~星の木~
Stern Baum
オリジナル小説
Stern Baumは”星の木”という、造語です。
今から少し先の未来を描いたお話―――
病弱な体を持って生まれ、星になりたいと願った少女は、一人の青年と出会い、やがて星の木という夢を目指す。
繋いだ命を、誰かの為に役立てたい―――
サイバー犯罪がはびこる世界に警鈴を鳴らすべく、AR(拡張現実)という武器を手に奔走する少女と、それを支える友人たちの戦いの物語。
第1章(File:0~6) 主人公の過去のお話
第2章(File:7~16) 本編前期
第3章(File:17~34) 本編中期
第4章(File:35~ ) 本編後期 ※マルチエンディング採用しています
※ この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
昔々、あるところに 生まれつき身体に重い病気を抱えた女の子がおりました。
彼女は物心がついた時からその一日の大半をベッドの上で過ごし、沢山の機械と管に繋がれて動くことが出来ませんでした。
その機械と管は、女の子の命を繋ぐ大切な命綱…決して外すことはできません。
また、薬による副作用で体の抵抗力が落ちていた女の子は、様々な感染症から体を守る為、エアコントロールされた病室の外に出る事が出来なかったのです。
同じ年の子供のように学校に通う事が出来なかった女の子は、両親から届けられる滅菌処理された本や電子機器、両親や医療職者のお話から外の知識を学び、またオンラインで学校の授業を受けていました。
外の世界を知らない女の子にとって、その知識は“外の世界”への憧れでもあり、想いを募らせた女の子はどんどんと知識を吸収していったのでした―――――。
第一章
File:0 犬の尻尾
真っ暗な病室に、いくつもの機械音と電工パネルの光が薄明かりを作る。
点滴の繋がれた右手で父からもらったタブレットを握り、小さく白い左手でパネルを押す少女。セナ―――。
すると、無機質で真っ白な病室の壁一面に、プラネタリウムのように星空が投影される。
頭部挙上されたベッドの上で、まだ少し薄明かりの残る宵の空に負けずに星が輝くグラフィックを眺めた。
窓のないこの病室で、唯一星空を見る事が出来るこのアプリケーションはセナのお気に入りでもあった。
コンコンコン………
三回のノックの後、病室のドアが開く。白いガウンとキャップ、マスクをした男性が、ゆっくりと病室に入り、セナのベッドの隣に座る。
「遅くなってすまなかったね…セナ」
「父さん」
少し乾燥した唇を、小さく動かすセナ。
周囲の機械の音にかき消されるほど小さな声を、男性は聞き洩らさなかった。
「プラネタリウムを見ていたのか?」
「うん」
「セナは、どの星が好きなんだ?」
手袋をした手で、愛しい娘の頭を優しく撫でる男性。
彼は、病室から出られぬ少女セナの父親であり、著明な科学者でもあった。
「…………」
無言のセナに、父、水月は天井に投影された星空の中で、一番輝く星を指さす。
「あの一番輝く星は、金星だね。ラテン語で“Venus”とも呼ばれていて、地球に最も近い公転軌道を持つ惑星なんだ。地球からは明け方と夕方にだけ観測出来て、太陽や月の次に明るい一番星で、“明けの明星”“宵の明星”とも呼ばれるんだよ―――――」
ゆっくりと頭を上げ、男性の指さす方を見つめるセナ。
アプリケーションが星空を動かし、空全体が流れる様に移り変わる。
「あのお星さまは?」
消えそうなくらい小さな声で、セナが問いかける。
顔をあげ、水月はセナの指さす方角を見た。
「あれは…ポラリスだね。Polarisとはラテン語で“極”を意味していて、目で見える星の中で天の北極に一番近い事から名付けられたんだ。2等星のあの星は、ギリシア語では“犬の尻尾”という意味らしいよ」
「ぽらりす……」
北極星に興味を示したセナの視線を追う水月。
「地球から見るとあの星は、ほとんど動かないという特殊な性質があるんだ。だから世界各地で“不動の星”とも呼ばれ、空の目印とされてきたんだよ」
「父さん……セナは、お星さまになりたいです」
ドクン…と、水月の鼓動が不整脈を奏でる。
「お星さまか…とても綺麗だね―――。でも、私は遠くで強く輝くお星さまより、隣で―――
どんなに小さくても…ここでセナに、輝いていて欲しいんだ――――――」
細く白いセナの体を、抱きしめる水月。
こんなに愛おしい娘を、ガウンと手袋越しでしか抱きしめられない自らを呪った。
「もう直ぐ、セナの誕生日だね―――。ねぇセナ?父さんと一緒にお星さまに“お願い”しようか…何か欲しいものはある?」
「………あ」
流れる星空の中で、唯一動かない北極星を見つめながら、小さな口を開くセナ。
「お星さま、“お願い”です。犬の、しっぽ―――もふもふしたい、です。」
「犬の、尻尾?」
目を見開く水月。そして、くすくすと静かに笑った。
「ふっ……そうか、“お願い”かぁ―――。セナのしてくれた、初めての“お願い”だな。」
セナの体を抱き寄せ、優しく頭を撫でる水月。
セナは父の胸に体を預け、静かに眠りについた。
翌月の誕生日、体を圧迫する重みで目を覚ますと、セナの目の前に大きな黒い犬がいた。
感染予防の観点から、本物の“犬”を見た事はなかったが、本やインターネットの画像でよく見ていたその姿は、紛れもなく“犬”そのものだ。
「わっ!」
大きな瞳を一層見開いて、驚くセナ。
ここは病室。両親や医療関係者ですらガウンを着て入るこの部屋に、生体の…しかも感染源になり得る“犬”が入れるわけがない。
「君は……どこからきたの?」
ゆっくりと上体を起こし、足に乗る“犬”の頭に、そっと触れるセナ。
ふわふわとした柔らかい毛の感触が、指から全身に伝わる。
「~~~っっっ!!!」
身体に、ぞわぞわっとした興奮の波が走った。
口元を綻ばせ、再び“犬”の頭を撫でると、大きくとがった“耳”がピクリと動き、顔をあげる。
少し茶色味を帯びたその大きな目が、じっとセナを捉えた。
恐る恐るその顔に手を伸ばすセナ。
黒い犬は大きな口からピンク色の舌を出し、ベロリとセナの手をなめ上げる。
冷たいシリコンの感触が、手に触れる。
(冷たい……?これは、automatos?)
「…………」
機械だと分かりながらも、セナの好奇心はどんどんと膨れ上がる。
前屈し、犬の背中を撫で、その臀部で揺れる尻尾を握るセナ。
『バフッ!』
「きゃぁっ!!」
突然に低い声で吠える“犬”に、思わず体をベッドに沈める。
「いきなり尻尾を掴むと、嫌われてしまうよ?」
病室の入り口から、ガウンに身を包んだ父が入ってきた。ゆっくりと体を起こすセナ。
「父さん、“この子”は?」
「ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)を使ったオートマタだ。セナのタブレットに同期させている。開いてみて」
言われるままに、床頭台に置いていたタブレットを開くセナ。幾つかのアプリケーション起動アイコンの中に、初見のアイコンを発見する。
水月はセナの頭に、ゴーグル型の機械を取り付けた。こめかみに、チクリとした少量の電流が流れる。
「Polaris?」
アイコンを押し、アプリケーションを起動させるセナ。すると、ゴーグルの画面に自分の顔が映り込んだ。不思議そうに眼を見開く自分の顔が、まるで鏡に映っているかのように見える。
「私?」
驚くセナに、水月は黒い犬の頭を撫で、犬を抱きかかえる。すると、ゴーグルに移った視界が高く上がった。
まるで、自らが父に抱きかかえられているかのような浮遊感を感じる。
「今、ポラリスとセナの視界を同調させている。ポラリスになったつもりで、部屋の中を歩いてごらん?」
「歩くって、どうやって――――――」
首をかしげるセナ。
「歩く事を、脳でイメージして?理学療法士としている歩行訓練で、歩いている時のような…あのイメージ――――――」
視界が、一気に床に近くなった。水月が犬を病室の床に置いたのだ。
(歩く……イメージ―――)
両手で布団をぎゅっと握り締める。そして、イメージする。父の周りを、回ってみよう。
すると、視界が水月の周囲を歩き出した。上を向くと、水月がニコリとほほ笑んでしゃがみ込む。
「上手くできたね、なかなかにセンスがある」
父の手が、犬の頬を撫でる。すると、セナの頬もまた、少しばかりこそばゆく感じた。
(触れられていないのに、父さんに撫でて貰ったような、不思議な感じ。)
「この子の名前は、Polaris。セナを外に連れて行ってあげる事は…まだできないけれど、ポラリスがセナの代わりに、外の世界を観てくれるよ」
「~~~ッ!!」
セナの全身に、再び好奇心と興奮の波がゾクゾクと走る。
「ポラリス、行こう!」
セナが叫ぶと、『バフッ!』と声を出した黒犬は病室を出て廊下に走り出た。
「えっ?!いきなり?!」
水月が開いたドアの先を見つめる。
セナの両手に握られたタブレットには、今、ポラリスの視界を借りてセナが見ている世界が流れていた。部屋を出て、更衣や消毒を行う清潔エリアを抜け、廊下に出るポラリス。
きょろきょろと左右を見渡す。
「どっちに行こう…光の、ある方に走ろうか!」
少し視界の高い窓からこぼれる光を見ながら、ポラリスはセナの想いを乗せて病棟を駆け抜けた。
今まで見た事のないような、生き生きとした彼女の表情に、目頭が熱くなるのを感じる水月。
「お誕生日、おめでとう…セナ。生きていてくれて、ありがとう」
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File:1 Book Fairy(本の虫)
9歳になったセナは、カリフォルニアにある大学で神経科学を専攻した。
学校に行くことが出来なかった彼女は、病室で大学入学試験を受け、授業は全てオンラインで行っていたのだ。
この日は、自らのアバターでもある愛犬ポラリスの視界を使って、所属する大学の図書館を訪れていた。
元々外に出られなかったセナにとって、本は外の世界を知る大事な手段。
昔から“本の虫”と呼ばれるほど、読書にのめり込んでいた。普段は両親や親しくなった医療関係者が差し入れてくれた本がほとんどであったが、ポラリスを自らの意思で動かせるようになってからは、自分で好きな本を選ぶ事が出来る。
両親の助力で事情を知った大学側からも、必要な学力があるならばとオンライン授業と試験での単位取得が認められ、愛用していた図書館の司書も、犬型自動機械の入館を認め、貸出手続きの手助けをしてくれていた。
この日もセナは、ポラリスの視界を借りて図書館に通っていた。
『ポラリス、その二つ上の段にある神経細胞のシグナル伝達の本と、工学系の棚でサイバネティックス機器の本を借りてきて?』
セナの呼びかけで、図書司書に助けを借りるべく体を翻したポラリスの目の前に、一人の男がしゃがみ込んだ。突如視界に人物が映り込んだ事に驚いたセナはあっと声を上げる。
「図書館に犬がいると思ったら、オートマタなんだな」
『驚かせてすみません』
ポラリス越しに、セナは返事をする。しゃがみ込んだ男はポラリスの頭を撫でた。
「オンラインだけで大学の単位を取っている小さな女の子がいると聞いたことがある。もしかして君かな?」
『………………』
両親や病院の医療関係者、一部の教授と図書館司書といった狭い範囲での人間関係しか持っていなかったセナにとって、外部者との接触は想定外であり、返事をしようにも言葉がなかなか見つからない。
「俺は医大生(大学院)の織、怪しい者じゃない。気になる本があるなら取ってあげるよ?」
警戒しているのが伝わったのか、男はくすくすと笑って棚を指さす。男はセナの指定した本を棚からとると、貸出手続きを行いポラリスが背中に背負っていたリュックに本を入れてくれた。
『有難うございます』
「いえいえ、どういたしまして。この辺りでうろうろしていることが多いから、また会ったら声を掛けて?Book Fairy———」
そういうと、再びポラリスの頭を撫でた。病室にいるセナの頭に、少しのくすぐったさが伝わる。
『Book Fairy?』
不思議に思いながらも、ポラリスを病院に戻らせるセナ。
そして、今日会った事を両親にメールで話した。
その日から、ポラリスと図書館に向った日は、ちらりと医学書の棚を覗くようになったセナ。
あの不思議な人に、会えるかもしれないと言う好奇心と、人と話す事へ少しの恐怖が、抑揚の少なかったセナの日常に刺激を与えたのだ。
『今日はあの人、いないのかしら?』
ポラリスが医学書の棚を覗き込む。
「あれ?Book Fairy」
背後から声が掛かる。
ポラリスの視界が振り向くと、そこには数日前に会った医大生の織がいた。
『Book Fairyとは、何ですか?』
挨拶も行わず、会って早々に質問をぶつけるセナ。
小首をかしげた後、織はニコリとほほ笑んで説明してくれた。
「ん?えーっと…俺の母国では無類の本好きの事を指す“本の虫”って言葉があるんだけど、上手く訳せないから、“本の妖精”!名前も知らない君の事だよ」
本の虫。
その言葉は、日本人の父から聞いた事がある。そう言えば、呼び方を教えていなかった事を思い出したセナは、ポラリスを通して話しかけた。
『この子は、“ポラリス”』
「ポラリス?北極星かぁ…素敵な名前だね!で、君の名は?」
『………私は、セナ』
織はしゃがみ込み、ポラリスと視線を合わせるとニコリとほほ笑んだ。
「ポラリスと、セナね!今日は何を借りに来たんだ?」
『………BMIについて良い参考書がないか、探しに来たの』
「BMI?Body Mass Index…?もしかして、工学系の方の本かな―――ここは医学書ばかりだから……」
きょろきょろと辺りを見渡す織。無言のポラリスを、ちらりと横目で見る。
『…………』
(ああ、もしかして――――――)
「俺の事も、探してくれていた?」
『…………』
図星に、言葉を失うセナ空気を読んでか、識は苦笑いを浮かべる。
「と言うのは、自惚れだったかな!工学系の棚を見に行こうか?付き合うよ、ポラリス、セナ!」
そういうと、織はポラリスの機械の体を抱き上げた。
視界が一気に高くなり、望遠機能を使わずとも、上段の本のタイトルまでよく見る事が出来た。
織の横顔も、近くなる。
工学系の棚の前まで来ると、片手でポラリスを抱えながら、スマートフォンで検索を始める織。
「ブレイブマシンインタフェースか……この辺の研究だとカリフォルニア州内の大学で御影隼隆教授や日本の聖倭大学で水月=クラーク博士の著書が有名らしいよ?」
『日本人ばかり……』
「あぁ!ゴメン。そうか、俺が日本語で検索入力したからかな―――」
(日本語……この人は、父と同じ日本人なのだろうか?)
ポラリスの視線を通して、セナが織をじっと見つめる。彼への興味が湧き上がる。
視線に、気づく織。
「えっと……見られている?」
『ごめんなさい』
「いや、謝らなくてもいい!なんか…不思議な感覚だからさ、緊張すると言うか―――」
『緊張?』
ポラリスが、首をかしげる。
「うーん、なんて言うのかな?俺が見ているのはポラリス…黒犬で、その視界を使ってセナが話しかけているのだろう?やっぱりうまく表現できないけれど―――」
『……ポラリスは、私の脳(Brain)とポラリス(machine)を接続(Interface)して動いている。ポラリスは、私―――。私と、外の世界を繋いでくれるもの・・・』
成る程、と、小さく頷く織。
セナの指さす本の貸出手続きを終えた後、織は少し散歩に付き合ってくれないかと図書館外に誘った。
少しなら、と、彼の後を追って大学の敷地内を歩くポラリス。
歩きながら織は、母国日本の事や今勉強している医学部の事、ポラリスに声を掛けた理由などを話してくれた。
翌日、また翌日と…毎日のように図書館に通うようになったセナ。本の貸し出しだけでなく、初めてできた友達ともいえる織に、会いに来ることが目的にもなっていた。
織もまたポラリスを見かけては声を掛け、ある時は図書館前で彼女を待っている事もあった。
次第に心を開いていくセナは、彼の質問に答える形で、自らの事も話し始めた。
先天性の心疾患があり、物心がついた時から病室から出られない事。
沢山の本や機械に囲まれて育ったこと。
外の世界への強い憧れ……そして
「そっか―――じゃぁ俺が、外の世界での、セナの初めての友達なんだ」
図書館脇のベンチに腰掛け、織は嬉しそうに答えた。
「えっと―――じゃぁセナって意外に若い?」
『若い?とは……』
「いや、飛び級での神経科学科だと年下だろうなぁとは思っていたけど、病歴からだと…」
眉間にしわを寄せ、指を折り数える織。
『女性の年齢を指折り数えるのは、感心しないけれど……』
顔が青ざめる織。
「もしかして、10歳前後?」
『そうね。9歳のお誕生日に、父からPolarisを貰ったの。この姿じゃなきゃ、毎日児童を連れて回る貴方はとても不思議な人に映るわね』
ベンチでガックリと頭を落とし、苦笑いする。
「不思議どころか、下手すりゃ犯罪者だよ。」
『…………嫌いになった?』
「まさか!何歳だろうがセナはセナだ。―――リアルのセナにも、会ってみたいよ」
『—————リアルの私は、もう少ししたらどこへでも行けるわ。そしたら、織に会いに行ってあげる』
「なんだ!病気が治るのか?」
ポラリスは静かに首を横に振る。そして、何処までも青い空を見上げた。
『お星さまに、なれるからよ』
――――――お星さま……?
歓んだ織の表情が、固まる。
年齢にそぐわぬ物言いをしていた今までのセナとは打って変わり、年の頃に似合う言葉の表現に、戸惑っただけではない。
少し考えれば分かる事だ。
外に出る事が出来ない体でありながら、外の世界への憧れが日に日に強くなることで生じる葛藤と、その先に浮かび上がる絶望―――。大人びた知能と言葉遣いを操っていても、心はまだ小さな少女。必死に抗えば抗うほど、その絶望は色を増すのだろう。
ポラリスのリュックに本を詰め込んだセナは、大学を後にした。
織はポラリスの背中を見送ると、図書館に戻り本を整理していた司書に声を掛ける。
「すみません、ちょっと訪ねてもいいですか?——————」
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File:2 Friend
その日のセナは、朝から検査詰めだった。
定期的に様々な画像検査やレントゲン検査を行う為、慣れていると言えばその通りなのだが、検査に時間を取られるためポラリスでの外出が叶わないだけでなく、パソコンでの情報収集や授業も受ける事が出来なかった。
この日ばかりは、自分が他の人とは違う“病人”なのだと、思い知らされる。
一息付けるころには、時計は夕刻を指していた。
散々動かされた身体的な疲れより、気持ちが疲れてしまって動けない。
いつもより、ため息が多く漏れる。
「ため息かい?セナ。今日は疲れたね……?」
病室に、ガウンを着た父、水月が訊ねてくる。
「疲れたなんてゆったら、神様に叱られてしまうわ。」
小さく首を振るセナ。その表情には、覇気が感じられなかった。どこまでも気を遣う娘に、寂しい笑顔を見せる水月。
「セナ、君にお客様が来ているのだけれど……会ってみるかい?」
「お客様?」
セナの病室を訪ねてくる人は珍しかった。
そもそもの友人が居ない事を除いても、エアコントロールされている病室は基本面会禁止である。大学の教授か、カウンセラーか…医療関係者でないとするならば、かなり限られてくる。
不思議に思いながらも、「はい」と手短に返事をするセナ。
父の言い方も、気になる。
水月に案内されて病室に入ってきたのは、ポラリスを介して何度もあった事のある顔。
「こんにちは、セナ―――会いに来ちゃったよ」
そう言ってお道化てみせるのは、セナの初めての友達、織だった。
「九暁 織君と言う、近くの医大生らしいが、確か友人だと話していたね…」
「………ええ」
何かあればナースコールを押す様にと告げ、水月は病室を出た。
機械の音だけが、静かな病室に響く。
「急に来た事、怒ってる?」
ベッドサイドのパイプ椅子に座ると、覗き込むようにセナの顔色をうかがう織。
「驚いているだけです。個人情報は何も、話していなかったはずなのに」
「あはは、そうだよね…今の情報社会の世の中では、こんなものさ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
「セナ、小さいね…思っていたよりずっと、可愛い。ポラリス(機械)を介さない声も。」
「……有難うございます、と…言っておくべきところですよね」
緊張から、上手く想いを伝えられない。
本当は、驚きよりも嬉しさが大きいはずなのに。
どうやって見つけた?だとか、探してくれたの?だとか…聞きたい事は山ほどあるはずなのに。
今日一日の大変だった検査の嵐の疲れを、一瞬で吹き飛ばしてくれたサプライズなのに…。
「あーでも、話し方や雰囲気は、やっぱりセナだね!安心した――――――」
「安心、ですか?」
「そうだよ。この前“お星さまになれる”とか言うからさ!これは絶対、会わなきゃって思ったんだ」
セナは自らの胸を押さえる。ベッドサイドの心電図モニターが、不規則な脈とペーシングの波を映す。横目でモニターを眺める織。
「会って、どう、思った―――?」
「想像より可愛くて、緊張している!あー何だろう、こんなはずじゃなかったんだけどね?俺、君よりずっと大人だしさ、9歳の子供相手に照れてる自分が恥ずかしいわ」
「……そうじゃ、なくて―――」
照れてなんか、いない癖に……両手で布団の端を握り締めるセナ。
機械に繋がれ、骨と皮の痩せた皮膚を見て…織が、怖がるのではないかと不安だった。
だけどそんな事、答えが怖くて聞けない。
そんな彼女を見て、くすりと笑う織。
「セナの思っているような事は、ないよ?」
「え?」
「いや、“こんな私を見て織が引くんじゃないか~”とか、考えてるんじゃない?」
図星を当てられたセナは、目を大きく見開く。
「やっぱり当たりか!いやいや、俺は君の父さんよりガウンテクニック(エプロンや帽子などの防護服の装着方法)には自信あるぞ?この前図書館で聞いた感じで、モニターやこの病室も、君の姿も大体の想像はできていたし、それでも君に会いに来たんだ。予想外だったのは10以上も年下の君に緊張してるって事!これは、反則だよな…」
「…………それは―――」
下を向き、口を開く。
「ん?」笑顔で振り向く織。そんな彼の、ガウンの裾を細い指でちょっこりと掴むセナ。
「また、会いに来てくれる…って、事?」
にやりと、意地悪くほほ笑む織。
「セナは、俺に、会いに来て欲しい?」
「…………」
こくりと、小さく頷くセナ。
「じゃぁ!会いに来るよ!寂しい時は俺を呼んで?学校や臨床実習や…会えない時もあるけど…出来るだけ時間見つけてくるからさ」
大きな手で、セナの頭を撫でる織。ポラリスを通してみていた視界が、今、セナの目の前にあった。手のひらから、温もりが伝わる。
「…………うん!」
セナは織に、柔らかな笑みを返した。
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3年後―――
あの日から、識は時間を見つけてはセナの病室を見舞った。忙しい時には電話やメールで状況を伝え、セナもまた、その日の体調や検査結果を彼に報告していた。ポラリスの背中では背負いきれない本を運んでくれたり、自らの本のついでだと、貸出図書の返却を買って出てくれる事も多かった。
セナはオンラインですべての単位を取得し、試験をパスしてきた。
だが、論文作成となると病室から出る事が出来ない為に研究が難航する。実動には両親の職場の研究者に力を借りながら、何とか課題をクリアしていった。
織もまた、USMLE(医師国家試験)STEP2CKやCSを無事クリアし医学部を卒業したのち、好成績と異例の速さでUSMLE STEP 3のクリアを果たし、フェローシップ研修に臨んでいた。
病院を転々とする日々を送る為、2人の会える時間はますます少なくなり、連絡も途切れ途切れとなっていた。
そんなある日、父の水月が母のアリアと共に病室に入ってくる。卒業研究の解析を中断し、ノートパソコンを閉じるセナ。仕事に忙しい両親が揃って病室を訪れるのは珍しかった。
「珍しいですね。父さんと母さんが一緒にくるなんて―――」
ベッドから上体を起こすセナ。体は重く、少しの体動で息が上がる。
「今日の体調はどう?セナ」
柔らかく微笑む母アリア。
「いつもと変わりはないわ…どうして?」
両親が、顔を見合わせる。何かがあるのだと直感で感じたセナは、閉じたノートパソコンや文献資料をオーバーテーブルに戻す。水月が覚悟を決め、重い口を開いた。
「セナ…心臓の、手術を受けて欲しいんだ―――」
「……手術?」
「そう。この2年、貴女の心臓の機能は緩やかに悪化している。予備能力がないこの状態では、いつ急激な悪化が起きてもおかしくないと言われたわ。」
「なら、重篤な感染症などを起こしていない今、手術に踏み切るギリギリの時だろうとの事だ」
選び抜かれた言葉で、両親からやんわりと伝えられる事実。
「…………。やっぱりね」
毎日モニター心電図を眺めていたセナ。不整脈の頻度が増え、手足が浮腫み、少しの動作で息が上がる。体の限界は、自分自身が一番よくわかっていた。
「父さん、母さん…私は、手術は受けません」
「セナ?!」
「どうして?!」
水月とアリアが詰め寄る。
「私は、自由になりたい―――。機械や薬に縛られない、お星さまに、なりたいです」
両親の気持ちを想い、哀し気に笑うセナ。そんな娘の決断に、泣き出すアリア。
「お願い、セナ!一分でも、一秒でも…生きていて欲しいの!傍にいて欲しいの!少しでも望みがあるのなら…手術を受けて――――どうか」
セナの両手を握り、すがる母。
小さく首を横に振るセナ。
「母さん…何もできない娘で、ごめんなさい―――」
「セナ!そんな事、言わないで―――お願い…セナ!!!」
声を上げるアリアの肩を抱き、一度落ち着かせてくると病室を出る水月。
父は、セナの選択を薄々感づいていた。3年前、彼女からお星さまになりたいと聞いた、あの日から。
その日の夕方、久しぶりの時間を見つけセナを見舞いに来る織を、水月とアリアは引き留めた。3年もの間、娘を見舞ってくれる織の存在は、クラーク夫婦共に有難く、感謝も信頼もしていた。
だからこそ、今回の件を彼に、話す事にしたのだ。
セナの体調の事。体が、限界を迎えようとしている事…彼女が、『お星さまになる事』を望んだことを、水月は織に話した。
「それは、俺に説得を期待しています?」
重いため息を浮かべながら、織は問い返す。
「……ズルい方法だとは分かっている。それでも―――」
水月の言葉を遮るように、織は話す。
「解っていますよ、これでも医師の端くれです。上級医のICに立ち会うし、クラーク夫妻のようなご家族を目にした事だってある」
「病室に閉じ込めたこの生活が、あの子にとって辛い日々である事はわかっています。どう思われても…私達にはセナが必要なんです―――」
こらえきれず、大粒の涙を溢すアリア。その肩を、優しくなでる水月。
「アリア夫人、ズルいですよ!セナと同じ顔で…泣くなんて」
苦笑いを浮かべ、織は立ち上がる。
「手術は彼女に命を与える魔法じゃない。術中に命を落とす事だってある、諸刃の剣。その覚悟があるのなら、もう少し…あと半年、待ってくれますか?」
そう言って、面談室を出ようとする。
「どうする、気ですか?」
その背中に、問いかける水月。
「俺には覚悟はできています。3年前、少ない情報からBookFairyを見つけ出し、病室で会ったあの日から―――」
ニコリとほほ笑むと、面談室を後にした。
ガウンを着用すると、エアコントロールされた病室のドアを開ける織。
振り向くセナ。
てっきり母をお落ち着かせた父が戻って来たのかと思ったが、予想外の客に目を丸くして驚いた。
「織?」
「俺じゃ不満か?セナ」
くすりと笑い、ベッドサイドの椅子に腰を落とす織。
「………いえ。嬉しいけど、今日はちょっと…会いたくなかったな」
「あらら。そうはっきり言われると、傷つくな―――」
苦笑いを浮かべながらも、織にはその理由が分かっていた。クラーク夫妻から話は聞いている。両親を傷つける選択をする事に、セナ自身も傷ついているからだろう。
いつものような大人びた応対も、冷静な口調も、思いやりのある言葉も、セナには何一つ、彼にかけられる自信がなかった。
日を置けば置くほど、話題を振るタイミングが難しくなると考えた識は、ストレートに訊ねた。あの両親の口ぶりから、いずれ織にも事情を話す事は目に見えている。その事くらい、頭のいいセナなら直ぐに感づくだろう。
その時まで、嘘の笑いを浮かべて知らないふりをして過ごすくらいならと、膝の上で拳を握る。
「セナ、お星さまに…なりたい?」
織の真っすぐな目が、セナを捉えた。開きかけた唇を一度閉じ、もう一度開くセナ。
「……はい」
「俺や…ご両親が、傍に居てと言っても?」
「————————」
織の視線に耐え切れず、セナは視線をそらせた。
「セナは、お星さまになって、何がしたい?」
「……この目で、本物のお星さまが、見たいです」
「他は?」
間髪を入れずに、織は問う。
「………走りたい。泳ぎたい。学校にも行きたい。図書室に行って本を読みたい……それから―――」
セナの目には、涙が浮かんでいた。
「お洒落なカフェに行って、ミックスジュースと塩っ辛いポテチも食べたい。友達と、遊びたい…救急車じゃない車に乗って、ドライブしたい――――。」
ボロボロと涙を溢し、次々と思いを吐き出すセナ。
「織にも、会いに行く……」
セナの言葉に、織は立ち上がると、モニターや点滴に繋がれたその小さな体を抱きしめた。
「お星さまにならなくったって、会えたよ?セナ」
指で、セナの大きな瞳からこぼれる涙を拭うと、彼女の顔を覗き込んだ。
「セナは今でも十分に頑張ってる。それは、ご両親も俺も、主治医も看護師も、みーんな知ってるよ。
今でも精一杯頑張っているセナに”頑張れ”を重ねるのは、残酷だと言う事は十分わかっている。でも、もうひとつだけ…もう半年、頑張ってくれないか?」
セナの瞳の影が、色濃くなる。
ムリを押し付けている事は、織にも十分わかっていた。
「手術しよう?セナ。そしたら全部、俺が叶えてあげる。お星さまの代わりに、君がしたい事を全部叶えるよ」
「織、私…手術はしないの」
「手術をしないとどうなるかは、解っているのだろう?」
先程の優しい声色が消え、強い口調で識は言った。
早くなる鼓動に、戸惑いながら答えるセナ。
「………はい」
「星になるならその体、要らなくなるだろ?――――だったら、俺がもらっていい?」
抱きしめていた腕を離し、再びセナの視線を捉える織。
「———どう言うこと?」
セナは尋ねる。
「半年後、俺が握るメスで、セナを切る」
彼は、本気だ……。本気の瞳をしている。本気には、本気で答えなければ…赤く腫れたセナの目は、真っすぐ織を刺した。
「……もう二度と、メスを握れなくなるかもしれないよ?」
「その覚悟もなしに、俺は君に会いに来たわけじゃない。俺は俺なりのやり方で、誠意を見せてみせるさ」
「………ふぅ」
小さくため息をつくセナ。交わる視線の、緊張が途切れる。
「良いわ。未来のスーパードクターの成長の為に、この身体、差し出してあげる。」
ドクンと、識の心臓がムラ打つ。自らで臨んでおきながら、一気に重い重圧が彼の背中に圧し掛かった。
背中を伝う冷や汗に、口元を綻ばせる織。
「よし、約束だからな―――」
握ったセナの左手に、織の緊張が伝わる。
「手術までに辛い検査も沢山受けて貰う、だけど―――絶対に死ぬなよ?俺が切るまで…絶対に――――俺以上の心臓外科医は、全米探してもいないからな!」
セナの心臓を指差し、ウインクして見せる。
(これで……良かったのだろうか。私は彼に、とてつもない重圧を背負わせてしまった)
緊張や重圧を、隠そうとしているのだろうか…それとも、重圧を負わせたとセナに気負わせないためにわざと陽気に振舞うのだろうか。そんな彼に苦笑いを浮かべるセナ。
「……そう言えば、二次試験(USMLE STEP2)はコミュニケーション能力とプレゼン力が採点に評価されるのよね―――」
「そうそう!俺は口とコネで5000倍率の心臓血管外科のフェローシップを勝ち上がったんだぜ?コミュ障のセナには無理だろ?」
「そうね。私には無理」
顔を見合わせ、くすくすと笑顔を交わす。
「半年間、か―――。具体的には私、何したらいいのかしら、先生?」
「そうだな~先ずは、ご飯食べてもう少し太ってくれ!後は、笑顔の練習…」
「・・・・・それは、何の役に立つのかしら?」
「手術に耐えうる体力作りと、俺のモチベーションを上げるためだ」
「……他は?」
「色んなところに話を付け、時期を見て早々に転院してもらう。場所は俺がフェローシップを受けている病院だ。セナにとっては慣れ親しんだ医療従事者ががらりと変わるストレスはあるが、キミの為に最高のチームを用意してやれる」
「織のコネクションが通りやすい所って事?」
「まぁ、そういう事!研修医上りが執刀するんだ、色々無茶が通るところの方がやり易い」
「……分かったわ。」
肩をすくめるセナ。
「それともう一つ、一番大事な事だ―――」
あらたまる織に、セナの表情も強張る。
大変な検査、辛い薬、リハビリ…半年後に手術を受けると言うのなら、それまでに乗り越えなければいけない事は山ほどあるだろう。やると決めたからには、セナも覚悟を決めなければならない。
「最後まで、俺を信じてろ。お星さまにだって見えない“世界”を見せてやる」
識の意外な言葉に、目を見開くセナ。
(お星さまにも見えない“世界”—————)
無償に込み上げる笑いを堪え切れず、セナは吹き出す。
「分かったわ、織!貴方を信じている」
彼女の笑顔に、幾ばくかの安渡を覚えた織。
これからやるべきことは山ほどある。
先ずはセナの両親への説明と、リスクを伴う手術を自分が執刀出来るように手配する事。
半年後までの彼女の体調管理と、スムーズな転院…
自らに課した壁が高ければ高い程燃える。そうやって、難関のUSMLEを乗り越えてきたのだ。その先に、今のような彼女の笑顔があるならなおさらだ。
(この笑顔を裏切るわけにはいかない……)
「さて、明日から筋トレメニュー増やさないとな…」
腕を伸ばし、背伸びする織。
「筋トレ?」
キョトンとするセナに、にやりと口元を綻ばせると、腕を捲り上げ、鍛え上げた自慢の上腕二頭筋を見せびらかす。
「若手は体力勝負だからな!イメトレも捗るし、これが一番効率がいい」
それじゃぁと病室を去る織に、さっそく一抹の不安がよぎるセナ。
「……信じて、良いのよ、ね?」
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その日からは、検査の嵐と体力温存の為、セナは大学を休学し療養に専念する事とした。セナが手がけていた研究は、元気になったら続きが出来る様にと母アリアの研究チームが維持温存を約束してくれた。
織から一部始終を聞いたセナの両親は、当然直ぐにYESを出せなかった。若手医師に執刀を任せる事に不安はあったが、これ以外セナが手術を受けないと言い張る為、断腸の想いでこれを承諾する。
一方、識がフェローシップを受ける病院では、彼の巧み稀なるコミュニケーション能力で築きあげた人脈と、元々のコネを最大限に活用し、腕利きの専門医が数名補佐を名乗り出たため特例が認められた。
山ほどの文献を読み漁り練り上げた手術計画をカンファレンスに出し、承認を得ると、セナの転院が実現した。
転院先の病院で、専門医の同席の元、主治医となった識からインフォームドコンセント(説明)を受けるセナ。
「左室形成術と乳頭筋最適化を同時に行う、デュアル形成術を提案します。術式そのものは昔からある方法で、術後成績も予後もかなり良好です。左室形成そのものは15分以内に完了し、幼弱な彼女の身体への負担を最小限に抑えます」
ベッドで沢山の機械に繋がれたセナは、視線だけを織に向ける。
スクラブ術衣の上にガウンを羽織り、堂々とした口ぶりで説明する織は、セナがよく知る友人の彼とは雰囲気が異なっていた。
説明の途中、瞳を閉じるセナに、「疲れた?」と声が掛かる。
「……聴いているわ。心尖部を温存する凍結型の左心形成術と、僧帽弁の閉鎖不全があるから、そちらのフォローも一緒に行うって事でしょ?」
識と専門医は顔を見合わせる。
「私の事、BookFairyと言ったのは貴方よ?覚悟を決めたからには、きちんと自分の事くらい勉強するわ」
「これはこれは、失礼!レディ。貴女からの不安や質問はあるかな?」
専門医がセナに尋ねる。その様子を、見守る水月とアリア夫妻。
「一片通りは調べたから、特に無いわ。煩わしいのは…そうね、もしこの手術が成功しちゃったら、傷物の身体を引き受けてくれる婿殿探しをしなきゃいけない事ね」
「それなら別の心配をするべきだ!麻酔から覚めた君の元に届いた沢山の花束を、どこに置こうかとか。いっそ、何処の体育館を貸し切りにするかに悩む方が良い」
ユーモアを返す専門医。
「そう…じゃぁ私、白いお花がいいわ―――何色にも染まる自由な未来のような、真っ白なお花―――」
胸を大きく上下に沈ませ、呼吸を整えるセナ。
ICを終えた後、この日まで、よく頑張ってくれた、と水月とアリアはセナの両手を握り締めた。
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File:3 空の色
手術当日―――
術衣を身にまとったセナは、ストレッチャーの上から、心配そうに見守る両親に笑顔を向けた。
「そんな顔しないでよ…大丈夫だって事は、母さん達が一番よく知っているでしょう?」
「……ああ、勿論。病室で待ってるよ…」
「今日までよく頑張ってくれたわ!セナ。もう少し…もう少しだけ、頑張って」
両親の手を放し、瞳を閉じるセナ。
手術室に入ると、スタッフがテキパキと麻酔の準備を始めた。酸素マスクを装着されるセナ。
無影灯を遮るように、マスクやガウンに身を包んだ織がセナの顔を覗き込む。
「俺を、信じてくれてありがとう。セナ」
「……何の役にも立てなかった私に、生まれた意味をくれて、ありがとう……織」
眩しい光に瞳を細めながら、彼の顔を確認すると、セナは安心したかのようにつぶやいた。
「いやいや!そのフラグは今じゃないぞ?生まれた意味は、麻酔が覚めてから、たっぷり教えてやる。………もしその傷のせいで嫁に行き遅れたら、俺が貰ってやるから安心しろ」
識の声が、だんだんと遠くなる。
セナはそのまま、意識を手放した。
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規則正しい電子音が、セナの耳元でリズムを刻み、ゆっくりと眠りから覚めるセナ。
瞼の向こうが、明るい。
ひくりと、指先が動く。
(私、まだ、生きてるんだ――――――)
「起きたかい?お姫様」
安心する聴き慣れた声に、瞳を開ける。
隣には、スクラブ術衣の織がノートパソコンをカチカチと叩いていた。
口元を覆う酸素マスクが邪魔をし、思うように唇が開かない。
「……………」
「あら!本当に可愛い!こんな可愛い子にご執心なら、Drクギョウが病棟ナースになびかないのも頷けるわね」
点滴を更新する看護師が、にこやかに声を掛ける。
「そうでしょう?解ったら、俺がゲイだとか、有らぬ噂は訂正しといてくださいね!彼女に嫌われたら皆さんのせいですよ?!」
「だってドクター、誰の誘いも断るんだもの!そのくせご両親より先に彼女の目覚めを独占するなんて!……とにかく、クラーク夫妻、呼びますね」
視線で看護師を見送るセナ。
(目覚めの、独占?両親は、ここにいないのだろうか―――)
「こっち向いて…セナ」
視線で織を追うと、目の前に白いバラの花束が差し出された。
「もっと沢山のバラの花束を持ってこようと思ったんだけどさ、観察室にそんな沢山生花を持ち込むなと看護師長に怒られてしまったんだ。無理を言ってこれだけは、許してもらったよ。」
布団の上に置かれた白いバラの花束。甘い香りが、鼻腔をかすめる。
「白いバラの花ことばは、“約束を守る”。よく頑張ったね!セナ」
『………ありがとう、しき』
音にこそならなかったが、口を開くセナ。酸素マスクが、湿気を帯びて曇る。
「まぁ、バラは色男に譲ってやって、私からはこれを―――」
低い声と共に降ってきたのは、一輪の白いアマリリス。声の主を視線で追うと、先日のICで識の隣にいた心臓外科専門医だった。
「ナイツスターリリーの花言葉は“美しさ”と“誇り”。静かで大人しい子だと思っていたが、この半年間の君の強さを見て驚いたよ…よく頑張ったね―――」
『せんせい……』
唇を動かすセナ。そして―――
「セナ!!」
関を切ったように病室に雪崩れ入る両親。
アリアは目いっぱいに歓喜の涙を浮かべ、娘の肩を抱きしめた。
『かあさん―――』
「セナ、ありがとう…頑張ってくれて―――ありがとう………!!!」
点滴に繋がれた右手を、母に伸ばすセナ。その手を、しっかりと握り返すアリア。
『とおさん』
セナの唇が、静かに動く。アリアの後ろで白い花束を抱えていた水月はセナの左側に回り込み、白いガーベラの花束を差し出した。
「私達からは、これを―――。」
『ガーベラ?』
「白いガーベラの花言葉は“希望”これからも君の世界は続いていくんだ…この花たちは、セナがセナの好きな色に染めていくんだよ―――」
「この白い花たちには、“これからも、よろしくね”という意味があるのよ―――」
両親が、セナの両手を握り微笑んだ。
両手から伝わる温かさが、生きていることを、実感させた。
「白いお花ばかりじゃ、味気ないでしょ?!女の子は可愛くなくちゃね!」
病室のドアから、赤や青、黄色や緑、紫、オレンジ、ピンク等…様々な色を持つ花を持ったメディカルスタッフ達が入ってくる。
大きな瞳を丸くするセナ。
「私達からは、カラフルな花をプレゼントするわ!白い花に自分の色を付けるのも人生だけど、貴方の周りには沢山の色を持つ人がいる。その素敵な色達と触れ合い、時に喧嘩し、選んでいくのもまた、これから待ち受ける貴女の人生の楽しみよ!」
ウインクして見せる看護師長を始め、リハビリや栄養士、麻酔科医、クリーンスタッフ、ケアワーカー、薬剤師等、様々な医療スタッフがセナに花を差し出した。
「大きな花束はダメだって言っておきながら、師長もちゃっかり持ってきてるじゃないですか!」
彼らの粋な計らいに、頭を掻く織。
「あなた一人で沢山持ってきたら、私達の花を生ける花瓶がなくなっちゃうでしょ?」
「———ありがとう、ございます!」
息を振り絞り、精一杯“音”を紡ぐセナ。彼女が精一杯で絞り出した、風に流されるほど小さな“声”を、誰もが聞き逃さなかった。
目尻にうっすらと涙を浮かべながら、セナは微笑んだ。
観察室の窓から見える空は、何処までも青く、白く澄んでいた。
彼女が描いていくこれからの世界の、パレットのように。
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File:4 約束
大きな手術を成功させたセナは、手術で形成した新しい心臓に少しずつ負荷をかける心臓リハビリテーションを行いながら、徐々に体力を回復させていった。
休学していた大学にも復学し、凍結させていた研究も、タブレットとPolarisを使って少しずつ再開させた。
そして、手術から1年後…満を持してついに、この日を迎えたのだ。
日の光が差し込む病室で、白いセーラーカラーのワンピースに着替えるセナ。病室に散乱させていた本の山とタブレットをリュックに詰め込むと、大きく深呼吸した。
彼女の手足には、動きを制限する管も機械もついていない。胸に24時間の心臓の動きを確認するホルター心電図という小さな電極が張られているだけだった。
大きなリュックを背負い、ベレー帽を被る。
ふと、個室に備え付けられた化粧台の鏡を見つめるセナ。
ほのかにピンク色をした、ふっくらとした頬と唇、大きなリュックを背負える腕と体、自分の足で動いて回れる体力。鏡の前でひらりとスカートをなびかせて見せる。
くぼんだ瞳にやつれた白い肌と幾つもの点滴の痕で青くなった腕をした数年前の自分を面影は、何処にもなかった。
「馬子にも衣装……そんな恰好をしていると、どこぞのモデルかテレビ局を抜け出した子役みたいだな!」
突然背後からかかる声に、驚いて振り向く。
背中のリュックに詰め込んだ本の勢いが止まらずふらつくセナ。
ふと、背中が軽くなる。
声の主は大きなリュックを彼女の背中から取り上げ、片肩に担いだ。
「馬子にも衣装は、誉め言葉じゃないわ?織。それに、レディの部屋に入る時は、ノック位するものよ」
「お前の身体は心臓の隅々まで知ってるんだ、今更見られて困る場所なんて―――」
「今のセリフはアウトね。セクシャルハラスメント…で、訴えられるわよ?」
頬を膨らませるセナに、白いバラの花束を渡す、織。
「………?」
「退院おめでとう、セナ」
「………ありがとう、織」
バラを受け取ったセナ。心臓手術後、麻酔から目覚めた時を思い返す。あれから、一年がたったのだ。
「白バラの花ことば、俺が言った事覚えているか?麻酔から覚めて直ぐだったから、朦朧としていたかもしれないが……」
「覚えているわよ、“約束を守る”だったわね」
「そう!お星さまの代わりに、君のしたい事は全部叶えてやると―――約束した」
リュックを持つ手を逆の手を、セナに差し出す織。
差し出された手に視線を落とすと、その手を握り返した。
「きちんとクラーク夫妻にも許可は取ってある。今日一日、このスーパードクターは君のモノだ」
「えっ?」
パチパチパチパチパチ――――
識の手に引かれ、病室を出ると、廊下には沢山の医療者が並び、惜しみない拍手が送られた。
「おめでとう、セナ!」
「よく頑張ったな!!」
「これからだぞ!」
「元気でな!!」
次々に声が掛かる。皆、忙しい勤務の合間をぬって、セナの退院に駆け付けてくれたのだ。
目頭が、熱くなる。こんなにも、沢山の人に応援されていたんだ―――。
「お星さまじゃ、この拍手と笑顔は、見られなかったぞ?」
意地悪く、にやりと口元を綻ばせると、識は「行こう」とセナの手を引いた。
沢山の拍手に見送られ、セナは病棟を後にした。
病院の受付フロアに着くと、ここで待っているようにと長いすに座るよう促される。
エントランスまではと見送りに来てくれた看護師長と共に、退院手続きを済ませて長いすに座るセナ。
程なく、白衣から私服に着替えた識が長いすまで迎えに来る。
「お待たせ…じゃぁ、行くぞ?」
「行くって、どこへ?」
「決まっているだろ?約束を、叶えに―――だよ」
識の隣には、黒犬型BMIマシン、ポラリスもいた。
「ポラリス!!」
「今日は俺達二人がエスコートするぜ」
ウインクして見せる織。
「くれぐれも、彼女にやましい事はしないように!先生が変な事をすれば、彼女に付けたホルターECGで、直ぐにわかっちゃうんですからね!」
見送りの師長がニヤリとしながら釘を刺す。
「しませんよ!酷いな師長、俺そんなバカじゃないです!する時はもっと上手くやりますって!」
「……セナ、何かあったらすぐに病院に連絡するのよ?いい?」
セナの両肩をがっしりと掴み、念を押す師長に、「ありがとう」と、苦笑いを返した。
エントランスに手を振り返しながら、病院の外に出る。病院の自動ドアをまたぐと、爽やかな風が吹き抜け、彼女の茶色く長い髪をふわりとなびかせた。
心臓が、ドキドキする。
ワクワクが、止まらない。
ポラリスの視界を借りて外の世界に出た時よりも、全身の五感が、外を感じようと騒ぎだす。
「私、自分の足で外に出た―――嘘みたい!」
その様子を見て、くすりと笑う織。
「こんな事で驚いてちゃ、今日一日心臓が持たないぞ?ドキドキするのは、今からだ!」
識は病院前のロータリーに停車していた車にセナを誘導した。
大きなリュックとバラの花束を後部座席に乗せ、頭を打たぬように腰を屈めるセナを助手席に乗せると、運転席に座りエンジンを回す織。重く大きな音がリズムを刻む。
「回転動機構による容積変化を利用して、熱エネルギーを回転動力に変換して出力する原動機。ドイツの技術者が開発したヴァンケルエンジンだ!君を乗せてコイツの本気を見せる事は出来ないのが残念だよ」
楽しそうに口元を綻ばせる。
「コイツの本気って?」
不思議そうに首をかしげるセナの背中が、シートベルトと共に座席に押さえつけられる。
「?!!!」
「ホルター(心電図)外したら、見せてやろう♪」
「………いいえ、結構です―――」
楽し気な識とは対して、真面目な顔して拒否するセナ。
少し開いた窓から、風を切る音とエンジンの匂いが鼻をかすめる。病室では、知る事の出来なかった、音と匂い。
道の両脇に並んだ木のトンネルに入ると、木漏れ日が影を作った。
「わぁ!」窓から顔を乗り出すセナ。
識は車を止める。
「少し、散歩しようか?」
「・・・うん!!!」
重い車のドアを開け、外に出るセナ。道端の木に、そっと触れる。
ごつごつとした木の皮の感触が、手のひらを刺激した。
「おおきい―――」
「木は、表面に見える幹も葉も十分大きいけどさ、地中の奥深く、見えないところでそれ以上に大きくに張り巡らされた根っこが、この大木を支えてるんだ。地上にポツンと立っている木なんてすぐ倒れてしまう。だけど、こうして広く張る根に支えられた木は、嵐にあっても直ぐに倒れたりはしない。」
大木を見上げる織の顔を、見上げるセナ。その視線に気づく織。
「何?柄でもないこと言った?」
「……どうして識は、私を助けたの?」
「………そうだなぁ」
識は再び、大木を見上げた。
「インスピレーション!(直感)」
予想外の答えに、眉をしかめるセナ。
「何?君の為って、言ってほしかった?」
意地悪く口元を綻ばせる織に、フイと視線を逸らせるセナ。
「そこまでは、期待していないわ」
「……。俺も、実はセナに助けられたんだ。
医者の親に促されて医学部通って…想像以上にUSMLEが難しくて、何のために頑張るのか、正直迷ってた。」
識は大木を見上げながら、語り始めた。
「そこに、今にも折れそうな小さな木が立っていて、添え木をしたら、その木は必死に葉を震わせ支えにしがみついていた。沢山努力して、頑張って、強い根っこを育てていくその木を守りたくて、その方法を必死で探すうちに、俺は自分のしたかった事を見つけたんだ。
その木がいつしか俺の添え木がなくても自分で立って、誰かに安らぎを与える大木に成長したら、俺のこの努力は意味を持つんじゃないかって。」
「…………君のその笑顔が、俺が外科医になった理由だよ」
柔らかな木漏れ日が、セナと識を優しく照らす。
「織…私ね―――」
真っすぐ織を見つめるセナ。白いセーラーカラーと茶色い髪を、風がふわりとかきあげる。
12歳とは思えない程の大人びたその眼に、ドキッと胸を打つ織。
「大学を卒業したら、父と同じ研究者になる。識に貰ったこの命で、かつての私のように病室から出ることができない誰かの、お星さまの木になりたい。」
識はセナの背後にキラキラと輝く大きな木の幻を見た気がした。そして今、胸を打つ緊張の意味が分かった、自分の直感は間違えていなかったのだ。
自分が救った命が、やがて誰かの命を救う木になると―――。
「ありがとう、セナ。」
そろそろ小腹が空いたねと、セナを車に乗せると、街に戻って小さなカフェに入る。
Viscum album(白い宿木)と書かれた店は、小さなカウンターと、数脚のテーブルセットが置かれた静かなカフェ。
カウンター後ろにはいくつもの酒ボトルが置かれており、夜には大人達の憩いの場になるようだ。
白い一輪のバラとreserved seat(予約席)と書かれたプレートが置かれた窓際の席に案内すると、スッと椅子を引いてエスコートする織。
セナは興味深げに、誰もいない店内を見渡した。
「勝手に座って良かったの?」
遠慮気味に訪ねるセナ。
すると、店の奥から黒エプロンをしたマスターがグラスを二個、持ってきた。
中にはオレンジや桃等のカットされたフルーツが入っている。
「今日は君の為の貸し切りだ!ようこそ、外の世界へ…お嬢さん」
男はウインクを見せると、予約席のプレートを下げ、右手に持っていたボトルからグラスにドリンクを注ぎ入れた。
「織も今日はこっちだ!車で来ているんだろう?」
「わかってるよ!」
拳を交わし合うと、男はカウンターの奥へと消えていく。
「お知り合い、なの?」
「まーね。じゃぁ、乾杯しようか?改めて、Stern Baum(星の木)の未来を祝して…」
フルーツジュースのグラスを掲げる織。彼に倣いセナがグラスを持つと、互いにグラスを傾けた。
「「乾杯!」」
グラスを口にするセナ。フルーツの甘い薫りと、すこしざらっと舌に残るジュースの食感が口に残る。
「~~~っ!美味しい!!」
程なく、カウンターの奥に消えていたマスターが、チョコレートコーティングされたフルーツと塩の添えられたチップスを運んできた。眼を輝かせるセナ。
「……っはぁ!これ、食べていいの?」
「今日は特別!看護師長には秘密だぞ?」
人差し指を口元に当てる織に、こくこくと大きく頷く。
「ミックスジュースとチップスとは、変わったオーダーだと思っていたが…そうか、カリウムや塩分が制限されていたのか」
納得したかのように、小さく頷くマスターに、セナはチップスにかぶりつきながら「秘密、ね!」と親指と人差し指をくっつけ、口の前でファスナーを閉じるジェスチャーを見せた。
こうしてみる無邪気な仕草は、12歳の少女そのものだった。
夕刻に、セナの家の前まで送り届ける織。車のエンジン音を聞きつけ、インターホンより早く飛び出してくるアリア。
「お帰り!セナ。」
「ただいま、母さん」
車の横で抱擁を交わす二人の後ろで、識から荷物を受け取る水月。
ポラリスもまた、後部座席から飛び降りて咥えた荷物を水月に渡す。
「今日はありがとう、織君。」
「いえ、これは俺とセナの”約束”ですから。それでは俺は、これで失礼しますね」
ひらりと片手をあげて、車に乗り込む。
「ありがとう織!お星さまじゃできない事、叶えてくれて、すっごく楽しかったよ!」
「世界の楽しさは、まだまだこんなものじゃない!覚悟しろよ、セナ?」
車のランプが見えなくなるまで手を振り見送るセナ。
「お家に入りましょう?今日どんな楽しい事があったのか、母さんに話してくれる?」
セナの背に手を添え、家に促すアリア。入院生活が長かったため、自分の家だと言われてもどこか他人行儀に思えてしまうセナは、その大きな家を見上げた。
「………」
すると、後ろを付いていた水月が、セナの身体を抱き上げる。
「?!父さん」
「おかえり、セナ―――ここが、君のホーム(家)だよ」
「——————ただいま!」
父の肩にしがみつく様に腕を回すセナ。
(私、家に…帰って来たよ――――)
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File:5 もう一人の友達
一部の生活の制限と、毎日の内服や定期受診、定期検査等はあるものの、自由の生活を手に入れたセナは、年の頃らしく明るく楽しい学生生活を送るだろうと…誰もが期待していた。
本人以外は―――
『セナ、明後日はクリスマスだけど―――何か欲しいものはある?』
自宅からほど近いラボ(研究室)で、手術前から行っていた研究を再開させたセナは、連日ラボに泊まりきりで研究を進めていた。退院後、休んでいた時間を取り戻すかのように研究に打ち込み、大学と図書館とラボの往復で、ここしばらくは家に帰ってこない娘を心配した母アリアが、連絡を寄越した。左耳に取り付けたインカム越しに、通話するセナ。
「欲しいもの…時間と研究データかしら。新しい解析装置があれば尚の事いいのだけど……」
電話の向こうの娘の冷たい言葉に、頬を膨らませるアリア。
アリア自身も医師でありながら研究開発部署に所属している為、家に帰れずラボに泊まり込みになる事は多々あったが、セナの生活はそれ以上にストイックだ。
『母さんも、手伝おうか?セナ』
「要らない。母さんは自分の研究忙しいでしょ?私は大丈夫よ、アウトラインはできているから今年中には提出できそうだし」
カタカタと、タイピングの音が電話越しに響く。
『提出できそうなのに、まだ研究データや解析装置が欲しいの?』
「え?うん。卒業後に手掛ける予定の研究を、とりあえず同時進行で始めていて―――」
『もぉ!!体が一番だって、主治医の先生からも言われているでしょ?!』
「年明けの定期健診の事?薬もサプリメントもきちんと飲んでいるし、Polarisも一緒だから大丈夫よ」
(全く何が大丈夫なのか、解らない…どこで育て方を間違えたのかしら―――)
受話器を握り、大きなため息をつくアリア。
退院後、自分のしたい事を見つけたセナは、確かに生き生きとしていた。
せっかくもらった命だから、人の為になる事をしたいと語る娘の夢は、両親にとっても、とても誇らしかった。
それが逆に、生き急いでいるようにさへ、思えて辛くもあった。
その甲斐があってか、セナの卒業研究は大きな評価を得、1年のブランクを感じさせない成績で大学を卒業した。
卒業に浮かれることなく、すぐさま次の研究にとりかかり、次々と成果を上げる彼女を、各界のメディアは様々に取り上げ”次代のダークホース”だの”脳科学界のプリンセス”だのと書き立てた。
またセナの過去の手術を嗅ぎつけた一部のメディアからは彼女の研究を揶揄し” necromancer(死霊魔術師)”と呼び遊ぶ者もいた。
――― 一年後、定期健診。
「13歳で有名大学を卒業し、脳科学界に芽吹いた次世代のダークホース…こっちには、人形のように美しき脳科学界のプリンセス―――こっちの雑誌では死者の脳を操るネクロマンサー(死霊魔術師)なんて事になってるぞ?」
診察室の机に雑誌を並べ、頬杖をつく織。正面の椅子にちょっこりと座り、セナは視線をそらせた。
「私の研究対象は生きている人よ。ブラックジョークも行き過ぎると失礼だわ」
大げさにため息を見せると、識はその日の検査結果を雑誌の上に並べた。
「確かに、君は自由だと言ったし、好きな事をする君を全力で応援したいと思っている。それに、俺の患者がこちら(主治医)にまで取材が来るくらい有名になってくれて、と~っても誇らしいよ、セナ」
「なら良かったわ!次の受診は3か月後で良いかしら?」
立ち上がるセナの手を引き留め、椅子に座らせる織。
「まてまてまて!検査結果の説明が終わっていない!」
机に並べられたデータ用紙に目を通しカバンに入れると、セナは目の前のパソコンを指で動かし、画像データをモニターに表示した。
「今日のエコー検査でLVEF(左室駆出率)も心電図もまずまず良好、採血データも問題なしです、先生。あ、聴診します?」
上服をたくし上げるセナ。隣についていた看護師が、くすくすと笑いながら織に聴診器を手渡す。無言で聴診器を受け取ると、心音の確認をする織。
「………………」
「セナさんが診察室に入る前、Drクギョウったら、その雑誌を循環器外科中のスタッフに見せて回っていたのよ!貴女が賞を取ったり、論文を発表するたびに大騒ぎ!」
織が聴診中なのを良い事に、看護師がセナに耳うちする。
「貴女の事ネクロマンサーなんて呼んだ雑誌を見た時なんて、大事な手術前なのに”この雑誌はダメだ”とか”こいつらは何も解っていない”とか、”抗議しに行く”とか言って出て行こうとして、大変だったんだから!」
「こらそこ!うるさい!!」
聴診器を外すと、識はばつが悪そうに視線をそらせた。
「自慢の患者になれて、私も嬉しいわ!識先生」
照れ隠しをする織を見て、にやりとほほ笑むセナ。
「頑張っているのは嬉しいけど、心配になるよ―――どうせサプリメット飲んで血液データを整えたんだろ?無茶して倒れたらと思うと……」
「……心配かけて、ごめんなさい。でも私、少しでも早く研究を完成させたいの!そして、識に褒めてもらいたい―――外科医になって良かったって、セナを生かして良かったって」
看護師から次回予約券を受け取ると、ニコリとほほ笑んで診察室を後にした。
「もう十分、良かったって思っているんだけどな…」
ぱたりと閉まる診察室のドアに、ぼそりと呟く織。
「そういうのは、きちんと目を見て伝えなきゃ、伝わりませんよ、先生?」
「…………わかってるよ。」
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定期受診を終えたセナは、ポラリスを連れてその足で大学の図書館に向った。
脳神経学についての医学書を漁っていたセナに、懐かしい呼び声が掛かる
「BookFairy!」
「Professor(教授)?」
声に振り向くと、手を挙げ、向って歩いてくる白髪の紳士に小さく一礼するセナ。
隣には、すらりと背の高い綺麗な女性がついていた。
「先日学会ではお世話になりました、無事発表できたのも教授のお力添えのおかげです」
「あれは素晴らしかったよ!知り合いの教授からも君を紹介してほしいとひっきりなしだ。
君のような教え子を持てて誇りに思うよ」
「光栄です」
「君とポラリスが図書館に来ていると司書から連絡を受けてね…是非合わせたい人がいるんだ」
「私に…ですか」
教授はニコリとほほ笑むと、後ろを付いて歩いていた女性に手を向けた。
「彼女は牧野立夏、君のお父上と同じ日本の聖倭大学出身で、脳神経外科医だ。今度日本での研究を行うと言っていたから、その足掛かりにと思ってね」
女性は手を差し出す。
「牧野立夏です。水月=クラーク博士の研究されているBMIについては大学でも知らない者はいません。そして、貴女の事も―――こんなに可愛いお嬢さんだなんて、驚きです」
その手を握り返すセナ。
「セナ=クラークです。父をご存知でしたか。父とは違い私はまだ駆け出しの研究者です。日本での研究に、是非牧野先生のお力添えを頂ければ心強いです」
見た目にそぐわぬ物言いに、苦笑いが浮かぶ立夏。
「牧野先生は留学でしばらくこちらにいらっしゃるようだ。セナ君も色々お話を聴いてみると良い」
そう言って去っていく教授。
「是非に」と口にしながらも、体よく案内役を押し付けられたなと目を細めるセナ。
その様子を見ていた立夏は、教授が見えなくなったのを確認し、セナに話しかける。
「めんどくさいのに捕まった…という顔をしているぜ?大丈夫、君には迷惑かけないし、大学構内もこちらで適当に回っとくから」
先程までの笑顔は猫を被っていたのか。急に話し方を変える立夏に、静かな睨みを送るセナ。
「……牧野先生が話の通じる方で助かります。でも、今度日本で研究をしたいのは本当ですから、仲良くして頂けると助かります」
「期待には沿えないと思うぜ?見た目通り俺はまだ研修医で大したコネもない。それに―――」
図書館内の小さな椅子に腰かける立夏。その仕草は、女性にしては少し乱雑さが感じられた。教授の前ではない為、素の自分でいるのだろうか…誰が見ているかもわからない留学先の大学構内で、この振る舞いは…と、他人事ながら心配になるセナ。
「同性の知り合いをと思って紹介してくれたんだろうけど、俺はGender identity disorder……心の性別は、男だ。」
「心の性別?性同一性障害?」
首をかしげるセナ。自らを、先天性(生まれつき)の性同一性障害だと説明する立夏。突然のカミングアウトに、やや戸惑いを覚えるセナ。
「君にはまだ、難しい話だったね―――今日の事は忘れていいよ?変な人がいたって、思ってくれたらいいから」
苦笑いを浮かべる立夏。大抵は、GIDである事を告げると、自然と距離を取ろうとする。
障害については言っても無駄だと分かっていた。困った顔をして距離を取られる事には慣れている。
大学を卒業しているとはいえ、12.3歳の年の頃の少女には、自分は奇怪に映るだろうと考えていた立夏だったが、目の前の少女は曇りのない、ガラス玉のような真っすぐな瞳で立夏に関心を寄せていた。その頭で、必死に色々と考えだしているのだろう事が、少女の複雑な表情から読み取れる。それでも少女は真っすぐ瞳を逸らさない。
「牧野先生のお気持ちは、どれだけ時間を重ねても私には理解できないでしょう。だけど、私自身の為に、解りたいと思うんです。もっとお話を聴かせてください、あなたの事が知りたいです」
意外な彼女の言葉に、目を見開く立夏。次の言葉を失ったのは、立夏の方だった。
的外れだと言う自覚はあった。だが他に、言葉が浮かばない。
「えっと、俺の何が知りたいんだ?君は―――」
「……立夏は男性と女性、どちらを好きになるの?」
「へ?」
これもまた、想定外の質問に、間の抜けた返事を返す立夏。
はっとしたセナは、慌てて両手を胸の前で振った。
「ごめんなさい!変な質問して―――えっと、お友達に、なってください」
「お友達?」
小さな少女は、上目遣いで立夏を見る。
「あ、うん。友達―――な」
社会人になって、すっかり聴き慣れなくなった”友達”という単語に、少しのこそばゆさを感じた立夏。だがその言葉は、”どうせ””無駄だ”と決めつけ距離を取っていた立夏の心に、少しの温度と色を宿した。
この子の事が知りたい…と。
立夏が口を開いた瞬間、
「セナ!」
識が医学書の棚を見渡しながら声を掛ける。
「織?午後からの診察は?」
「抜け出してきた♪」
「………また看護師さん達困らせて!早く病院に戻りなさい!」
「つれないなぁ、せっかく会いに来たのに―――」
セナの隣に駆け寄ると、しゃがみ込んで足元のポラリスの頭を撫でる織。椅子に腰かける立夏に視線を移す。
「この美人、誰?」
「日本からの留学生で、牧野立夏先生。私の、お友達よ!」
自慢げに紹介するセナ。開きかけた口を一度閉じ、立ち上がって小さく礼をする立夏。
「こんにちは、聖倭大学脳外科の牧野です」
「聖倭大学って、水月博士んとこの?って、この子、外科医なのか?!」
驚いて立ち上がる織を、今度は立夏に紹介するセナ。
「で、こちらが午後の診察抜け出してきちゃったお友達の、九暁織先生」
「心臓外科の織だ!よろしく、立夏」
差し出された手を握り返す立夏は驚く。
「アメリカで、その若さで心臓血管外科医?!こちらでは、外科系…特に人気の心臓血管系はよほどがないと就職できないと聞いていますが―――」
「タメ口でいいよ、立夏。年もそんな変わんないだろ?そうだ!立夏、午後から俺の診察つかないか?大学うろうろするだけじゃ面白くないだろ?丁度オペもあるしさ!」
「えっと……」
突然の申し出に、戸惑いを見せる立夏に、強引に話を進める織。
「したいか、したくないか、だ」
「見たいです、手術―――」
「よし!じゃぁ決まりだ、立夏借りるぞ?セナ」
(借りるって…私もまだそんなにお話できていないのに―――)
返事を待たず、立夏を連れて行ってしまう織の背中に、声を投げかけるセナ。
「きちんと返して下さいね、織」
二人は、ひらひらと後ろ手を振って去って行ってしまった。
残されたセナとポラリスは顔を見合わせる。
「私達も、帰ろうか?ポラリス…」
『ワン!』
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File:6 決意
それからというもの、家近くのラボとして使用している赤い屋根の家に押しかける形で3人で会う事が増えたセナと織と立夏。
会うと言っても文字通り、会うだけで、セナは部屋にこもり、研究のデータ収集。立夏は識の手術に立ち会う予習、識は筋トレ後に仮眠と、それぞれ思い思いに時間を過ごす。
3人の友人関係は少し複雑だった。
GIDだとカミングアウトされた後も、変わらず接するセナは、立夏を友人であり、姉のように慕っていた。元々年上の医療職者に囲まれた生活をしていたセナにとっては、年上の友人はむしろ日常の中の一つで、何ら違和感はない。見た目を除けば言葉も会話内容も、大人のそれとかわらず、当人たちは微笑ましい姉妹のようにハグをかわす事もある。
一方織はというと、言葉遣いや態度からすっかり立夏の事を男だと思い込んでいる。セナとのハグも「やり過ぎだ」だの、「ロリコン!」などと批判し、立夏から「自分も似たような物じゃないか」と言い返えされる。
立夏のGIDについては、セナから識に口添えをする事はなかった。当人たちの問題であり、当人たちが話をすればよいとのスタンスだ。
互いの外科医としての実力には認めつつも、セナの友人としての立場を譲りたくない立夏は、男として織に接し、織もそれを疑わなかった。
そして、互いをセナと二人っきりにさせたくない思惑が、この妙な構図を作り上げたのだ。
小休憩にとキッチンに降りてくるセナは、リビングで寛ぐ二人を見て冷ややかなため息をつく。タブレットを広げ指を動かしイメージトレーニングする立夏の隣で、腕立てする織の姿は毎度のことながら滑稽に写った。
「うちのラボで何してるんですか…」
冷蔵庫から珈琲豆を取り出し、ガラガラと挽くセナ。
「イメトレ」「筋トレ」
視線だけをセナに向けた二人が、声を重ねる。
ナッツのような香ばしい香りが、リビングまで漂う。
「いい香り―――」
立夏が立ち上がり、キッチンまで来ると、セナの背後から彼女を抱きしめ、その手元に顔を落とした。珈琲ミルの蓋を上げるセナ。
「これはペルー産のレッドコンドルよ!Viscum albumのマスターが譲ってくれたの!香り、さわやかさ、コク、甘みは勿論、アフターテイストまで最高峰!柑橘系のフルーティな酸味が美味しいのよ!」
楽しそうに語りながら、挽いた豆をドリッパーに移すセナ。
「アルと、いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」
床から飛び起きて、キッチンカウンターに手をつく織。それに、いつの間にか珈琲道具が揃っており、自分で淹れるようにまでなっている。
Viscum album(白い宿木)とは、セナの退院日に織が連れて行ったカフェの事だ。ちょっとした公園の隣に立つそれは、昼間はカフェ、夜はバーとして一部のコアな客の安らげる場所…ホームとなっていた。
「いつって、卒業してからかな…ミックスジュース飲みに行ったら、珈琲をご馳走してくれて…。美味しいうえに頭がすっきりして眠くならないから好きだと言ったら、淹れ方まで教えてくれたの」
「アルグレードォ!!」
右手をわなわなと震わせる織。
「誰だ?アルグレードって」
立夏はセナの背後を保ったまま、織に対し怪訝そうに眉を顰める。
「昔セナを連れて行ったバーのマスターだよ……珈琲も酒も、俺がセナに教えるからって言っといたのに」
悔しそうに頭を下げる織に、怒りがこみ上げる立夏。
「どうして未成年をバーに連れて行ったわけ?!」
顔を引きつらせて睨む立夏に、両手を挙げる織。
「いや、ビスカムアルバムは昼間は普通のカフェだ!お前の思っているような事は決してない」
「思っているような事?」
顔をあげ、立夏を覗き込むセナ。
「お酒を提供するような場所に、一人で行っちゃいけません!ポラリスと一緒でもダメです。今度行く時は俺を連れて行きなさい!」
「………立夏も行きたかったの?」
首をかしげるセナに、がっくりと首を落とす立夏。
(………ちょっと違うけど―――)
「過保護だなぁ…立夏。そんなんじゃセナが嫁に行く時、お前どうするんだよ」
「俺が認めた男じゃないと嫁にやらん!」
「おやじかよ、お前は!!」
織と立夏のやり取りを他所に、80度に温まったお湯をドリップしていくセナ。
「過保護…かぁ―――そんな立夏に、とても言いにくい事なんだけど…実は」
淹れたての珈琲をマグカップに注ぎ、立夏と織に手渡す。
「私、日本に行こうと思うの―――」
「「はぁ?!」」
2人の声が、見事にシンクロする。
「えっ、日本って、いつ?!研究ならカリフォルニアでも出来るだろ?!」
「御父上とだよな?まさか一人でなんて言わないだろ?!」
立夏の事を”過保護”だと言う織もまた、受け取ったマグカップを置いてセナに詰め寄った。
「直ぐにじゃないわ、来月当たりにとりあえずフィールドワークして、3か月後から暫くは日本での生活の方が長くなるかしら。せっかく立夏とのコネクションもできたし、聖倭大学の父の研究室に客員研究員としてお世話になろうと思うの。ここでの研究は少し手詰まりになっちゃったし、BMIなら日本の若い研究員から刺激を貰おうと思って。勿論、一人で行くわよ?子供じゃないんだし」
珈琲に口を付けるセナ。コクと甘みの後に、爽やかな酸味が舌を潤す。
((十分子供だろう?!))
と、叫んでしまいたかった気持ちをグッと喉元で押さえる織と立夏。マグカップを手にしたまま棒立ちの二人に視線を移す。
「どうしたの?コンドル、冷めちゃうわよ?」
「・・・・・・・・・・・・」
無言で顔を見合わせる2人。さらりと言い放ったが、具体的なプランが出来ているとなれば彼女の決意は固そうだ。
定期健診は必ず受けに来ること、ポラリスは必ず連れて行くこと、一日一回はメールを寄越す事など、両親から提示されたいくつかの条件の元、セナの渡日は着々と進んでいったのであった。
一方で立夏のアメリカ留学は、研修や授業がメインだった当初の緩やかな予定よりもかなり順調に進んだ。若き天才外科医の紹介で、手術にどんどん立ち会い、指導医の元技術を磨いた。
その分忙しさは半端なものではない。自己学習の為に睡眠時間が削られる事も多々あったが、娘の大事な友人だと、クラーク夫妻の援助もあり、セナが日本での研究を本格化する頃には、1年の留学期間は無事に終了し、日本に帰っていった。
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第2章
File:7 InsideTraceUnit
マンマシンインターフェースの研究が始まったのは1970年代頃。
実際に人体に外部機器が移植されたのは1990年代中頃になってからである。21世紀に入り、機能としては不十分ながらも視覚や聴覚を補助する人工感覚機器や、モーターによって動作する義手・義足といったブレイン・マシン・インターフェース(BMI)機器の人間への移植が始まり、かつてはSFの中だけと言われた双方向インターフェースが現実のものとなった今、人類は BMIを通し様々な機械をオンライン上で接続する事で、かつてない便利な生活を手にしてきた。
一方で、オンライン等の無線回線を悪用した詐欺や情報漏洩、ハッキング、プログラムの違法な書き換えなどの犯罪が増え、各国政府はサイバー関連事件を専属とする集団“InsideTraceUnit”を立ち上げ、独自の権限を与え取り締まりを強化したのだ。
2023年 東京——————
「BARIM?」
都内にある聖倭大学会議室で、聴き慣れない言葉を反復するのは、研修医あがりの若手医師、牧野立夏。すらりとした長身とモデル顔負けの整った容姿で誰もが振り向く美青年・・・いや、女性である。彼女の視線に、大学を訪れた担当者は一歩身を引き、タブレットの画像を見せた。
「はい、カチューシャ型のBMIとグローブ型のデバイスを身に付け、脳派への双方向インターフェースを行う事で、ARグラフィック情報を視界に映します。
脳と拡張現実機械を接続する装置で、先生方からは“Brain- Augmented Reality machine Interface”の頭文字とドイツ語の”木”を表す”バーム”をもじって、そう呼ばれています。」
その安直な意訳…いや、造語を聞いて、立夏の顔が引きつった。
「念のためにお伺いしますが・・・名だたる高名な脳神経科医を差し置いて、どうして研修医上りの”俺”に依頼するんですか?その…”バーム”とやらの臨床実験の担当を・・・」
そう訊ねながらも、答えは大方想像が出来ていた。
「それが…セナ先生が、臨床実験をするならどうしても、日本の牧野立夏先生にお願いしたいとの、強い希望でして――――」
やっぱりな。立夏は大きくため息をついた。
不機嫌な立夏に、びくりと体を振るわせる担当者。セナとは、以前アメリカに留学していた時に会った。
その時彼女には、多少の借りがあったのだ。これは彼女の“お願い”ではない。立夏にとっては、あの時の“借り”を返せと言わんばかりの脅迫とも感じられた。
だからと言って、今回の申し出に興味がないわけではない。
裏を返せば、恐らく日本初であろうBARIMの研究に携わることが出来る、チャンスともいえる。
「分かりました、お受けします」立夏は右手を差し出した。
「あぁ、よかった…これで私もアメリカに無事に帰ることが出来ます!実は今回のプロジェクトは日本政府が主導するサイバー犯罪対策課のInsideTraceUnit projectの一環でして、研究費等はそこから支援頂くことになっていますので、ご安心ください」
「……は?サイバー何のインサイド何って?」
横文字の羅列に、立夏は顔を歪ませた。
「あ、はい。サイバー……」
再度説明しようとした担当者の言葉を、片手を突き出して拒否した。
「やっぱりもういい、どうせ聞いても覚えない」
「はぁ……」
「それより、具体的に何をすればいいのか教えてくれ」
「あ、はい」
担当者は再びタブレットを操作する。
サイバー犯罪を専門に扱うInsideTraceUnit projectは、“バーム”という機械を使って無線回線上にAR潜入し、実際に起こっている問題や犯罪の種を見つけては解決していくというチームだ。
日常の中で様々な無線回線が使われる中、個人情報のハッキングやデータの書き換えなどが横行しその対策が急がれていた。以前は問題が起きたコンピューター画面上から問題を見つけ出し対応していたが、実際の無線回路を可視化(AR化)することででより細部を調査し、迅速に対処できるだろう…と言う事だった。
「つまりは、CTやMRIで見つけていた病変を、内視鏡や手術で開いて見つけるって感じだろう?」
タブレットの説明を見ながら、ぼそりと呟いた。
『そういう言い方すると、余計にややこしくなるわね。具体的には、Assistが莫大な情報データからTraceして異常個所を見つけ出し、Forceが、それを阻止もしくは回復させることよ』
「のわぁぁぁ!!!」
突然タブレットの向こうから聞こえた機械音声に、体を仰け反る立夏。
『素敵な反応ね』
「なんだ?!」
『久しぶりです、立夏』
「………この話し方は、セナか?」
ボイスチェンジャーを通していても分かる。立夏の周りでこんな大人びた話し方をする“そっち系”の知り合いは彼女しかいない。
『はい、先程からずっとテレビ電話アプリが起動しています。タブレット内蔵カメラとマイクでそちらの音声と画像もばっちり――――――』
「なっ!!!」
急に赤面しだす立夏。タブレットの文字を読むために、思い切り画面を睨んでいた。
『医療に置き換えるから難しくなるけれど、要は無線でやり取りされるデータを可視化し、それらを使った犯罪を抑止、回復させる仕事。貴女には、バームでフォース(実動部隊)をやって欲しいの。その並外れた運動神経と器用さを使って』
「ちょっと待て!待て!」
聴き慣れない言葉の羅列に、混乱する立夏。頭を抱えて状況を整理する。
「さっきの話では、俺は実動部隊で、言われた通りに動く役だろ?そしたらその異常データの解析や修正をするAssistは誰がやるんだよ?まさかセナがアメリカからこっちに来るのか?」
『私、プログラミングはまだ勉強中だから無理ね。適当に信頼できそうなプログラマーを立夏が選べばいいわ』
「おい!なんだよその放任主義!!」
『私はバームの機械的異常とスキャニングで送られてくる脳波をはじめとするメンテナンスを、ここ(アメリカ)から管理しているわ。日本政府とは、今回のプロジェクトにバームを無償提供する代わりに、試作機のデータを収集するという話になっているの』
「試作機?!バームはBMI(脳波等の検出・あるいは脳への刺激を行う機械)なんだろう?俺の頭に与える影響は大丈夫なんだろうな?!」
『一応ラット実験では身体に与える影響は問題なかったのだけど・・・』
「ラット?!せめて霊長類で試してからにして欲しかった―――」
『私も、似たようなのを試してるから・・・たぶん大丈夫よ』
(似たようなものを試している…?)
セナの何気ない言葉に引っかかった。まぁ、自分が先に試しているというのは、想像が出来た。“彼女”は、“そういう子”だ。
「多分て――――――」
頭を掻く立夏。
『嫌ならいいわよ、他を当たるわ。実験段階の為、長期的に脳にどのようなダメージを与えるかは分からないわ。刺激による悪影響が強すぎれば、不可逆的ダメージを負う事も十分にあり得る』
(ここにきて、突き放すような事を―――。)
「嫌とは言っていない(むしろ興味深い)!お受けしますと言ったろ?」
『フォローはするわ。後はその、政府の担当者に聞いて』
プツン。マイクの切られた音がした。
(フォロー…してくれるんじゃなかったのか?)
「政府の関係者?」
眉を顰める立夏に、目の前の優男はいそいそとカバンから名刺を取り出した。
「ご挨拶が遅れました、わたくしサイバー犯罪対策課の白木と申します」
「あんたかよ!ご挨拶遅すぎんだろ!」
思わず悪態をついてしまう立夏。
とはいえ、引き受けたからには任務を遂行せねばならない。先ずは、バディとなるプログラマーだが、彼女には皆目見当もつかなかった。
「プログラマーに心当たりは?」
「え?私ですか?」
「そうだよ、サイバー犯罪対策課って言うくらいだから、腕のいいプログラマーの一人や二人、知ってるだろう?紹介しろよ」
「えっと…私、去年まではアメリカに留学していて、今年サイバー犯罪対策課に配属されたばかりでして――――――」
(国の命運を背負うプロジェクトに、新人配属してどうするんだよ…この国やべぇな)
仕方なく、立夏は知り合いの機械系に強い友人に片っ端からプログラミングの依頼をかけたが、細かい仕様が解っていないだけに下手な情報も流せず、挙句に不審者扱いされて誰一人聞く耳を貸さなかった。
数日後には、立夏の母校でもある聖倭大学の研究室の一室に、BRAMIと大がかりなコンピューターやモニターなどが運び込まれ、立夏は担当者から部屋の鍵を渡された。
「話が進むのが速くないか?」
呆気にとられる立夏の隣で、政府担当者の白木は目を輝かせている。
「当然ですよ!これは政府主導の一大プロジェクト!ですが、これは秘密裏に動いていまして、大学の方への協力要請は、あくまで次世代BMIである“バーム”テストプロジェクトとしてかけられています。それより、これがセナ先生の開発したバームですか!」
興味深々の様子で、カチューシャ型デバイスとグローブ型デバイスを手に取り眺める。
「それで牧野先生、プログラマーの方は?」
「……見つかる訳ねぇだろう!俺にそんな都合のいい知り合いはいねーよ!」
「ひぃぃぃ~す、すみません」
両手で頭を庇うようにうずくまる白木。
(殴る訳ないだろうが)
その態度に、一層苛立ちを募らせた。
「さて、どうしたものか………」
いきなりプロジェクトは暗礁に乗り上げてしまったのだった。
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File:8 信じるもの
聖倭大学附属病院 手術室。
予定されていた脳腫瘍摘出術の執刀医を務める立夏の脳裏には、あれから進展のない白木から依頼されたInsideTraceUnit projectの事がうごめいていた。
(癌がどこにあるのか、それさへ分かればメス一本で取り除く事が出来る。”Force(俺)”の役割なんて、つまりはそういう事なんじゃないのか?!それを、自分でバディ(Assist)を見つけろだなんて…)
湧き上がるイライラが、手の動きを素早くする。
流れるような立夏の指先が、神経と血管に埋もれた腫瘍を瞬く間に切除した。
「なんか今日の牧野先生、神ってないか?」
「違う!これは苛々している証拠だ…きっとまた、上条外科部長に雑用押し付けられたんだぜ…」
二番手(補助)を務める医師達が、こそこそと噂と立てる。
「スキャニング」
「はい?」
「して、切除範囲の確認をしてくれますか?」
不機嫌な立夏の目が、無駄口を叩く医師達に刺さった。
「あっ…ああ―――」
慌てて手を動かし、指示を飛ばす医師達。
予定通りの切除が出来た事を確認すると、傷口の縫合を手早く行い、麻酔科医に引継ぎ手術室を後にした。
(あーもう、苛々する……。)
ガウンと術衣を脱ぎ捨て、更衣室に入ると、個人携帯が鳴った。
(こんな時に誰だよ―――)
舌打ちをしながら携帯を握る立夏。その口元が、綻ぶ。
(この落とし前は、元凶にきっちりつけて貰わねーとな…)
夕方の予定は先刻の手術で最後だった立夏は、急用が入ったと同僚に告げ、時間給を取って病院を後にした。
駐輪場に停めていた赤いGSX-R600(バイク)に跨ると、フルフェイスを被りエンジンを唸らせる。”ストレス”を右手に込め、バイクを走らせる。
向かったのは病院からほど近い聖倭大学。
県境にあるこの大学は、広大な敷地を活かし附属病院や研究室をはじめ様々な施設が併設されている。特に都内で5本の指に入るとも言われる膨大な図書を貯蔵している図書室は、休日は一般開放され勉学に励む他大学の学生や、調べ物をする社会人や高校生等も多く通う。
現在はここの附属病院で勤務している立夏だが、彼女もかつては聖倭大学で医学を学び、この図書館にも足外く通っていた。
敷地を横切り、図書室に向う立夏。
ひときわ目立つ正八角形の独立した建物の柱には凝った彫刻があり、周囲は芝やベンチが置かれ、夕刻というのに読書にいそしむ学生が数多く見られる。
正面入り口を入り、左手のカウンターに座る図書司書に小さな会釈をした後、慣れた足取りで医学書の棚へ向かう立夏。茶色い髪がふわりと舞うのを見つけた。
「セナ!」
声に気付き、ゆっくりと振り向くセナ。
「よくここだと、分かったわね」
「日本で君が知っている場所なんて、数知れているからな―――」
「お久しぶりです、立夏」
そう言って、挨拶のハグを求め、両手を伸ばすセナ。
難題を押し付け放置し、近日のイライラの元凶となっていた彼女に、一言文句を言ってやろうと意気込んでいた熱は、自らに両手を伸ばす愛らしい姿を見て瞬く間に消えてしまった。
彼女の脇下に両手を滑り込ませ、その体を抱き上げる立夏。
「会いたかったよ、セナ」
互いの頬を重ねた後、図書館を出ると2人は構内にあるカフェテリアに向った。
「いつ日本に来たんだ?言ってくれれば、空港まで迎えに行ったのに……」
「ちょっと、別件の仕事でね―――そちらの担当者が迎えに来てくれたから、大丈夫よ」
「そうか……」
心配気に目を細める立夏。
「それより、立夏の方……”バーム”の件で―――」
彼女に会えたことで忘れかけていた苛立ちが、沸々と湧き上がる。
「そうだ!お前あれなぁ、俺にプログラマーなんて見つけられるわけないだろ?!」
「その事なんだけど、父の知り合いの伝手で一人、引き受けてくれるプログラマーを見つけたの」
セナの父、水月=クラークはここ聖倭大学電気電子工学科の卒業生である。
知り合いの伝手を頼る為、わざわざこの大学に来ていたのか。
立夏は彼女の突然の訪日の理由に納得した。
「ただ、その人まだ学生みたいで、関西の方にいるみたいだからオンラインでのやり取りしか出来ないらしいのよね」
「はぁ?!国の未来を背負うプロジェクトだろ?!担当者は日本に来たばかりの新人で、フォースは研修医上りの機械音痴、肝心のアシストが学生なんて、この国大丈夫かよ?!」
「し~~っ!静かに、立夏!」
唇の前に、人差し指を突き付けるセナ。
「仕方ないでしょ?!秘密裏に動いてるんだから―――」
「………」
周囲を見渡す立夏。
この時間、カフェテリアを利用する客は少ない為、静かなフロアに立夏の声は響いた。何事かと、落ち着いた夕刻を過ごしていた学生が振り向いている。声を潜める立夏。
「秘密裏つったって、そんな適当でいいのか?」
「……元々、この話は私の先輩に以来があって、日米共同で進められたプロジェクトとしてウイルス対策ソフトと万全のプログラマーチームで警備対策に当たっていたのだけど、プログラムの内容が外部にリークしてしまい、パトロールソフトが使えなくなってしまったの。
何度かプログラムを改善して臨んだようなんだけど、結局すぐに使えなくなってしまって、どうやら内部にノックがいるんじゃないかって打ち切りになったそうよ」
「………まさか―――」
国家プロジェクトに、Non-Official Cover(非公式諜報員)がいる―――。
立夏の表情が固くなる。
「そこで、先のプロジェクトに全く関与していなかった私に、先輩から秘密裏に言い渡されたの。私の研究していたバームの”実用実験”と言う形で、このプロジェクトを動かしてみないか…ってね」
「じゃぁ、あの頼りない白木とかいう政府のお役人は?」
「コンピューターに強い知り合いのお兄さん。いわゆる、Non-Official Coverね……」
後半を、声を潜めるセナ。
「———スパイ……」
「ああ見えて、彼、結構演技派よ?」
(………なんでそんな知り合いがいるんだよ、コイツには)
カフェテリアの紅茶を口に含むセナ。
外科医の織といい、コミュニケーション障害といっても過言ではないはずの彼女の人脈が、不思議で仕方がない立夏もまた、紅茶に手を伸ばす。
「少なくとも、今回使う学生バイトのプログラマーは、前プロジェクトのノックの可能性は極めて低いから、”白木”さんに上手く言って動いてもらう予定。
当然、私達は直接そのバイトプログラマーと接点を持たない形になるから、その人の個人情報は守られているし、もしもの事があっても私達からその人に足が着くことはない―――」
「……その、白木は―――信用できるんだろうな?」
「………彼がダブルノックなら、私たち全員闇の中ね」
「それで、良いのか?セナは……。」
「———最後まで、俺を信じてろ。って言われたから」
誰が言ったのか…など、聞くまでもなく立夏には想像がついた。
この一件に、アメリカで会ったあの男…織も絡んでいるのだろう。
外科医としての織の腕は確かに認めている。それは、留学期間中に彼の手術に何度も立ち会って実感し、それこそ彼から多くの知識と技術を盗んできた。
立夏と出会うずっと前からの知り合いらしいが、セナは、そんな織に絶対ともいえる信頼を寄せているように見える。
「・・・・・・・解った」
紅茶をソーサーに戻し、ため息をつく立夏。
「じゃぁ、俺からも言ってやる。もし、信じていたものを信じられなくなって迷ったら、セナは俺を信じていろ」
「立夏?」
「俺は絶対セナを裏切らない」
「———立夏、人間に”絶対”は存在しないのよ―――」
「……子供のセリフじゃないな」
可愛げのないセナの言葉に、苦笑いする立夏。
「でも、立夏は…私が、私の意思で巻き込んだ人だから―――立夏の事は、私が守るから」
「ははっ!」
笑いがこみ上げる。片手で顔を隠す立夏。
こんな小さな子が、真剣な目をして自分を守ると言うのだ。
「仕方ないなぁ…その時は、大人しく君に、守られるよ―――」
(俺に色と温度をくれた、セナには”借り”がある。
君がいばらの道を行くのなら、そのそばで君を守るしかないじゃないか―――)
立夏はそう言うと、「信じていないな」と、頬を膨らませるセナの頭を撫でた。
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File:9 寄せ集めユニット
聖倭大学 VRBMI研究室―――
後日、InsideTraceUnit projectのメンバー(に潜入している)白木から、連絡が入った。
相変わらずの頼りない優男ぶりを見せる白木に、立夏の不審は募る。
「いやぁ、遅くなってすみません―――先方のプログラマーの”ハル”さんに会う為に、関西まで飛んでいましてね~朝一の便で戻ってきたところなんですよ」
ポケットから取り出したハンカチで、額の汗をぬぐう白木。
ショルダーバックから小さなノートパソコンを取り出し、メインコンピューターに接続した。
幾つものモニターが立ち上がり、ソースコードの波が駆けぬける。
キーボードを叩く慣れた指先を見つめる立夏。新人で分かりません等と言っていたが、その手際から、彼もまた機械関係の手練れだと推測する。
隣で腕を組み、セナもまたその様子を見守った。
昨夜、立夏の個人携帯に見知らぬアドレスからメールが届いた。
普段ならいたずらメールだと無視するところだが、タイトルを見て無視できなくなる。
”Stern Baum”
何ともメルヘンなこの言葉は、アメリカ留学時代に聞いた事があった。セナが目指す”理想の形”だそうだ。
タイトルに引かれメールを開くと、案の定VRBMIプロジェクトについての詳細が記されていた。先方のプログラマーとの接触が出来たため、明日午後14時から聖倭大学のラボに集まるようにとの事だった。
「”ハル”?Assistプログラマーは男?女?学生と言ったな…年齢は?」
矢継ぎ早に質問を重ねる立夏に、にこにことした笑顔を崩さず、白木は答える。
「当然これは、ハンドルネーム(インターネット上の偽名)です。言葉遣いや性別表現も、自由にして頂いてよいと伝えていますから、牧野先生もハンドルネーム使って自由に振舞っていただいて構いませんよ?品行方正なお嬢様キャラで通して頂いても構いません!」
「……ずいぶんな嫌味だな」
顔を引きつらせる立夏。
「運命を共にする”仲間”ですからね、今からリモート会議…顔合わせを行います。といっても、画像データは送信しませんから、ボイスチェンジを掛けた音声だけですけどね。くれぐれも、個人情報は話しちゃだめですよ?」
「……運命を共にする仲間なのに、個人情報も語らず嘘で固めた会議なんて……結局何を信じりゃいいのか分からなくなるな―――不信感しかないんじゃないのか?」
立夏はため息を漏らす。比較的素直に生きてきたつもりの立夏にとって、こういった世界は、寧ろ苦手だった。
「信じるのはお互いの仕事だけです。男だから、女だから…子供だから、大人だから…見た目が綺麗だから…醜いから―――そんな理由で仕事の良し悪しは決まりません。貴女のような長身美青年が実は天才女性外科医だったり、セナ先生のような子供が、実は脳科学分野での高名な科学者だったり―――私だって……」
眼鏡の奥を光らせる白木。
(こいつ…俺が女だと気づいていたのか――――――)
へらへらとした態度の奥に、スパイの本性を垣間見た立夏。
「さて、始めますよ!牧野先生、”バーム”を付けてください!」
白木が誘導する。立夏は渡されたカチューシャとグローブを身に付けた。
「コネクトコールは、”Link On”です。牧野先生はForce Programですから―――」
「Force Program,link on!」
立夏の声に反応し、カチューシャから微量の電子が流れる。
彼女の周りに幾つものソースコードが周り、視界の先に、見えないはずの情報の動きが、グラフィックとして重なり浮かんだ。
分かりやすいのは、無線通信。立夏の周囲を舞い、カチューシャとグローブの間を線のように行き来するソースコードは、おそらく今このカチューシャ型デバイスとグローブ型デバイスが処理しているプログラムだろう。
大きなパソコンから繋がる線は、リモートモデムに繋がり、情報の行き来が行われている。
他にも、時計やクーラー、テレビ等、オンライン接続された全ての機器から、情報が線となって行き来しているのだ。
「これらは全て、可視化された情報です。そして―――」
セナがポケットから、黒い小さなキューブを取り出す。
「この黒いキューブ型デバイスは、私が昨日、簡易的に作ったウイルスプログラムよ」
親指で電源らしきボタンを押すと、辺りを浮遊していたソースコードの一部が、そのキューブに吸い込まれていく。
「これは―――」
「このウイルスは、無線回線に侵入し、食べ物情報だけを抜き取り、書き換えるようにプログラムされたウイルス。試しに白木さん、そのパソコンに貴方の食べたいものを5つ程打ち込んで?」
「分かりました」
小さく頷くと、白木はノートパソコンに単語をタイピングする。
「かつ丼、天丼、親子丼、海鮮丼、ロコモコ丼………っと」
「………それを、私の時計にメール送信してくれる?」
「はい」
立夏の視界には、白木のノートパソコンから発せられた光の線がモデムを介し、セナの時計型デバイスに吸収されていくように写った。
だが、その途中、一部が黒いキューブに吸収され、何事もなかったかの用にセナの時計に戻っていく。
「何をしたんだ?」
「ウイルスプログラムが、食べ物情報を感知して情報を書き換えたのよ」
セナの時計に送られたメールを覗き見、読み上げる立夏。
「イチゴ、メロン、桃、パイナップル、ブドウ……?」
「?!おかしいですね!私は全部、丼物で送信したはずなのですが……」
先程メールを送ったパソコン画面を立夏に見せる白木。
確かに、見事に丼メニューが並んでいた。それが全部、果物に変換されて届いている。
「これが…明日の昼食のメニューの打ち合わせをした、大事なメールだったとしたら、白木さんはお腹を満たせず悲しむでしょうね」
(………いや、まぁ…確かに、そうだろうけど……)
目の前で起こった事象の不可思議さに目を見張る立夏だが、内容に脅威性が感じられないだけに戸惑いが強い。
「これと同じ現象が、世界各国で起こっているの。情報のハッキングに書き換え。立夏の視界に移るソースコードの多さが物語っているように、様々なデバイスがオンラインに接続されたこの情報社会において、これらのウイルスは社会生活を破滅させる脅威なのよ」
「………」
「まぁ、ウイルスの内容がコレだから、あまり実感がわかないのだろうけど―――」
恥ずかしそうに視線を逸らすセナに変わり、白木が笑顔を崩さず恐ろしい事を口走る。
「これが、貴方の個人情報だったらどうします?簡単に抜き取られ、書き換えられるんですよ。
クレジットカード情報の署名欄だけを書き換えられたら?
顧客情報が抜き取られたら?
電子制御された車の行先情報が書き換えられたら?
医師免許番号が書き換えられ、技術も知識もない素人が病院でメスを握ったら―――?」
白木が背中越しに語る”もしも”の話に、背筋が凍る立夏。
「ランチの内容が、果物に置き換わるくらいですんで、よかったです」
振り向き、ニコリとほほ笑む白木だが、その”もしも”を想像してしまった立夏は、笑えるはずもない。自分がしなければいけない事には、それだけの重責があったのだ。
「そこで、“バーム”ユニットの出番です!お待たせしました、ハルさん!聴こえていますか?」
『………はい』
スピーカーから、ボイスチェンジされた、比較的若そうな声が聞こえる。
「そういう事なので、このプログラムウイルスをやっつけるワクチンを作ってもらえませんか?」
『………了解しました。先ず、そちらのForce の方は、黒いキューブから出るソースコードを出来るだけ多く回収してください』
「ソースコードの回収?」
「チューブに出入りしているソースコードの線があると思うのだけど、この線を、両手でつかんで切り取ればいいわ」
セナがアドバイスする。
(そうか、この線が見えるのは、”バーム”を身に付けている俺だけなのか……)
両手にはめたグローブで、黒いチューブに出入りする線を二か所握り潰し、切り離す立夏。
切り離されたソースコードは手袋に吸収される。
『確認しました。では、このソースコードを解析し、ワクチンプログラムを作成します……』
程なくし、立夏の周囲に碧色のソースコードが円を描く。
『そちらにワクチンを送信しました。元凶デバイスか…もしくはそこから伸びるソースコードの線にワクチンを重ね移植してください』
「ワクチンの移植?」
首をかしげる立夏に、セナは黒キューブを渡す。
「このキューブは表面に受容器があるから、グローブで接触するだけで移植できるわ」
「成る程」
キューブを受け取ると、そこから出ていたソースコードが、碧色に塗り替えられていく。
セナの時計に送信されたメールの内容も、5つの丼の内容に戻った。
「おぉ!」驚きの声を上げる立夏。
そして、キューブから伸びていたソースコードが切れ、電源が自動でOFFされる。
「……止まったぞ?」
『修正プログラムと、自己破壊プログラムを組み込みました。修正が終わるとウイルス自ら自分のプログラムを停止するよう命令しています』
「………凄いな」
パチパチパチと拍手を送る白木。
「流石ですね!ハルさん」
『いえ。これが、私の仕事と伺っていますので』
丁寧な返答を返すハル。
これが、InsideTraceUnitに与えられた仕事……。
立夏は息を呑んだ。
『お疲れ様です、Force 。私は、”ハル”…貴方のAssistを任されました。これから、よろしくお願いしますね』
丁寧な口調で、スピーカー越しに挨拶する“ハル”。
学生という他、何の情報もないプログラマーに、警戒を解けるわけがない。
だが、もはやその仕事を信じるほかはない。
「…………Force の“ナツ”だ。どうせハンドルネームなら、好きに呼べばいい」
『私が、ハルだから…ナツさんですか?面白いですね―――これから、よろしくお願いします、ナツさん?』
「………ああ。」
安直なハンドルネームにしてしまったと、後悔する立夏。
セナは隣でくすくすと笑っている。
寄せ集めのユニットにどこまでできるか分からないが、こうなればやるしかない…
立夏は覚悟を決めた。
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File:10 First Mission(初陣)
寄せ集めユニットに最初の依頼が舞い込んできたのは、顔合わせから3日後の事だった。
「今日?!それは無理だ!今から呼吸状態が悪化した患者の緊急手術が入ってる、その後も俺が執刀する予定の手術が2件―――そっちは、そんなに緊急性を伴うのか?」
勤務中にかかった電話を、耳に引っ掛けたインカムで対応する立夏。その両手は、今から手術を行う患者の最新データを確認する為、電子カルテを操作していた。
若手とはいえ、留学時代に培った手術技術を高く評価されている立夏は、難しい手術や緊急を伴う手術に駆り出される事も多かった。
『そうですか…今からハルさんにもコンタクトを取りますが、あちらも学生さんですから時間の調整が難しそうですね…何とかしてみます』
「ああ。だけど俺は今からオペ室はいるから、連絡とれないぞ?機密情報の連絡を外回りの看護師に代行してもらうわけにはいかないのだろう?」
『それは、勿論です…。手が空いたら一度連絡してください』
「わかった・・・」
手短に通話を切ると、インカムを外して手術着に着替える。
滅菌ガウンを装着しながら、手術の流れを頭の中でイメージする。
「頭蓋内圧の亢進が延髄にも及んでいる、呼吸状態の悪化はその為ですね。とりあえず、脳圧を下げましょう…」
補助の医師にアイコンタクトを飛ばす立夏。
「緊急度が高いです、慎重かつ手早く、行います」
「あっ…ああ、勿論」
立夏の気合の入れように、一瞬たじろぐ医師たち。
「牧野先生、今日はやけに気合入ってるなー」
「先生こういう緊急手術、好きですよね~」
「あはは・・・」
(さっさと終わらせたいだけだよ…)
心の中で悪態をつきながら、流れる様に指先を動かす立夏。
緊急手術とは思えない美しい所作に、周りの医師たちは圧巻された。
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手術を終えた立夏は、すぐに白木に連絡を取る。
「待たせたな、今終わった。で、状況は?」
『お待ちしていましたよ、牧野先生!ハルさんは現在授業中で、後30分程で動ける予定です。それまでに現場に向かいましょう!』
「現場って…俺この後2時間後にまだ手術が―――」
腕時計に視線を落とす立夏。
『時間がありません。2時間で解決しましょう!幸いな事に現場は病院から車で20分程場所にある病院で、患者情報がハッキングされた可能性があるとの事です。
現在院内の電子カルテが使えない状態で緊急を要します。現場までの地図データは牧野先生の“バーム”に送信しますので、急行してください!』
「電子カルテが使えない?!」
立夏はその緊急性を誰よりも理解している。
一世代前ならば、紙カルテを使用していた為検査データや予定、重要な指示等すべて分厚いカルテをめくれば把握できたが、現在はほとんどの病院が電子カルテを使用している。
使用薬剤の量やタイミング、治療部位などその殆どが電子カルテで管理されており、誰もが同時に情報収集を行える便利な反面、カルテが使えなければ患者情報の把握すらできない。
緊急の治療を行っていた場合、その治療が中断してしまう恐れもあるのだ。
更衣室のロッカーから、レッグバッグとバームを取り出すと、バームを頭部と両手に装着する。
「Force Program、link on!(フォースプログラム、始動!)」
立夏の声に反応し、ソースコードが立夏の周囲を舞う。
駐輪場まで走ると、フルフェイスを被り、GSX-Rを唸らせた。
視界に、目的地の病院までの地図データが重ねられ、ナビゲーションされる。
「これは便利だな…だけど―――」
街中を走らせるとあちらこちらにソースコードの線が横切る。
電子制御された立夏のバイクにすら、ソースコードが絡まっており、多すぎる視界情報量に、思わず目を細めてしまう。
「見えなくていいものが色々見えてしまうのは、鬱陶しいな―――」
『運転中の使用を想定に入れていなかったから…私のミスね。ソースコードの視覚情報を随意的に操作できるように改良してみるわ』
小生意気な口調が、立夏の耳に届く。この話し方は…
「セナか?」
『ハルさんがリンクするまで、私がAssistするわ。役には立てない(プログラミングは行えない)けれど、立夏の傍に居るから―――』
フッと鼻で笑う立夏。
「十分だよ、ありがとな――セナ。」
病院に到着すると、先に現場に到着していた白木が、夜間用の救急出入口へ誘導する。
「病院側との調整はついています。有事に備え、コンピューター室のあるフロアは立ち入り禁止にしてもらいました。」
「有事って?」
非常階段を駆け上がる立夏と白木。
「これだけの大規模な犯罪の場合、大抵ワクチン対策プログラムが添付されていることが多いのです」
「ワクチン対策プログラムって、なんだよ?」
『戦闘に、なるって事よ―――構えて!”ナツ”』
セナの緊張した声が、バームに響く。
非常階段を抜け、コンピューター室のあるフロアに躍り出た立夏は、コンピューター管理室の電子ロック前に、まるで、ドアに繋がれた番犬のようにARで可視化された3つの首の犬が立ち塞がるのを見た。
「何だあれ?!」
『おそらくあれが、ワクチン対策プログラムであるAugmented Reality Enemy Data(拡張現実敵情報)……通称“アライド”』
「アライド?!」
『バームでソースコードとそれが創り上げるデータが可視化されている反面、起動中は情報攻撃がダイレクトに脳に伝わる…。データと思って油断しないで?アイツ(アライド)の攻撃は、BMIを介して直接脳に伝わるから―――痛いわよ?』
(どう見ても、”痛い”で済んでくれそうじゃないんだけど―――)
立夏の背中に、冷や汗が伝う。
隣で息を切らしてうずくまる白木に、動くなよと注意を促すと、じんわりとアライドとの距離を詰める立夏。
「どうすれば、倒せるんだ?」
『扉の電子ロックキーが先日の黒キューブ、可視化されたあの犬…”アライド”はキューブから伸びるソースコードの線と思っていいわ』
「つまり、引きちぎってデータを収集し、Assistに渡せばいいんだな?」
『そうね、でも…アイツはきっと―――攻撃してくるわ……』
セナの声が、力をなくす。きっと、不安な顔をしているのだろう―――
「電子カルテのダウンは、病院機能の停止だ…患者の生死にかかわる」
『リツ…———ナツ?』
「時間がない、突破する!」
そう言い、3股の首を持つ犬に向って走った。
アライドは立夏に気付き、口を広げて襲い掛かる。サイドに避ける立夏。頭は3つあるが、胴体は一つの為、距離を置けば問題ない。だがそれでは、ソースコードを切り取る事が出来ない。
(何か…使えるものはないか?!)
人のいない廊下を見渡す立夏。コンピューター管理フロアだけあり、周囲は病院の予備備品が置かれたもの置き状態だ。足元を気にせず走り回れるスペースはない。
動きが制限され立夏に、アライドが襲い掛かる。
「くっそ!」
思わず後ろ蹴りを行う。と、アライドの頭を直撃した足が、その形に穴をあけた。
(……なんだ?今の―――)
すぐさま形を再形成すると、再び襲い掛かるアライド。
「なぁ白木!無線って…電波?電磁波?だよな」
非常階段のドア前でしゃがみ込む白木に、声を飛ばす立夏。
「えっあっ、はい!電波と電磁波は波の周期が違うだけで基本的には同じ―――」
「その説明は、要らない!」
説明を遮ると、廊下に置かれたアルミ製のハザードボックスに左手を突っ込み、アライドに殴りかかる。アライドの形を成していたソースコードが崩れ、その形にぽっかりと穴を開けた。
「一つ目!!」
2つ目の頭が立夏に噛みつこうと襲い掛かるが、今度は左足でその頭を蹴り払う。
「二つ目!」
途切れたソースコードが再生する前に、立夏はアライドとの距離を詰める。
そして、ポケットから取り出したポーチを盾に、3つ目の頭を交わすと、ドアに取り付けられた電子ロックキーから伸びるソースコードの線を、バームグローブを装着した両手で引きちぎった。
ソースコードが、グローブに吸収されていく。
犬型を成していたアライドはノイズに消され、四散した。
「これで、終わりだ!」
肩で息する立夏のバームに、タイミングよくハルからの連絡が入る。
『お待たせしました、Assist Program ―――Link On(アシストプログラム――始動).プログラムを、解析します』
荒れた息を調える立夏。その様子を、ドア元から見守る白木は声を掛ける。
「一体…何をしたんです?ナツさん―――」
「……ハザードボックスは針やメス等が突き抜けないようにアルミで出来ていることがほとんどだ。俺が今履いているライダーブーツも、転倒時の衝撃を緩和するために皮やプロテクターが入っている…チェンジをいじって摩耗する左足は特に厚手に作られている。
最後はこれ、電波遮断スマートキーケース。これらは全部、電波を遮断できると言われる素材だよな…?一瞬でも電波状態を遮断し攻撃を防ぐ事が出来れば、ソースコードを引きちぎる為の間合いに入れると思ってさ―――」
グローブを装着した両手を見つめる立夏。
『・・・電気エネルギーの波である電波や電磁波は、波の共鳴現象を用いて反射しながら伝わります。アルミなどで完全に覆ってしまえば別ですが、一時的な遮断で作れる隙はほんのわずかの時間のはず―――
その隙をつき、大元のソースコードに接触するとは、感服いたしました。お見事です、ナツさん』
ハルが、バームを介して立夏に声を掛ける。
「バディから、お褒めに預かれて光栄だぜ」
『では、今度は私の番ですね…Pass code.Unlock Program(転送、解除プログラム)———』
立夏の右手に、碧い光のコードが円を描く。
グローブを電子ロックキーに接触させると、カシャリと軽快な音を立て、コンピューター室への扉が解除された。
『ウイルスプログラムを探しましょう。ソースコードが可視化されたナツさんの視界を同調させて下さい』
「同調って?どうするんだ?」
『グローブを装着した指を横に振ると、システムウインドーが表示されると思います。そこでカーソルを操作して……』
「成る程…って、もしかしてハルもBARMIを装着しているのか?」
『え?今更ですか?勿論ですよ…じゃないとナツさんのAssistできませんから』
「お前、これが試作機だって知っているよな?下手すれば脳に恒久的なダメージを負う事だって……」
耳を押さえる立夏。
『———勿論、説明は受けました。これを作った先生の想いも伺った上で、私は研究の参加に同意しています』
「どうして――――――」
(一介の学生が、そんな危険を冒す必要なんてないはずだ…!)
『……機密情報との事で、BARMI開発の先生について詳しくは伺えませんでしたが、その意図には共感しています。私は―――社会に上手く馴染む事が出来なかった厄介者。このプロジェクトは、そんな私が誰かの為に役立てる、チャンスだと思っています』
「?!!」
指示通り、指先でシステムウインドーを操作し、視界情報を同調させた立夏は、辺りを見渡す。
立夏から送られるソースコードの波を隈なく見渡すハル。
「ハル…お前は―――お前も、このバームを開発した研究者も…その純粋な志を、汚い大人達に、体裁良く使われているだけかもしれないぞ―――」
コンピューター室の奥へと進む立夏。
ボイスチェンジされた乾いた機械音声の笑い声が、寂し気に響いた。
『あはは…それでも―――“俺”は、自分の出来る事を成すことで、“意味”に、しがみついていたいんです』
(……俺?)
『あれですね…ウイルスプログラム―――』
視界の先で、まがまがしい黒い光を放つソースコードの固まりが、分裂増殖を繰り返し、まるで、プログラムという人体に寄生した細胞のようにブクブクと膨れ上がっていく。
「いかにも…って感じだな」
『なかなかユーモアセンスのあるプログラマーが作成したようですね―――』
(ユーモアセンス、ねぇ・・・)
「これもつかんで引き剥がすんだろう?」
『はい。気持ち悪いグラフィックですが、そこは我慢して――――』
バチン!!
勢いよく引きちぎられた黒いソースコードの固まりから、何かが弾ける音がした。
「あ~俺、こういう系の気持ち悪いのは、平気なんだ」
(学生時代の細胞学でもっとグロテスキーなのも散々見てきたしな…)
『そ…そうですか―――それは、心強いです』
デバイスから、苦笑いが聴こえる。
グローブに吸い込まれていく固まりを眺める立夏。
『Pass code、Virus destruction Program(転送、ウイルス破壊プログラム)』
立夏のグローブが、碧色に輝く。
「よし、チェックメイトだ!」
増殖する黒いソースコードの固まりを握りつぶす様に、グローブをかざす立夏。
黒いソースコードは、線を伝って碧色に塗り替えられていく。
薄暗いコンピューター室に巣食う黒の光が、緑とも、青とも言える美しい光の線に包まれた。
その光景はまるで、夜空に光る星のようでいて、空に向かって伸びる大木の枝のようだ。
「Stern Baum……」
『シュテルンバーム?星の木、ですか?』
呟いた立夏の言葉を拾い、ハルが訊ねる。
「ああ…。BARMIを開発した研究者が―――目指す世界だよ」
『………綺麗、ですね―――』
別々の場所にいるハルと立夏は、バームの映し出すARのグラフィックの光に、心を揺らす。
はっと我に返る立夏。
「そう言えば、これで電子カルテは回復するんだよな?」
『そのはずです。後は、白木さんにお任せしましょう…私も次の講義がありますから』
「そうか、ハルは学生だって言って―――あああああ!!!」
『?!どうしました、ナツさん?』
(やばい、俺も次のオペがある!!)
「いや、仕事が…じゃぁ、今日は助かった―――ありがとな、ハル!」
『はい、では…また―――Assist Program ―――link out(アシスト終了)』
通信が途絶える。ハルを見送った後、立夏もまた、プログラムを終了した。
「Force Program ―――link out(フォース終了)」
慌ててコンピューター室を出ると、非常階段の前で連絡を受けた白木が携帯電話を握りながら電子カルテの回復を報告した。
「立夏さん!カルテは無事回復したようです!流石です、本当によかっ―――」
彼には目もくれず、白木の隣を通り抜け非常階段を駆け下りる立夏は時計に視線を移す。
(全然よくねぇよ!後40分しかないじゃないか?!)
「白木、後頼んだ!」
「えっ?あっ…はい―――了解しましたぁ」
階段を駆け下りる立夏の背中を見送る白木。
立夏は駐輪場まで走りGSXに飛び乗ると、勢いよくアクセルを開けて病院を後にした。
2件の予定手術を終えた立夏は、白木から事後報告を受ける。
電子カルテのロックダウンにより数時間にわたり機能停止した病院は、幸い大きな事故が起きることなく最小の被害で食い止める事が出来たようだ。
ここの医療者による日頃からの危機管理意識と情報収集能力、また人海戦術で患者を守り切ったスタッフの努力には、脱帽させられた。
話を聴いた立夏は、身震いする。
ネットワークでつながった世界は便利である一方で、脆くもある。
(一歩間違えれば、大事故が起きていた…弱者が集まる病院を狙うなんて―――)
恐怖と共に、怒りが込み上げる。
“自分の出来る事を成す” ハルの言葉が立夏の中で反復する。
(あいつは…ハルは、もう覚悟を決めている。
俺も…自分のできる事をする―――いや、それしかできないんだ)
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File:11 協力者
病院の電子カルテロックダウン事件から2カ月余り。白木からの音沙汰が途切れた。あんな事件が早々頻回に起こってたまるものかとの思いもあるが、こうも連絡がないと逆に不安になる。どこかに、何かの危険が、潜んでいるのではないか―――と。
聖倭大学附属病院外科病棟―――
手術を担当した患者の術後回診を終え、電子カルテに記録を打ち込んでいた立夏。
「あら?牧野先生もう記録書いているのですか?珍しいですね」
詰所の時計の時刻は16:50。
いつもは急変だの、救急外来からの応援依頼だのと忙しく動き回る立夏が、こんな時間に回診を終え、記録をかけるなど年に数回あるかないかの珍しい事だった。17:00の定時など、存在してないようなもの。これでよく労働基準局や病院監査に引っかからないものだと感心するほどだった。
にこにこと笑顔を見せる師長に、疲労の蓄積した肩を回しながら答えた。
「ええ、朝から散々詰め込んで働いていますからね!何度も聞きますが師長、今日は“何もありませんよね”」
15:30を過ぎた頃から、何度も病棟に出向いては、指示だしの抜けはないか、緊急手術になりそうな患者はいないかなど聞きまわっていた。疑わしい患者に関しては、すぐさま対症指示を出し、定時に帰れるようにと先手を打っていたのだ。
「大丈夫ですよ、牧野先生!“今のところは”何もないですよ」
満面の作られた笑顔で答える病棟看護師長に、満面の作った笑みを返しながら、立夏は釘を刺す。
(今のところは…ね―――)
「……俺は定時に帰りますから。何かあっても今日は、当直医にコールしてください!今夜はぜっったいに出ませんからね!ああ、そうそう………」
立夏はパソコンの隣に置いていた紙袋を師長に渡す。
「この前看護主任が教えてくれたおすすめ店のロールケーキです!外科の皆さんで食べてください」
「わあぁ!牧野先生いつも有難うございます!!」
「もぉ!先生大好き!!」
「分かりました、今夜は何があってもオンコールしませんから、安心してくださいね!」
詰所に居たスタッフがわらわらと集まり、紙袋を囲む。
「あらあら!こんなものまで用意しているなんて―――大事なデートにでも行くのかしら?」
「当たり!世界で一番大切な女の子を迎えに行くんです。じゃぁ、行ってきますね!」
パソコンの時計が17:00を示したと同時に立夏は立ちあがり、病棟を後にする。
「牧野先生!」
詰め所を出ようとする立夏の背中を呼び止める師長。
「お迎えという事は、今日はRX-8で動かれるのですね?という事は、お酒は飲まれませんよね?」
「……そうですね。相手は未成年ですから―――それなりの時間に送り届けるつもりでもいます」
「それは、良かったです!先生、夜は長いですからね~」
「…………0時過ぎるまでは見逃して下さい―――」
師長のにこやかな笑顔に見送られ、着替えを済ませると職員駐車場に止めた真っ赤なRX-8(愛車)に飛び乗り空港へと急いだ。
朝から仕事の手はずを整え、関係部署へ根回しをし、定時上がりを実現させた理由。
それは―――
空港の到着ロビーが飛行機の到着アナウンスと共に騒がしくなる。キョロキョロと辺りを見渡す立夏。
「立夏!」
愛しい声が、立夏の名を呼ぶ。2か月前の事件後、一旦カリフォルニアへ帰国していたセナが、日本に帰ってくるのだ。
「セナ!」
ぎゅっとハグを交わす立夏とセナ。
「会いたかった!セナ。元気にしていたか?」
「ええ、立夏も…お仕事は、大丈夫だった?」
「問題ないよ!君に会う為なら全力で終わらせるから!」
「へぇ!それは羨ましいな…日本は若手医師への待遇がしっかり整っているんだな。俺も日本の国家試験、受けようかな―――」
背後から、大きな荷物を二つ転がしてきた、サングラスの男が声を掛ける。
そう言えば、何日か滞在すると聞いていたセナの荷物がない事に、今更ながら不審に思う。
「よぉ立夏!」
親し気に両手を伸ばし、ハグを求める男を睨みつける立夏。
「………誰?こいつ」
「うわ!酷いな…もう忘れたのか?カリフォルニアでは手取り足取り色々指導してやったのに―――」
サングラスを外す男に、立夏の眉間のしわが深くなる。
「………織?」
「当たり!会いに来てやったぜ?立夏」
両手を立夏の肩に回す織の手を、埃を払うかのように払いのけた。
「俺はセナと二人のデートの予定だったんだけどな」
「そう言うなよ!つれないなぁ」
(当たり前だろ?!何のために朝から仕事頑張ってきたと思ってるんだよ)
冷めた目を見せる立夏の腕をちょこんと引っ張るセナ。
「今回はポラリス連れてこれなかったから、心配してきてくれたの。立夏…識の事嫌い?」
「…………セナ。ご飯、何食べたい?」
“こいつが隣にいる方がよっぽど心配だ”と言ってやりたかったセリフをグッと喉で押さえ、話題を変えた。
「せっかく日本に来たから、和食…かしら」
「よし!じゃぁ和食食べに行こう。———アレルギーあるか?」
ニコリとセナに微笑んだ後、後ろで突っ立っている識に声を掛ける立夏。
「食べ物のアレルギーは、無いよ」
「ならいい」
駐車場に止めていたRX-8に二人分の荷物を積み込むと、立夏はアクセルを唸らせた。
「ロータリーエンジンのくせに味付けがマイルドだな?」
助手席の窓を開ける織。
「別にドリフトしたくて買ったわけじゃない。ロータリーエンジンとミッション使いたかっただけだ」
「それは高いミッションだな!」
後部座席で二人の会話を聞きながら、窓の外を眺めるセナ。都会の光が次々と移り流れていく。カリフォルニアとはまた違う、日本の景色。
「大体なんでお前がそこ(助手席)なんだよ…」
「セナをここに座らせるのは俺がヤけるし、逆だとお前キレるだろ?」
「そこ遠慮しろよな!」
暫く高速を走らせていると、前方者のハザードランプが点滅し、停滞する。周囲の車も同様に減速しだした。
「なんだ?」車の前方を覗き込む織。
「首都高ではよくある事だよ―――」一方の立夏はいつもの事だと頬杖を突き落ち着いている。
こういう時は、車は不便だと思わず本音が零れた。
とたん、立夏の携帯が鳴る。
カーナビゲーションに同期させたモニターから、発信者の名前を確認し、運転中だと視線を逸らせた。織はパネルの通話ボタンを押す。
『良かった!繋がって―――牧野先生、大変です!』
「牧野先生は運転中だ、どうした?アル」
立夏の声と違う事を不審に思った電話先の男は、しばし無言となる。
『牧野先生、白木です。お隣に誰か、いらっしゃるのですか?例の件なので、できれば拡張通話をご遠慮いただきたいのですが―――』
「大丈夫だ、アルグレード。車内には立夏とセナしかいない。バームの件だろ?話せ、俺も聴く」
『why?!』
何故識が立夏の隣にいるのか――。
電話口の白木が声を荒立てる。
へらへらとして頼りないキャラクターを演じていた白木の、素を垣間見た立夏。
「そういう事だ。今の言葉で、お前と識がグルだという言質は取れたな」
『…………アホだろ、織』
白木はチッと舌打ちを鳴らすと、いつもの言葉遣いに戻した。
『まぁ、良いでしょう。今回に限りはその状況、思いもよらずで好都合です。実は首都高速で車の暴走事故が立て続いており現場は混乱しているようです。中の運転手からSOSが入り、車の自動運転が勝手に動き、身動きが取れないとの事。電子制御された車のプログラムが何者かによって書き換えられている恐れがあり、Inside TraceUnitに依頼が来ました。既にけが人多数、事態は一刻を争います。』
「「「なんだって?!」」」
セナ達3人は顔を見合わせる。
『ハルさんには今から連絡を取りますから、とりあえず指定の座標に向ってください』
白木からメールで送られてくる地図をカーナビゲーションにインストールすると、ちょうどこの渋滞の先だった。
「待て白木、俺達は現場の数キロ後ろでその事故による渋滞に巻き込まれて身動きが取れない!どうすればいい?」
『……識がいるなら、そちらでどうにかしてください。私はハルさんと連絡を取りもう一度こちらへ連絡します』
プツリと、通信が途絶える。
「どうにかしてくれって……お前、どうにかできんの?この状況」
「そうだな…空でも飛んでいくか?」
「真面目に聞いてんだよ」
口元を引きつらせる立夏に、後部座席からセナがバームを差し出した。
「とにかく、これ着けて!“二人とも”」
(二人とも?)
セナからバームを受け取ると、カチューシャとグローブを装着する立夏。その隣で、右手を後ろに差し出す織を見て目を見張る。
「お前…」
にやりと口元を綻ばせると、慣れた手つきでバームを装着させた識が、口を開いた。
「Force Program、link on!」(フォース始動)
「マジ?!」
(こいつも、バームの被験者…いや、フォースなのか?!)
遅れて立夏も口を開く。
「Force Program、link on———」「Assist Program ―――link on」
後部座席で、セナもまた、バームを装着させた。
視界を様々なソースコードが遮る。思わる目を細める立夏に、セナが後ろから助言する。
「右手を横に払って、メニューからソースコードの可視化を解除できるわ。前回の反省点を踏まえて改良してみたの」
言われるままに、操作する。ソースコードを取り払うと、ARの視界は現実世界と何ら変わりはない。これなら運転にも支障はなさそうだ。
「じゃぁ、ちょっと前を見てくるよ!」
そう言って助手席のドアに手をかける織の右手を、左手で引っ張り戻す立夏。
「ちょっと待て!高速道路上の歩行は法律違反だ!捕まるぞ?!」
「…じゃぁ立夏、車の間をぬってあの端っこ走って現場まで連れて行ってくれよ」
「路側帯の走行も道路交通法違反だ!アクション映画じゃないんだぞ?無茶言うな」
「じゃぁ……」
顎を抱える織に、「漫才をしている暇はないんだ!けが人が出てるんだぞ?!もっと実現可能な案をだせ!」と煽った。
そうはいうものの、立夏にもどうするべきか妙案は浮かばない。焦りだけが、募る。織が顔をしかめる。
「真面目だな…法律より、人命救助が優先だ。お前、医者だろ?」
「秩序無き世界に救いはない。俺達はソースコードを書き換えている奴等と一緒になるわけにはいかないんだ。出来る限り冷静に、策は講じるべきだ」
互いの視線が険悪に交わった。
「後ろ、見て!」
にらみ合う二人の視界を、セナの両手が遮る。
ルームミラーやサイドミラーで後方を確認すると、列をなす車のライトの後方で赤いパトランプを光らせ緊急車両が近づいてきている。
「緊急車両か―――」
チェンジを入れ替え、前後の車に倣って中央に道を作るよう車を動かす立夏。
「国家のプロジェクトというなら、ああいう職権的なのも欲しいものだよな―――」
近づいてくるパトランプが、立夏の車の隣で止まった。
スッと窓を下ろすパトカーに目をしかめる。
(なんだよ。俺はまだ、何もやっちゃいねーぞ?)
助手席に座る警官が、警察手帳を見せると立夏に車の窓を下げるよう指示する。
「赤のRX-8…貴方が、InsideTraceUnitの“ナツ”さんですか?」
「………」
一応機密事項とされている為、警戒を示す立夏に、警官が紅いパトランプを差し出した。
「対策本部の白木さんからお話は聞いています、貴方を現場に誘導するようにと指示を受けました。現時刻を持ってその車を緊急車両同等とし、我々はInsideTraceプロジェクトの指揮下に入ります。」
「はぁ?」
間の抜けた返事を返す立夏。
対照的に、来た!と言わんばかりに渡されたパトランプを立夏から奪い、窓から身を乗り出してパトランプを装着する。
「では一般車両を後退させ、避難誘導して下さい。電子制御の装備されていないタイプの車種の救急車を優先させ、我々に続くように」
識が助手席から指示を飛ばす。
「立夏、間を抜けていけ。現場に急ぐぞ」
「……どうなっても、知らないからな?!」
隣に並んだパトカーを後退させると、取り付け式のパトランプを点灯し、RX-8は渋滞の中をすり抜けた。後続するパトカーがサイレンを鳴らし、マイクで周囲の車両に呼びかけながらRX-8を誘導する。
「うっわ~こんな経験、まっとうな人生歩んでたら無かったろうな――――」
「刑事になったらあったのにな!」
隣を睨む立夏。
「随分と、余裕じゃないか?この先に制御を失った暴走車がいるんだろう?突っ込まれて引き殺されるかもしれないんだぞ?」
識は、真っすぐ前を見ていた。ソースコード可視化をOFFしている立夏と違い、彼の視界にはいくつものソースコードの波が流れている。先程の警官への指揮と言い、彼は本物の戦闘を経験したことがあるのだろう。AR戦闘の経験が浅い立夏にとってはこれ以上なく心強い反面、非日常の恐怖もまだ、拭いきれていなかった。
覚悟はしていたつもりだった。だがいざとなると―――。
「————それでも、セナと立夏だけは、俺が守るよ。この車までは、保証しないけどさ」
予想外の識のセリフに、目を見張る立夏。セナは兎も角、自分まで入っている事に驚いた。
何と返答すればいいのか見つからず、
「この車、古いから見つけるのに骨が折れるのに・・・」
立夏はぼそりと呟いてみた。
前方には、何台もの車が四方八方にぶつかり潰れ、向きを変えて道路を塞いでいる。
「……そんな――――」
想像以上に悲惨な現場の状況に、言葉を呑む。
「“ナツ”はけが人の救出とセナを守れ!」
そう言って助手席を飛び降り、煙の上がる車のボンネットを超えてその向こうに走っていく。立夏はソースコードの可視化をONにし、辺りを見渡す。黒いソースコードにノイズが掛かって光っている。前方ではキュルキュルとタイヤの摩擦音が響く。まだ、動いている車がある――。
「立夏、けが人の救助に…」
後部座席から外に出たセナは硬直していた立夏の腕を引く。
「あっ、ああ―――」
大破した車から、けが人を引きずり出す。現場に到着した救急隊もまた、けが人の安全な場所への避難を急いだ。
「ドクターヘリの要請と、後方に避難させたけが人を集めてくれ!トリアージを行う!」
運ばれたけが人を診察し、その右手首にトリアージタグをつけていく立夏。高速走行する車が急にその制御を失ったのだろう。車の破損具合から、その衝撃の強さが伺える。
「グリーンでも脳へ衝撃を受けた恐れがある!全員MRIが受けられるよう都内全域の救急病院に受け入れ要請を!」
「消防車が到着しました!故障車に爆発の恐れがあります、一旦離れてください!!」
(爆発?!)
前方の故障車から火の手が上がり、夜の空を赤く染めている。
「?!!!」
周囲を見渡し、セナの姿を探す。
(しまった…セナはどこに―――)
すると、前方で負傷者を引きずり出そうと両脇を抱えて引っ張るセナを見つけた。
大破したその車を見て、ギョッとする立夏。事故の衝撃でエンジンが止まっているにも関わらず、黒いソースコードがまるで寄生した生き物のようにうごめいている。
「セナッッ!!!」
急いで駆け寄り、両手でソースコードを引きちぎろうとするが…
一瞬、周囲の音が途絶えた。
“危険”だと、全身の感覚が脳にそう告げる。
咄嗟にソースコードを離し、セナの腕を引きよせる立夏。
そして、
ドオォォォン!!!!
夜の闇に爆音を轟かせ、車が爆発する。
爆風で吹き飛ばされる立夏。その両腕には、セナをしっかり抱えていた。
「っ…くは!!」
高速道路のアスファルトに叩きつけられる。左腰部に衝撃が走った。
「立夏!立夏!!」
セナの叫び声が意識を現実に引き留める。
(咄嗟で受け身を取り切れなかったか―――)
「セナ、怪我は―――ない?」
「私は大丈夫、立夏…――は」
まるでアクション映画を観ているかのような現状に、アドレナリンが出ている為か、驚くほど痛みは感じられなかった。
死体を見るのは、初めてではなかった。
救急当直をしていると、見るも無残な姿となった患者が運ばれてくることも多い。それでも、医師として冷静に対処が出来たのは、“こうなる”瞬間を見ていなかったからかもしれない。
数メートル先で豪炎を上げる車の傍に、ただれ落ちた人の形をした、それを見た。
両手でセナを抱きしめ、自らの身体で彼女の顔を覆い隠す。
大丈夫ですかと駆け寄る救急隊から黒タグを受け取り、焼け焦げるそれを無言で指した。
来ていたジャケットをセナの頭から被せて彼女の視界を奪い、救急隊へ託す。
「衝撃を受けた、少し離れたところに避難させてほしい」
「はい、でも…貴方は―――」
「……“仕事”をしてくる。」
そう言うと、黒くうごめくソースコードを辿り、炎の上がる現場の奥へと消えて行った。
・
・
・
File:12 2人のフォース
周囲の車の爆発に気を配りながら、識は黒くうごめくソースコードを辿る。何らかのウイルスにより、車の電子制御システムが乗っ取られたなら、それを引き剥がさなければこの惨状は解決しない。
ああ言って、セナと立夏を残したが…彼女達は無事だろうか。
後方で幾度か爆発音も響いた。
白木…いや、アメリカで行動を共にしていたアルグレード=ビスカムの話では立夏は1度しかAR戦闘を経験していない。すべてが脳の支配するVRと違い、AR(拡張現実)下の戦闘では自らの身体は現実そのものだ。当然自分の運動神経以上には動けないし、怪我すれば痛みも伴い、死する事もある。本業の傍ら、常に体を鍛えていた識とは違い、どう見ても立夏は線が細そうだ。この悲惨な現状ではむしろ、立夏に被害者の救助に回ってもらう方が懸命だと考えていた。
車の間を縫う様に移動し、車から伸びる黒いソースコードを引きちぎる。
(どこかに、これらを書き換えている大元のウイルスがいるはずだ。そいつを何とかしなければ、近づく電子制御車は片っ端からウイルスに操られてしまう)
黒煙を吸い込まぬよう口元を服の袖で覆い、呼吸に注意しながら“バーム”で可視化されたソースコードの線を辿る。
すると、周囲の車から伸びるソースコードが一か所に集まる流れを見つけた。
(……あれか?!)
警戒しながらその場所に向う織。
これだけ大規模な現場となれば、必ずと言っていい程ヤツがいる。ワクチン対策プログラムであるAugmented Reality Enemy Data(拡張現実敵情報)通称“アライド”
彼の想像を裏切らず、そこには4本の四肢にも見える長い手足を有した人型のデータが一台の車に立ちふさがるように周囲を警戒していた。
「……Assist Program Additional link on.」(アシスト機能追加)
識の周りに、緋色のソースコードが螺旋を描く。
先程から引きちぎった黒いソースコードを読み解き、即興の盾をプログラミングする。可視化されたプログラムが、識の前に緋色の壁を作った。
左右のグローブを引っ張り直し、左手で右肩に触れる。
「行くぞ―――」
識は人型のアライドに向って飛び出した。
ソースコードの固まりを感知したアライドの両腕を模したそれらは、識のソースコードを飲み込もうと蛇の如く伸びてくるが、緋色の壁がそれを阻止する。
ひらりとかわし、伸びたソースコードを両手でつかみ切ると、黒い線がグローブに吸い込まれていった。
だが、次々の湧き出る黒い線。二本だった腕が、4本、8本と増殖する。
「何あれ…軍荼利明王的な感じ?!」
「織!」
後方の燃え盛る炎の隙間を縫って、立夏が走りくる。
「立夏?!」
目を見開く織と同じく、その異様な姿のアライドを見て、立夏は顔をしかめる。
「…なんだあのアライド。周りの炎に重なると、博物館とかでよく見る仏像のようだな」
「立夏…セナは?」
「救急隊に預けた。これ以上、この現場に置きたくない」
「―――そうだな。本当は、お前も…後方に預けたかったんだが」
苦笑いを浮かべる織。
(守るって…言ったのに。結局最前線に狩り出しちまった)
「何一人でカッコつけてんの。俺はフォースだ、お前とは…対等に戦う」
「………へぇ、カッコいい事言ってくれるじゃん!」
右手でバシバシと立夏の左腰を叩く織。
「いっってぇ!!」
立夏の全身にビリビリと痛みが駆けぬける。
「え?って、お前怪我してんの?!」
識を睨む立夏。
「アドレナリンが出てる間に片付けるぞ…」「あっ…ああ―――だがどうしたものか」
こちらの腕は二人合わせて4本、アライドは、8本の腕を持つ。
「言っても体は1つだろ?一人がひきつけている間に車とアライドを繋ぐ黒いコードを切る」
あれこれと考えている暇は二人にはない。いつまた、爆発が起きるとも限らない。
「8本の腕に四肢を拘束される美青年かぁ…絵的にはお前の方が綺麗だろうけどな。ここは盾プログラムを持ってる俺が囮役を引き受けるか」
「人の身体で妙な想像してんじゃねぇよ。だったら俺が大元を引きちぎる―――」
視線を交わす織と立夏。
『Assist Program ―――link on……お待たせしました!』
絶妙なタイミングで、プログラマーの“ハル”がリンクオンしたようだ。
「よし、役者は揃ったな―――行くぜ?!」
アライドに向って走り出す立夏
「バカ!先に動くとロックオンされるぞ?!———っチッ!」
舌打ちする織は直ぐ立夏を追いかける。立夏に気付いたアライドが8本の腕を伸ばす。立夏は事故で動かなくなった近くの車の上に飛び乗り、宙返りして腕を避けた。
「マジ?!やるじゃん」
『“シキ”さん、これを―――Pass code、Radio receiver(電波受信器、送信)』
アシストに繋がれたハルから送られたソースコードが4つのキューブを形作る。
「受信機…って――」
キューブを横目で確認すると、立夏をロックオンしていたアライドの腕がそのキューブにひき寄せられるように集まってくる。
「成る程、コイツをデコイ(囮)にして腕を集めるのな!」
4本の腕が4つのキューブを掴む。そして、残りの腕がシキの四肢を掴んだ。
アライドのプログラムがシキのソースコードを書き換えようと侵入を試みるが、緋色の壁がそれを阻止する。
「早くしろよ?!」
前方を見ると、既に元凶の車とアライドを繋ぐソースコードに手を伸ばしていた立夏。
(……あいつ、怪我しているくせに素早いじゃないか)
「もう少し、シキのその姿を見ているのも悪くないが……」
「お前なぁ!!!」
両手でソースコードを引きちぎる立夏。黒いコードが立夏のグローブに吸い込まれていく。
『プログラムの回収を確認、ワクチンを生成します、時間稼ぎをお願いします』
「よし!」
一度はノイズに途切れたアライドの形が、再び形成される。
構える立夏と織。
『Pass code、Radio Sword』
バームに届くハルの声に合わせ、二人の右手に碧色のソースコードが舞い、剣の形を作る。
『同種のプログラムで作られたソースコードです。いわゆる電波妨害的な作用はあると思います。』
「なるほど、面白くなってきたじゃねーか」
剣を構える二人は、襲い来るアライドを左右から挟み斬りつけた。ソースコードの列が乱れたアライドは、斬られた箇所にノイズが走る。体が一つとはいえ、8本の腕はそれぞれが意思を持つかのように別の動きを見せ、識や立夏に襲い掛かった。
「この腕、背中側にも伸びるのかよ!」
「まぁ、ソースコードの塊であるアライドに、人間みたいな関節の可動域なんてものはないだろうしな……」
それもそうかと苦笑いを浮かべた立夏。
痛みと体力の消耗で動きが鈍る。そんな立夏の足に、アライドの腕が絡まりついた。
「?!」
足が、重りに縛られたように動かない。そして、じわじわと体内をまさぐられるような不快な感覚が、掴まれた足から中枢に向って伸びてくる。
「掴まれるな!コードを読み解かれるぞ?!」
識の剣が立夏の足を掴んでいた腕を切り落とす。腕がノイズに消されると、途端に足が軽くなり、宙返りで後方に距離を取る立夏。
(なんなんだ…あの感覚は―――)
呆然とする立夏を背に隠す様に、立ち庇う織。
「あれが、Inside Trace (インサイドトレース)…内部解析だ。バームを介して脳の奥に侵入し、記憶や感覚までも読み解かれると動けないだけじゃなく、個人情報が奴らの手に晒される。敵をトレースすると言う事は、こちらもトレースされる恐れがあると言う事だ」
識のいう事は、冷静に考えればもっともな事だ。
彼の周囲を舞う緋色のコードの一部が、立夏の周囲に移される。きょろきょろと緋色の線を見渡す立夏。
「俺が作った盾プログラム…少しはナツを守ってくれるだろ」
襲い来る8本の手を巧みに避けては切り裂いていく、二人。
『お待たせしました、ナツさん。Pass code、Virus destruction Program』(ウイルス破壊プログラム 転送)
剣を持つ立夏の右手に、碧い光が再び舞う。
「よし、さっきの要領だ!俺がアライドを引き付ける!」
識が4つのキューブを発動させる。吸い寄せられるように、アライドが識をロックオンした。
その隙をつき、立夏が元凶の車に走り込み、鉄の塊と化した車のボディにグローブを押しあてた。黒く伸びていたソースコードは見る見るうちに碧い光に塗り替えられていく。
碧く染められたアライドはノイズに消され四散し、車から伸びていた幾つものソースコードは暗い空に伸びる木の枝のように輝いた。
「mission complete(終了)、お疲れ!ハル…ナツ」
『completeじゃありません!早くその場から避難してください!』
周囲を豪炎が燃え盛り、空は赤く染まっていた。
「もしかして、俺達囲まれちゃってる?」
気が付けば、炎は周囲の車に燃え広がり、熱と薄くなった空気で息苦しさが襲う。
『シキ!ナツ!周囲にある車の種類は?!』
バームに、セナの叫び声が響く。
「く…車の種類?!」
「この状況で、なんだよそれ!!」
『ハイブリッドか、ガソリン車か…それによって消火剤が異なります。ナツさんの視界を画像処理してスコープを掛けます。車の車種が分かるような視点を下さい』
煙を吸い込まぬよう姿勢を低くとりながら、後方の車に視線を向ける立夏。
「ああ、そういうことか!」
意図を理解し、周囲を見渡す立夏と織。
「高速道路進行方向からガソリン、電気、電気―――あれは…ガソリンと、重なっているのはハイブリッドか?」
「4時の外車はハイブリッドだな、6時は電気、回って左後方8時もハイブリッドだ!1000万の高級車が…泣くねぇ―――」
「右側方9時は路側帯で、10時にガソリン……」
炎で視界が悪い状況下にも関わらず、サイドエンブレムやフロントマスクのエンブレムの違いから車種を特定してく二人。
『……お、お見事ですね』
呆気となるハルに対し、自慢げに答える立夏と織。
「こういうのは、自然と覚えるよな…」
「分かる―――。古いだの臭いだの環境やら言われようが、断然ガソリン派だし」
『6時の方向から消火剤で突破します!二人とも伏せて!』
セナの声に、咄嗟にアスファルトに伏す織と立夏。
後方の火の勢いが弱まり、消火剤が霧雨のように降り注いだ。
流石科学の力というべきか…人体への安全性はさておき、ものの数分で後方の炎が消え治まる。
「今の内だな、走るぞナツ」
飛び起きると、手を差し出す織。
「……ああ」左腰部に痛みを覚えながらも、識の腕に捕まり立ち上がると、消防隊の手を振る方へ走った。
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