初めての王城生活 1
アリッツがアイハの王太子として過ごす初日の朝の話です。
「う、うーん」
アリッツは覚醒する意識にあわせてゆっくりと目をあけた。
いつもならみんながばたばたと動く音が聞こえるはずなのにとても静かだ。どういう事だろう。
もしかしてまだ夢の中なのだろうか。いつもと見る景色が違う。
そこで思い出した。ここはレトゥアナ王国の隣の国であるアイハ王国の王様のお城の中なのだと。そしてその『王様』はアリッツのお父さんなのだと。そして、アリッツは今日から『王子』として暮らしていかなければならないのだと。
そういえば昨日、このお城に着いたあと、父と母と一緒にお茶をした。そこまでは覚えているが、その後の記憶がない。きっと疲れて寝てしまったのだろう。
いつもだったら朝の日課が待っているが、ここでの日課が何なのか分からない。孤児院のスケジュールなら今日は牛のお世話当番のはずだが、ここではそうではないだろう。
とりあえず起きようと身を起こす。
それにしても不思議な部屋だ。四方がカーテンで覆われている部屋など入った事はない。この部屋の壁は窓で出来ているのだろうか。ドアはどこにあるのだろう。
ベッドの上に立ち、はしまで歩いていって分厚いカーテンを頑張って開ける。そうして目を見開いた。
そこにはまだ部屋が続いていた。どうやらアリッツがいたのはベッドだったらしい。それにしては大きすぎると思う。ベッドしかない部屋などあり得ないのだが、少しだけ寝ぼけてたアリッツにはそんな事には気がつかなかった。
とりあえず身支度をしようとベッドから降りる。
それにしても広い部屋だ。何がどこにあるのか分からない。いつもの寝室とは全然違う。
顔や体を洗うための水もないのだ。もしかしたらアリッツが用意しなくてはいけないのだろうか。でも、この部屋のドアの取っ手はどれも高く、アリッツの手は届かない。
そこにある大きな椅子を踏み台にしようかと考えていると、ドアをノックする音が聞こえる。
「あ、はーい!」
反射的に返事をしてから、アイハ語しか通じない事を思い出す。でもアイハ語でもレトゥアナ語でも『はい』という言葉は同じ言葉なので通じるだろうと思い直した。
「セドレイ様、お目覚めですか?」
「はい。あ、ぼくの名前はアリッツです」
とりあえず名前を間違えられたようなので言い直す。ここの人は新参者のアリッツの名前がまだ覚えられないのかもしれない。
すぐに扉が開いて、穏やかそうなおばあさんと、若い女の人が三人、そして男の人が二人入って来た。
「初めまして、ハシント・アリッツ殿下。わたくしは女官長のエヴィーカでございます」
最初に入ってきた優しそうなおばあさんが丁寧に挨拶してくれる。
「はじめまして、エヴィーカさん。よろしくおねがいします」
アリッツも挨拶と自己紹介くらいは覚えている。年上のお兄さんやお姉さんが習っているのをよく聞いていたし、アイハに来る前に少しだけ教えてもらったからだ。
それにアイハ語とレトゥアナ語はそっくりなので大体何を言っているのかは分かるものだ。ただ、会話をしていると違う言語だという事に気づかされる。
次にエヴィーカはゆっくりとした調子で一緒にいた男女を紹介してくれる。『にょかん』のバネッサ、『じじょ』のシルビアとテレサ、そして『じぼく』のフランシスコとトマス。たくさんいるので覚えられるのか不安だ。
そんな事を考えていると、『じぼく』の若い方が前に進み出た。
「はじめまして、セドレイ様、フランシスコ・テジェリアと申します」
その言葉にアリッツは目を見開いた。それがレトゥアナ語だったからだ。
それにしても相変わらず『セドレイ』と呼ばれるのはどうしてだろう。
「あ、あの……」
「国王陛下からセドレイ様の通訳を仰せつかっております。本日からセドレイ様の家庭教師も務めさせていただきます。ですからアイハ語でどう言うのか分からない時には遠慮なくレトゥアナ語で話してください。私がアイハ語に直して相手の方にお伝えします」
「あ、ありがとうございます」
「いつものお友達にする話し方でいいですよ」
とは言ってもアリッツは戸惑ってしまう。見知らぬ年上の人には丁寧に話しなさいと院長にも他の先生にも、国王や王妃、そして王太后からも厳しく言われている。
その戸惑いが通じたのだろう。フランシスコは少しだけ苦笑する。
「私の事は親戚のおじちゃんくらいに思ってください。実際、私は妃殿下、セドレイ様のお母様のはとこですし、セドレイ様とも薄くですが血のつながりがあるので」
『しんせき』とはどういう意味なのだろう。そういえば孤児院の向かいの家に住んでいる友人のところによく『おじ』という人たちが遊びに来ていた。もしかして『しんせき』というのは彼のような人の話だろうか。
「う、うん。分かった」
とりあえずうなずいておく。
「何か困った事などありますか?」
フランシスコが聞いてくれたので安心して質問が出来る。アリッツはほっとした。
「うん。あのね、水はどこかな、ってさっきから思ってたんだけど……」
「お水……でございますか?」
「うん。体を洗いたいんだ」
アリッツがそう言うと、フランシスコは苦笑した。
「その事でしたらもうすぐ妃殿下がいらっしゃいます。王族は基本的に魔術を使って身支度をするそうですよ」
魔術というのは不思議な力を使っていろんなものを出したりする事だという事は王妃から聞いて知っている。そしてそれはアリッツも使える。
それでも魔術で体を綺麗にする方法は知らない。だから母がやってくれるのだろう。
ちょうど、そのいいタイミングで母が尋ねて来てくれる。母の側には二人の女性がいた。母の『じじょ』か『にょかん』だろうか。
「おはようございます、ママ」
「おはよう、ハシント。ちゃんと起きていたのね。偉いわ」
当たり前の事を褒められ、少しだけ恥ずかしくなる。
「では体を綺麗にしましょうね」
その言葉と同時にさわやかな風が全身をなでる。同時にいつも体を洗い終わったかのようなさっぱり感を感じる。
「今日から陛下がやり方を教えてくれるそうだから、少しずつ自分でも出来るようになって頂戴ね」
「あ、はい」
それはありがたい。きっとアリッツくらいの歳の子供なら当然出来る事なのだろう。はやく自分だけで出来るようになりたい。
「これから謁見があるからすぐに身支度をして頂戴。私は控えの間で待っているから」
「はい、マ……」
「かしこまりました、妃殿下」
アリッツの代わりに『じぼく』のトマスが返事をする。
そのまま母は、『じじょ』を連れて部屋を出て行った。
「ありがとう、フランシスコさん」
母が部屋を出て行くとアリッツはフランシスコにお礼を言った。母と会話をしている間、ずっとアリッツと母の言葉を通訳して伝えてくれていたのだ。本当にありがたい。
「いいえ。それから私の事は『フランシスコ』と呼び捨てで呼んで下さい。他の者にも『さん』をつけないでください。私達は使用人なので」
「あ、はい」
お城には変わった決まりがあるらしい。とりあえずきちんと守っておこうとアリッツは決めた。
****
「おはようございます、へいか」
「おはようございます、陛下」
アリッツの挨拶の後に母も父に挨拶をする。変な感じだ。自分が先に挨拶をしてしまっていいのだろうか。
この『えっけん』というものは毎日あるらしい。つまり毎日こんな緊張する中で父に挨拶をしなければいけないのだ。
「おはよう、セドレイ、王妃。顔を上げよ」
ここでもまた『セドレイ』と言われる。だが、アリッツはもう動じなかった。フランシスコからもう説明を受けたからだ。『セドレイ』というのは国王の子供で一番年上の子の事をいうのだそうだ。『国王』や『王妃』と同じような呼び方だから気にしなくていい、と聞いている。だから気にしないことにした。
顔を上げると父が手招きしてくれる。今度は『ハシント』と呼ばれる。
「よく眠れたか?」
「はい」
「部屋のもので足りないものがあったら言いなさい」
「だ、大丈夫です」
通訳をされながら話す。父はレトゥアナ語が喋れるのに変な感じだ。
「さあ、朝食を食べに行こうか」
「じゃあはいぜんのお手伝いとか……」
思い切って提案してみたが父は首を横に振る。
「侍女たちが給仕してくれるからお前はやらなくてもいい」
「きゅうじって何ですか?」
フランシスコが通訳してくれるが、レトゥアナ語でもそんな単語は知らない。
「僕たちのために食事を用意してくれる事だよ」
「自分で用意しなくていいんですか!?」
「いいのよ。侍女達はそれでお給料をもらっているのだから、彼女達のお仕事を奪ってはいけないわ」
「そうですか」
よくわからないがそういうものらしい。
父は詳しく説明すると言って『結界』を張った。これで周りに声が聞こえないらしい。
「ほら、イライアだって孤児院で配膳のお手伝いはしなかったろう?」
レトゥアナ語で話してくれる。アリッツは少しほっとした。通訳なしでどうしようかと考えていたのだ。
でも今の問題は父の質問だ。聞き捨てならない。
「え? してたよ! とまって行くときとか女の子といっしょにごはんのしたくもしてたし、おせんたくだっておそうじだって自分からやってたけど? それにまきわりだって教えてくれたんだよ!」
「イ、イライアちゃんが!?」
「うん。『王妃様ー! 手伝って下さーい!』『はいはい。これがすんだらすぐ行くからちょっと待っててねー』という感じで」
実演して見せているのに父も母もぽかーんとしている。どうして分からないのだろう。
「あのイライアが……」
どこか呆れたような声なのは気のせいだろうか。
「それに女の子達がマルセラ先生、あ、院長先生とピクニックに行っちゃったときはずっと一緒にいてくれたんだ。鬼ごっこもしてくれたし、絵本も沢山読んでくれたし。あと昼食をセリナさんとルシアさん、あ、王妃様の侍女さんやぼくたち男の子も手伝ってわいわいと作ったんだよ。だからぼく白芋の皮むきは自信があるんだ!」
「……そ、そうなのか」
必死に説明しているが、両親の当惑顔は変わらない。というより、父は何故か厳しい顔になっている。何か不機嫌なような。
「ああ! 後日逆をやったから大丈夫! ぼくたちはマルセラ先生とピクニックに行けたし、女の子達は王妃様と一日みっちり遊んだんだって! 絵本も読んでもらったんだって! ぼくたちばっかり王妃様をひとりじめなんかしてないから!」
「そういう事じゃない!」
父がつっこむが、アリッツにはさっぱり分からない。
「ハシントはイライアちゃんが大好きなのね」
母がフォローしてくれる。
「うん! すっごくステキな人なんだよ!」
きっぱりと言うと、父がまた複雑そうな顔になった。それを見て母は笑っている。
「何を拗ねてるんですか、エル。それだけイライアちゃんがきちんと面倒を見てくれたって事でしょう。ヤキモチをやかないの」
図星だったようで父がそっぽを向いた。
「えっと……ハシント、お前はいつか僕の仕事の手伝いをしてもらう事になるんだ。その為にたくさんお勉強をしなきゃいけないんだよ。それがお前の今のお仕事。わかった?」
そして話題を変える。
「ぼくお勉強もしてるよ」
「うん。でももっとしなくちゃいけないよ。お前はこの国の王太子なのだから」
「はい」
よくわからないけどうなずいておく。
「よし、じゃあ食事をしに行こうか」
「はい!」
父がもう一度言う。アリッツは元気よく返事をした。