九十五話
「だ、だいじょ、うぶ、だから……しんぱ、い、しない、で……」
喉がどうかしたのか、途切れ途切れに声が漏れ出た。それに深雪ちゃんは普段とはギャップのあるこちらを気遣う表情を見せた。参ったな、萌えてしまいそうだった。
「ハハ、は……いや大丈夫、だから……行こう、か?」
瞳を揺らしてこちらを見つめる深雪ちゃんは、結局なにも言わずぼくの促しに従って、地下王国に下りていった。
あれから、約3ヶ月。
それだけの期間で、これだけのものを作り上げたのか? 信じられなかった。だが最初の頃の勢いを見るに、まったく不可能な話でもないような気もした。
思えば。
考えてみれば、彼女はずっと同じ場所を掘り続けていたのではなかったのかもしれない。少しづつ少しづつ、場所を変えていたのかもしれない。考えてみればあの立派だと思った穴も、電動ドリルまで使っているとすれば時間掛けすぎな気がしないことも無かった。
いやもっと考えれば。
彼女は、物心ついた時には掘り始めていたのかもしれなかった。
実際これが、現実だ。通路も、しっかりと作られていた。そしてそれぞれの家には、きちんとポーチも入り口も設けられているようだった。ひとつかふたつ入ってみようかとも思ったが、この深雪ちゃんとの重苦しい空気の中その決断を下すのは若干の困難を伴うように思われた。
松明で照らされた地下世界は、どこかこの世のものとは思えない不気味な雰囲気を醸し出していた。オレンジ色の世界に、黒く長い影が細くどこまでも伸びている。
まるで、幻影の世界のようだ。
まるで、幽世の世界のようだった。
「…………」
息苦しく、身体が重たく感じた。その理由はなんだろうと感じていた。言葉を紡ぐことにも、面倒さを感じる。足取りも、重い。あれだろうか、核に近づいているから、その分重力も増したりしているのだろうか?
「……あの、深雪ちゃん?」
「ひとが、いないんデス」
一瞬なんの話をしているか、わからなかった。
「……ひとが、って、いったい――」
「この街には、ひとがいないんデス」
彼女には、この空間が街に見えているようだった。それもまたひととの感性の違いだった。ぼくは少し冷静になって、
「……そりゃ、いないんじゃない? あくまでこの空間は輿水さんが作り上げたものだろうし、さすがにひとが生活できるほどの精巧さは疑わしいだろうし、そもそもこんな場所に暮らそうとする人間がいるかどうか……」
「ひとは、いないかもしれないデス」
気に掛かる言い方だった。
そも、言い出したのはそちらなのに。
「……さっき、深雪ちゃんが言ったよね。それで、ひと"は"、ってどういう意味――」
「実際、いってみましょう」
「は?」
という間もなく、深雪ちゃんはぼくの脇を擦り抜け、背後に回った。振り返ると、彼女はなんの躊躇いも無く、家のひとつのポーチを上がり、扉を、開けていた。
ぼくはハッ、とした。軽く禁忌だと思っていたそれを、あっさり彼女は実行したからだ。
「なっ、ン……!?」
凄まじい勢いで、言葉に詰まった。
覚悟する暇もなにも、なかった。
だからぼくには、彼女の後に続く以外の選択肢は持ち合わせていなかった。
家の中は、ちょうどアフリカの小数民族の土作りのタイプのようだった。その中は、恐るべきほどの精緻さで作り込まれていた。少し離れた場所から見ただけで、キッチン、ダイニング、テーブル、ソファー、イスまでもが見て取れた。そして皿やスプーンに、いくつかの本まで。キッチリ整理されているわけではなく、若干散らかっていた。
散らかっていた。
皿のうえには、食べかけの魚まであった。
食べかけの。
そしてイスの上には。
上には。
そこには――
「やっぱり」
呟きに、振り返る。
深雪ちゃんは――深刻そうな顔をして、こちらを見つめていた。
その瞳の奥にある感情は、なんだ?
「な、にが……?」
「先輩、みえてるんデスね?」
なにを――
「み、見えてる、って? な、なにをですか? 視力はいい方だとは思うけど、深雪ちゃんってコンタクト? そういえば地味に鳶色だけど、それってカラコン――」
「先輩、みえてるんデスよね?」
ぼくは深雪ちゃんの問い詰めるような口調に、言葉を失った。なんの話かなどと、誤魔化すことは出来なかった。
ぼくは逆に、尋ねた。
「……深雪ちゃんは、なにもみえなかった?」




