百五話
転がりながら、痛みに苦しみながら、ぼくはなんとかかんとか彼女のほうを、向いた。
「――――」
輿水菖蒲さんは、先ほどまでとまったく変わらず横たわったまま、動く様子は無かった。穏やかな表情で、瞼を閉じている。まるでぼくが大暴れしてるのが、馬鹿みたいに感じるくらいだった。
「っ、く……ふぅ、」
なんとか痛みを堪えて、というか痩せ我慢して、立ち上がった。特にアキレス腱の痛みは酷かったが、まぁなんとか耐えられないことも無いものだった。男は我慢、赤羽がうつったか?
輿水さんは、まるで死んでいるようだった。
「……輿水さん?」
輿水さんは、動かなかった。体中に刻み付けられた噛み跡が、痛々しかった。しかし血は、それほど溢れているわけではなかった。滲んでいるだけ、というのが実際のようだった。
あれだけぼくが大立ち回りをやらかしたというのに、彼女はまるで世界になにも変化がないかのようだった。
「…………」
ぼくは再度、考えた。以前のようにキスでもやらかそうかとも一瞬頭に過ぎったが、そういう問題でないことはわかっていた。そしてぼくは堂々巡りの思索を終え、その場にドカっ、と座り込んだ。
沈黙。
そういえば彼女とのやり取りは、言葉や行動よりもずっと、沈黙のほうが多かったっけな。
「――――」
ぼくはじっ、と彼女を見た。確実にいる。存在している。周囲を見回す。まるで部屋全体が蠢いているかのようなこの部屋も、間違いなく現実だった。だって頬をつねるまでもなく、膝やら腹やらアキレス腱がずっきんずっきん痛かったし。
じっ、と彼女を見た。
すると疑問が、口から零れ落ちていた。
「――大切なひとには、逢えた?」
当たり前のような、
「もう、少しです」
それは返事だった。
地下王国に、巨大神殿に、螺旋階段に、無数の死骸に、蛇のプールに、動かず喋らない彼女だろうが、そんなことが些細なことだとぼくは気づいてしまった。彼女がなにか大事なことをしている最中で、それをぼくが妨害する形になっていたとしても、それさえどうでもよいことなのだろうと理解してしまった。
ふと、ぼくと彼女は本当に似ているのかもしれないなと思ったりした。
「……もう少しっていうのは、もう少し時間が経てば逢えそうだってことなの?」
「もう少し死ねば、逢えるかもしれません」
驚きは、意外なほど小さかった。
あまりに前準備が多すぎたせいかもしれない。
ぼくは、訊いた。
「キミの大切なひとというのは、輿水椿樹くんのことですか?」
「はい」
彼女の淀みない返事にも、驚きはなかった。すべての謎が、一本の線に繋がった心地だった。
ぼくは、訊いた。
「輿水椿樹くんというのは……キミの、キョウダイですか?」
「わたしの、半身です」
否定はしなかった。
しかし肯定まではせず、別の言葉で言い直した。
事ここに至って、ぼくは彼女の言葉の真意を知った気がした。
「椿樹くんは、キミの――いやキミと、双子のキョウダイですか?」
「数秒遅れで世界に出された、わたしの半身です」
ぼくは肩の力が抜ける気持ちで、彼女の言葉を聞いていた。
「いつ……亡くなられたんですか?」
「わたしが生まれると、同時だそうです」
「……そんなことって、」
「わたしは彼の命を吸って、この世に生を得たんです」
似ているかもしれない。
境遇こそ違うものの、世界の捉え方は。
「両親はそのことを、永い間教えてはくれませんでした。でもわたしは、わかっていたんです。だって彼は、いつだってわたしの傍にいてくれたんですから」
「話してた?」
「はい」
「視えてた?」
「はい」
「いま、どこに?」
「ここに、」
彼女は自分の右隣を促し、ぼくはそちらに目を向けた。
なにも、みえなかった。
なにも、いなかった。
その時のぼくには、そう映った。
「――いるの?」
「視えるんですか?」
デジャヴだった。彼女の姿を、ぼくは捉えている。合コンの時には、確かに共有できていた筈だった。それが彼女の屋敷では、誰も視えていなかった。そしていま、ぼくと嘉島は見えていて、赤羽は――気づかなかった?
「視えないです」
ぼくはハッキリと、答える事にした。今さら誤魔化して、どうこうなるものでもない。
――向き合うんだ。
逃げるな!
「みえません……ぼくにはそこに、ダレカがいるようには見えません。彼が……それに前から思ってたんですけど、キミの姿は、本当に他のひとには見えてないんですか? それにこれは言わないでおこうと思ってたんですけど……」
――違う。




