転戦、北部辺境
(42)
十一月十日…
聖十字教国、聖都ロードポリス
聖ヴルム大聖堂…
エルフィアからの援軍を率いて、リーシェはロードポリスに達した。
ウィルクスの魔導軍の奇襲を食い止めたことに、教皇ヨハネス十二世は安堵の表情を見せていた。
「お許しください、台下」
リーシェは深々と頭を下げ、ヨハネス十二世の前に跪く。
「大切な聖十字教国の民の家や土地を、焦土作戦の為に犠牲にせざるを得ませんでした。彼らの悲しみ、いかばかりでありましょう…」
ヨハネス十二世はリーシェの手を取る。
「それでも、そなた達エルフィアの最精鋭が来てくれたおかげで、敵の侵攻を止めることができたのじゃ。民の暮らしが立つように、我らが必ず援助しよう。安心されよ、リーシェ殿」
バーランダー枢機卿がリーシェに慈しみの目を向ける。アンヴィル枢機卿が嘆息して言う。
「誠、リーシェ殿は優しい」
ヨハネス十二世は頷く。
「マリューも言っておったと思うが、我、ヨハネス十二世は主の御名と十字架にかけて、そなたの意に添わぬ虐殺はもう二度とさせぬ」
リーシェは深々と頭を下げる。聖都に残っている宮殿騎士達が、一斉にリーシェに対して美しい騎士礼を取る。
リーシェと共に謁見に臨んでいた近衛騎士百名のうち、既にリーシェと聖十字教国の結びつきについて知っているグリムワルドやギュンターは別として、その他の近衛騎士達は、一国の宮廷からこれだけの敬意を払われるリーシェの姿に、改めて畏敬の念を強くするのであった。
「台下、私共が此度こちらに参りましたのは、友好国である聖十字教国の民を守り、共に栄える為でございます。東方の戦は、我が義兄マリュー枢機卿猊下と、オルヴィエート殿にお任せいたしましたが、それで終わりではございません」
ヨハネス十二世の顔に、憂いの色が張り付く。教皇に代わり、バーランダー枢機卿が口を開く。
「―――確かに、我が国は今…北方の蛮族に悩まされておる」
「先の東方での戦では、アンヴィル枢機卿猊下、そしてわが友であるフィッツジェラルド子爵サイモン殿にもお助け頂きました。そのご恩、少しでもお返しせねば」
北方に出陣し、南下を企む蛮族を駆逐する。
改めてその意思を示したリーシェの言葉に、聖堂のあちこちでため息が漏れる。
ヨハネス十二世は、やるせなさそうな表情を浮かべる。
クリスティンは心配そうにリーシェの後姿を見つめた。
なぜ、聖十字教国の方々は、我々が辺境に出陣することに対し、こんなにも切なそうな、やるせない表情をなさるのだろう?我々は、先に聖十字教国が東方の戦で助力してくれたことのいわば「借り」を返しに来ているだけなのに…
彼女の疑問と心配は、次に口を開いた女賢者の言葉で氷解した。
「エッシェントゥルフ侯…いえ、リーシェ」
リーシェは声の方に振り向く。サイモンの妻、アレクサンドラ・アルスーフ・フィッツジェラルドが口を開いた。
「私たちは、貴方を北方に行かせたくないわ。あの時…私たち聖十字教国の力が足りなかったばかりに、あなたひとりに何千人もの蛮族を殺させ、彼らの恨みを押し付け…私たちはあなたの心を壊してしまった」
ヨハネス十二世はアレクサンドラの言葉に深く頷く。それを確認して、アレクサンドラは言葉を続ける。
「人一倍優しいあなたが、心の中で血の涙を流しながら、ひとりで何千人も蛮族を殺し続けたこと…あなたがこの国を護る為に、敢えて北方で悪名を被り、その手を血に塗れさせたこと…」
アレクサンドラは言葉を切る。彼女は目を閉じて数秒、じっと思いをかみしめる。
「私たち聖十字教国の民は、そのことを忘れていないわ…。もうあんな思いを、あなたに二度とさせたくない」
初めてその話を聞いたエルフィアの近衛騎士達は驚愕の表情を浮かべる。その表情を見たヨハネス十二世が、苦笑しながらリーシェに尋ねる。
「済まぬな、リーシェ殿。そなた、部下たちにはこのことを伏せておったのか」
リーシェもヨハネス十二世の言葉に後ろを振り返る。百名の騎士達は、リーシェがそれほどの敵をひとりで倒したことに、驚きの表情を隠せなかった。
ヨハネス十二世は、リーシェが十二歳の時に、北方で従軍した時の話をして聞かせた。
この聖ヴルム宮殿の地下にある武器庫で、「蒼の剣」を手に入れた時の話も…
「我らは、そなたにあの時のような苦しみを、強いたくはない…」
リーシェはヨハネス十二世の前に深々と首を垂れる。
「あの時、そなたはまだ十二歳であった…ほんの少年であったな。」
「台下」
ヨハネス十二世はリーシェをじっと見る。
「…私も…あの時よりは、年齢を重ねました」
「お互い様だな」
「御意」
リーシェはそこで言葉を切る。息を整え、彼はこう言った。
「仮にもう一度あれをやらねばならないとしても、私は北方に出征いたします」
心配そうに口を開こうとしたアレクサンドラを、リーシェは手で制し、言葉を続ける。
「それに、此度は私ひとりではございません。信頼に足る、わが精鋭百名あれば、私が直接手を下さずとも、一万や二万の蛮族なぞ恐れるに足りません」
リーシェは側にいるグリムワルドに微笑みかける。
「…我が信頼する友、アルトワ公爵グリムワルド…彼の腕前を覚えておいでの方も、いらっしゃいましょう」
グリムワルドはリーシェに頷き返す。
「リーシェの申し上げる通り。私一人でも、大勢引き受けますぞ」
リーシェは自分の後に続く騎士達に、起立を命じる。
「台下、我らにお命じ下さい。北辺に赴き、ヴァルス侯爵殿をお助けせよ、と」
百名の近衛騎士達が、一斉に騎士礼を取る。
「台下」
その時、聖十字教国の宮殿騎士の一人が、二歩進み出て跪く。
「私が、共に出陣いたしますことをお許し下さい」
声の方を皆が見る。リーシェの表情に、喜びの色が浮かんだ。
「ベルンハルト!」
「閣下、お久しぶりにございます」
ヨハネス十二世はベルンハルトに言う。
「そなたには学院での勉強が、まだ残っておろう」
「戦から戻りましてから、学習を続けます」
彼は教皇になおも訴える。
「両国のご恩を頂いている私が、何もせずにいることはできかねます」
ヨハネス十二世はバーランダーとアンヴィルを見る。二人は頷いた。
「…よかろう、ベルンハルト・パルムグレン。リーシェ殿をお助けし、北辺を鎮め、蛮族を追い散らして来るのじゃ。」
「御意。閣下のお手を、煩わせることの無いように致します」
ベルンハルトは立ち上がり、リーシェに向かって騎士礼を取る。
「心強いよ、ベルンハルト」
ベルンハルトはエルフィア側の百名を見て、こう言った。
「…第一、第三両中隊ですか。剣の腕は最精鋭ですが、魔法兵力が不安ですね」
「分かるか」
「ええ」
その言葉に、サイモンとアレクサンドラが進み出る。
「リーシェ、我々も行こう」
「私も出るわ」
リーシェは二人に頭を下げる。
「二人が来てくれれば、もう何の不安もございません」
ヨハネス十二世は頷く。
「忝い。エルフィア王国近衛騎士団長、エッシェントゥルフ侯爵リーシェ殿」
「は」
「そなたを北方派遣軍の軍団長に任ずる。我と我が名の下、必要な糧秣、軍事物資の補給の権限を、そなたに与える」
「御意」
「サイモン、実務はそなたとアレクサンドラに任せるぞ」
「かしこまりました」
「御意、猊下」
リーシェは立ち上がる。ヨハネス十二世はリーシェに言う。
「とはいえ、本日はもう夕方じゃ。そなたの部下を、一晩休ませてから出陣するが良かろう」
「台下の仰せの通りじゃ」
バーランダーも口添えする。
「そなた一人で出陣させると、この寒空に夜通し馬を駆け、あっという間に北辺に飛んで行くのであろうが…部下たちは皆、そなたと同じことができるわけではない」
リーシェは苦笑する。
「一晩、ご厄介になります」
「それよ」
バーランダーはアンヴィルに命じる。
「アンヴィル枢機卿、支度は整っておろうな」
アンヴィルは大いに頷く。
「既に騎兵の皆様には、宿営にお入り頂き、お食事を」
リーシェはアンヴィルに礼を言う。
「ご配慮、ありがとうございます」
「何の、この程度のこと。…それより、近衛騎士の皆様には、今宵はお付き合いいただきますぞ」
「出陣に影響のない程度に、であれば」
リーシェは笑って言う。グリムワルドが小さく口笛を吹く。
「グリムワルド、深酒はダメだよ」
「分かってる」
二人の会話に、ヨハネス十二世や枢機卿達は笑う。
聖ヴルム宮殿、アウグスト離宮
「ああ、生き返るぜ」
グリムワルドは陶器のジョッキで、ルビー色のワインを一気に飲み干すと、満足そうにそう言った。ヨハネス十二世は目を丸くする。
「アルトワ公は、誠豪傑であられるな」
リーシェとアンヴィルは顔を見合わせて苦笑する。
「どうしたのじゃ、二人とも」
ヨハネス十二世は二人の表情に、いぶかしげに言う。
「いえ、台下」
アンヴィル枢機卿は笑って言う。
「グリムワルド殿は今宵は、少しお酒を控えめに…とお考えの様だな、と思いまして」
「流石はアンヴィル殿」
得たり、という顔でグリムワルドが頷く。
「先程リーシェに『深酒し過ぎるな』と言われましたからな」
バーランダー枢機卿もその言葉に成程…と頷く。
グリムワルドが手にしていたジョッキは、心なしか小さめのものであった。彼は牛タンの薄切りに塩胡椒を振って、網焼きにした物を串から頬張ると、満足げに頷く。
「…今回の敵は、四万…そうおっしゃったか」
グリムワルドはバーランダー枢機卿に尋ねる。
バーランダーは頷く。
蛮族は、北西の針葉樹の森を中心に狩猟生活をしているグルヴェイグ族を中心とし、かつて北方で隆盛を誇ったズアーヴ族やツチ族、イボロ族等、好戦的な部族が集まっていた。
特にズアーヴ族は、聖十字教国とエルフィア王国に非常な敵愾心を抱いており、ウィルクス軍に傭兵としてその身を投じるものが非常に多かった。北方は物成が悪く、少しでも冷害があれば食料に事欠き、餓死者も出るような有様であった。そんな中を生き延び、幾度も立ち上がり、戦いを挑んで来る彼らの執念と生命力に、聖十字教国は手を焼いていた。
「非戦闘員は帯同しているのか」
グリムワルドの目は既に笑っていない。バーランダーは頷く。
「かつて非戦闘員ごと移動して来た時に、我らが容赦なく攻撃をかけ、移動して来た者達をほぼ殲滅したことがあった。その経験ゆえか、ズアーヴ族やツチ族は戦闘員と輜重隊だけで侵攻してくることがほとんどじゃ」
リーシェはバーランダーに尋ねる。
「グルヴェイグの兵の練度は、いかばかりでありましょう」
「ズアーヴ族の精鋭程ではなかろうが、ヴァルス侯爵が手こずっておることを考えると――」
リーシェは頷く。クリスティンが心配そうな顔をする。
「心配ない、クリスティン」
「しかし、リーシェ様」
リーシェはぐっと優しい顔になり、クリスティンに言う。
「グルヴェイグ族を見るのは、初めてだろう」
「はい」
「深入りせず、三人一組で戦うことを徹底することだ」
リーシェは既に全員に指示を出していた。
「それに僕を見れば、ズアーヴ族以外は…逃げるはずだ」
「なぜです」
リーシェは自嘲的な笑みを浮かべる。
「何といっても、連中にとって僕は『蒼の死神』だからね」
「魔法を使う奴は、いるのか」
グリムワルドのその問いにはアレクサンドラが答える。
「いると考える方が、よろしいと思います」
「賢者殿、どの程度の魔術師がいるとお考えに」
アレクサンドラはグリムワルドが続けて口にした問いに、こう答えた。
「大魔術を使ってくるものがおるかもしれません。しかし、私と夫がいれば、そうした魔法も封じることができますし、最悪ダメージを受けても、現地にも聖騎士や司祭・司教級の聖職者がおります。多少の傷なら、たちどころに癒してしまうことでしょう」
「成程、心強いな」
リーシェはグリムワルドに言う。
「蛮族たちは、斧や槍を好んで使う。でも、剣を好むものも少なくはないんだ。そして、剣は―――暗黒剣が好まれる」
剣を振るうと、悪霊が発生する…魔戦将軍フィルカスの「黒死剣」などがその最たるものだが、そこまでいかないにせよ暗黒剣の存在に、エルフィアの騎士達は緊張の色を浮かべる。
「みんな、死んではいけないよ」
リーシェは言う。
「生きて帰らないと、意味がないんだ」
グリムワルドはリーシェに言う。
「あれだけ受けを教えてくれたのは、この日のため…そうだよな、リーシェ」
リーシェは頷く。
「これをクリアすれば、フィルカスとやらせてくれるか」
グリムワルドは真顔で言う。
リーシェは苦笑してこう答えた。
「…司教以上の聖職者がいればね」
ベルンハルトが頷く。
「であれば、私が帯同すれば可能です」
「入信したのか」
リーシェは驚きの表情を見せる。
「じゃ、古代語と神聖魔法、どちらも」
アレクサンドラが微笑む。
「彼の魔力は、非常に高いわ、リーシェ」
リーシェは顔を綻ばせる。
「アレクサンドラが言うなら、本物だ」
「お力になります。その為に、学んだのですから」
リーシェは頷く。
翌朝…
リーシェ達エルフィアからの千騎は、聖十字教国から与えられた輜重隊と共に、北部辺境を目指して出発した。
既に雪がちらつく中、リーシェはかなりの速さで軍勢を進めた。
サイモンとアレクサンドラは、幾度か北方を経験していたが、リーシェの行軍速度に度肝を抜かれていた。サイモンが想定していた行軍速度を、リーシェはあっさりと上回っていた。それでいて一人の落伍者も出していない。馬が優秀なのか、乗り手が優れているのか。何れにしても、エルフィアの軽騎兵の速さに、二人はすっかり脱帽していた。
「すまない、リーシェ」
サイモンはリーシェに詫びる。輜重隊が付いてこられず、これ以上の進軍ができなくなったことに、リーシェは溜息をつく。
「こんなところだろうよ、リーシェ」
グリムワルドはリーシェを慰めるように言うが、リーシェは苛立ちを隠さなかった。
「…こうしている間に、ヴァルス侯が苦戦しているかもしれないんだ。ゆっくりしてはいられない」
アレクサンドラが天幕に入ってくる。
「まさか、ここまで速いとは想定してなかったわ」
リーシェはアレクサンドラを一瞥する。
「輜重隊からは、何と」
アレクサンドラは溜息をつく。
「これ以上だと、引き馬が持たない、と」
リーシェは無言で溜息をつく。アレクサンドラは身震いした。
「賢者様、どうなさったのです」
心配そうに声をかけるクリスティンに、アレクサンドラは苦笑して答える。
「あなたがたの御大将はね、いつも穏やかで優しい人だけれど…怒るとヴィシリエン一恐ろしい人なのよ」
リーシェは呆れ顔でアレクサンドラを見る。アレクサンドラはそれを横目で見ながら、続けた。
「私はここにいる皆の中で、それを最もよく知っている者のひとりだと思うわ」
リーシェはアレクサンドラに微笑みかける。
「フェリアを虐めたりするからだよ」
「リーシェ様、本当に?」
ベルンハルトが頷く。
「魔法学院で、聞いたことがあります。『死の雲』の呪文を、詠唱破棄の精霊魔法で封じた、とか」
「そんなことも、あったね」
アレクサンドラは笑って言う。
「兎に角、死ぬかと思ったのよ」
場の雰囲気が一頻り和む。
「ありがとう、アレクサンドラ」
リーシェは彼女がその話を敢えてしたことで、場を和ませようとしたことを悟った。
「ううん、それより行軍速度を気持ちでも落とせないかしら」
「…無理か、やはり」
リーシェの顔に落胆の色が浮かぶ。
「今でも、十分高速だよ」
サイモンが地図を広げる。
「ヴァルス侯爵の宿営までは、このペースでも後四日あれば着ける」
リーシェは憂いの色を顔に貼り付けて言う。
「…雪が本格的に来る前に、片付けたい」
「微妙な所ね」
サイモンが言う。彼の表情は固い。
「恐らく、敵には餓死者や凍死者が出る。その方が楽ではあるけれど」
「地獄絵図だね」
リーシェは頷く。
「こちらからの補給には、滞りはないが」
「それを狙って来る可能性はあるだろう、サイモン」
サイモンは頷いた。
「やむを得ない」
リーシェは行軍速度を、通常の強行軍(というのも、おかしな話なのだが)、即ち、通常速度の二倍にまで落とさせるように、というしじを出した。彼はまた、サイモンとアレクサンドラに、こちらが運んでいる輜重隊が沢山の物資を運んでいることを、噂として敵に流させるように依頼した。
それが何を意味するか、二人は理解していた。自分達の方に、蛮族軍を少しでも引きつけようというリーシェの意図を、二人はくんで動く腹を固めていた。
二日後…
北部辺境、オンタリア郊外…
北部の都市、ノルドバから北に歩兵で一日。
ヴァルス侯爵率いる聖十字教国軍は、この地に堅固な陣を敷き、蛮族を迎え撃っていた。
しかし、蛮族の兵は四万。ヴァルス侯爵率いるの兵は、宮殿騎士団が主力とはいえ、五千程。いかに何でも、動きようが無かった。
さらに悪いことには、蛮族はヴァルス侯爵の兵力が足りないことを、既に察知していた。
ノルドバに向かう街道が、切通しを通る隘路にあるこのオンタリアまで、ヴァルス侯爵は兵を進め、堅固な野営陣地を築いていた。二千で切通しを守り、他へ回り込もうとする動きがあれば、軽騎で牽制して、国境を越えての侵入を許さなかった。そのあたり、百戦錬磨のヴァルス侯爵ならではの戦略眼であったといえよう。
本営のヴァルス侯爵に、伝令が告げる。
「申し上げます」
「何か」
「は」
伝令の顔が、希望に輝く。
「サイモン卿と、奥方様が、エルフィアからの援軍と共に、こちらまで後二日の距離に近づいている、とのこと」
息を切らして報告した伝令は、しかしながらヴァルス侯爵の顔に張り付いた苦渋の表情を目の当たりにした。
「閣下、どうなさいましたか」
ヴァルス侯爵は溜息をつく。
「…報告、大儀である」
「はっ」
「前線の皆にすぐに知らせよ」
伝令は美しい敬礼をして、天幕を出て行った。
天幕にいた年嵩の宮殿騎士が、ヴァルス侯爵に言う。
「閣下、ご無念そうですな」
「できれば…お力をお借りしたくはなかった」
「そうですな」
ヴァルス侯爵は、蛮族の兵を追い散らして、血の海の中に佇む、少年だったリーシェの後姿を思い出す。
彼が両手に提げた二振りの「蒼の剣」は、血に塗れていた。
三百名ばかりの蛮族兵の屍の中で、立っていたのは彼、ただ一人。
それ以前にも数限りない蛮族をその手で討ち取っていた彼は、今でも全ての聖十字教国の民にとって、崇拝の対象の一つである。その段階でも、彼の後ろに続いていた宮殿騎士たちは、あの光景を決して忘れていないだろう。
彼が率いてくるのは、あのアルトワ公爵グリムワルドをはじめとする百名の近衛騎士に率いられた、エルフィアでも最精鋭といっていい軽騎兵千名。剣技はもちろん馬術や長柄、それに騎射にも巧みな兵ばかりを選りすぐった…そう、ヴァルス侯爵は話に聞いていた。
雪が少ないこともあるが、聖都ロードポリスからこの北辺までたったの四日で着くなど、尋常な速度ではない。馬をすべて潰すつもりか、とヴァルス侯爵は正気を疑ったが、話に聞くところではリーシェはそれでも行軍速度が遅いことに苛立ちを見せたということであった。確かに、彼一人で、駅馬を使って本気で走ればここまで丸二日で着くことも可能ではあろうが…輜重隊や土地に不案内な兵も引き連れて、では、普通なら一週間で着ければかなり速いといっていいくらいである。
「余程、苦戦していると思われたのであろうな」
ヴァルス侯爵は苦笑しつつそう言った。
「さよう」
声をかけられた宮殿騎士、トリエール司教ミトログルは頷く。
「いかんせん、我等には兵が足りませぬ」
「以前もそうであった。小数で、何倍もの蛮族たちを止めねばならぬ」
ミトログルはサイモンからの書簡をヴァルス侯爵に手渡す。
ヴァルス侯爵はゆっくりとその書簡に目を通す。
「…ゆゆしき問題じゃな」
ミトログルは頷く。
書簡には、サイモンが、なぜリーシェが全速力に近い速度でこちらに向かっているかについての説明が記されていた。リーシェが何を恐れ、それに対してどのように対処しようとしているか、が。
「成程、この作戦を取られたら、我らに打つ手はない。我が国の北部全土が、蛮族に蹂躙されよう」
「そうです、閣下」
ミトログルは頷く。
「この地域の冬小麦の生産にダメージがあれば、我らは飢えまする。また、北部辺境の各都市は、仮に囲まれて焼かれれば、我らを信じその傘下にとどまることをやめる可能性が」
「うむ」
ヴァルス侯爵はミトログルに命じた。
「屈強な軍馬を、至急三千用意させよ」
「三千、で」
「そのうち千は、エルフィア軍の替馬じゃ」
ミトログルはその言葉でヴァルス侯爵の意図を悟った。
「かしこまりました」
オンタリア近郊…
蛮族軍拠点、レーヴの森…
ズアーヴ族の宿営は、驚くほどに静かであった。
今回主力になっているグルヴェイグ族の宿営では、周辺の諸部族や集落から略奪された女たちや娘たちの悲鳴や、天を突くような男たちの雄叫び、勝鬨の声、笑い声や怒鳴り声などが満ち満ちている。多かれ少なかれ、他の部族の宿営も似たようなものであった。
しかし、その中でズアーヴ族の宿営だけは、薄気味悪いほどに静まり返っていた。
静まり返っていることと、士気が低いことは同義ではない。
各部族の手練たちは、皆気付いていた。
ズアーヴ族の陣営から放たれる、触れれば切れそうな程の殺気に。
グルヴェイグ族の長、ダンバコックは、左手に持った大きな杯の酒を軽々と飲み干すと、右手で持っていた肉片に噛り付く。器用に一口分を引き裂いて数回咀嚼すると、旨そうに飲み込む。彼は肉片を皿に置き、側で震えていた美しい女を右腕に抱え込む。
「…ボディヤ殿のお考えは分かった」
ダンバコックの前に、漆黒の上衣を纏った小柄な女が席を占めている。
「それほど危険な男か」
ボディヤと呼ばれた女は、小さく頷く。
「魔力の比較的高い混血とはいえ、大悪魔を一太刀で滅し、一人でグレーターデーモンと渡り合うことのできる男です」
そこでボディヤは目を伏せて言う。
「…わが兄二人も…あ奴の前に命を―――」
ダンバコックの天幕にいた人々が、固唾をのんでボディヤの言葉を待つ。
「私には、兄たちのような膂力はございません。しかし、私にはこれがあります」
彼女は床に置いていた長い杖を、膝の上に引き寄せる。
「ズアーヴの民の積年の恨み、必ず奴らに思い知らせてやりまする」
ダンバコックはボディヤの言葉に、黙って盃を渡す。
「俺の酒を、ボディヤ殿にも注げ」
彼は表情を改め、膝の上に引き寄せていた女にそう命じる。女が恐る恐る酒壺を手に、ボディヤの傍に歩み寄る。
「注ぐ量は考えろ。鯨飲馬食するそこらの馬鹿と一緒にするな」
「は、はい」
ダンバコックはボディヤについて来ていたズアーヴ族の重鎮二人に頭を下げる。
「すまぬな、だがこうしたことは形から入るのは大切だと思ってな」
「ダンバコック殿のご配慮、感謝いたします」
「同じ酒だ。俺が毒見すると思ってくれ」
ひとつの酒壺から、大盃と小さな盃に、ルビー色の葡萄酒が注がれる。
「願わくば、こうして奴らの血を共に啜らんことを」
ダンバコックはそう言って、ボディヤが両手で捧げ持つ小さな盃に、自分の盃をそっと触れる。
「グルヴェイグ族に栄えあらんことを…われら北方の民に、勝利を」
ボディヤはダンバコックの盃にそっと自分の盃をふれて、満たされた葡萄酒を見事に飲み干す。おお…!と天幕にいたグルヴェイグ族の男たちから称賛の声が上がる。
「お見事だ。…ズアーヴ族の力、頼りにしている、ボディヤ殿」
「ダンバコック殿、明日の戦もよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
ボディヤと、彼女について来ていたズアーヴ族の重鎮二人が席を立つ。
ダンバコックは傍らに控えていた息子の一人、デボンに言う。
「お三方を、宿営までお送りせよ。失礼のないようにするのだ」
「かしこまりました、父上」
程なくデボンは数名の兵と共に、松明を持ち、前後を隙無く固めてズアーヴ族の宿営に向け、ボディヤの一行を送っていった。
「いい女だったな、兄者」
ダンバコックは声の方に顔を向ける。彼の弟、ゾショーが舌なめずりをする。
「兄者の女にするかと、思ったぜ」
ダンバコックは表情も変えずに答える。
「負けたければ、そうしろ」
「?」
「味方に数少ないドゥルイデスだ…女にすれば、魔力を失う」
「わかってらあ、そんなこたあ」
ゾショーは一口酒を飲むと、
「…だから、惜しいと思ってんじゃねえか」
ダンバコックはゾショーに言う。
「ズアーヴの民は恨みを晴らすためなら何でもやる。向こうもこっちを利用するだろうが―――」
ダンバコックは肉をひと齧りすると、
「―――それは俺とて同じことだ。連中をせいぜい利用してやるとするさ」
ズアーヴ族の宿営では、屈強な戦士たちが整列して、ボディヤの帰りを待っていた。
「おかえりなさいませ、ボディヤ様」
戦士たちは口々にボディヤにそう言い、深々と礼をする。
「デボン殿、ここで結構です。お父上によろしくお伝えくださいませ」
「ではまた、戦場にて」
デボンはボディヤに一礼すると、部下たちをまとめて元来た道を引き返していった。
ボディヤは自らの天幕に戻った。
「ご苦労様でした、姫様」
同行していた重鎮の一人がボディヤに言う。
「構いません、目的は果たしました」
ボディヤはフードを外して顔をあらわにする。
「それより、敵の動きは」
「エルフィアの援軍は、明日にはオンタリアに入ってくるようです」
「相変わらず、風のよう…」
ボディヤは表情を変えずに言う。
「だいぶ、速いですな」
「そうね…」
ボディヤは地図を見ながら言う。
「でも、私の想定の範囲だわ…残念ながら、想定の中では最悪の状況だけれど」
「策は、おありなのですね」
ボディヤは屈強そうな女戦士の言葉に、力強く頷く。
「なければ、あなたたちを連れて出陣したりしないわ」
彼女は二秒ほど目を閉じ、…そしてその目を見開くと、こう命じた。
「周辺の聖十字教徒から奪ってきた中で、まだ処女である娘を三人、至急本営に連れて来なさい」
彼女の声には、反攻を許さぬ厳しさがあった。
「皆、手を付けてしまっていたら―――?」
ボディヤが厳しく言う。
「処女を三人、略奪して来るのです」
ズアーヴ族の屈強な戦士たちは、その場に跪いた。
「仮に条件を満たさぬものを偽って連れて来れば、私の術はその者に跳ね返るでしょう…死にたくなければ、わが言葉に従い、わが言葉を満たしなさい」
ボディヤの言葉は、既に彼女の言葉ではなかった。彼女の身体が、漆黒の気を放つ。
「…我が言葉は魔王の眷属、グワルダルガの言葉である…」




