五十一話
さっきから続いているヒステリックな様子に、ぼくは圧倒されそうになる。ぼくはぐっ、と踏ん張った主に心的に。ここが、正念場だ。心で負けて、逃げ出す訳にはいかなかった。
なぜだかここで逃げたなら、ぼくは一生取り返しのつかないことになりそうな気がしていた。
「う……生まれてからずっとって、どういう意味なんですか? 彼女、なんか病気かなにか――」
「あの子は見た目通りの、壊れた天才なのよっ!」
悲痛な叫びだと、胸に響いた。
しかしその意味は、ぼくの脳味噌に通ることは無かった。
「壊……れた?」
それに――天才?
「そうよっ!」
理事長は、振り返った。
その瞳から零れる涙を、留めようとせずに。
「あの子は、天才よっ! 半年で歩き始めて3歳で文字を書いて小学校にあがる頃には英語で話し始めていたわ。中学では物理を学び高校に入る頃には素粒子学にまで手を出していたわ。信じられない天才よ、日本の将来を背負って立つ逸材よ、人類の宝そのものよ! 私は期待したわ、素晴らしい後継者を得たと思ったわ、私たちの未来は光り輝きどこまでも続いていると思っていたわ! けどっ!!」
現実感が、無さ過ぎた。言っている言葉の三分の一も理解出来なかった。ウソだ、とすら思えなかった。
なにも脳裏に、浮かばなかった。
「あの子に言葉は、届かなかったの!!」
意味が、わからなかった。
――だったら、届くまで何度だって呼びかければいいじゃないか?
必死に呼びかければいいじゃないか? 諦めずに、何度だって、それこそ必死に――
「耳が、聞こえなかったのッ!!」
悪い夢のように、思えた。
「み、み、って……それって顔の横についてる、この耳のこと――」
「先天性の障害だったのっ、私たちは気付けなかったっ、彼女の他の能力に目が行き過ぎていたっ、あの子は、私たちの唇の動きを見て言葉を理解していたのっ! だから普通に会話は出来ても、一対多数のやり取りは出来ないし、言葉の強弱やトーンによる意思疎通は出来ない。そういう齟齬が積み重なって……いや、きっと、元々、あの子は、心を、閉ざしていた」
唐突に理事長は激昂するのをやめ、
「椿樹を、知ってから」
「――椿樹?」
ハッとした様子で、理事長は口を抑えた。そして怖いものでも見たようにこちらへ顔を向け、
「……なんでもないわ。貴方も教室に戻りなさい。もう、話すことはなにも無いわ」
そう捨て去るように呟き、理事長はそそくさと去って行った。ぼくはそれを負うことは無かった。ただその、椿樹という言葉だけが澱のように心に沈み込んでいた。
ぼくは教室に戻り、ふたりと合流して、その後授業を終えてやってきた深雪ちゃんと四人で再びにNeptuneのサークル室にて、理事長に聞いた話を伝えた。三人は言葉も無く、最後までぼくの話を聞いていた。なんだかここでの話は毎回重苦しい空気になるから、とても嫌なジンクスがつきそうだった。
第一声は、赤羽だと思っていた。
「耳、聞こえないんデスか」
「……そう、らしいね」
「そうデスか」
再び、沈黙。それは重い重いモノだった。誰か喋って欲しかった。ぼくから喋る気力は、とてもないから。
『――――』
今度の沈黙は、長かった。誰もなにも言わず、そのまま無為に時間が過ぎた。というか途中から、気づいていた。こんな重い話、みんなの前で出来るようなものじゃないと。それを皆知ってか知らずか、自然と解散という形になった。それぞれの四限目に向かい、再度合流せずに、帰路についた。その日、やはりバイトは無かった。ぼくはいつも通り真っ直ぐ家に帰り、そしてベッドにダイヴした。
頭の中が、ぐるぐる回っていた。まるで煮詰めた鍋のようだった。
――彼女は耳が、聞こえなかった。
その発想は無かった。だから彼女は、合コンの時に話に参加しなかった。その肩に触れるまで、呼びかけに応えることはなかった。
――彼女は耳が、聞こえなかった。
生まれついて、ずっと。だけど能力が――それこそ脳力が高過ぎた為気づかれず、理解の出来ぬ無責任な称賛だけを浴びて、そして孤独に生きてきた。
――彼女は耳が、聞こえなかった。
それはぼくも同じだった。勝手に彼女を理解したつもりになり、遠ざけ、そして蔑んでいた。意思疎通は、出来ていたのに、ぼくは――
「…………くしょう」
声が、喉から漏れた。溢れる感情が、うまく表現できない。ちくしょうと言ったから、悔しいのだろうか? だけどぼくが悔しがる理由が、いったいどこにあるっていうのか? 所詮大学で初めて知り合った、ほとんど他人もいいところの関係だ。言葉も数えるほどしか交わしたことは無いし、一緒にご飯すら――
手首を、握って。
そして一緒に、夜の道を走ったっけ。




