六十八話
ドクドク、と心臓が脈打つ。危険を察することが出来ない恐怖と、そして誰かの呼びかけに気づくことが出来ない、恐怖。喉が、渇いていく。実感する。
これが、彼女の世界。
「――大丈夫ですか?」
久しぶりに聞いたその声は、澄み切った湖水に一粒だけ垂らされた、水滴のようだった。
「いや……大丈夫、です。その……」
言葉が、続かなかった。なにを話していいのか、わからなかった。唐突過ぎた、なにもかも。だからというかだって、事実としてぼくはなにも想うことが出来ていなかったから。
疑問すら、湧かなかった。
彼女がここで、畑を耕しているという事実に。
「では改めまして、お久しぶりです」
鍬を傍に据え、彼女は居住まいを正し、両手を前に添え、深々と頭を下げた。それにぼくは、しばし呆然としてしまった。違和感が感ぜられないほどに、それはシックリきているものだったから。
「――お久し、ぶりです」
ぺこり、とぼくも頭を下げた。そして顔を上げると、彼女はにっこり笑っていた。それは柔らかく、こちらの心を溶かすような勢いで。それにぼくは心の底まで安心すると同時に、一抹の違和感を覚えた。
――どこか、自然体過ぎる?
「どうしたんですか、こんな所で? 今日は大学は、お休みでしたっけ? それにしても良い天気ですよね?」
顔を上げ、手庇をつくるその眩しそうな笑顔が、むしろ眩しかった。美しかった。綺麗だった。しばらく、見惚れてしまうくらいに。
「……そう、だね。綺麗な、青空だね。心が、洗われる、ようだね」
「――――」
ぼくの呟きに、彼女は気づかない。だって彼女は、視線を上に向けていたから。ぼくの唇を、見てはいなかったから。
その視線が降りて、ぼくと合う。
二コリ、とほほ笑まれる。
「それで、どうしたんですか?」
「キミに、会いに来ました」
心に浮かんだ言葉を、そのまま口走っていた。
彼女は笑みを、崩さなかった。
そして深々と、頭を下げた。
「それはありがとうございます。遠いところまでわざわざ。それでいったい、どのような御用向きなのですか?」
「キミと、話がしたくて」
「はい、今、話してますよね?」
「そうですね」
「それで、どのようなことを聞きたかったのですか?」
「キミが今、どうしてるかと思って」
「はい、畑を耕してました」
「そうですね」
「それで、もう御用向きは以上でしょうか?」
「ぼくは――」
そこでぼくは、言葉を止めた。
不意に虚しさを、感じてしまったのだ。ぼくらはなんて、表面上のやり取りしかしていないのだろう。彼女に言葉は届かないというのに、ぼくは無意味な声を出し続ける。彼女はぼくの唇の動きで意味だけは受け取り続けるが、意図はひとつも伝わらない。
会話なんて、虚しい行為だった。
というより宇宙人ふたり、日本語で意思疎通しようというのが、無駄な足掻きというものだった。
やめた。
口を、動かす。
「――――」
口だけで、音を出さなかった。
本当に唇の形を読んでいるのか、確かめたかった。
「そうですよ?」
――本当に、理解してる。
「え、なに言ってるんですか? 当り前じゃないですか?」
「――――」
言葉が、出ない。情報としては知っていても、実際目の当たりにするとかなりの衝撃だった。その能力は、もはや現実のものと思えなかった。どういう理屈なんだ、天才と言っていたが、どれほどの天才なのか、本当に天才なのか、天才とは一体どういう――
「どうしたんですか?」
彼女の瞳は純粋に、ぼくの心を覗き込む。
疑問が口から、零れ落ちた。
「キミはいったい、何者なんだ?」
彼女は疑問すら浮かべることなく、スラスラと答えを吐き出す。
「わたしは――――」
ノイズ。
「――――」
ノイズ。
「――――――――」
ノイズが耳を、支配する。
「―――、―――――――、――――」
彼女の口が動き、それが何事かを紡いでいる筈なのに、それが耳にて意味を形成しない。なにか、それこそ火星人から紡がれる異音のようだった。
なにが起こっているのか。
なぜ聞き取れないのか。
なにを話しているのか。
噴出する疑問に、ぼくは抗うことも出来ず、ただ――
「…………あ、」
手を、翳した。
それに彼女の唇の動きが、止まる。
そして瞳の色が、変わる。それはなにかを、察したかのように。
そして――
「…………」
そっ、とぼくの手の甲に、彼女は自分の掌を、重ねた。




