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九十八話

 ぼくは美雪ちゃんの言葉を胸に刻み、駆け出した。足を速めたのは、自分を鼓舞する為だ。緩く歩いていれば、世に蔓延る倫理観というものに囚われ、足を止めてしまいそうになりそうだから。

 ぼくは、ジョギングくらいのペースで淡々と、自分の鼓動に合わせるように手足を動かした。落ち着かせようと、努めた。こんなの大したことじゃないと、自分に言い聞かせて。

「…………」

 息が切れないように、ぼくは小さく深く呼吸を繰り返した。まともじゃない。普通じゃない。だけどぼくは美雪ちゃんみたいに血相変えることもなく、動転することもなく、ただ冷静に自分がすべきことを行えていた。

 ぼくは。

 いまこそ。

 本当の自分に、なれた気がした。

「……輿水さん」

 声が、口から漏れた。求めていた。ぼくは、彼女を。出逢いは、必然だったんだ。惹かれ合うのも、当然だったんだ。

 ぼくらは同じ、領域の人間だった。

「――――」

 カンカンカン、という硬い音だけを聞いていた。螺旋階段なんて、見るのも上るのも初めてだった。洋式だな、と風雅だな、なんて感じていた。カンカンカン、響く音は、ぼくの胸に安らぎを与えていた。非日常、常識の外、隔絶された世界。

 自由に振舞える、世界。

 これが――

「土星」

 ふとした呟きに、ぼくは目線を上げた。

 あと、キミまで大きく迂回しての100段、距離にして30メートル弱といったところだろうか。全力で走れば、10秒も掛からないかもしれない。

 だけどそこに隔たる道は、いまだ途方もなく高いように思えた。

「まずは、声を……え、えほん。輿水さん。本日はお日柄もよく、ご機嫌麗しゅう」

 ぼくは大仰に、一礼した。それに未だ遠い輿水さんは、微かに頬を緩めた気がした。

 光栄だ、と背筋が痺れた。

「では、これより参らせていただきます。少々お待ちを、姫――」

「土星が、好き。ドーナツのリングみたいに、いつもゴミが漂ってて、寂しいもの同士、役に立たないもの同士寄り添ってるみたいで……切なくて……」

 ふと。

 切なくなった。

「…………」

 ぼくは所詮、彼女の瞳には写っていない。なのにぼくの方は、彼女の姿を捉えている。

 そして他のみんなは、一体?

 透明人間。

「…………」

 ぼくが彼女のことを、自分の狭い杓子でしか捉えていなかったことが明るみになり、なんだか恥ずかしい気持ちになってきていた。

 そして同時に、そんな過去に囚われる必要性も、感じなくなってきていた。

「貝になりたい、っていう映画があったっけな……わたしは、なにになりたいだろう? ゴミになりたいっていえばそうかもしれないけど……いやそれは違うや。わたしはゴミだから、でももっとマシになりたいかといえばそうでもなくて……あー難しいな、うん、あえていえば……あえてが出ないや、ハハ」

 彼女は、とても、伸び伸びしていた。

 周囲や常識やこうあるべきという期待にも囚われず、自由に。

 ぼくも徐々に、気にする馬鹿馬鹿しさに気づき始めていた。

「なんだろうな……ぼくなんかは、雲? になりたいかな。自由で、気ままで……でも太陽や大気に左右されるから、そうでもないかも? だとするなら、そうだな……水、とか、かな?」

「川より、海より、雨が好きです。ただザァ、と降って、流れて、落ちて、混ざって、」

「溶け合って……」

「何者にも、ならなくなって――」


『消える』


 いま。

 シンクロした。彼女と。そして気づいた。いまぼくは、なんの自覚もなかった。考えているとも、喋っているとも。ほとんどもうそれは一人でいる時、よりも、もっとこう――

「…………」

 そこでぼくは、ふと疎ましさを感じた。

 端的にいって、言語化する無意味さを知った。

 だからぼくは、あとは無言で階段を上っていった。カンカンカン、と無機質な音は心地いい。気持ちが凪のように、穏やかになっていく。すべてが、澄んでいく。

 純化、されていく。

 なにか、話そうとした。

「…………」

 だけど口からは、なにも出されることはなかった。想いが、形にならなくてもよかった。常識に囚われなくても、よかった。

 カンカンカン、と階段を上っていく。もうぼくは、距離を測っていなかった。だってもう、目に見えるソレは関係なかったから。

「さぁ、」

 輿水さんの声に、ぼくは応える。

「どこに、行くの?」

「てんじょうへ」

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