血の通う耳
さて、本当にやる事が無くなってしまった。後は本当に来るのか分からない、迎を待つのみだ。
状況が動いたのは、ここに来てから体感で二日目、木の葉の数を、数えるのにも飽きて、リンゴダイエットの効果と弊害について、考察しはじめた時だった。
ザザッ、ザザッ、ザザッ、聞こえてくるは、何かが擦れる音。その方向は……行き止まりだった穴!?
穴から出てくるのが、銀色の髪とは限らない。こちらを確認した瞬間に、敵意をもって襲い掛かってくる可能性だって十分にある。
僕は、リンゴのような物の木の後ろに隠れて様子を窺う事にした。
樹高のわりに、幹は太い。大丈夫、全身隠れているはずだ。
息を殺しながら、対象が穴から顔を出すのを待つ。
徐々に音が大きくなり、ついにそれが穴から顔を出した。それは、望んでいた銀ではなく金だった。さらに望んでいない物まで付属している、獣の耳だ。
相手が獣では、木の陰に隠れただけでは、捕捉を免れる事などできないだろう。
覚悟を決めるしかない。僕は、一度引っ込めた顔をもう一度出して再度相手を窺う。――――えっ!
衝撃が走った。獣の耳の下にあった顔は人間のそれだった。
け、ケモ耳コスプレ少女だと……。穴から顔を出したコスプレさんは、頭も動かさずに、視線だけで左右を確認した後、小さく『ふぅ』と嘆息して、穴から抜け出し……、その直後180°回転、そのまま穴の奥へと戻っていった。
「えー。もうちょっと、ちゃんと探そうよ! ちょっと待って、いや待ってください! お願いだから」
探し方は兎も角、何か確認してる様子は有ったし、恐らく迎えというのは彼女の事だろう。ここで置いて行かれるわけにはいかない。
聞き入れて貰えたようで、今度は、えっちらおっちら、ほふく後退で戻ってくる。後退するたびに、尻尾が左右に大きく振れる。太くて柔らかそうな、金色のシッポ。先っぽだけ白くなっている。
何のキャラかは知らないけれど、狐のキャラクターのコスプレらしい。
試される大地で、コスプレイヤーに出会う確率は、野生の熊に出会う確率よりも数段低い。不躾とは思いつつも、尻尾や衣装に目が行ってしまうのも仕方ない事なのだ。
写真とかで見た印象では、衣装としての機能など歯牙にもかけず、見た目を似せる事だけに注力していると思っていたけれど、彼女の着ている丈の短い着物のようなものは、なかなかしっかりした作りをしている。
周りの目を気にしない、強い精神力の持ち主なら、普段着にしても支障はないのではないかと思えるほどだ。
「あのぉー、すみませーん。ちょっと、引っ張ってくださーい」
中々出てこないと思ったら、挟まっていたらしい。
「じゃ、引っ張りますよ」
本人の希望だし、あとからセクハラで訴えられる事もないだろう。
足首を掴んで、ゆっくり引っ張るが……だめだ、動かない。
「あのぉー、おもいっきり引っ張っていいですからぁ。全力でやってくださーい」
「いや、地面が岩だし、無理やり引っこ抜いたら、怪我しない? 角度かえたり、まだ試せる事あると思うし? そんな慌てないで」
「おにいさんは、優しい人なんですねー。わかりましたぁ。おにいさんに嫌な役目は、お願いできませーん。自分で何とかしてみるので、少し離れててくださーい」
怪我をさせるのも忍びないし、自分で何とかできると言うなら断る理由もない。言われた通り3メートル程離れる。
「離れましたねぇー。行きますよぉー」
言い終わった瞬間『ドンッ!!』まるで打ち上げ花火のような爆発音。それに続いて、崩れた岩がバラバラと降り注ぐ音が響いた。
人が一人が、ギリギリ通れる程度だった穴の直径が、一気に1メートル以上広がった。コスプレさんが崩れた岩に埋まってるんですが……これ生きてる!?
崩れた岩を押しのけて、立ち上がったコスプレさんが満面の笑みでこちらへ向かってくる。なんか、頭から血が流れてるんですが『ゲホッ!!』あっ吐血した。
「いや、やる事、説明してくれてたら無理やりでも引っこ抜いたから!! バカだろ! 死にそうじゃん!」
「えへへ、言葉遣いが砕けた感じになりましたね。これは、もう、お友達って事ですよねぇ? ゲホッゲホッ!」
絵面と言葉が合っていない。そんな状態で嬉しそうにされると、軽い恐怖を覚える。
「仮にそうだとしても、友達になったその日に、永久の別れになりそうな雰囲気なんだけどな! ほんと、大丈夫か? こんなとこじゃ、薬も、何もないし……」
「ええ、こんなの直ぐ治りますからぁ」
と、言いながら、吐き出した血が溜まった右手を振り払った。
そして、上を向いたと思うと、その眼前に、僕が暗記していた、幾何学模様と酷似した、月白の図形が浮かび上がった。
赤く汚れた手を、その図形に向けて掲げる。手の平が、まるで発光リンゴのような光りを放ったかと思うと、月白から青へと色を変えていく。
完全に青に染まり切った図形。そこから光の粒子がコスプレさんに対して降り注ぐ。
「はい、もう大丈夫ですぅ。怪我は治っても汚れは消えないので、返り血のせいで、ちょっと気持ち悪いですがぁ」
「それ、返り血じゃなくて自分の血だからな? いや、それどころじゃなかった! 本当に治ったのか? ちょっと見せてみろ」
「えへへ、そうでしたー。いつもお母さんにぃ『こらっ! キミコ。また返り血浴びてきて、洗濯するの大変なんだよ!』て、怒られるので、間違っちゃいましたぁ」
「そのお母さんにも色々言いたいことがあるが、頻繁に返り血を浴びるってどんな生活してるんだよ?」
とりあえず、血が大量に出ていた頭を見てみたが、怪我をしている様子がない。
もしかして、頭に付けている獣耳の下に怪我をしたのか? 狐の耳を摘まんで引っ張ろうとして……えっ! 温かいし、脈が有る!?
「月曜日から金曜日までは、家から、ここまで歩いてきて、人がいないか確認するお仕事をしてるんですぅ。土曜日と日曜日は、お休みだからぁ、お昼寝したり、お散歩したりするんですよぅ」
返り血について質問したんだけど、返事を聞いても疑問は一つも解消されなかった。
返り血はもういいや、他に聞かなきゃいけないことがある。それらに比べれば些細な事だ。
「へー、そっかー、それは、楽しそうだな。で、君の頭の耳」
「キミ、じゃなくてキミコですよぅ。コ、は大事なので、省略するならキッコにしてくださいー。キーちゃんでもいいですぅ」
そうか、コ、は大事だったのか。でもキーちゃんだと、コが省略されてるんじゃないだろうか? ……まあ、そこは触れないでおくか。
「……まったくだ、名前は大事だよな。コは、特に大事だ。じゃあ、キミコ、僕の名前は笹塚 彰悟だ。好きに呼んでくれていいよ」
「じゃあキミコは、彰悟くん、て呼びますねぇ」
自己紹介も終わったし、今度こそ頭の耳について聞かないと。
「キミコ、さっき頭の上の耳を触った時、脈が有ったんだけどもしかして、それ本物?」
キョトンとした顔をしながら両手で耳を摘まんで、首を傾げてる。
「こっちの耳ですかぁ? こっちの耳は、お父さんに似たみたいで、尖がったかんじなんですけどぉ、キミコはお母さんみたいに、少し丸い方が可愛かったと思うんですよぉ」
尖った君も素敵だよ。とでも言えばいいのだろうか? いや違う、尖ったキミコもだ。
全然聞いた内容と噛み合わない返答だったけど、疑問は解消した。あれは本物だ。
もう、考えるのを放棄したくなってきた。なにがどうなっている? これ以上の質問を重ねるのが怖くてしかたない。聞きたくない現実を突きつけられそうだ。
そうだ、とりあえず外に出たい。今なら出られるはずだ。目の前の、それさえ片付ければ。
「とりあえずキミコ、一緒に、そこの崩落した岩をどかそうか?」
「いいですよぉ。彰悟くん、キミコが出口を壊したこと、秘密にしてくださいねぇ?」
二人で崩れた入り口を掘り返す作業をするなかで、つい口走ってしまった。
「さっきの怪我は本当に大丈夫なのか?」
すると、こう返って来た。
「魔法で治したから、もう平気ですよぉ」
血の通った獣耳を触る前なら、酷い冗談だと笑えるところだけれど、耳が本物だと知ってしまった僕には、笑う事が出来なかった。