三話
ぼくの周りには、目には見えない壁があると思う。音も通るし、匂いも嗅げるし、接触にだって不便は無い。だけどハッキリとそこに存在している。それはひと昔前に流行ったアニメでいうATフィールドのようなものなのだろうか。それとも思春期特有の痛々しい自意識過剰なのか。ぼくには判断がつかない。そしてその胸の裡を誰かに話そうだなんて気には決してならなかった。
それはひとを寄せ付けず、感性の共有を阻み、そして周囲の景色を遠いモノのようにぼくに思わせる。それについてぼくは今のところ、これといって不都合を感じてはいなかった。なぜならぼく自身が、ひととの交流を必要とはしておらず、感性の共有を求めておらず、周囲の景色を近いと感じたことが無かったからだ。だからその壁について特別なんらかの感情を抱いたことは無かった。
ただ、在ると。
そういう風に、認識しているだけだった。
「…………」
そしてぼくは、今日もそんな楽園の素晴らしい光景を横目に、一路目的の教室を目指していた。ザワザワ騒がしい周囲をBGM代わりに、自らのスニーカーが立てるキュッキュッという音に耳を集中させながら。歩く、という行為がぼくは好きだった。それは逆説的な意味合いを含んではいたが。
歩くと、集中力が薄く発揮され、様々な考えごとをすることが出来た。自分だけ、時間が止まったような錯覚をおぼえる事が出来た。音楽なんか聞くとより効果的にソレを味わえるが、実際それをやると意外にも周囲の視線を集めることに気づき、やめた。大学の中でわざわざヘッドフォンで音楽を聞いてるのなんてラッパーかKYかドキュンくらいのものだった。
階段に、足を掛ける。
しかしそこで期せずして――ぼくの足はその場に、縫いつけられた。
時刻は、9時まえ。ここで足を止めたなら、この階段を上がって最初の角を曲がってテラスを過ぎた先にある201教室で行われる本日最初の講義である情報Ⅰという名の必修基礎科目の開始時刻に間に合わせることが出来ず、遅刻の憂き目を見るだろうことは間違いなかった。
しかし今回ぼくは、そういう事情や意思とは関係なく――ふいに視界の端に映った″妙なもの″によって、その場に身体を縫い付けられてしまっていた。
スコップだった。
「――――」
それも、通常成人した大人が使う両手タイプのものではなく、幼児などが公園の砂場などで使う小型のもの。それが現在のぼくから見て左手にあるガラス戸の向こうに映る中庭で、どう見たって幼児には見えない人物によって使用されていたのだ。
「…………」
基本的に他人に対する興味が薄いと自覚しているぼくにとってもそれは、正直首を傾げざるを得ない光景だった。そんなぼくの視界を遮るように、今どきな服装に身を包んだ男子生徒や女子生徒がトートバッグやショルダーバッグなどを肩にかけて、談笑しながら横切っていく。当たり前の大学構内の風景。しかしそれが通り過ぎて、一歩向こうに視線を転じれば――
その人物は、女性だった。遠目だから顔つきなんかはわからないが髪形は完璧なおかっぱで、足元も草履で、身に纏っているのは極め付きのように、和服。
まるで等身大の日本人形のような印象さえ受ける。
「――――」
遠目から覗くその表情は、真剣そのもの――というより、ただひたすらに無表情だった。口も微かに開いている。ただ右腕だけがザク、ザク、と、規則的に足元の土を掘り返し続けていた。まるで機械のようだな、という感想を抱いた。というかひたすらに、なんなんだこのひとは?
考える。
「…………」
考えても、わからない。なにしろこんな事例、過去遭遇したこともなければ、見たことも聞いたことすらなかった。疑問だけが、ただ湧き出る。なぜ? この大学で? 穴を? スコップを? しかも中庭など掘っているのか? 改めて、いくつかの可能性を考えてみた。
埋蔵金、殺人事件。そんなバカな。地質調査。そういうゼミの活動だとか、考えられなくはなかったが、しかしそれにしても彼女は一心不乱に延々と土を掘り返し続けていた。人目を気にする様子も無い。まるで――トンネルかなにかでも、作るかのような勢いで。
その姿はまるで。
子供が砂場に落とした小さな宝物でも、掘り返して探しているかのようで。
ほんの少しだけどぼくの胸を打ったことは、確かではあった。
「――なんだか、切ないね」
誰に届けるつもりも無い呟きをその場に残し、ぼくは改めて右足を掛けたまま一時停止していた次の授業へと向かう階段を、昇り始めた。
大学の講義を、ぼくはとても気に入っていた。基本的に大学では高校までのように、最初に担任が出席を取り、それぞれの授業を進めていく、という形は取らない。それぞれの授業を専門の教授が受け持っており、その傍らにはTA――ティーチャ―アシスタントと呼ばれる補佐を務める上級生が控え、彼らが配る出席票に学籍番号などを記入して、出席扱いになるのだ。それが授業によって15分の遅刻までだとか20分の遅刻までだとか認められる範囲が違っていて、それがまた、面白かった。