百三話
本当にその辺にでも散歩するような、大学でぼくとか赤羽に話しかけるような気楽さで、彼女に――部屋の中央に向かって歩いていった。
それを目で追っているうちに、ぼくは気づいた。
その"異様"な部屋の様子に。
「な……んだよ、これ?」
ぼくは叫ぶ代わりに、呆然と呟いた。その部屋は、巨大だった。軽く、大講堂ぐらいの規模があった。しかし雰囲気はどちらかというと研究所に近いように思えた。薄暗く、明かりはオレンジ色に揺れる、壁際に無数に並べられた蝋燭のみだった。どちらかというと、それはお化け屋敷といったほうが近いのかもしれない。
そこに浮かび上がる、無数の影。
ホルマリン詰めの、無数の死骸。
「ハッ……く、あぁ……!」
死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸死骸――
「…………!」
どくんどくんどくんどくん、と心臓が脈打ち、止まらなかった。死骸、なぜ、死骸が、ここに、死骸が、たくさん、死骸が、死骸が?
蜘蛛、百足、ヤスデ、カマドウマ
蛇、イタチ、
猿、犬、ネコ
牛、クマ――
「標本……博物館……なんや、こい?」
赤羽の呟きに、ぼくは我に返った。一瞬引き込まれ、呑み込まれそうな錯覚に陥っていた。
「…………」
ぼくはそれに導かれるように、嘉島の足跡を辿るように歩き始めていた。足元が、ぶよぶよしていた。まるで肉の上を進んでいるようだった。それは怖過ぎて、確かめられなかった。何もかも知ってしまったら、前に進めなくなりそうだから。
「…………」
なにか感想とか喋りたいのに、ぼくの喉を通ってなにかが紡ぎだされることはなかった。感覚が、遠くなっていく。僕は今、どこにいて、なにをしているのかが、わからなくなっていく。
ただ遠くに眠る彼女の姿だけを、網膜は捉えていた。
「お……おい、上月?」
なんだ?
「わい……どこ、行くとや?」
そんなの決まって――
「こしみっちゃんとこ、行くっちゃなかとや!?」
赤羽の言葉を胸に刻みつけて――覚悟を決めて、ぼくは彼女を目指した。
部屋全体が、脈動しているようだった。部屋そのものが、生きているかのようだった。ぼくの足は、膝は震えて、何度も立ち止まりかけた。それをぼくは必死に、前に押し出した。一度止まってしまえば、もう二度と彼女を目指すことは出来ないだろうから。二度と、交わることは出来ないのだろうから。
嘉島。
ぼくは心の中で、前を行く――大学で初めて出来た親友の背中に、呼びかけていた。
彼には――"視えて"いるのだろうか?
思えば彼女に一番近いのは、彼だったのかもしれない。片や耳が聞こえずヒトに疎まれ、ヒトを遠ざけてきた彼女。片やうまく話せずヒトに蔑まれ、ヒトに遠ざけられてきた彼。
だとするなら、彼なら、ひょっとしたら――
「…………」
そして唐突に、嘉島は立ち止まった。ぼくはそれに一歩の距離を開けて、様子を見ることにした。ふたりの邂逅が、どんなものになるのか、興味があった。
彼女の心を開いてくれるのかもしれないと、期待を込めていた。
「…………こし、み」
語り掛けた。
視えている。
彼には、話したはずだ。彼女の、実際を。ぼくは向こう側が、見えなかった。だから彼女がどんなリアクションをしているのかを、確認することは出来なかった。ただ、最初に見た彼女の姿が目に焼きついていた。
美雪ちゃんの言葉を、思い返していた。
蛇。
「どうし、た……なん、で……して?」
途切れ途切れの言葉に、想いの深さが込められていた。
彼はどんな風に、彼女を見ているのか。
ふと、そんな疑問が頭を過ぎった。
「――――」
彼女からの、返答はない。
しばらくそのまま、沈黙のときが流れた。言葉を共通ツールとしてこなかった二人、コンタクトの方法は常人のそれとは違っているのかもしれない。
ぼくは、待った。なんらかの結果が、出るのを。なんらかのナニカが、訪れるのを。
文字通り、鬼がでるか蛇は――でてるが、だった。
嘉島は、前に出た。ぼくはそれに反射的についていこうとしたが――その先にあるものに気づき、躊躇した。
「蛇……」
大丈夫なのか、嘉島?
「ぐっ!?」
気に掛けていたタイミングで、嘉島の呻き声が聞こえた。
心臓が鷲掴みにされた心地だった。
「ッ!? か、嘉島?」




