01・彼と彼女
夕飯を終わらせて風呂も済ませ、一通りテレビ番組を確認して面白そうなものがないと判断すると、両親に声をかけて自室に引っ込む。
スウェットだけだと少し肌寒さを感じ、椅子の背凭れにかけてあったカーディガンを羽織ると、6歳から使用している学習机のライトをつけて椅子に腰掛けた。
足元に置いた鞄からテキストとノート、それと今日の授業中に返却されたテスト用紙を取り出し、お気に入りの曲満載のポータブルオーディオプレイヤーをオンにする。イヤホンは左耳だけ。もし誰かに声をかけられても、すぐにわかるようにだ。
例年以上に暑かった夏が終わり、いつもよりもやや短かい残暑の頃を過ぎると、やっと過ごしやすい爽やかな秋が訪れた。
何だか空が高いなぁと思ったのは、友人と帰宅途中にトンボを見かけて空を仰いだときだ。黒いトンボのシルエットの向こうには、モコモコとした羊雲が浮かんでいた。
机に向かって1時間半ほどもたった頃、ふと窓の外が騒がしいことに気がついた。東側に面したサッシを僅かに開けてみると、庭を挟んだ向こうに隣り立つアパートの二階、奥から3番目のドアの前で、二人分の人影がなにやらもめているように見えた。
「・・・やれやれ」
溜息をつくと机に戻り、プレイヤーのスイッチを切る。せっかく波に乗りつつあったのに水を差された気持ちで机の抽斗を開けると、ひよこのマスコットがついた鍵を手にしてノロノロと部屋を出た。
「あら、どうしたの? 出掛けるの?」
階段を降りると、リビングのソファに座って寛いでいた母親と目が合い、「どこへ?」と訊ねられる。些か虫の居所が悪かったため、指で庭の方向を指し示しただけで黙って玄関へと向かった。
意図が伝わったらしくうふふと笑いながら手を振る母親に構わず、サンダルをつっかけて外に出る。自宅の庭を囲む生け垣とアパートの敷地を取り囲むフェンスを回り込み、『まーがれっとハイツ』の表札がかけられた門柱を抜けて外階段を上った。
カン・・ カン・・ カン・・
億劫だと重い靴音が物語っている。
上がりきって通路を見やると、人の気配に気がついたらしい二人は、動きを止めてこちらを見ていた。
「コラ、夏葉。真夜中に公共の場で騒いでんじゃねーぞ。近所迷惑だろーが」
近づくに従い二人の様子がよく見えてきた。片方は薄いピンクのワンピースを纏ったアパートの住人・小川 夏葉。。彼女は小柄で、背中ほどもある長くつややかな黒髪は、会社勤めしている大人の女性らしく、キチンとバレッタでまとめられている。
もう一人の人物は若い男だ。20代半ばぐらいで、スーツ姿に特筆すべき特徴のない面立ちの彼は、夏葉の右腕を掴んでいる。
「な・・誰だッ? おま・・」
「あ、どうも。コイツ送ってくれたんですね。アリガトウゴザイマス」
「は?」
突然身内のような挨拶をされて驚いたのか、男はポカンと不抜けている。そんな彼に構わず夏葉に近寄ると、無言でペシッと彼女のおデコを叩いた。
「イタッ!」
「当たり前だろう。今何時だと思ってるんだ?」
「う~~~、でもぉ・・」
「でも・・じゃないだろ」
掴まれていないほうの手で額を抑えながら、上目遣いで睨んでくる彼女の言葉をスッパリと一蹴する。
腕を組んで見下ろしていると、根負けした夏葉は「ゴメンなさい」と小声で謝った。
「良し。じゃあ部屋に先に入っていろ。オレは彼と話があるから」
持ってきた鍵でさも当然のように玄関のドアを解錠すると、さりげなさを装って夏葉の腕を男の手から離させ、顎をしゃくって部屋に入るよう促した。
「将馬クン・・」
ドアが閉まりきる瞬間、細い隙間から夏葉が心配そうな声で呼んだが、ほんの少しだけ微笑んで見せると安心したらしく、うんと頷き奥に引っ込んだ。
ガコンと音を立てて、金属製のドアが閉まる。
廊下の常夜灯と、通りを照らす街灯だけの薄暗いアパートの外通路。見るからに機嫌の悪い男と向き合い、将馬はバリバリと後頭部を掻くと、魂が抜け出そうなぐらいの深い溜息をついた。
「ハァァァ・・・」
正直、面倒くさい。
突然現れて獲物を逃がした男に対し、彼は敵愾心を隠すことなくギラギラと睨んでくる。
だけどどんなに睨んでも凄んでも効果はない。こう見えても、とある事情から大人げない大人には免疫がある。その中にはもちろん、夏葉も含まれている訳だが。
まあ、とにかくさっさとお引取りいただいて、早く家に帰って寝たい。
将馬は腕を組んで手摺りに凭れ、不敵な笑みを浮かべた。
「わざわざ部屋の前まで送り届けてくださるなんて、随分と下ごこ・・コホンッ、お優しいんですね。ですが、このアパートの2階の住人は皆んな女性なので、できれば階段の下までにしてください」
実際にこのあたりを警邏しているお巡りさんにも、「『まーがれっとハイツ』の2階に男の影があったら、それは不審者ですから」と言ってあるし、通路には一応防犯カメラも設置している。
そう告げると男の様子が一変し、キョロキョロと周囲を見回したかと思うと、将馬を些か乱暴に押し退け、慌てて逃げ去った。
ありがとうございます。