渡せなかったチョコレート
センター試験も私大の一般入試のA日程も無事終了。いくつか受験した中で、幸いにも第二希望の大学に合格する事ができた。
しかし。母に入学手続きを頼んでおいたにもかかわらず、今朝になって銀行に行けなかったから手続きをしていないと言われた時には、一瞬眩暈を覚えてしまった。
正社員としてフルタイムで仕事をしている母は、忙しさゆえかそれとも生来ののんきな性格ゆえか、とにかく物忘れが激しい。健忘症でも若年性認知症でもないけれど、父に言わせると一本どころか百本くらい抜けているのだ。
その母が、よりにもよって私の大学への入学手続きを忘れていたなんて。しかも締切日になって言い出さなくてもいいじゃないか。もっと早いうちから言ってくれれば、勤務中には身動きが取りにくい母に頼まなくとも、自分で銀行でも郵便局でも行ったというのに。まあ、扱う金額が高校生にはちょっと多いのだから、母の気持ちも分からないではない。でもそれも、締切に間に合わなければ、入学の権利を放棄してしまう事になるというのに。
ちなみに今は銀行も厳しくなって、ATMでのお金の出し入れの金額が制限されてしまっている上に、十万円以上の振込には身分証明なんてものまで必要になってしまっていて、いろいろと面倒らしい。
こうなったら学校に遅刻してでも、自分で手続きに行かなければならない。それなのに母は、ここに来ても未だ私にキャッシュカードを持たせるのは危険だと言い張っている。銀行へは二人で行き、引き出したお金を郵便局から振り込むところまでは母に任せ、その後の必要書類を送る段取りは自分でしろという事なのだ。
少なくとも二時間目の授業まで潰れてしまう事は、間違いなかった。どうして、よりにもよって今日なのだろう。私は深い溜息を吐かずにはいられなかった。
銀行から郵便局に行ってあれやこれやと用事を済ませていたら、思いの他時間がかかってしまい、結局学校に着いたのは三時間目が始まって間もなくの事だった。もういっそ休んでしまっても良かったのだけれど、そうはいかない事情なんてものがあったのだから仕方がない。
教室内を見回すと、今日も数人の席が空いている。毎日のように受験があるものだから、最近はずっとこんな感じだ。間近に迫った卒業式の合唱の練習なんてものがあるのだけれど、全員揃っての練習ができない、と委員長が嘆いていた事を思い出す。
「佐川ちゃんはいいよねえ、もう大学、決まっているんだから」
溜息混じりに声をかけてきた相手を見て、私は曖昧な笑顔を返た。隣の席の彼女は、A日程の分はすべてダメだったらしいと聞いている。B日程も何校か申し込んでいるそうだけれど、受験料だけで実に五十万円ほどもかかっているのだとか。どこにも通らなかったら、経済的に浪人も難しい、と嘆いていた。
ふと、両親の顔が脳裏に浮かぶ。
父は校区内で一番の進学校である高校に入学したにもかかわらず、家庭の事情というやつで二年生の途中で退学を余儀なくされた。奨学金を受けていたほど優秀な成績を収めていた父にとっては、やむを得ないとはいえ苦渋の選択だった事だろう。
母は四人兄弟の一番上で、父とは異なる校区でトップの高校を卒業したけれど、やはり家庭の経済状態から大学進学を断念した。教師たちは皆進学を勧めて来たそうだけれど、母の長女としての責任感がそれを許さなかったのだ。
そんな学歴を抱えている両親は、子供たちには何としてでも大学に進学してもらいたいと思い続けている。必要以上にその事を言葉にしてプレッシャーをかけられる事はないけれど、私には両親の気持ちが痛いほど分かるのだ。だからまあ少なくとも、単に学歴のために進学しておこうという考えの人よりは必死だったかもしれない。
あとは苦手教科を、克服までとはいかないまでもそれなりにこなせるようになっていた事。これが一番大きいかもしれない。そうでなければ、センター試験さえも受けられなかったかもしれないのだから。
折よく今日はバレンタイン。その苦手克服の恩人とも言える人にお礼を兼ねてと母から預かって来た物が、私のカバンの中に入っている。
これをいつ渡しに行くのかが、最大の問題だ。本当なら今朝はいつもより少し早目に登校してきて、始業までに机の上に届けておくつもりだったのに。母のうっかり発覚のお陰で、その計画は実行に移せずに終わってしまった。
さてどうしたものだと思案しているうちに、あっさりと時間がすぎ、昼休みになってしまった。さっさと昼食の弁当をたいらげた私は、いやな事を早く済ませたい一心で教室を後にしたのだけれど。
英語科の教務室の前まで来た私は、けれどドアノブへと伸ばした手が途中で止まったまま、動く事ができないでいた。母から預かってきたチョコレートを渡すだけなのに。たったそれだけの事がこんなに難しいなんて、思いもしなかった。
どうしよう。どうしたもんだ。思案に暮れていた私の肩に、ぽん、と誰かの手が掛けられた。あまりに突然の事に驚いてしまって、危うく転びそうになったところを腕を掴まれて惨事を避ける事ができたけれど。
「佐川、大丈夫か? 教務室に何か用か?」
見ると、一年生の時の担任の福山先生だった。
「あ、はい。無事大学に合格できたので、ずっと補習でお世話になっていたお礼を」
「ああ、じゃあ、大和先生か」
言いながら教務室の扉を開き、先に中に入ってドアを押さえてくれている。これはもしかしなくても、中に入れという事なのだろうか。恐る恐る部屋の中に顔を突っ込んでみると、目的の大和先生の姿が見えた。ただし一人ではなく、周囲を数人の女子生徒に囲まれて。
先生に渡すためと思われるチョコレートを手に談笑する彼女たちと、その輪の中で笑顔を返している先生の姿に、私の体は石化したように動かなくなってしまう。
「大和先生、佐川が用があるらしいですよ」
無情にも、福山先生が声高に大和先生に声をかけてしまった。気を利かせてくれたつもりなのだとは思うけれど、今の私にとっては全然ありがたくない。
「佐川、どうした」
席を立ってこちらに歩いてくる先生を見ても、まだ私の体は動いてくれない。そして先生の背後からは、楽しいひと時を中断させてしまった私に対する複数の鋭い視線が投げつけられる。たぶん、私が先生の特別補習を受けていた事を知っているのだろう。
ああ、やっぱり大和先生はもてるんだな、と絶望的な気分で再確認した。
「あ、あの、これ、母から補習のお礼に、どうぞ、って」
「あー、そうか。超絶英語音痴のお前を叩き直してやったのは、教師としては当然の事だからな。しかしこういった物は受け取れない決まりになっているんだが」
その答えに、思わずムッとせずにはいられない。先生の机の上にはきれいにラッピングが施されたいくつもの箱が積み上げられ、つい今しがたも、私の目の前で受け取ろうとしていたではないか。
そんな考えが顔に出ていたのだろう。先生は少しだけ困ったように首を傾げる。
「特定の保護者からの贈り物ってのは、教師が受け取ると収賄になるんだよ。だから、これは受け取れない。お袋さんには、気持ちだけもらっとくって伝えておいてくれ」
つまり、私を睨みつけている女子生徒からのチョコレートはプレゼントとして受け取れるのに、これは賄賂と見なされて拒否されるという事なのだ。彼女たちの表情が一転して、嫌な笑いを湛えたものに変わる。
教職に就いている者の立場からは当然の対応なのかもしれないけれど、胸の裡にもやもやとした物が溜まっていくのが自分でも分かった。
「まあまあ。今日はバレンタインだし、チョコレートくらいなら受け取っても問題にならんでしょう」
福山先生が助け船を出してくれたけれど、大和先生は頑として首を縦には振ってくれない。
「一人だけ特別扱いするわけにはいきせんから」
「も、いいです。お邪魔してすみません、でし、た」
「え。おい、佐川」
くるりと先生に背を向けた私は、包みを握りしめたまま教務室を飛び出していた。
気分は最低だ。お礼の気持ちが賄賂になるだなんて想像した事もなかった私は、食卓の上に置いた二つの包みを眺めていると、泣きたい気分になって来た。
「なんだよ姉ちゃん、辛気臭いなあ」
三つ下の弟に溜息を吐かれても、何も言い返す気力がない。ちなみに弟は今日、少なくとも三個のチョコレートを受け取って来ている。その中に本命があったのかどうかは知らないけれど、同じ受験生でも余裕だなと羨ましく思った。
「って、あれ? なんでこっちだけでも渡さなかったんだよ」
弟が指さしたのは、母が用意した物とは違う、もう一つの包み。それは母の「お礼」に便乗して、私から先生に渡そうと思っていた物だった。本当は本命なんだけれど、そんな事をあの先生に知られてしまえば、恰好のからかいの餌食になるのは目に見えている。そうでなくとも恥ずかしくて言えるわけがないのだから、あくまでも表向きは、毎日マンツーマンでお世話になったお礼の義理チョコだ。
「だって、お礼は受け取れないなんて言われて、渡せるわけがないじゃん」
「お礼じゃなくて、本命だって言えばよかったのに」
「言えるわけ、ないでしょ。相手は先生なんだよ」
そう。相手は教師で私は生徒。どうせ、教務室の先生の机の上に積み上げられていた箱たちと同じ扱いしかされないに決まっている。
「ふうん? 俺、先生の方も十分脈ありだと思ったけど」
飲みかけていたお茶を、盛大に吹き出してしまった。すかさずチョコレートにかからなかったかチェックをしたけれど、辛うじて無事だったようだ。
「あ、あのねえっ! 無責任にそういう根拠のない事を言うもんじゃないわよ! ってか、あんたなんで先生が私の本命だって知ってんのよっ?」
「そんなの、姉ちゃんの態度を見ていれば、意識しまくってるのばればれじゃん? それに先生の方も、ちゃんと根拠はあるけど? 姉ちゃんが風邪ひいた時、先生、すんげー顔して飛んで来たじゃん」
一体いつの話なんだろうと記憶を辿って、すぐに思い出した。あの、大雨の次の日の事だ。雨に濡れたせいで熱を出してしまった私が、次の日の朝待ち合わせの時間に家を出られなかったため、帰りに先生が様子を見に来てくれた事があった。もちろんその時は母も家にいて、補習に加えてそんなところでもお世話になったからと、一人暮らしの先生に無理やり夕食を勧めていたりした。
それからは、補習で遅くなりなおかつ雨が降る日には、先生に送ってもらう機会が何度かあった。そのたびに母から夕食に誘われていた先生は、けれど受けたのは最初の一度だけ。それ以降は一度もうちに上ってくる事はなかったのだ。それでも家の前までは来ていたから、母がお礼を言うために外に出て、何度か先生と顔を合わせている。父も一度ならず会っているはずだ。
「先生、最初っからあれだったしさあ。普通の雨の日まで送ってくれるなんて、十分特別扱いだと思うけど? 俺が気付くくらいだから、当然父さんも母さんも気付いてたし」
母が一体何を思ってこのチョコレートを私に託したのか、考えるのが恐ろしい。家族全員に、先生の事を好きなのだと気付かれていたなんて。知らなかった事とはいえ、知ってしまえば恥ずかしさがどっと押し寄せて来てしまった。
「で、ででで、でも、付き合ってるってわけじゃ、ないから、ね」
「あー、そりゃそうだろ。母さんからのチョコも受け取れないってくらい真面目な先生が、そうそう姉ちゃんに手え出せるわけないじゃん」
でも実は手を出されそうな素振りを見せられたうえに、他の男のものになるなと宣告されているとは、まさか知られてはいないだろう。
「あんた、ねえ」
「て事だから、ま、そんなに落ち込む必要はないんじゃない」
若干十五歳の弟に諭されている私って、どうなんだろう。
「ただいまー」
頭を抱えて恥ずかしさに身もだえていると、両手に買い物袋を提げた母が帰って来た。
テーブルの上の包みを見た母は、あらまと短く呟くと、次いでふふっと笑いを浮かべた。
「大和先生、やっぱり受け取らなかったのねえ」
どうやらその事も母の予想の範疇だったようだ。
「なに。そんな事で落ち込んでいるの? そんなの、先生を好きになっちゃったんだから、仕方のない事じゃない」
あっけらかんとそう言い切ってしまう母を、私はぽかんと口を開いて見つめた。
「先生は先生であって、それ以外の何者でもないのよ。先生と生徒でいる限り、これ以上の特別扱いができるわけ、ないでしょう。それ以上を望むのなら、そもそも先生なんて好きになっちゃいけないんじゃないの」
説得力があるんだかないんだかよく分からないその言葉に、けれど私はこっくりと頷いていた。先生だから好きになったわけじゃないけれど、好きになった人が先生だったのだから、仕方がない。
「ま、もっとも? もし大和先生が、卒業前にあんたに手を出すような人だったら、私も父さんも容赦なく教育委員会に突き出していたわよ。よかったわね、ちゃんと大人の分別のある人で」
ああ。普段どれだけすっとぼけていようとも、やっぱり母は母だ。がっくりと脱力しながら、私はははは、と乾いた笑いを漏らした。