壬生寺
先程から部屋の前を、何度も何度も、一人の隊士が行き交っている。
足音と気配を殺そうとしているようだが、斎藤からすればまったく殺し切れておらず、その隊士が妙に焦っている様子なのまで筒抜けだった。
読んでいた本を閉じると、斎藤は腰を上げて障子を引いた。ちょうと部屋の前を通り過ぎたその背中に、おいと声をかける。
「何かあったのか」
斎藤が自室にいると思っていなかったのか、その隊士は文字通り飛び上がって驚いた。くるりと身体ごと斎藤の方へ向き直り、腰を折るようにして頭を下げる。
「斎藤組長! すいません、せっかくの非番なのに、お邪魔してしまって」
「それは構わない。それよりもどうした」
「いえ、あの、」
見ればその隊士は一番隊の者だった。
隊服をまとい、襷を掛け、鉢金を額に巻いているところを見ると、そろそろ巡察の時間なのだろう。しかし、ならばなぜ彼は庭や門に集うわけでもなく、あちらこちらをうろつき回っているのか。
疑念はすぐにとある確証へと変わった。
「……いないんだな」
「はい。まだ時間はあるのですが、屯所内にいる気配がないのが気になって」
じきに巡察に出なければならない刻限だというのに、一番隊組長たる沖田が見つからないのだという。
組長がいなければ、巡察には出られない。
「あいつは、あれだけ副長に怒られたのに、懲りてないのか」
実は沖田が巡察の時間になっても姿を現さないのは、初めての事ではなかった。彼は何度か、巡察の時間を若干過ぎた頃合いにやってきたという前科持ちなのだ。
そのたびに誰かしらが、組長としての意識が云々、示しがどうのこうのと説教をするのだが、沖田はしらっとした顔で「うちの隊士たちはみんな優秀だから、僕がいなくても大丈夫ですよ」などと返したものだ。
それが土方の耳に入り、一刻ほど説教を食らっていたのはつい先日のことだったような気がするのだが。
斎藤は深いため息をひとつ零すと、隊士の肩をぽんと叩いた。
「心当たりがあるから、俺が連れて来よう。一番隊士たちは各々支度を整え、すぐに出られるように準備しておけ」
「はい。よろしくお願いします」
斎藤は沖田の部屋に立ち寄って彼の不在を確認し、必要なものをいくつか手に取ると、そのまま庭から裏口へと回って屯所から出る。
向かう先は、このすぐ傍にある寺だった。
近づくにつれ、子供のはしゃぐ声に重なるようにして、妙な歌が聞こえてくる。
親亀、子亀、孫亀ー……と訳の分からない歌を調子外れに歌うその声には、十分すぎるほど心当たりがあった。
「総司」
背中に小さな子供を二人乗せたまま、境内の片隅にある石に腰かけて歌っていた沖田は、斎藤の声に顔をあげる。先程の歌からしてどうやら子亀、孫亀らしい子供たちも、斎藤の方を見つめてきた。
その表情はとても楽しげだ。斎藤には理解できないこの遊びが、子供たちにとっては堪らなく面白いものらしい。
「そろそろ一番組の巡察の時間だろう。準備が終わりそうなのに、肝心の組長がいないと、一番組の隊士が嘆いていたぞ」
「わ、もうそんな時間になったんだ。ごめんね、もう仕事に戻らなくちゃ」
子供たちは少し不満そうな顔をしたが、仕事という言葉にしぶしぶという風に沖田の背中から降りる。
そして、そーちゃんがいないならつまんないし別のところで遊ぼ、と子供は手を取り合って、そのまま駆けて行った。
聞き分けがいい子供だなとか、そーちゃんと呼ばれているのかとか、いろいろなことを考えながらも表情には出さず、斎藤は沖田の頭にばさりと羽織を落とした。沖田の部屋から持ち出してきた、彼の羽織だ。その上に鉢金も落としてやると、ごつ、と鈍い音を立てる。
痛い、とぼやいた沖田の声は聞こえなかったことにした。
「遊んでいないで、ちゃんと仕事をしろ」
「業務に支障が出るようなさぼり方はしていないよ。今だって、なんていうのかな、隙間の時間にこうして息抜きしてるだけで」
「いや、支障が出ているだろうが。第一これでは隊士たちに示しがつかないだろう」
斎藤の言うような言葉はもう何度も、それこそ耳に蛸ができるほど聞かされているのだろう。沖田はただ笑いながら、斎藤が持ってきてくれた羽織をひっかけ、額あてを巻いた。
そしてしゅる、と襷をかけながら、笑み交じりの声で言う。
「そういえばねぇ、最近妙なのがこの辺りを嗅ぎまわっているの、知ってる? 子供たちが言っていたんだ。変なお侍さんがこの辺りをこそこそうろついていて気持ち悪い、って。しかもうちの隊士に接触しているみたいなんだよねぇ。もう監察の方が把握済みかもしれないけど、一応土方さんの耳に入れておいてよ」
少なくとも斎藤は、その話を知らなかった。
もしかしたら監察の山崎あたりなら知っているのかもしれないが、いま聞いた話は土方の耳にすぐに入れておこうと思った。
不逞浪士がうろついているのはともかく、隊士と接触している気配があるというのは不穏だ。
そしてふと気づく。
「そういえば多摩にいたときのあんたは、そんなに子供が好きでもなかったな」
多摩で近藤が試衛館の主をしていたとき、斎藤も一時世話になったことがあった。
近所の子供が稽古に来たり、ただ遊びに来たりとしていたが、当時の沖田は子供が寄ってくれば愛想よく相手をしていたようだが、自ら子供を構いにいくことはなかったような覚えがある。
寺で子供とただ遊んでいるだけだと思っていたのだが、実は子供を通してしか見られない世界をこうして覗き見し、新選組にとって有益になる情報を集めていたのか。
それを問いただそうとした斎藤だが、少し考えてやめた。聞いたところで真剣に答えが返ってくるようには思えなかったのだ。
「別にいまも子供が好きっていうわけでもないよ。でも子供の面白さには目覚めたみたい。子供って面白いね、あけすけで」
沖田は屯所の方を指さしながら、その『面白い』話の一端を斎藤に聞かせる。
「土方さんに惚れちゃった女の子がいるんだけどさ、『あの人は案外と繊細な人だと思う』なんて言ってたんだよ。案外敏いよねぇ。あと井上さんのことを、おじいちゃん呼ばわりしたりしてたっけ。あの人、おじいちゃんって歳じゃないんだけど、やけに穏やかで落ち着いて見えるからそんな風に言われちゃったのかな」
そして沖田の指先が、つっと斎藤の方に向けられた。
「斎藤のことは、仏様みたいな人だって言ってたっけ。あと、僕のことも。ほんと面白いよねぇ、」
く、と沖田の唇がたゆむ。
普段から笑みを浮かべているような穏やかな顔立ちをしている沖田だが、たまにこうした少し皮肉げというか、人の悪い笑みを浮かべることがあった。
「新撰組の鬼だって言われている僕たちが、よりにもよって仏様なんてさ──さて、いい加減行かないとまずいかな」
じゃあ行ってくるね、と子供にするように手を振って、沖田は屯所の方へ駆けていった。
ひとり壬生寺に取りこのされた斎藤は、沖田が座っていた石に腰を下ろし、空を見上げる。
自分が仏のようだと言われたのは、恐らく風貌のせいだろう。表情の読めないこの顔は、どうやら人によっては仏の彫り物のように見えたりもするらしい。
沖田は、常に浮かんでいる穏やかな笑みから、仏を連想したのだろうか。
それとも子供たちは、土方の本質を見抜いたようにして、沖田の本質の欠片も見抜いたのだろうか。
そうだとしたら……
「子供とは、恐ろしいものだな」
斎藤が思わず零した呟きは誰の耳に届くこともなく、木々の間に溶けて消えていった。