束の間の平安
(8)
午後二時―――
オストブルク、中央広場―――
ようやく疲れの抜けたリーシェは、中央広場で剣の型を行っていた。背の大刀を構え、振り、足捌きで方向を変え、踏み込み、攻撃し、払い…
ラーリアはそんなリーシェの型を、じっと眺め続けていた。
「どうしたのじゃラーリア」
「剣聖様」
ソルフィーはリーシェの型を一瞥して言う。
「少し、疲れておるようじゃな」
「昨日、遅くまでグリムワルドに付き合わされたらしいのです」
ソルフィーは頷く。
「そうであろうの。あれが、自分から娼館になど行くはずがなかろうからな」
ソルフィーの表情は暗い。ラーリアの表情も、ソルフィーの表情を見て不安の色を帯びる。ソルフィーは石造りのベンチに腰を下ろし、ラーリアに隣に座るように促すと、話し始めた。
「そなたには、話しておいたほうが良さそうじゃな」
「何をです、剣聖様」
ソルフィーは、リーシェがこれまでにたどってきた旅路のことをポツリポツリと話し始めた。
人間の母親とエルフの父親の間に生まれたリーシェは、幼少の頃、本人の意思に反して精霊魔法を発動させてしまったことで周囲の人々から恐れられ、彼と彼の母親は住んでいた町の人々から迫害を受け、母親は彼を庇って命を落としたのであった。リーシェはその時ショックで、一度全ての感情と言葉を失ったのであった。
小さな彼が十字架にかけられ、殺されそうになった時、それは起こった。
彼を依代にして、怒りと自由を司る、風と火の精霊の力が暴走を起こした。
地獄の劫火が風に乗って荒れ狂った。
北部辺境にあった、タリアッドというその町は、幼いリーシェの悲しみと怒りと自由への叫びが呼んだ精霊の力によって、灰塵と化した。ソルフィーは魔法結界で己の身を守ることができたが、その町で残ったのは、リーシェが架けられていた磔柱だけであった。
気を失ったリーシェを、ソルフィーは自宅に連れ帰って養育した。意思に反して精霊魔法が発動しないように、精霊と交信することを教え、秩序と平静を司る水の精霊、そして慈愛と力を司る大地の精霊との交信に通じることで、リーシェは徐々に感情を見せるようになっていった。
剣技を教え、リーシェが十二歳になった時、ソルフィーはリーシェを伴って、リーシェの兄弟子であるマリューが既に司教として仕えていた、聖十字教国の都、ロードポリスに赴いた。目的はリーシェをクルーセイドの誇る魔法学院に入学させることであった。
ソルフィーは聖十字教国の宮殿騎士団の騎士にも剣技を教え、多くの弟子がいた。既にマスターを許した弟子も少なくはなかったが、その宮殿騎士団の正騎士と剣を交えた十二歳のリーシェは、その時闘技場にいた正騎士六十五人を全員圧倒した。六十六人目に駆けつけたマリューと更に二時間に渡って斬り結び、最後はマリューに敗れたものの、一人目で戦っていたら負けていた、とまでマリューに言わしめた戦いぶりであった。当時マリューは二十一歳。リーシェより九歳年上で、すでにソルフィーは彼にグランドマスターを許していた。そのマリューと、リーシェは互角に戦って見せたのである。現在の教皇であるヨハネス十二世は、当時枢機卿であったが、教皇に働きかけ、リーシェを魔法学院に入学させる。ここでリーシェは古代語の魔法を学び、極めて優秀な成績を残し卒業する。
当時クルーセイドは北方の蛮族と、それに力を貸す魔族と戦っていた。ソルフィーとリーシェがいる間に、魔族に率いられた蛮族の戦士達と多くの魔物達が、聖十字教国を北方から幾度も脅かした。一度は聖都ロードポリスの郊外まで、魔物の大群が押し寄せたこともあった。マリューとリーシェは、北方の諸都市をまとめていた彼らの兄弟子シュテッケンと共に、ソルフィーに従って魔族を北の最果て、ガルバリア火山に追い詰め、そのほぼ全てを討ち果たすことに成功した。そして魔族の生き残りや、聖十字教国に反旗を翻してきた蛮族を攻撃し、北方諸都市の更に北側まで押し返したのである。
「あの時、聖十字教国に残る、という道もあったのじゃ。リーシェには許嫁もおったのじゃが―――」
ラーリアは驚きで言葉を失い、ソルフィーの顔を見る。
「ど、どんな女の人だったんです」
ソルフィーは苦い表情で言う。
「―――リーシェと同じ、混血の娘じゃ」
型をなぞり終えたリーシェが、少しだけ眉を顰めてソルフィーに歩み寄る。
「先生、おやめください。僕のいないところで何のお話をしていらっしゃるのですか」
ソルフィーはバツの悪そうな顔をする。
「そなたの『許嫁』の話じゃ」
リーシェは珍しく感情を害した、という顔をする。
「…そのお話なら、マリュー師兄に『まだ早い』と申し上げたはずですよ」
「あの時は確かにそなたはまだ十四であった。だが今なら―――」
「私はまだ、結婚する気はございません」
リーシェはピシャリと言い切る。
「何故じゃ」
その言葉に、リーシェは悲しげに俯く。
「これ以上、僕のような子が生まれたら……」
ソルフィーは溜息をつく。リーシェはまだ、幼小の頃に受けた心の傷を癒すことができていない。ソルフィーとマリューが是非に、と彼にすすめた女性こそが、それができる女性だ、と確信しながらも、彼女はそれ以上リーシェにその話題を突きつけることをやめにした。
「どうじゃ、リーシェ。久々に」
ソルフィーは腰の長剣を抜く。リーシェは師の誘いに、騎士礼を取ると二本の蒼い剣を抜く。
「手加減は、無しじゃ」
「いつでも」
ソルフィーの剣が、脈動する金色の光に包まれる。それが彼女の全身を包んだ。
リーシェの両刀も、同じように脈を打つ蒼い光に包まれた。
ラーリアは、天が落ちてきたか、と思うほどの重圧を感じ、ベンチから逃げ出そうとしたが、身体が言うことを聞かない。二人の解放した剣気をまともに浴びたラーリアは、立ち上がることすらできなかった。
ソルフィーが五歩以上の間合いから剣を一振りする。え、まだ遠いのに!?と思うラーリアをよそに、リーシェは二本の剣でソルフィーの気を受け流す。その動きで、ラーリアも悟った。ソルフィーは衝撃斬でリーシェを攻撃したのだ、ということを。
攻撃をかけた筈のソルフィーが、リーシェの舞うような動きに対して剣を立て、大喝する。リーシェが反撃で同じように放った衝撃斬は、ソルフィーの「気の盾」の前に散った。リーシェの顔色が、一気に引き締まる。
二人が一気に間合いを詰める。ソルフィーが剣をまっすぐ引き、突きを放つ。リーシェは後方に真っすぐ五、六歩飛び下がる。ラーリアにも、一部は見えたが―――
ソルフィーは最低三発はあの一瞬で突きを放っている。見えない攻撃もあった。恐らくは、五発から六発はリーシェを攻撃しているだろう。リーシェはその全てを見切っていたが、流石に反撃することはできなかったようだ。
「ハアッ!」
ソルフィーがリーシェの近くまで踏み込み、凄まじい連続攻撃を放つ。全てを躱すことはできず、二度、三度とリーシェが自分の刀で師の剣を受ける。常人には見えないが、剣同士の火花のみがそのことを物語っていた。ソルフィーの剣がリーシェを捕える、と思った一瞬、リーシェの身体を剣が素通りする。
幻影斬。
ラーリアは思わず身を乗り出す。
「甘いわ!」
ソルフィーは自らの左後ろに、見ずに剣を繰り出す。そこにもリーシェの姿があり、今度こそ剣がリーシェを捕えた―――と見るや、そのリーシェの身体をも、必殺の一撃は素通りする。
キィン!
甲高い金属音がして、リーシェの大刀がソルフィーの剣に受け止められていた。ソルフィーにも全く余裕はない。後一瞬判断が送れていれば、彼女の身体は蒼の剣に両断されていたはずである。それをさせなかったのは、やはり彼女の実力であった。
リーシェは再び間合いを取る。ソルフィーは息を整え、リーシェに言う。
「見事じゃ。幻影を二つ、置いておくとはの」
「二度は通じません」
リーシェは剣気をしずめ、剣を背と腰の鞘におさめ、ソルフィーに一礼する。ソルフィーも小さく鍔鳴りさせて剣をおさめる。
「今なら」
とソルフィーは言う。
「今なら、そちはマリューを圧倒するであろう」
「師兄とて、昔のままではありません。僕等、まだまだ師兄の足元にも寄れませんよ」
ソルフィーはリーシェに言う。
「そなたはまだ若く、上り調子。マリューは既に完成されておる。あやつも今年で三十、いつまでも膂力に頼った戦いはできまい」
リーシェはその言葉を否定も肯定もせず、ラーリアの側に歩み寄る。
「リシャールは」
「ラウンデルたちと稽古してる筈だけど、二時にやめるって言ってたわ」
その日は、D・S隊の主だったメンバーは皆午後三時半にアルキュイに集合し、ソルフィーを交えて大いに飲み、かつ食べる予定でいた。
誰よりもソルフィーその人が、強くそれを望んだからである。
「先生、私はいったん戻って、汗を落としてまいります」
「宿営か?」
リーシェは頷く。
「そうか、では私も一度陛下の所に戻り、出直してくるとしよう」
「お待ちしております」
リーシェは騎士礼を取り、宿営の方に向かって歩き始めた。ラーリアがその隣に小走りで追いつく。
並んで歩きながら、ラーリアは暫くの間考え事をしていた。
「ねえ、リーシェ」
「何だい」
意を決して、ラーリアはリーシェに言う。
「―――許嫁がいる、って、…ホント?」
リーシェは表情を改める。暫く無言で歩みを緩めた後、
「先生はそんなことまで、君に話したのか」
「あ、うん」
リーシェは溜息をついて言う。
「言わなくてもいいことを…後で叱っておかなくちゃ。困った人だ」
「ねえ、どうなの」
リーシェはラーリアの方を見て、…そして言う。
「先生と、師兄で決めたことさ。僕と彼女の意思なんて、お構いなしだ。酷い話だよ」
「じゃ、じゃあ…本当なのね」
リーシェは頷く。
「どんな女性なの」
リーシェは遠い目をする。
「それは聞いてないのかい」
「貴方と同じ、混血だってことしか」
リーシェはラーリアの答えに頷く。
「―――優しい人さ。僕なんかには、勿体ない」
それだけ答えて、リーシェは口を噤んだ。
ラーリアは頭を鉄槌で殴られたような感覚を覚えた。
彼女もそれきり口を噤み、二人は黙って宿営に向かって歩き続けた。
午後三時十五分―――
三番街、広場 「アルキュイ」前―――
D・S隊からは約六十名がアルキュイに来ていた。赤白のワインの大樽が用意され、広場に組み上げられた石組の炉に、焼き網と鉄板がいくつも並べられ、既に肉が焼かれ始めていた。厨房では店員たちが総出で準備をしていた。何せ人数が尋常ではない。恐らく百は軽く超えるはずである。
店にリーシェが現れた。ラーリアを伴って、いつものように静かな表情で、奥のカウンター席の端に座る。その隣に、ラーリアが陣取った。彼女の顔は、しかし何となく憂いを帯びていた。
「どうしたの、ラーリア」
ミシェルがラーリアに尋ねる。先生がいらしたら、場所譲らなくちゃいけないからさ、とラーリアは苦笑いして見せる。しかしそれが彼女の憂いの真の原因でないことを、ミシェルは一瞬で見て取っていた。
それから、グリムワルドとリシャール、ラウンデル、ジェットが相次いで現れる。彼らは店の奥の、中央のテーブルのいつもの席に座を占める。ただ、皆すぐに酒を頼むことはせず、幾分そわそわしながら、剣聖ソルフィーの来店を待っていた。
「だいぶ楽しみにしておられたからな」
ラウンデルはリシャールに言う。
「まもなくこちらにお着きになります。食べ物も、もう準備できているでしょう」
グリムワルドはカウンターのリーシェに手を上げて軽く挨拶する。リーシェも頷く。
その時、店の外で西の方を眺めていた隊員が、おいでです!と大きな声で叫ぶ。広場の一角から、店に続く道の両脇に、D・Sの隊員たちがそれぞれ片側二列の横隊を作り、ソルフィーを出迎える。やって来たソルフィーは、その出迎えに苦笑する。
「近衛騎士団の宴でも、このような出迎えはされなんだぞ。聖十字教国の都で、宮殿騎士団の出迎えを受けて以来じゃ」
ソルフィーはそう言うと表情を改め、
「大儀である。今夜は楽しもうぞ」
と言った。それを合図に、D・S隊から歓呼の声が三回上がった。
「先生、ようこそいらっしゃいました」
ラウンデルが皆を代表して言う。ソルフィーは頷くと、隊長たちに伴われて店の中央のテーブルに陣取った。オープンエアのテーブルでは、早くも、焼き立ての肉や野菜が振る舞われていた。
「何じゃ、素早いことじゃな」
「我が隊の特徴でございます。兵は神速を尊びますので」
ラウンデルはそう言って笑う。ソルフィーのグラスに、リーシェが食前酒を注ぐ。次にラウンデル、そしてリシャール、ラーリア、ジェット…
「済まぬな」
リーシェは自らのグラスにも酒を注ぐ。
「いいかリーシェ」
グリムワルドが確認し、リーシェが頷く。店の中から広場中に響く大音声でグリムワルドが叫ぶ。
「全員起立!!!!」
外のバーベキューの炉の付近にいたものまで含め、全員が慌てて自分のテーブルに戻り、グラスを手にする。
「D・S隊副長、クラム・グリムワルドである!剣聖ソルフィー様のご健康を祝し、乾杯!!!!」
店の内外にいた者たちすべてが唱和する。グラスやジョッキがぶつけられ、皆杯を干す。それを合図に大宴会が始まった。
「それにしても大きな声じゃな」
ソルフィーが耳をさすりながら言う。
「グリムワルドと申したか」
「リーシェのお師匠さん、ですな。グリムワルドと申します、以後宜しく」
グリムワルドは屈託なく笑って言う。側に立てかけた大きな戦斧を一瞥して、ソルフィーは頷く。
「成程、留守はそなたが預かっておったという訳か」
リーシェはソルフィーに言う。
「良い腕です。それだけでなく、豪胆で頭も切れます」
「ほう」
グリムワルドは大きな肉片を口に入れ、数回噛み旨そうにのみこむと、
「蒼の剣士にお褒めをいただくとは、光栄だな」
といった。リーシェは笑って言う。
「世辞じゃない。僕の見たまま、先生にお伝えしただけさ」
「リーシェの人物評が外れたことは、今まで無いからの。」
ソルフィーは旨そうにグラスを干すと、目の前に並べられた様々な料理を眺めて言う。
「昨夜の料理と比べても、遜色無いぞ。」
「お褒めにあずかり、光栄ですわ、剣聖様」
ミシェルがにっこり笑って礼をする。
「おや、可愛らしいお嬢さんじゃな。ここの看板娘、といったところか」
「ミシェルと申します」
リーシェは骨付きの仔羊の香草焼を一切れソルフィーに取り分けると、新しいグラスに深い色の赤ワインを注ぐ。
「先生、どうぞ」
「ん」
ソルフィーは一口食べ、ワインを含む。そして、側のラウンデルに言う。
「―――よくぞ私をここに連れてきた。褒めてやる、ラウンデル。見事じゃ」
ラウンデルは恭しく礼をする。
「今夜は無礼講じゃ。皆存分にやるが良い!」
剣聖ソルフィーの言葉に、店中から応、の声が上がる。
グリムワルドはいつものように、トマトソースの小麦麺を皿に大盛にする。
ジェットとリシャールは白麦酒で乾杯し、腸詰とジャガイモを頬張る。
リーシェは、というといつものようにいつの間にかカウンターの端に陣取り、ミシェルのお酌で、生ハムをつまみにしてバレスティア産の発泡酒を飲んでいる。
その側に、グラスと皿を持ってラーリアが陣取った。
「いつも、あんな風にして飲んでおるのか」
大テーブルからカウンターの方を見て、ラウンデルはグリムワルドに尋ねる。グリムワルドは頷くと、美しい飾りのついた大きな陶器のジョッキ一杯の白麦酒を旨そうに飲み干す。
「あいつは、多少世の中を斜めに見ているところがあるけれど、女にはなべて優しいから―――」
グリムワルドの言葉に、ソルフィーは頷く。熊のようなこの大男、意外とよく物が見えているようだ、と彼女は思いながら、小ぶりの白麦酒のジョッキを同じように干す。
「流石はリーシェのお師匠さんだ!」
グリムワルドはソルフィーの飲みっぷりを賞賛する。
「東方は、白麦酒もいい」
ソルフィーは満足気に頷く。
「ありがとうございます、剣聖様」
店に出てきた店主に、ソルフィーは言う。
「ご亭主、『豚の煮込』は、あるかな?この白麦酒には、それじゃろう」
店主はカウンターにいたミシェルに言う。
「ミシェル!『豚の煮込』、あるな!?」
ミシェルは厨房の若い料理人たちに、声をかける。
「大テーブル、剣聖様よ!急いで」
「はい、お嬢様!」
すぐにソルフィーの前に大きなアイスバインが運ばれてくる。茹でたてのジャガイモと、ザワークラウトがたっぷり添えられていた。
一口食べてソルフィーは暫く言葉を失う。不安そうに見守るリシャールとラウンデル。
「何をしておる、そなたらも食べんか!こんなうまい『豚の煮込』があるのに、白麦酒がからではないか、グリムワルド!」
「おお、そうだった!おい、もう一杯だ!」
三番街、アルキュイ―――
午後四時十分―――
宴が始まって四十分が過ぎた。オープンエアで行われていたバーベキューも一段落したようで、食欲を満たした若い傭兵たちは酒の方にシフトしていた。といって、大騒ぎしたり暴れたりするものはなく、和気藹々という雰囲気であった。いつものD・S隊のノリから行くと、非常に「上品」で「大人しい」宴会であったと言えよう。それでも、前日の堅苦しい式典に辟易していたソルフィーの機嫌がよかったことは言うまでもない。
カウンターで温かい煮込料理を食べながら、ルビー色の赤ワインを一口飲むと、リーシェはミシェルに言う。
「先生がここを気に入って下さって、よかった」
「ほんとに」
ミシェルは頷く。リーシェはミシェルの前のグラスにもワインを注いでやると、小さく乾杯した。
「煮込が絶品だね。この酒にぴったりだ」
「オスティアの赤ワインなの。東方の肉に、東方のワイン———」
「地元で愛されてる組み合わせってことね」
ラーリアも頷く。そこに、ラウンデルが回って来た。
「カウンターは、今日は平和だな」
「おいしい食べ物と、おいしい酒のおかげさ」
リーシェはラウンデルにも酒を注ぐ。ラウンデルはリーシェのフォークで肉を一口食べると、こうでなくては。とひとこと言って、大テーブルに戻っていく。
その時。
「ご亭主、『アルキュイ』はここじゃな」
恰幅のいい、身なりの良い初老の男が店主に言う。然様で、とにこやかに答える店主。その客の方を振り向いたラウンデルとリシャールが、仰天して叫ぶ。
「陛下!?」
店中がしん、と静まり返る。
やって来たのは、誰あろう、エルフィア王国国王トーラスⅢ世その人であった。
「お父様、一人で先に走って行かないで!」「そうですよあなた、もう少しゆっくり歩いてくださいな」
後ろから同様に町娘とおかみといったいでたちの、シャルロット姫と王妃が現れた。
「なんと、陛下!」
ソルフィーはさすがに、酔いが醒めた…という表情で席を立つ。それを、両手で王は制した。
「そのままそのまま…今日は、ここには忍びで参ったのじゃ。皆そのまま続けるのじゃ」
「とにかくこちらに」
といってリシャールが席を立つ。リーシェはミシェルに目配せをした。ミシェルは心得た、というように、リシャールを呼ぶ。
「リシャール、こちらへ。テーブル分けましょ」
「え、ああ」
「じゃ、僕らもそちらへ」「ええ」
リーシェとラーリアは互いに目配せをして、六人掛けのテーブルに席を移す。ラーリアがシャルロット姫を呼ぶ。
「姫様、こちらで一緒にやりませんか」
「ラーリア、ありがとう!お父様、私はあちらへ」
トーラスⅢ世はちら、と新しくできたテーブルを眺める。彼は無言で娘に頷いて見せた。リシャールが席を移り、空いた場所に王が陣取る。その側に、王妃が座を占めた。
「剣聖殿、お邪魔いたす」
「ここの食べ物はみな絶品ですぞ、陛下」
ソルフィーはにこにこして言う。
「まずは東方の白麦酒から参りましょうか」
グリムワルドはやる気満々である。
「面白え、王様と一緒に飲めるなんて、滅多にないぞ!」
「これは豪傑だな、そなた名はなんと?」
「おお、これはこれは…D・S隊副長、クラム・グリムワルド、初めて御意を得ます」
グリムワルドはやって来た大ジョッキを片手で上げ、
「両陛下と姫殿下のご健康に、乾杯!」
と声を張り上げた。店のあちらこちらで、唱和の声が上がり、グラスがぶつかる。
「大テーブルは賑やかだな」
リーシェはさらに活気づいた大テーブルを眺めながら言う。彼の両隣に、ラーリアとミシェルが座っていた。店主がやって来る。
「忙しいところ申し訳ないけど、暫くミシェルにここにいてほしいんだ」
「構わんよ、リーシェ。だが粗相をしたら、うんと叱ってやってくれ」
「ありがとう、お父さん」
ミシェルは店主に言う。しっかりおススメしろよ、と笑うと、店主は奥に消えていった。ミシェルはウェイトレスの一人に、バレスティア産の白ワインを二本、と言いつける。かしこまりました、と応じて、ウェイトレスはすぐに白ワインを運んでくる。五人は白ワインで乾杯した。
「『豚の煮込』はまだあるかな」
ウェイトレスは頷く。
「かなり大量に仕込みましたので、大丈夫です」
「でも、大分出たでしょ」
ミシェルの言葉に、ウェイトレスは頷く。
「ですが、必ず確保してきます。大テーブルからおかわりが来る前に!」
そう言うと、彼女は厨房に消えた。二分もせずに、大皿に豚の煮込を乗せて、五人が待つテーブルに彼女は戻って来た。
「良くやってくれた。こいつはご褒美だよ」
リーシェはフローリン金貨を一枚、彼女に手渡す。ウェイトレスはリーシェの左頬にキスをしてテーブルを離れていった。
「白麦酒だけじゃなくて、このワインともものすごく合うわよね」
ラーリアは柔らかい肉を口にして言う。同じようにしたシャルロット姫が、驚きの声を上げる。
「柔らかい!…口の中で溶けるみたい…」
リーシェは笑って、シャルロット姫に言う。
「そこでお酒を一口、です」
言われるままにシャルロット姫はワインを口にする。彼女の顔が、明るい笑みで満たされる。
「おいしいです、リーシェ様」
リシャールはいそいそと、シャルロット姫の皿に肉を取り分けてやる。リーシェはミシェルにも肉を取り分けると、お疲れ様、とひとこと言う。
「だいぶ無理な注文も多いだろうから、厨房は大変だろう」
「そんなことはないですよ。むしろ、予想よりだいぶおとなしいかな、って感じ」
ラーリアはミシェルの言葉に店内を眺めながら言う。
「そう言えば、外の連中も、楽しそうだけど、大暴れしてないしね」
「こんなに上品な宴会も、珍しいもんだ」
リシャールも感心したように言う。
「普段はもっとワイルドなんだ」
シャルロット姫は、リシャールの側に寄り添ってグラスを傾ける。
「やっと、ゆっくりお側にいられる時が来たわ」
「飲み過ぎはダメですよ」
リシャールはそう言った。が、ラーリアは姫のグラスにバレスティア産のワインを注ぐ。
「ありがとう、ラーリア」
「よかったですね姫様。ようこそオストブルクへ。お待ちしてました」
「あなたともお話したかったのよ、ラーリア」
ミシェルはシャルロット姫と親しげに話をするラーリアを、びっくりして見ていた。リーシェがミシェルに言う。
「驚いた?」
「ええ。王女様がリシャールをお好きだ、とは聞いていたけど、ラーリアとこんなに親しいなんて…」
シャルロット姫はミシェルに言う。
「このお店の看板娘さん、ですね。お名前は?」
「ミシェルと申します。」
シャルロット姫は、ミシェルに野営地での襲撃と、三人が命がけで彼女を庇って戦ったことを話した。
リシャールが魔戦将軍フィルカスと一騎打ちをしたこと。
駆けつけたリーシェが、その技でフィルカスを圧倒したこと。
リシャールとラーリアが、黒死剣の悪霊を何匹も倒したこと。
リシャールの制止を聞かずに天幕を飛び出した自分を、フィルカスが狙ったこと。
名高い「黒死剣」の悪霊に襲われた自分を、リシャールが自分の命を盾にして護ろうとしたこと。
そのために危機に陥ったリシャールの身に巣食った悪霊を、リーシェが自分の血で呼び寄せ、身代わりになったこと。
リーシェが力尽きそうになった時、剣聖ソルフィーが現れ、悪霊を滅してリーシェを救ったこと…。
「本当に、危ないところだったんだ」
リーシェはそれだけ言うと、グラスを一気に干す。
「リーシェ様がいなければ、私は死んでいましたわ」
シャルロット姫は改めてリーシェに頭を下げる。リーシェは首を横に振る。
「殿下は、リシャールが想いを寄せる方。僕にとって、他に命を懸ける理由は要らないのです」
「リーシェ」
リーシェはリシャールに言う。
「君も先生から、直々にご教授をいただいたんだ。だから僕らはいわば兄弟なのさ」
「ありがとう、リーシェ」
ミシェルはリーシェのグラスにワインを注ぐ。
「無理はしないでね、リーシェ」
「ありがとうミシェル」
王妃は最後の豚の煮込を食べ終え、ナプキンで口を押さえると、
「それにしても、あちらは楽しそうですわね、あなた」
と王に言う。言われた王や、ラウンデル、ソルフィーとグリムワルド、それにジェットも頷く。
「俺は老け込む気は毛頭ありませんがね」
ジェットはそう前置きしたうえで、王の皿にも肉を取り分けながら、
「若い連中が仲良く飲んでるのを見るのが、なんだか凄く嬉しいんすよ」
「ジェットの言うことはもっともじゃ」
王はジェットのグラスにオスティア産の赤ワインを注ぐ。どうも、と礼を言ってジェットは一口ワインを飲む。
「何より、お姫さんがあんなに嬉しそうにしてらっしゃるのが、たまらねえ。」
そう言ってジェットは一気にグラスを干す。
「―――あそこで戦った甲斐があったってもんだ」
グリムワルドはジェットのグラスに酒を満たす。
「よく命があったな」
「お前がいれば、もう少し楽だったんだろうが―――」
ジェットはグリムワルドのグラスにも酒を注ぐ。
ソルフィーはしみじみ言う。
「ま、何にせよ若い者たちが和気藹々と楽しくやってくれるのはいいことじゃ」
「おや、ジェットだけじゃなくて、リーシェのお師匠様まで。そんな年寄りくさいこと言いっこなしだ。俺たちだってまだまだ若いじゃねえか」
グリムワルドの言葉に、ラウンデルがビクリ!と反応する。明るい表情でグリムワルドに、それもそうじゃな、と応じたソルフィーが、そのラウンデルの反応に気付いた。
「どうしたのじゃ、ラウンデル。顔色が悪いぞ」
「い、いえ…なんでもございません」
「なにをびくびくしておるのじゃ。」
「は、はい」
ソルフィーはラウンデルに言う。
「…大方、私の前で年齢の話をするな、とか言いたいのであろう?」
図星を指されてラウンデルは肩を竦める。
「ほんとに、そなたはいくつになっても小賢しい…。いらぬ気を使わんでよろしい。却って無礼じゃ」
「は、申し訳ございません」
グリムワルドはきょとんとしている。ソルフィーは苦笑しながら、エルフである自分の年齢が、見た目よりもはるかに上であることを告げる。
「じゃあ、あちこちでいろんな修羅場、潜って来たんだろうな…やっぱりすげえや」
「そなたも、この東方で沢山戦ってきたようじゃな」
「やっぱり、分かるんだな。さすがはリーシェのお師匠さんだ」
午後五時―――
アルキュイでの宴は一段落した。というより、D・S隊をはじめとするお客たちが満腹になった、という方が正しいであろう。ソルフィーや王、そして王妃はこの店の居心地の良さが気に入ったようで、そのままチーズと食後酒を楽しみながら大テーブルで談笑していた。D・S隊の平隊士たちはかわるがわる王の元に挨拶に行き、三々五々店を出ていく。
「とりあえず、一次会の分はこれで〆だ」
「いつもすまんな、ラウンデル」
店主がそう言って金袋を受け取る。何の、とラウンデルが答える。
「ここで隊の宴会をするときは、全てラウンデルの支払いなんです」
グリムワルドがソルフィーと王に言う。王は頷く。
「いつもこれでは、ラウンデルも大変じゃな」
「私に出来るのは、これくらいですから」
ソルフィーはバレスティア産の葡萄酒で作ったブランデーを一口含むと、満足げに言う。
「そちの言葉に偽りはなかった。前菜、小麦麺からチーズまで、そして酒も含めて、全て良い」
「ありがとうございます」
「東方におる間、ここに通うことになりそうじゃ」
ソルフィーはそう言って店内を眺める。彼女はリーシェやリシャールとシャルロット姫のいるテーブルの方を眺める。そのテーブルの周りに、若い隊員が数名と、同じくらいの数の女たちが集まっている。見ればリーシェがリュートを爪弾き、静かな小夜曲を奏でていた。
「―――これも、ここのいつもの風景です」
「素敵ですわね、あなた」
王妃はリーシェのリュートを賞賛する。王も頷いて、聞き耳を立てる。曲が終わると、傭兵たちや女達からリーシェに心づけの銀貨が沢山送られる。リーシェはいつものようにそれを受けず、ミシェルに渡すように言う。ミシェルはその銀貨で、皆に新しいブランデーを振る舞うのであった。
「あちらで一緒に聴かんか。邪魔にならんように」
「そうしましょう」「ご一緒します」
王と王妃、ソルフィーは少し外側のテーブルに腰を下ろす。ラウンデルがブランデーとチーズの皿を持って移動する。グリムワルドは、カウンター席に移動し、そこからリーシェの横顔を眺めた。ジェットがブランデーのグラスを片手に、グリムワルドの隣に座る。
リーシェはリュートの弦を合わせ、弾き語りを始めた。
北の外れ最果ての 暗黒の火の山
煙たなびくその山を 人は呼ぶガルバリアと―――
ガルバリア山に住む、魔竜ヴォルガスと、それを退治した賢者サイファーの英雄譚である。
リーシェの声は静かに、そして慈しみにあふれていた。
しかしひとたび魔竜が現れると、それはその強大な力と恐ろしい吐息―――浴びた者を全て石に変えてしまう―――を歌う際には、聴く者の心を恐怖で凍らせるような歌声に変わる。
愛する者を護るため、命を懸けてヴォルガスに挑む賢者サイファー。
力のみでなく、知恵を振り絞ってヴォルガスと対峙する賢者サイファー。
彼はヴォルガスに風の魔法で対抗し、吐息を逆流させてヴォルガスを石に変えてしまう。苦しむヴォルガスの最後の一撃で、両者は共にガルバリアの火口に落ち、業火によって命を落とす。しかし、サイファーは自らの命を盾にして、民衆を魔竜から救ったのであった。
聴衆の心に、彼の歌は染み渡っていった。歌い終えると、彼は静かにリュートを置く。ミシェルが彼のグラスに酒を注ぐ。リーシェは一口飲むと、ミシェルに目配せする。口を湿らせると、リーシェは軽く明るい曲をサラサラと弾きながら、もう少し飲もうか、という。手際よく、ミシェルが皆に飲み物を配っていく。
美しい娘が二人、リーシェに歩み寄る。スィスティアとエミリアであった。二人はリーシェに口づけをし、また寄ってね、と言うと店を出て行った。リーシェは曲を弾き終えると、席を立ちリシャールと姫の座るテーブルに戻っていた。そのリーシェを、ソルフィーが呼び止める。
「そろそろこちらに来ぬか、リーシェ、リシャール、ラーリア。…陛下がお話があるそうじゃ」
リーシェは席を立ち、ソルフィーの隣に座る。ラーリア、リシャールがその隣に並んで座った。
不安そうな表情を見せながら、シャルロット姫もリシャールの隣に座る。
「相変わらず、見事なものじゃ、リーシェ殿」
リーシェは一礼する。そして、王に切り出した。
「陛下、私共にお話とは」
「うむ」
王は頷くと、話し始めた。
「改めて、そなた達三名を、余の近衛騎士として召抱えたく思うのじゃが―――」
飲み物を運んできたミシェルの顔色が、その一瞬で蒼白になる。
対照的に、リシャールの側にいたシャルロット姫のほほは、薔薇色に染まった。
「ご存念をお聞かせください」
リーシェは否とも応とも言わず、王に尋ねる。
「存念とは」
リーシェは王に言う。
「このお話、ラウンデル師兄は存知のことでしょうか」
王は頷く。
「東方の守りは、いかがなさいましょうか」
リーシェは言う。
ここに傭兵隊D・Sあればこそ、ウィルクスはここを攻めることをためらいます。現状の戦力があれば、ウィルクスのアルファナイツの長、マウ・ルフ・ロディールもここには寄せてきません。裏を返せば、我々がここを離れれば、何らかの形でウィルクス軍が蠢動してくることは避けられません。それへの対処を誤れば、この街を失陥することになり、国にとって大きな損失であるかと考えます。
「それ故そなたは、王都に向かわず、直接ここでラウンデルの配下に入ることを選んだのじゃな」
ソルフィーの言葉に、リーシェは頷く。
「正規騎士の振舞いが、気に入らなかったこともありますが」
王はリーシェの話をじっと聞いている。
「もう一つ。近衛騎士の位をお受けする件は良いとして、現在の近衛騎士団の面々が、「近衛」にふさわしい腕と人格を、備えておりましょうか。」
王は口籠る。
「師の手紙の通り、私を近衛騎士団の指南役に、とおっしゃるのであれば、お受けするに二つの条件がございます
「申されよ、リーシェ殿」
王はリーシェに言う。
「されば―――」