七十一話
「ウソじゃないですよ」
ぼくの疑惑を、彼女はノータイムで打ち消した。
欠片も確証も根拠も、見受けられなかった。
ぼくはどうしたらいいのか、わからなかった。
「…………ぼくは、おかしいのかな?」
「標準の人間が要るだなんて考えは、日本特有のものです」
意外性のある言葉に、ぼくは閉じていた耳を解放していた。そしてゆっくりと瞼を開け、背を伸ばし、振り返った。
なぜか彼女も、顔を伏せ目を閉じていた。
一瞬どうしたらいいのか、悩んでしまった。
「……輿水さん?」
「…………」
「あの……輿水さん?」
「…………」
――やはり耳は、聞こえていないのだろうか?
考え、ぼくの肩に乗せられている手のうえに、ぼくの手を、重ねた。
「!? ひゃっ!」
それに彼女はびっくりして、慌てて手を引いた。なんだか懐かしい反応だった。それにぼくの心は、少しだけ癒される。こんなことで癒されるぼくの心はなんなんだろうという疑問は心の底に張り付けておくことにする。
「あ、あの……」
「は、はいっ、なんですか?」
ぼくが妙に冷静になって、彼女がいつものテンパりを取り戻していた。
一瞬の、夢のような時間だったと思った。
「……あの、輿水さん?」
「はいっ……どうしましたか?」
「オレ……ちょっとどうかしてたみたいで、ご迷惑お掛けしたみたいで、すみません」
ペコリ、と頭を下げた。これが現実の、リセットボタンだった。さっきまでのぼくは普通の自分じゃなかったんです。だから申し訳ございません、ご迷惑お掛けしました、許してください。それでだいたいは――
「どうしてそんなに、気を遣うんですか?」
まだ、引っ張るのか。
「……もう、出来れば忘れてもらえたら」
「そう、ですか。ずっと親戚の方のお家で、肩身の狭い想いを――」
ぶちっ、となにかがキレるような音がした。
気づけばぼくは、彼女の胸ぐらを掴み上げていた。
「…………」
ぼくの蛮行にも、彼女はリアクションを見せない。気に食わなかった、何もかも。その態度も、そのなにを考えているのかわからないところも。ウダウダ理屈をこねておきながら、結局ぼくは彼女のそういうところを何一つとして許容できてはいなかった。
所詮ぼくは、自分の枠から一歩たりとも外に出られてはいなかった。
「……どうしたん、ですか?」
なぜこんな扱いを受けているのに、その言葉に優しさが含まれているのか。
我慢出来なかった。その背景を知らなければ、これからの人生を歩めそうになかった。
「――なぜ、」
「思い出してください」
なにを?
「あなたが自分を偽ろうとしても、あなたの心まで騙すことは出来ませんよ?」
ギリッ、と歯を食いしばった。
襟首を掴む手に、血管が浮いた。
「あっ! あんたになにが――!」
「わかりません」
これだけ暴行暴言を働いているというのに、なんでそこまで冷静なのか。
「わたしはあなたではないので、その苦しみを真に理解することは出来ませんが、それでもあなたの心が真に澄んでいて、他人の為に自分を押し殺してきたということは、よく理解しています」
「……は?」
「そんな自分の心も、偽り過ぎて、他人の心にスポットを当て過ぎて、理解できなくなってしまっていてそれ故に他人が望む姿と自分が在りたい姿とのギャップに苦しんでいることも、よく理解しています」
「な……なに、を……」
そんな馬鹿を、と言おうとしたが、言えなかった。
すべての言葉ひとつひとつが、すべてのパズルのピースにハマるようだった。すべてがしっくりと、脳に染み込むようだった。今まで解けなかった知恵の輪が、突然すんなりと外れたかのようだった。
今まで固まっていた心の油が、ポロポロと剥がれ落ちていくかのようだった。
「…………輿水さん」
ぼくは肩の力が抜けて、掴み上げていた彼女の体を下ろしていた。ストン、と音がした。そして若干乱れて露わになった胸元を気にする様子も無く、
「なんですか?」
「……本当に、そう思ってるんですか?」
「違いますか? そうでしたら、謝らせていただきますが」
二の句も繋げられなかった。
ぼくは言葉を詰まらせ、そして彼女は言葉を続けた。こんなに話す彼女を、ぼくは初めて見た気がした。
「心を、開いてください」
「……なんでそこまで、してくれるんですか?」
再三ともいえるその問いかけに、彼女は気持のいいくらいの笑みを浮かべた。
「貴方が、わたしと、向き合ってくれたからです」
一瞬どういう意味なのか、把握できなかった。
「それ……」
だけど途中で、気づいた。
寂しかった。




