姑戦争
夜
魔王城は静寂に包まれていた。
そして、日課のように夜の廊下を歩く一人の女性の姿があった。彼女は僅かな月明かりが照らす空間へと、しっかりとした足取りで歩み寄る。出窓のように開かれたこの場所は、彼女のお気に入りの場所だった。
厚い雲を通った月明かりは黄色というよりも青色に近い。そう、彼女の肌のように。
月明かりに照らされた魔王の秘書、メラルダは切れ長の目を遠い向こうの大地に向けた。その目は普段より少しだけ細く、冷たい夜風を避けるようにも見える。
メラルダは冬が近づいている風をその身に受けて、初めて"違和感"を感じた。
「何故、風が冷たくない……」
メラルダは目を見開いて身構え、戦闘態勢に移す。そして、この違和感がもたらす原因を探るため、周りの気配を鋭敏に感じようとした。
併せて、どこからこの状態になった?とメラルダは考える。
ここに来るのはいつもの日課だ、何者かにその隙を突かれたのか?と。
でも、違和感はまだもっと前からのような感じがする。普段は自室で軽く仮眠をとり、決まった時間に目を覚ます。そして着替えてからこの場に来る。しかし、自分の姿を見てその違和感は明確なものになった。
「私はいつ起きた?」
メラルダは仮眠をとった後、起きた記憶がない。しかも今の彼女の姿は寝間着姿であった。
その瞬間、メラルダは遠くの闇から迫り来る光の刃が目に入った。その刃はメラルダの心臓を貫こうと一直線に進む。それをメラルダは間一髪、体を捻って避けることで急所へのダメージを避けたが、代わりに左腕に深いキズを受けてしまった。
不思議に傷口からは血が流れないが、ごっそりと精神力を持って行かれたような疲労感がメラルダを襲う。
「くっ……」
メラルダは傷口を抑えて膝をついた。額からは冷や汗が流れる。今の彼女にもう一撃を交わす力は残されていないように見えた。
その彼女の正面に再び光が集まり、刃の形となったそれは動けないメラルダに向かって突き進む。
メラルダは目を閉じなかった。生きることに最後まで足掻くために。しかし、身体はそんな彼女の心に反して動く素振りを一向に見せない。
光の刃がメラルダの目前に迫った時、甲高い音とともに目の前が一瞬黒く染まる。目を閉じたのではない、メラルダの目には漆黒のマントが映っていた。
短い銀髪と髭を蓄え、光の刃を払った漆黒の剣を握る浅黒い屈強な身体。
その片方の目には、深い傷跡があった。
メラルダを庇うかのように、その男は力強く立つ。そして男は驚きに包まれたままのメラルダの身体を正面に抱え、目に止まらないスピートで疾走した。
抱えられたメラルダは、この男から伝わる匂いを知っていた。忘れるわけがない。
「ミスト様……」
メラルダは男の名前を口にした。一度だけ愛してもらい、子をなすことを許してくれた男の名前を。
しばらくして男はゆっくりと走る速度を落とし、回りを確認して立ち止まると初めて声を発した。
「大丈夫か、メラルダ」
マルクよりも一段低いその男の声は、メラルダの脳髄に響いた。そして反射するように、メラルダの力無い瞳を涙で潤ませる。
「お会い、したかったです……」
それ以外、男にかける言葉をメラルダは見つけられなかった。
「私もだ、メラルダ。本当はこのような形でお前に会うつもりはなかったのだが、間に合ってよかった」
男、ミストはメラルダに向かい笑顔を向ける。まるで子供のようなその顔に、メラルダは幼き日を思い出す。
「私は、昔からミスト様に救われてばかりですよ…」
「そうだったか?お前には俺もあいつも迷惑をかけ通しのはずだ」
メラルダはそう言うミストをただ見つめ、笑顔で気持ちを返す。
瞬間のような今、この終わりが来ないことを願うかのように。
「すまない、あの存在とやらがメラルダを狙うとは私も思っていなかったのだ」
ミストは傷ついたメラルダの腕を苦しい表情で見つめて言った。
メラルダはミストを見つめる。二度と話すことができないと思っていた愛した男、メラルダはその男を前にして、今は身体の苦痛をまるで嘘のように感じていなかった。
メラルダは逆に不思議に力が湧いてくるかのように感じるぐらいだ。
「ミスト様、それは私達も同じです。でもどうして今まで…私はこれまでミスト様の気配を感じることはなかったのに?」
メラルダの言葉に、ミストは少し考えてから答えた。
「私自身の力だけでは、このような形では救えないからだよ」
その言葉に、メラルダは誰が力を貸したのか納得した。
「そうでしたか。なら、後で私から感謝の言葉を伝えさせてください」
メラルダはゆっくりとミストの身体から離れて、自分の足で立ち上がる。
「メラルダ、無理はするな」
「平気ですよ、私はこれでも現魔王の秘書ですから」
メラルダは心配するミストに、胸を張る。その瞳はもう涙で潤んでいなかった。
「それに今回のことで、あの存在が何を仕掛けようとしているのか、少し見えてきましたから」
「そうか……」
ミストは少し惜しむようにメラルダを見る。既にこの世にいない自分という存在であっても、ミストは彼女に背負わしたものを申し訳ないと感じていた。
ただでさえ、メラルダよりも先にこの世を去ってしまったのだ、それは仕方ないことだろう。
「ミスト様、お話出来て本当に良かったです。あの子も、マルク様も私達で守ってみせます。だから、"私達"を見守っていて頂けます…か?」
「ああ、当然だよ、メラルダ……」
ミストはメラルダの言葉を聞くと、笑顔のままでゆっくりと姿が霞んでいく。
そして、初めからここには誰も居なかったかのように、メラルダ一人が残された。
「ありがとうございます、ミスト様…」
目を少し緩ませて消えたミストに向かい告げる。そしてメラルダは周りをぐるっと見渡してから叫んだ。
「居るんでしょ、出てきなさい。それとも影から私のことを笑っていたいのかしら!?」
「……そんなつもりは無いよ」
腰まである銀髪を揺らした少女がゆっくりと現れた。
「あなたはあの時のままなのね、ルーシア」
メラルダは、キッとルーシアを睨んだ。ルーシアはその視線に一瞬怯んだが、まっすぐに見つめ返した。
「メラルダ、こうしてあなたと話すのは初めてだね。私はあなたが怒っている原因は分かっているつもりだよ。でもね、私は謝らないからね」
ルーシアは、メラルダに力強い視線を向ける。絶対に退かないと決めたかのように。
それに対して、メラルダは一歩足を踏み出して言った。
「ルーシア、私は今でもミスト様の心を奪ったあなたを許せません!」
その言葉にルーシアは頬を膨らませた。
「ふざけないでよ、それは私のセリフ。どさくさに紛れてミストの子を産んだメラルダを許せるわけがないじゃない!」
ルーシアの言葉にメラルダは顔を赤くした。
「なんですって! わ、た、く、しがいたから、マルク様がいるのを忘れたの!?」
普段の口調が消えたメラルダがルーシアを攻め立てる。
「忘れるわけじゃない!」
目に涙をためて、ルーシアは叫ぶ。
「あなたが、メラルダが魔王を産んでくれたから……あの子は、クローディアは幸せになれるんだよ! そんなの分かっているに決まっているじゃない!」
それは今も変わらないルーシアの願い。
「でも、そこまで私は、今も大人にはなれないんだよ。だってしょうがないじゃない、私だって本当はミストの子が欲しかったんだから!」
ルーシアは心に秘めたままにしておくはずだった気持ちを、メラルダにさらけ出した。
「ルーシア……」
「はあはぁ、だからね、メラルダ。あなたに感謝しているのは本当だけど、やっぱりあなたが憎いの。これは多分これからもずっと変わらない……」
涙を流し、息を枯らしたルーシアをメラルダはじっと見つめた。
「私だってそうよ。子供は授けてもらったけど、ミスト様の気持ちはずっとルーシア、あなたのものだったもの……だから、私たちはずっと憎みあう。でも……」
「でも、何?」
メラルダはルーシア見たまま、唇を噛んだ。
「あの子には、マルクには幸せになってほしいのよ。子育てを放棄して姪夫婦に任せた私に言えた義理はないかも知れない、でも、私は、それでも私はあの子の母親なんだから!」
メラルダは、先程ミストに見せたのとは異なる涙を流しながら、ルーシアに訴えた。
ルーシアは表情を変えずに口を開く。
「だからそんな相手でも……」
「手を取り合わないといけない……」
メラルダはルーシアの言葉に合わせるように言う。
二人は笑う。同じ男を愛したルーシアとメラルダは馬鹿みたいに涙を流し、笑いあっていた。
それは友情などではない。でもただの憎しみでもない。だからといって過去をやり直せるはずもない。人の気持ちが簡単に変わることはない。
死して長い時を過ごした者、生きて長き時を今も過ごす者。
お互い形は違えど、長い時間を過ごしてきたのだ。
言葉にしなくてもそれは経験でわかる。
しかし、言葉にしないと伝わらないことは確かにある。どんなに心で思っても、それがただの自己満足にすぎないことも。自分に分かったふりをしていることも。
言葉にせずに足りる相手にはそれは必要無い、でもこの二人の間では必要だった。それが自分をどんなに傷つける行為だったとしても。
ルーシアとメラルダは、互いの拳を笑顔で突きつける。
今の二人にはそれで十分だった。




