願されそうなくらい、瑕疵のないビジネススマイルをつくった。それでも、目だけは炯々と輝かせ、バベッジへ射殺すような眼光を注ぐ。

 すると、バベッジがごそごそと自分の鞄を漁り始めた。

 何かをテーブルの上に投げる。預金通帳だった。

「開いてみな」

 絶句した。彼の預金残高はたった五円なのだ。五円――ご縁。バベッジとの、これからも続くご縁。いやだぞ、そんなのは。と思った。

 とりあえず、通帳をペラペラとめくることにした。最初のページには五千万円とある。なかなかの大金だ。それが半年で半分になり、一年で更に半分になり、おそるべきことに一年半後の日付――一昨日だ――では五円。

 HDDやCPU自体の価格帯が下がり、サブプライムローンのあとの円高で輸入品が安くなったとはいえ、これだけの設備を購入するには相当の金銭が要るのだろう。

 この事務所の賃貸費用だって都内でしかも、二十三区なのだから、数十万はかたい。そんなことは承知の上だ。しかし、雇用相手に払う金がないとは、どういう了見か。

「おい。おいいいいいいいい! ただ働きかよ! これじゃ、今日の晩御飯も食えないじゃない!」

「それは、ほら、ツケでさ」

 ダメだ。この男。経済感覚が破綻している。

 この男――ヘンリー=バベッジは、インフォメーション=テクノロジーの分野ではそれなりに名の通った人物であり、認知心理学や言語学にも篤い。が、経済学には門外漢なのか。いやいや、ケインズのケの字を知らない人だってここまで金銭感覚がハチャメチャってことはないはずだ。何と言ったか、ホモ=うんたら。そうそう、人間は経済的動物であるとかなんとか……。ホモ=エコノミクス? まあ、そんなことはいい。

 ここでブチ切れしてしまいたい。けれども、そんなことしたら本当にタダ働きだ。そんなの、御免こうむりたい。

「解った。バベッジ。サービス開始しても付き合ってあげる。その代わり、売り上げは全部、私がもらう。それでOK?」

「うん。いいよ」

 何でもないように言いやがる。儲ける気がないのか。だったら、何でフェイクなんてものを造ったのか、と小一時間問い詰めたい。木馬に乗せて、ケツを鞭打ってでも聞き出したい。一年半もの付き合いになるわけだが、まだまだこの男のキャラクターが解らないエイダであった。

 バベッジの正確な年齢はエイダも知らないが、彼女の見立ててでは四十台くらい。きちんとした身なりをすれば、渋いオヤジでモテるだろうに……。いったい、今までどうやって食いつないできたというのだ? 不思議でならない。

 エイダはまだ二十台前半だが、世渡りに関する限り、彼よりも上手いような気がしたが、すぐにそれは否定された。こんな男の下で働いている時点で、自分も十分に世渡りが下手だ。エンプロイヤーの良し悪しを判定できなかったのは自分の責に違いない。

「じゃ、さっそく、フェイクを配布しよう」

 少年のような笑顔でバベッジは言った。さーて、これからゲームするぞ! と意気込むガキンチョのようだった。

「はいはい」

 本当に給料がもらえるのか不安で不安でしょうがなかったが、従う他ないだろう。投資したことを惜しんで余計な労を重ねるのをサンコストという。そんな経済学の知識があっても、結局、流されてしまうエイダだった。

 仕方ない面もあったが、ITドカタと言われる情報産業に数年従事していた身としては、バベッジのような夢追い人に付き合ってみるのも悪くない、と心の底では思っているのかもしれなかった。まっとうなソースコードをぽちぽち書いていても、まあ、結局馬鹿を見るんだから、なんて。

 それでもやっぱり、むかつくので、BGMを『胡桃割り人形』からモーツァルトのピアノソナタ第十一番、通称『トルコ行進曲』に変えた。ハイドンの『軍隊』でもよかったかもしれない。『胡桃割り人形』? 縁起でもない……。組曲の最後は夢オチで終わるのだから。それは一年半の苦労が徒労に変る瞬間だ。

 アナトリアから軍楽隊を引き連れて、威風堂々トランシルヴァニアに攻め込むオスマン軍の雰囲気でも味わってやる、そんな気分だった。シンバルとラッパ、そしてトライアングルの響きがきっついメロディが流れ始めた。


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