はじまりの物語
絆が生んだ奇跡
かすかに古臭さの漂う書庫にはページを捲る乾いた音だけが静かに響いていた。奥にある閲覧室には一人の青年が座っていた。
「相変わらず真面目に仕事してるな、李彰。」
また別の青年が開いた窓から身を乗り出し、部屋にいた李彰という青年に話しかけてきた。
「やっと解放か、聖悠。賊退治に借り出されて一週間。時間掛けすぎじゃないか?」
読んでいた書物から目を離すことなく外の青年、聖悠に返事した。
「だってあいつら次々沸いて出てくる上に俺の担当区域終わったのに大将軍があちこち盥回しにして結局国中走り回ったんだよ。」
聖悠は肩を回しながら呆れたような泣きたいような声で言った。
李彰は書物を閉じて聖悠を見ると立ち上がった。
「今日はもう帰れ。お前、顔が相当疲れてるぞ。主上には私から報告しておく。どうせ今から向かわなければいけないしな。」
そう言って書物を片手にその場を去ろうとした。
「じゃあ仮眠室にいるから定時になったら起こしてくれ。」
「?・・・そんなところで寝てないでさっさと家に帰った方が体は休まるぞ?」
李彰は再び振り返ると不可解だと言わんばかりの表情で言った。
「俺が目を離した隙に無茶した相棒を連れて帰らなくちゃいけないからな~。徹夜四日といったところか。」
面白そうに言う聖悠の言葉に李彰はぎょっとした。
「・・・何で分かった。」
「一体どれだけ一緒にいると思ってんだよ。まったく、俺が怒って連れて帰らないとすぐに徹夜する癖どうにかしろよな~。」
李彰と聖悠が主上の側近に任命されたのは約二年ほど前。それから聖悠は軍に行く時以外はちょろちょろと李彰の周辺をうろついている。もはや嫌でも互いのことは分かってしまうのかもしれない。
「しかし仕事が終わらない・・・。」
いつもへらへらして優しいと評判の聖悠を怒らすと怖いことを誰よりも知っている李彰は先程とは打って変わり、やや表情を伺うように言った。聖悠は体を酷使することを何より怒るのだ。
「俺が討伐に行く前はそこまで忙しくなかったはず・・・また誰か解雇されたか。」
「あぁ、また主上の感にさわる案件を持ってきたらしく同じ部署の尚書以下三名が除籍だそうだ。」
この国の王はとにかく怜悧冷徹、冷酷非情。無能はいらないと即解雇。その抜けた穴を埋めるのは文官の側近である李彰である。普通の官吏が処分されてもそこまで仕事量に影響は出ないが、部署の最高官吏である尚書がいないとあれば話は別だ。李彰にかかる負担は決して軽くはないだろう。
「今に民たちが反乱を起こさなきゃいいけどな。」
たしかにその可能性は高い。民草は変えの効くものだと思い込んでいるところが非常にまずい。荒っぽい政治に人民の不満も限界だろう。おそらく反乱が起こればまともな武器も持たず、さらには手ぶらの民もあの王ならば容赦なく切り捨てるだろう。
李彰はどこか遠くを見つめるような、痛みを耐えるような表情で言った聖悠を見た。
より多くの人を守るために軍に入った、そのために稽古をし、強くなり、将軍という地位にまで上りつめた聖悠。けれど万が一反乱が起こった場合、その手で握った剣を、守るために強くした力を、民に向けるのは聖悠たち兵士たちだ。
(聖悠にそんな事はさせたくない。・・・文官には文官のやり方で、武官を守ることが出来るはずだ。ならば自分は反乱など起こさせわしない。自分に出来る方法で、聖悠の心を守ってみせる。)
しかし世の中とはなんて非情なものなのだろうか。何よりも訪れてほしくないと危惧した想像を、こうも簡単に突きつけるのだから・・・。
「主上、今なんとおっしゃいました。」
王の執務室に書類を届けにきた李彰は王の言葉に机の前で固まった。
「くだらぬことを何度も余に言わせるな。都の国民どもが余に向かって反旗を翻したと言ったのだ。」
王は固まったままの李彰の手から書類を抜き取ると、まるで『庭の梅が咲いたそうだ』とでも言うような口調で言った。
「それでどうなさったのですか!」
普段冷静で、声を荒げることなどもってのほかの李彰の怒鳴り声にさすがの王も少し驚きを見せると怪訝な顔をして口を開いた。
「聞くまでもないだろう。軍を派遣したに決まっている。」
「何を考えていらっしゃるのですか!貴方がこうして生活出来ているのは誰のおかげです。こうして政を出来ているのは、誰がいるおかげか分かっておられるのですか!」
李彰にいつもの冷静さは無くなっていた。
「貴方の今着ている衣服も、食べている料理も、貴方の周りにある紙や筆、政をするための資金を納め、兵士としてこの国を守っているのは誰だとお考えなのです!」
息をすることも忘れ一息にそう言った李彰に王は唖然としていた。
「・・・御無礼お許しください。軍への派遣要請を取り下げます。私の処分はその後なんなりと御命じ下さい。たとえこの命を絶たれようが、私には守るべきものがあります。」
言って一礼すると李彰は駆け足で外へと出て行った。勅命は絶対。それを国王の許可なくして曲げることの罪は重い。それでも李彰は走った。
「将軍、もう門が壊れます!これ以上防ぐのは無理です!」
宮城内に入ってこようとする民をどうにか傷つけることなく防げないかと門を押さえていたがその壊れそうなきしむ音に部下が叫んだ。反乱ごときに大将軍は出さないという命令のおかげで指揮官は将軍である聖悠だった。
(もうこれ以上は駄目か。なら勅命どうり斬るのか?その命令を俺に下せと?)
聖悠が悩んでいる間にも門のきしみと部下の声が響く。
(主上には逆らえない。だが、そんなこと・・・。)
「聖悠!」
まるで一筋の光が差したかのように自分を呼ぶ声が頭に直接届いた。見なくても分かる相棒の声に勢いよく振り返った。
「剣は抜くな!決して誰も傷つけるな!国民の不満は私が聞く。どうにかして落ち着かせろ。」
「またお前は無茶言うよな。それが大変だから困ってんだろうが。それに主上の命令はどうするんだ。」
聖悠は苦笑しながら言った。
「そのくらいどうにかしろ、お前将軍だろうが。命令は、取り下げてもらえた。だから話が出来るくらいにしてみせろ!」
最後の方は少し嘘をついた。別に教えることはない。
「はいはい、分かりましたよ。」
聖悠は嬉しそうに言うと駆けていった。
「さすがは李彰殿だ、あれだけ興奮していた民たちの不満を治めてしまった。」
聖悠が暴動を抑えた後、李彰は話を聞き会話をしただけで、それまで怒りに我を忘れていた民たちの心を静めてしまい、軍の兵士たちの話はそのことで持ちきりだった。
「あれ、将軍。どちらへ行かれるのですか?」
その光景を嬉しそうに見つめていた聖悠が静かにその場を立ち去ろうとするのを一人の兵士が呼び止めた。
「ん?ちょっとな。今日はもう帰っていいって伝えといてくれ、お疲れ様。」
そう言って歩き出した聖悠の顔つきは打って変わり、そうそう見れない怒りに満ち溢れていた。
民たちの意見を書類にまとめ、王のところへと向おうと自分の執務室を出ると、部屋の前には目を瞑りながら腕を組んだ聖悠が壁に体を預けていた。
「・・・何か用か。」
李彰が話しかけるが聖悠は目を閉じたままだった。
「・・・何か言うことはないのか?」
李彰は直感的に理解した。聖悠は怒っているのだと。
「ん、あぁ、反乱を抑えてくれてありが・・・。」
「そんなことはどうでもいい!分かってんだろう?俺が何を言いたいのか。」
李彰の取り繕った言葉は聖悠の怒鳴り声に遮られた。聖悠の目は李彰を強く睨み付けていた。
「そこまでお前のことが分かるわけがないだろう。私は主上に用がある。話があるなら後で聞こう。」
李彰はその怒りを相手にしないと言うように言い放つと聖悠に構わず、通り過ぎようとした。しかしそれは聖悠によって阻まれた。
「っ!」
思わず痛みで顔をしかめるほどの強い力で腕を掴まれた。
「お前!・・・死ぬ気か。」
聖悠の目は怒りよりも悲しみが滲んでいた。
「・・・。」
李彰は一瞬辛そうに見えたが何も言わず聖悠の腕を振り払うとそのまま歩き出した。
「私の処分はお決まりになりましたか?」
李彰は王の執務室に入り書類を渡しながら言った。
「・・・いや。処分はしない。」
珍しく少し弱弱しく言った王に李彰は驚きを隠せなかった。
「そなたの考えは正しい。民たちが反乱を起こしたのは、すべて余の責任だ。だから、処分はしない。」
「本当によろしいのですか。」
いつもの冷静さで李彰がそう尋ねると、王は今まで誰も見たことがない笑顔を見せた。
「余は間違っていたのだ。今からでも、間に合うのならやり直したい。それにはそなたが必要だ。手伝ってくれないか?」
「私の持てる力全てを尽くし、お力になりましょう。どうぞ私の残りの人生、お好きなようにお使いくださいませ、我が君。」
李彰はそう言い恭順の礼をとった。
「よぉし!俺も一生付き合ってやるぜ相棒!」
勢いよく扉を開け聖悠が入ってきた。
「許しをとってから入れといつも言っているだろう!それに騒々しい、扉を壊すつもりかお前は!」
「まぁまぁ硬いこと言うなって。嬉しいくせに。」
李彰の説教に全く臆すことなく聖悠は飛びついて言った。
「嬉しくない!主上、こいつ年とって使えなくなったらさっさと首にしてくださって結構ですよ。」
李彰が聖悠を押しのけて王に向かって言う。
「あ、ひど、俺はいつまでも現役だぜ!」
「ははは、そなたらは本当に仲が良いのだな。」
李彰たちの会話に思わず王は笑ってそう言った。
「お、おい李彰、主上って笑えたのか。」
「私も見たのはついさっきが初めてだ。笑っておられる方がいいじゃないか。」
王の笑顔にぎょっとした聖悠はこそこそと、李彰に話しかけた。
「そりゃそうだな。人間笑顔が一番!」
李彰の言葉に聖悠は楽しそうに笑った。
「まったくお前は。」
そう言ってまた李彰も笑った。
これがこの王が最盛期をむかえ、民に愛され続けた御世の始まりだった。