十九話
ぼくの変な声を返事とでも九州弁で脳内変換でもしたのか、あくまで赤羽はやたらといい笑顔のまま、手を振り去っていった。それにぼくは今までの癖で、力なく手を振り返した。というか決定事項に今さら何をいっても、あとの祭りだった。
あとに残されたのは、ぼくだけだった。
「…………」
しばらく誰もいなくなった講堂で、ひとり考えていた。夜の帳が、近付いていた。行動を出て、構内をあてもなく歩く。徐々にひとが、大学からいなくなる。あんなに賑やかで、私服だから様々な色に彩られていたそれが、紅一色に染まっていく。テラスに行き、手すりに寄りかかり、空を見た。美しい夕焼けだった。やけに心に沁み入るというか、今日はやけに大きく見えるというか。それもしばらく見つめていたら、地に没していく。諸行無常を感じさせる光景だった。そして夜の帳が、下りていく。時間が、無くなっていく。
時計を見た。時刻は6時半。タイムリミットは、ほとんど残されてはいなかった。
いくしかない。
ぼくは初めて、夜、帰る前に中庭を覗いてみることにした。実は今までは意図的に、視線を避けてきたのだ。あんな非日常、朝一発目だけで充分だったから。でも今回は、四の五の言ってられない。状況が、ぼくを追い込んでいたのだ。逃げられないように、心の準備を、待っていられないように。三回も目の前から逃げ出したぼくの戒めとでもいうのだろうか? ――誰と喋っているのか、ぼくは。
どっくん、どっくん、心臓が脈打っている。ゆっくり、出来るだけゆっくりと歩いていく。時間稼ぎも痛々しいな、と自分でも思う。テラスを横切り、購買前を越えて、階段をひとつ降り、ふたつ、降り、踊り場で――立ち止まった。
どっくんどっくんどっくん、心臓がやっかましかった。周りが静かなせいだと自分に言い聞かせた。胸に手を当てる、暖っかくて、けなげにトクトク脈打っていた。生きてるなー、うん、わけわからん。もういい加減行こうかと思うのだが、なかなか足が前に出なかった。G-SHOCKをチラリ、時間は先ほどから1分しか進んでいなかった。ならばここでもうしばらく、という訳にもいかないのがジレンマだった。ウダウダ考えても仕方ないのがわかっているのに考えてしまうのが所詮ぼくという人間の限界だった。いこう。何度思っただろうか。なにかきっかけがいるのか。大体あの子がいるとも限らないのに。ぼくは散々考え、悩み、葛藤した末――
「ッ!」
自分の頬を、殴り飛ばした。
結構、痛かった。強く殴り過ぎたか? 下で内頬を舐めると、ガサガサしてて、ちょっと酸っぱかった。切ったかも。
そんな考えごとをしていたら、足が前に出ていた。我ながら情けない話だった。たかだか女の子を誘うのに、自分を殴りまでしなくてはいけないだなんて。
階段を、降り切った。気づけばぼくは、目を瞑っていた。もうなんていうかどうせ中庭には出るんだから、いっそそれまで目を瞑っていようと思っていたのだ。いちいちうろたえて立ち止まるのも面倒だったし、ハラハラしてイヤだし、時間ないし。そうして真っ直ぐ歩いていって――
ガン、という衝撃。
「っ!?」
今度は、くらっとした。頭をぶつけていた、ガラス戸に。当然のことだった。今日のぼくは本当にどうかしていた。それもこれも、彼女と会ったからだった。いや違うか? もうどうでも、どちらでもいい。
手探りでガラス戸を押し開け、数歩歩いてぼくは瞼を、開けた。
ざくっ。
最初に届いたのは、なにかを掘っているだろう音だった。暗いだろうと思っていたが、実際は月明かりのせいで中庭はかなり明るかった。だからその漆黒に浮かぶ黒い淵も、舞い上がる土の塊もハッキリと見て取ることが、出来た。
ざくっ。
そして、掘っていた。いつものように。というよりこの子、いつから掘り始めていつまで掘っているんだろうか? 帰るのは何時なのか? 気になることだらけだが、現在進行形の問題はそこじゃなかった。
ざくっ。
シャベルの音をメトロノーム代わりに、近づいていく。ざくっ。といっても僅か数歩。ざくっ。あっという間に、穴の淵に。ざくっ。まるで地獄の底を覗き込んでいる心地になる。
ざくっ。
彼女は、いた。
いつもとまったく変わらず、無表情に、真剣に、地球の裏側にいるという大切な人に会う為に、ひたすら穴を掘っていた。
声をかけるのも憚れるほどの、その集中力。もう一発自分の頬を殴るかどうか、一瞬考えてしまった。
「…………あの、さ」
口調は気づかず、軽く――装わないものに、なっていた。
「――――」
その言葉に、彼女が振り返ることは、無い。だからぼくも黙って、穴まで梯子を降りて、底に立った。いつ降ったのか底には水たまりが出来ていて、水月を作り出していた。ぼくはここ三回の邂逅で、学習していた。彼女と話すなら、言葉や常識やフリではダメだ。心と心で向き合わなければ、振り向かせることはできない。
ぼくは壁を向いてこちらに背を向け、一心不乱に穴を掘っている彼女に、声をかけた。
「なんで、掘ってるの?」
声を張ったわけでもイントネーションを強くしたわけでもなかったが――
「だから、会いたいひとがいるからですよ」
彼女は振り返る。それにぼくは軽く息を吸い、出来るだけ肩の力を抜いて、
「そこまでして?」
「はい」
振り返った彼女の目を、ぼくはじっと見つめていた。だけど彼女はこちらと視線を合わせることは無かった。というより彼女の目の焦点は、どこにも合っていない。まるで夢の中にでもいるよう――
ぼくは手を、叩いた。
ぱん。
いい音が、静寂の中庭に響いた。
「な…………」
今宵はいい、満月だった。