七十話
彼女の顔が、間近に迫る。
さっき自分からキスまで奪っておきながら、その勢いにぼくは戸惑ってしまう。
よく理解出来ないくせに、ただただ焦燥感にぼくは襲われていた。
「……なに、が、無理?」
繰り返してみて、ぼくは気づいた。
無理?
無理って――誰が?
「え、オレ……が無理、を? して? って、なんで? というかオレが無理をしてなんて、そんなこと……」
彼女はぼくの言葉なんて、聞いちゃなかった。
ぼくの両腕を、ガッシリ掴んだ。
動けなく、なった。
捕獲された。
「え……いや、これ――」
「なんでそんな風にして、他の人を遠ざけようとするんですか?」
ビリッ、と目眩がした。
一瞬なにが起こったのか、理解できなかった。
「――遠ざけて、なんか」
「理由はなんなんですか?」
ダメだ、と直感的に理解した。
彼女の瞳と見つめあって、そうわかった。彼女に取り繕った言葉は、なにも届かない。なぜだという疑問は、心の底にへばりつけておいた。彼女は唇を見て読めるのに、それを無視しているのか? 本当に耳は聞こえていないのか? うるさい、だったらどうすればいい? そんなことは簡単だった。要は取り繕わずに、素直な心を曝け出せばイイだけの話だった。
ぼくの心を、彼女の前に取り出せばイイだけの話だった。
「……ぼく、が、心を、閉ざし、たのは、」
ただ思っていることを話すだけ。
ただそれだけなのに、ぼくの唇は機能障害に陥っていた。なにかがぼくの行動を、制限していた。やめろ、と心が叫び、身体を留めているようだった。
喉が渇き、口の中がカサカサになる。手先が震え、頭が茫洋としていく。
自分の心から、目を逸らしたくて堪らなくなる。だいたい、なぜ今ここで自分と向き合わなくてはいけないのか? 彼女にそんな強制力があるのか? ぼくは理不尽さを感じ始めていた。それこそ我慢して、無理していることになるんじゃないか?
ぼくは震える喉から振り絞るように、
「……あの、輿水さん?」
「あなたがそんなに辛い思いをしているのは、過去に辛いことがあった為なんですね」
耳が、キーンとした。
「……は? いやなに言って――」
「ご両親の、事ですか?」
バカな。
「な……いや、その――」
「……ご両親の不幸で、それで親戚の方と――」
バチっ、となにかの光景が脳裡に浮かんだ。
それは以前見た、いつもは両親が座っていたダイニングで、代わりにオバサンとオジサンが座っていて、その時ぼくは子供で、お父さんとお母さんが突然いなくなったせいで毎晩眠れなくて、キッチンにお水を飲みに来たところで、それでたまたま二人が真剣なお話をしてるところに遭遇して――
「ぐっ!?」
ズキンっ、と錐で切り付けられたような頭痛が襲ってくる。胸も、針金で締め付けられたように苦しくなる。息が、荒くなる。
いやだいやだいやだいやだいやだという声が、頭の中に反響する。心と体、すべてでそれを思い出すことを拒絶していた。
なのに、
「トラブルが、あったんですね――」
「うるさいっ!!」
目を閉じ耳を塞ぎ身体を折り曲げ、ぼくは叫んだ。これ以上外界からの接触は、必要無かった。いらなかった。部屋に戻って、布団に丸まって寝こけてしまいたかった。
肩に手が、触れた。
「!?」
ビクッとして、思わず振り払ってしまう。他人に対して暴力的な反応をしてしまったことに、今度はビクッと心が震えた。今日はなにもかも、うまくいかない。人生のリセットボタンがあるなら、今すぐにでも押したい気分だった。
もう一度、肩に手が触れる。
「っ?」
それにぼくはビクッとするが、なんとか振り払うのだけは抑えることが出来た。
肩から、彼女の体温が伝わってくる。
「…………」
彼女はなにも、話さない。怒鳴ったのに、振り払ったのに、全身で拒絶したのに、彼女は懲りずにぼくの肩に手を置き、そしてきっとぼくを待っている。わからない。理解不能だった。出来る訳が無い。何度この思考を繰り返しただろうか、ぼくはこんなに学習能力のない人間だったのだろうか。
「…………」
静かだった。なまじ田舎道だから、車すらろくに通らない。人通りも無い。時おり遠くで、小鳥の鳴き声が聞こえるくらいだ。
だから余計に、お互いの体温をハッキリと自覚せざるを得なかった。
お互いの存在を、ハッキリと認識せざるを得なかった。
「…………なんで、」
言葉で訊こうとして、途中で気がついた。
「わたしは、大丈夫ですよ」
彼女に言葉は、通用しないと。
「…………え? いま、なんて?」
「わたしは、大丈夫ですよ。わたしは他の人とは、違いますから。あなたの気持ち、少しだけ、わかりますから」
――わかる?
ぼくの、気持ちが?
「…………ウソだ」




