三十六話
ぼくはそれから一ヶ月間、輿水さんと出会うことはなかった。中庭に出てみると、穴は既に塞がれたあとだった。あんな大穴があった土に触れてみても、その痕跡すら発見出来なかった。まるで酒に酔って見た夢か幻のようだった。ぼくはそれを誰かに確認したいと思ったが、その事実を知っているのは悲しいかなぼくだけだった。
パカっ、と携帯を開いた。絶滅危惧種だとか言われようがぼくは未だにパカパカ式のガラパゴス携帯だった。特にこだわりもない。特にこだわりもないから、変える気もないだけだ。
あれからぼくの電話帳に、従兄のものとは別に四つの番号及びアドレスが追加された。ちなみに高校までのものは、ない。ぼくが心を開かなかったから、聞く機会にも恵まれなかったからだ。欲しいとも、思わなかったし。だがその四つの番号持ち主が友達なのかと問われると、難しいところだった。
ぼくは携帯を閉めて、改めて学食のカレーに向き合った。一杯通常300円のものが、期間限定で170円になっていて、ぼくは毎日お世話になっていた。カレー一杯170円って安すぎるだろうという想いと、なんで学食で値引きだとかそういう真似しなくちゃいけないんだろうという疑問は黙って腹に収めていた。安いものは安いし、なんか家の味というか優しいそれに満足もしていた。
スプーンで掬い、口の中へ。辛みと甘みとご飯の温かさに、泣けてくる心地だった。ひとり暮らしにはしみる、出来たてのご飯の有難さ。
なんだかんだでぼくは、結局四人と連絡を取ってはいなかった。理由らしい理由も思いつかない。赤羽とすら、あれから会っていない。あれだけバイタリティがある男のことだ、どこぞのサークルに入って大暴れでもしているのかもしれない。
「元の、木阿弥……か」
ふと、呟いていた。三時限あとの学食は、静かだった。午後2時なんて中途半端な時間帯には、誰も食べに来ない。それに実際もう少ししたら学食も閉まるらしい。なんだか入学してからしばらくを、思い出す心地だった。
なにもかもが、唐突に始まり理不尽に終わった気になっていた。思えばたった、三日間の出来事だった。その三日間ですべてが始まり、そして収束した。思えばぼくは、単なる数合わせに過ぎなかったのかもしれない。代わりはいくらでもいる。切なかった。
胸にポッカリ、という表現を使うつもりはなかった。そこまでの関係があったわけじゃない。ただ都会の生活に、夢を見ていただけの話。また元に戻っただけ、別に悪いことじゃない。こうしてカレーだって話に気を逸らされず、味わって食べられる。問題は何もなかった。
時計を見た。そろそろ、四時限目が始まる。授業は、フランス語だ。必要かどうかはわからないが、しかし取ると決めた授業。なにかの縁、せっかくやるのなら、身につけようじゃないか。ぼくは残りのカレーを、かき込んだ。そして皿を下げ口に持って行き――
唐突に局地的に、地震が起こった。
「うわ!? ……っと、」
と思ったら、震源は腰の、ポケット――に入っている、携帯だった。授業中鳴った時に備えてのバイブ設定、もちろん鳴ったことなんて一度もない。
「――――」
一瞬固まり、そして取った。間違い電話だったらどうしようとか結構ドキドキしながら。
『おう、上月』
声に聞き覚えがあり、そういえば発信者の名前が画面に表示されることを思い出し、確認した。
やっぱり。
『どうしたとや? なんか考えよった? そいとも一カ月ぶりで、おいのこと忘れたとか?』
「いや……むしろ今、お前のこと考えてたよ」
『お? そうや、そいは光栄やな、サンキュー』
九州訛りが懐かしい、大学で初めての友人。期せずして笑みを浮かべてしまう。
忘れる方が、難しかった。
赤羽とは放課後、空き教室の801教室で落ち合うことにした。たまに情報系の授業で使われることはあるが、放課後なんかは完全に放置されているいくつかある教室の中でもこの801は立地的にも広さ的にも都合がいいようで、暇人大学生の格好の溜まり場となっていた。
教室に入ると、赤羽は一番前の席に座っていた。そして常設してあるデスクトップパソコンで、なにか調べ物をしていた。しかもその目には、なぜか眼鏡。こいつ、目悪かったのか?
「おう、来たか上月」
「あぁ、悪い待たせたか?」
といっても授業終わってすぐにきたつもりなのだが。
「いや、おい元々四時限目とっとらんけん、暇つぶしにパソコンしよったけん気にせんでよかばい」
「あぁ、そう……」