お別れの曲
「この高校の音楽室には、ある怪談が伝わっている。
昔、スランプを苦に自殺した生徒がいた。コンクールを間近に控えたある日、いつも練習していた音楽室で手首を切ったのだ。白鍵は滴り落ちる血で真っ赤に染まった。
今こうしてグランドピアノの前に座っている、白い手袋をした絶世の美少女も、もしかして……。
なんて、思っているのかー!」
私は椅子を吹き飛ばしながら立ち上がると、ドアに向かってまっすぐ歩いて行く。勢いよく開け放つがいなや、こそこそと覗き見をしていた人物の手首を掴まえてやった。困惑したような表情で怯えるのは、背の低い男子生徒。ネクタイピンの形からするに新入生ね。
「そこの1年。この私を盗み見ようなんて、良い度胸ね」
「は、はいぃ! すみませんっ!」
腰を抜かした癖っ毛の男子があまりにも情けなかったものだから、私は大きくため息をついてから、掴んだ手を引っ張って立ち上がらせてあげた。手袋越しだからか、彼が低血圧なのか、体温はあまり伝わってこなかった。当の男子は背筋を縮こめながら手首を居心地悪そうにさすっている。
「あの、その手袋……」
「これ? あら、手首に傷があるとでも思った?」
私は口の端を持ち上げながら、手袋を少しまくって手首を見せてあげた。当然、傷なんてあるはずがない。だいたいそのために普段から手袋をして手を守っているんだから。
だけど男子は曖昧な表情を浮かべたまま黙っている。はあ、まったく。ぼんやりした子だ。
まあ、観客としては及第点ね。私はきびすを返して、再びピアノの前へ向かう。弾みで倒してしまった椅子をしゃんと立たせた。
「なにしてるの。こっち来なさいよ」
「え。いいんですか?」
「あんたここ数日ずっと入りたそうにしてたじゃない。見るなら堂々としなさい」
「は、はあ……」
男子はおどおどとした挙動で近寄ってくると、ピアノの周りに置いてある椅子の一つに腰掛けた。眉尻を下げた情けない顔は、まるで警戒心を露わにする小動物を思わせた。
「私、1週間後にコンクールがあるの」
「そうなんですか」
「負けられない舞台だわ」
手に付けていたシルクの手袋を外す。指をほぐしながら、淡々と準備を進める。音大推薦の評定に関わるコンクールは、私の夢を実現させる上で欠かすことのできないステップだった。
「あの、さっきあなたがしていた話って……」
「ありふれた怪談話よ。七不思議ってやつかしら。あなた暗いしそういうの詳しそうね」
「いえ……そんなには」
「天井から血が滴り落ちてメロディーを奏でるなんて、馬鹿馬鹿しいわ」
私は不安ごと吐き捨てるように唇をとがらせてから、演奏を開始した。目をつむっても弾けるくらい何度も練習した曲。これは本番の予行だ。たった一人の頼りない観客がいるだけではない。私の目には、その向こうに広がる暗い客席と、何百もの聴衆と、そして運命を握る審査員たちの姿が映っていた。大舞台で、私は――。
がちゃん。
まただ。始まった。音階が乱れる。美しい戦慄に混じる不協和音。心をかき乱す濁った音色。焦りで私の指は空回りする。こうなってもう数日は経っていた。脳裏をよぎったのは幽霊の話。
私は自分の目を疑った。白鍵の上に、赤い跡が付いている。ああ、やっぱり。この血! 私の意思とは無関係に白鍵を押し、私の音楽を不快な雑音へと変貌させていく赤い雫! 当初、私は幾度も天井を見上げた。そんなことあるはずないのに、滴り落ちる血を確認せずにはいられなかった。
だけど実際に今、私の演奏は邪魔されている。自分の手からこんな汚い旋律が響くなんて、耐えられない。私は気が狂いそうだった。
もう何日もまともに眠れていない。夢でさえ私は練習を続けた。しかし、そこでは無念の表情を浮かべた女子生徒が、私にすがりつこうとする。手首を亡くした腕で。私に取り憑こうととするかのように――。
誰か、私を。
助けて。
ほら、また間違える。思わず目をつぶったが、その瞬間は訪れなかった。私は耳を疑った。私を狂気の淵まで追い詰めた不協和音は鳴らなかったのだ。
だが、正確なメロディーでもなかった。それゆえに私は驚愕した。楽譜から外れた音が確かに鳴ったはずなのに、不思議とハーモニーは崩れていなかった。
驚きの中でも、私の手は演奏を止めない。それくらい身体に染みついていた。隣を見ると、いつの間にか男子がすぐそばに立っていた。その手は鍵盤に添えられていて――初めて私は彼の指を意識した。小柄な見た目に似つかわしくない、長い手指。ピアニストの手つきだった。
不協和音が軽減された理由が分かった。血が白鍵に刻まれるたびに、彼はさらに2、3本の他の鍵を押して、音を和らげていたのだ。しかも偶然ではなく、何度も。常人に成せる業ではなかった。私の目線、指の動きから次の運指を予想して、乱れをカバーしていたのだ。
やがて演奏が終わった。久しぶりに曲を弾ききった感触があった。いつになく澄んだ気持ちで男子の顔をまじまじと見つめた。
彼は寂しげに口元を柔らかく曲げて、椅子に座った。
「手袋の内側を見てください」
裏返された私の手袋を見せられる。赤黒い染みが付いていた。私の思考は追いつかなかった。なにこれ? 指はいつも綺麗にしているのに――。
「きゃあ!」
私は悲鳴を上げていた。指は赤黒く変色し、爪の間から血が染み出ていた。
「ようやく直視してくれましたか」
……私はずっと気付かないふりをしていたのか。指の先から出血するまで練習をしたことを。なんのことはない。やはり音楽室の幽霊などいなかった。これは私のものだったのだ。私がミスタッチしていたに過ぎなかった。
焦りから来る苛酷な練習で、私の指は傷ついた。痛みのせいでミスを繰り返すようになっても、私はそれを認めたくなかったのだ。コンクールに支障が出かねないその怪我を認めたくなくて、意識の外に放り出した。なるべく視界に入らないように、理由を付けて手袋をはめた。
「私、ピアニスト失格ね」
「大丈夫ですよ」
今度はしっかりと微笑みを見せた。私を勇気づけるかのような、眩しい笑顔だった。
「君は誰かに話を聞いてもらうだけで良かった。でもそれができない人間も多い。僕に助けを求めた、それだけで十分だったんです。おめでとうございます」
そう言って指先に絆創膏を巻いてくれた。彼の指はひんやりとしていたのに、触れられた箇所がにわかに熱を持った気がした。
「一度しか弾けません。よく見てください」
弾かない、ではない。弾けないという言葉選びが耳にざらついた不快感を与えた。彼が弾き始めたのは、私がさっきまで弾いていた、コンクールの課題曲。一瞬で、かなりの力量の持ち主だということが分かった。それだけではない。私に足りないところが浮き彫りになっていく。なすべきことが明確になっていく。信じられない。弾いただけでこんなに説得力を持たせられるなんて。
演奏が終わった時、すでに男の子はいなかった。煙のように薄く消えてしまったのだ。不思議と恐怖は沸き起こらなかった。ただ空いた心を埋めるかのように、私はピアノの前に座り、彼の動きをなぞるように弾き始めた。余計な力が抜けて、指の痛みもあまり感じなくて済んだ。これなら本番にも間に合うだろう。
もう鍵盤を汚すこともないだろう。そう思ったばかりなのに、また雫が鍵盤に垂れた。透き通った色のない水滴が。
それは音を鳴らす代わりに、私の唇から呟きをこぼれさせた。
「男の子だったなんて」