お嬢様カーブを投げたい!
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リディア・エーヴェルハルトは、人生で一度も泥にまみれたことがなかった。
王都の北に広がるエーヴェルハルト公爵家の庭園は、雨のあとでも靴の先一つ汚れないように整えられている。薔薇の棘は庭師が先回りして落とし、噴水の水は朝ごとに取り替えられ、白い石畳はいつでも光っていた。リディアが歩く場所には常に侍女が一歩先に立ち、椅子は引かれ、ドレスの裾は誰かに持たれる。転ぶことも、走ることも、木に登ることも、令嬢には必要ないとされていた。
だから、十四歳の夏の日に初めて見たその軌道は、あまりにも鮮烈だった。
父に連れられて、王立競技場の貴賓席にいた時のことだ。普段ならリディアは観劇や舞踏会にしか連れ出されない。だがその日は、王太子主催で新しい競技が披露されるというので、公爵家も顔を出す必要があった。
競技の名は、投球戯式。大陸西方で流行し始めた新しい遊戯で、革で巻いた球を投げ、打ち、点を争う。父も母も、社交の話題にするために一度くらい見ておくべきだ、という程度の認識だった。貴族の観戦席では「あら、思ったより野蛮ではないのね」「でもやはり平民の遊びでしょう」と、扇の陰でそんな感想が交わされていた。
リディアも最初は退屈していた。白線で区切られた土の広場、妙に短い棒を持って構える男たち、整然としているようでいてどこか粗野な歓声。優雅とは程遠い。これのどこに皆が熱狂するのか理解できなかった。
だが、七回の表だった。投手が交代した。
細身の青年だった。華々しい英雄というより、どこにでもいそうな顔をしていた。だが、彼が二球目に投げたそれを見た瞬間、リディアは息を忘れた。
球が曲がった。
まっすぐ来ると思った。誰もがそう思ったに違いない。だが白い球は途中で意志を持ったように外へ逃げ、打者の手元でふっと落ち、空を切らせた。
歓声が上がる。
けれどリディアには、音が遠くなっていた。
どうして曲がるの。なぜ今、落ちるの。あんなに美しく、予想を裏切っていいの。あれは不正ではなく、技術なの。まっすぐ届くべきものがまっすぐではないことは、罰されないの。
その日の帰りの馬車で、リディアは初めて父に問いを投げた。
「お父様、あの球はどうして曲がるのですか」
父は一瞬だけ驚いた顔をして、それから曖昧に笑った。
「さあな。魔術か、指先の技か。どちらにせよ、君が気にするようなものではないよ」
「そう、ですか」
「リディア。君は来月の舞踏会に向けて、まずは王都の華としての立ち居振る舞いを身につけなさい。球遊びではなく」
球遊び。
その一言で済ませられてしまうものに、どうしてあんなに心を奪われたのか、リディアには自分でもよくわからなかった。
ただ、その夜から彼女は眠る前に必ず、あの軌道を思い出すようになった。
ベッドの天蓋を見上げて、目を閉じる。白い球が、空中でふっと外へ逸れ、最後に落ちる。何度思い返しても、胸の奥が妙に熱くなった。
まっすぐであることばかりを教えられてきた人生だった。
姿勢は正しく、言葉は柔らかく、笑みは静かに、将来は家格にふさわしく。公爵令嬢とはそういうものだ。食事の席でスープを音もなく飲む角度まで習った。扇を開く指先の形まで、家庭教師に何度も直された。
そのどれも、間違っているとは思わない。母は美しい淑女で、父は尊敬される政治家だった。公爵家の娘であることは誇りでもあった。
けれど、あの球だけは違った。
正しくないことが、あんなに美しく見えたのは初めてだった。
十六になった春、リディアはとうとう我慢できなくなった。
屋敷の東庭にある果樹園は、早朝ならほとんど人が来ない。侍女たちもまだ朝食の支度で忙しく、庭師は西側の温室にいる時間帯だ。リディアはそこへ、こっそりと革の手袋と、侍女に頼んで買ってもらった球を持ち込んだ。
もちろん最初から「投球用の球を買って」と頼めたわけではない。「手に馴染む丸いものが欲しいの。そうね、握って使う訓練具のようなもの」と、ずいぶん回りくどく説明して、ようやく手に入れたのだ。
そして、初めて投げた。
球は見事に後ろへ飛んだ。
木の幹にさえ届かず、手前の花壇に落ちて、リディアはその場で呆然とした。
「……難しすぎませんこと?」
誰に向けた文句でもなかった。だが、それからも何球か投げてみて、さらに思い知る。届かない。狙えない。曲がる以前に、投げるという行為そのものが思ったよりずっと暴力的で、全身を使うことなのだ。
令嬢としての姿勢は、投球にはまるで役に立たなかった。
次の日は肩が上がらなかった。
その次の日も、早朝の果樹園へ行った。三日目には、同じ木に二度続けて当てられるようになった。五日目に、指のかかり方を意識してみた。七日目には、ようやく「曲がるかもしれない」と思える球が一本だけあった。
ただ、その姿を見つかったのは十日目だった。
「その握りでは曲がりませんよ、お嬢様」
後ろから声がして、リディアはほとんど悲鳴を上げかけた。
振り返ると、果樹園の柵に片肘をかけた男が立っていた。栗色の髪、くすんだ青の瞳、やや長身で、衣服は学園の教師補佐のもの。王立学園で一般教養と統計学を教えている、ユリウス・アルセイン。侯爵家の次男で、社交界では「礼儀正しいが少々皮肉屋」と評判の男だ。三つ年上で、リディアが学園に通うようになってから何度か顔を合わせている。
「な、な、な」
リディアは動揺すると語尾より先に音が崩れる。
「何をなさっておりますの、アルセイン様」
「そのままお返しします。何をなさっているのです、公爵令嬢が朝の果樹園で」
ユリウスは球を拾い上げた。
「しかも投球練習とは」
リディアの顔が熱くなった。
「見ましたの」
「見ました」
「どこから」
「最初から」
「最悪ですわ」
その場にしゃがみ込みたい気持ちを、辛うじてこらえた。公爵令嬢としての意地だけが、背筋を支えていた。
「お父様には」
「まだ」
「まだ、ということは」
「今後のあなた次第です」
なんて嫌な言い方だろう、とリディアは思った。
だがユリウスは続けた。
「秘密にしてほしいなら、条件があります」
「……何ですの」
「その球、もう一度投げてみてください」
リディアは目を瞬いた。
「脅しておいて、要求がそれですの」
「脅しではありません。純粋な興味です」
「もっと悪い気がいたしますわ」
「よく言われます」
悔しいことに、その返答は少し面白かった。
リディアは唇を引き結び、球を受け取って振りかぶった。昨日よりは慣れている。けれど見られていると思うと、急に手首が固くなる。
投げた球は、当然ながらほとんど曲がらなかった。
「やはり」
とユリウスが言う。
「その握りでは、人差し指に力が逃げます」
「知ったようなことを」
「知っていますので」
「あなた、投球戯式がおできになりますの?」
「少し」
その「少し」が絶対に少しではないことは、握りを見ればわかった。ユリウスが球を持つと、ただ指先を添えただけで道具が生き物みたいに手に馴染む。
「よろしければ」
彼は軽く首を傾げた。
「教えましょうか」
リディアはその瞬間、完全に負けたと思った。
秘密を握られたからではない。球を投げたいという気持ちを、たった一言で言い当てられたからだ。
それから二人の奇妙な朝練が始まった。
ユリウスは本当に教えるのが上手かった。肩の使い方、重心の移動、指の離し方。令嬢の動きがいかに無駄と無理でできているかを、遠慮なく指摘する。
「腰が高いです」
「そんなこと言われても、はしたなく沈み込むのは」
「球は社交を見ません」
「嫌な言い方ですわね」
「今日はまだ優しい方です」
最初のうちは腹が立った。けれど、言われた通りに身体を使うと、球が少しだけ変わる。回転が安定し、手を離れたあとに外へ逃げるような気配が生まれる。
それが楽しかった。
リディアは生まれて初めて、誰かに運動のことで褒められた。
「今のは悪くない」
ユリウスが言う。
「少なくとも、昨日の花壇狙いよりは」
「花壇は狙っておりません」
「ですが当たっていました」
「うるさいですわ」
そんなやりとりのたびに、リディアの胸は軽くなった。
王立学園では、リディアはいつも「完璧な公爵令嬢」だった。礼儀正しく、隙がなく、教師からも令嬢たちからも一目置かれる存在。崩れてはいけない像が先にあり、その中に自分を収めて生きている。
だが果樹園では違った。投げても外れるし、転べば裾も汚れる。ユリウスはそれを笑うし、リディアも彼の前では少しずつ、失敗を恐れなくなっていた。
「どうして、そんなにカーブが好きなんです」
ある朝、ユリウスが聞いた。
リディアは少し考えた。理由は最初から一つではなかった気がする。
「まっすぐではないから、ですわ」
「変わった答えですね」
「変でしょうか」
「大抵の人は、まっすぐ速い球の方に憧れます」
リディアは球を手のひらで転がした。
「わたくしの周りには、まっすぐなものしかありませんの」
「……」
「正しい言葉、正しい姿勢、正しい縁談、正しい将来。みんな、どこへ行くべきか決められていて、外れることは美しくないと教えられます」
そこで少し笑う。
「でもカーブは、外れますでしょう。裏切るように曲がるのに、それでも美しい。あれを見た時、少しだけ、息がしやすいと思ったのです」
ユリウスは黙っていた。からかわれるかと思ったが、そうではなかった。
「それは」
やがて彼は静かに言った。
「たしかに、好きになる理由としては十分ですね」
その言い方が、驚くほど優しかった。
初夏になる頃には、リディアの球ははっきり曲がるようになっていた。まだ完成には遠い。回転は甘く、速度もない。それでも、投げた自分にだけわかる瞬間がある。ああ、今のは確かに逃げた、という手応え。
同時に、家の空気は少しずつ重くなっていた。
第一王子レオンとの婚約候補として、リディアの名がますます具体的に挙がるようになったのだ。父は何も強制しない。だが言葉の端々に期待がにじむ。母も「あなたならどんな場所でも輝けるわ」と微笑む。学園では令嬢たちが扇の陰で囁き、教師はリディアの立ち居振る舞いに以前より厳しくなった。
そんな中で球を投げる時間は、ますます秘密になった。
学園祭の季節が来た時、その秘密は終わりを迎える。
王都の新興競技として、投球戯式の模範試合が学園祭の目玉に組み込まれたのだ。貴族の子弟だけで編成された混成試合で、王太子も観覧に来る。貴族社会にこの競技を浸透させたい派閥がいるらしい、とユリウスは言った。
「困ります」
リディアは顔をしかめた。
「わたくし、観客席で優雅に拍手していなくてはならない立場ですもの」
「残念ですね」
「全然残念そうではありませんわね」
「ええ。少しも」
嫌な予感は当たった。
試合当日、侯爵家の令嬢で投手役を務める予定だった娘が、階段から落ちて足を挫いた。大事には至らなかったが、急な代役が必要になった。貴族の子女で、ある程度競技経験があり、王太子の前に出ても体裁を損なわない者。
冗談みたいな条件を、ただ一人満たしてしまったのがリディアだった。
「断ります」
と、リディアは最初はっきり言った。
だが教師たちは困り顔で説得し、父は無言でこちらを見た。母は「出るだけでも十分よ」と手を握る。断れば、それはそれで不自然だ。
最終的に、リディアは試合服に袖を通していた。
白い上衣に、膝丈のスカート風の下衣。普段のドレスよりずっと身軽だが、それでも走るための服ではない。観覧席からどよめきが起こるのがわかった。
「大丈夫ですか」
マウンドへ向かう前、ユリウスが小さく言った。
「全然」
「嘘が下手ですね」
「あなたのせいですわ」
彼は少しだけ笑った。
「リディア嬢」
「何ですの」
「曲げてください」
その一言で、妙に呼吸が整った。
グラウンドは広かった。これまで果樹園の木に向かって投げていたのとはまるで違う。観覧席には王太子も父も母もいる。学園の令嬢たちが扇を止め、騎士科の生徒たちが露骨に面白がっている。
最初の一球は、震えた。
ただのまっすぐだった。打者は見送り、捕手に収まる。観客がざわめく。
二球目も甘かった。三球目で打たれ、内野の頭を越えかける。だが味方がかろうじて処理した。
帰りたい、とその瞬間本気で思った。
無理だったのだ。果樹園でこっそり投げていた球と、ここで人に見られながら投げる球は違う。完璧な令嬢は、こういう時に失敗してはいけないはずなのに。
「お嬢様!」
不意に声が飛んだ。
侍女のミレイだった。いつもは控えめな彼女が、両手を口に当てて珍しく大声を出している。
「落ち着いてくださいませ! いつもの木だと思って!」
その雑すぎる励ましに、リディアは危うく笑いそうになった。
次の打者が入る。握りを作る。中指に少し力を残して、手首は殺しすぎない。教わったことを一つずつ思い出す。
投げる。
球は最初、まっすぐ来ると思わせる高さへ行った。途中で少しだけ外へ逃げ、最後に沈む。打者の棒が空を切る。
観覧席が一瞬静まり、それから大きくどよめいた。
リディア自身が、一番驚いていた。
もう一球。今度は少し高い。だが打者は待てず、差し込まれて凡打になる。
胸の奥で、何かが弾けた。
投げたい。
もっと曲げたい。
そう思った時には、もう怖くなかった。
試合後、騒ぎは予想以上だった。
令嬢が投げた。しかも、曲げた。王太子の前で。新聞は翌日こぞって書き立てた。優雅なる変化球。公爵令嬢の異端。王都一の淑女は土を蹴る。言葉は好き放題だった。
父は珍しく、本気で怒った。
「何を考えている」
執務室で二人きりになった時、彼は低い声で言った。
「公爵家の娘として、あれがどう見えるかわからなかったのか」
「わかっております」
「ならなぜ出た」
「断れませんでした」
「断らなかったのはお前だ」
正論だった。
リディアは沈黙した。父はしばらく机に手をついたまま、苦い顔をしていた。
「レオン殿下からも問い合わせが来ている」
「……そうでしょうね」
「お前が競技に出ること自体を責めているわけではない。ただ、今後の立場を考えろ」
「立場」
「お前は公爵家の娘だ」
その言葉は、幼い頃から何度も聞いてきた。誇りとして。責任として。枷として。
「わたくしは」
リディアはゆっくり顔を上げた。
「公爵家の娘である前に、一人の人間ではいけませんの」
父の目が見開かれる。そんな言い返し方を、娘がするとは思っていなかったのだろう。
「投げることが、そこまでお前に必要か」
「必要です」
答えは、驚くほどすんなり出た。
「わたくし、あの球を投げる時だけ、ちゃんと息ができます」
父は何も言わなかった。怒りと困惑と、少しだけ理解できないものを見る顔が混ざっていた。
その夜、母が部屋を訪ねてきた。
「怒られてしまったわね」
「はい」
「でも、綺麗だった」
「……お母様」
「私、驚いたの。あんな顔をするのね、あなた」
母は椅子に座り、手を重ねる。
「社交の時とも、勉強の時とも違った。子どもの頃、木の上に登りたくて仕方なかった時の顔に少し似ていたわ」
「そんなこと、ありましたか」
「三歳の時、一度だけ。お父様に止められて泣いたでしょう」
「覚えておりません」
「そう」
母は少し笑った。
「リディア。私は、あなたに何かを諦めてほしいわけではないの。ただ、この家では、好きなものを選ぶことにも覚悟が要るのよ」
「……はい」
「恋も、結婚も、人生も」
その言葉の重さを、リディアは十分に理解できなかった。だが、胸に残った。
翌朝、果樹園でユリウスはいつもより先に待っていた。
「おはようございます、お嬢様」
「笑わないでくださいませ」
「まだ何も言っていません」
「笑っております」
「少しだけです」
「最悪ですわ」
そう言いながら、リディアは昨日の試合を思い出してしまう。緊張と歓声と、最後に球が曲がった瞬間の解放感。あれはもう、知らないままではいられないものになっていた。
「ご家族には?」
ユリウスが聞く。
「怒られました」
「でしょうね」
「あなた、絶対楽しんでおりますわね」
「少しも」
「絶対に嘘です」
ユリウスは笑い、それから少し真面目な顔になった。
「これからどうします」
「どう、とは」
「投げるのをやめますか」
リディアは球を握ったまま、しばらく黙っていた。
家のこと。王子のこと。世間の視線。全部を考えれば、ここでやめた方が賢いのだろう。数年もすれば婚姻の話が決まり、この朝練も笑い話になるかもしれない。
だが、昨日のあの球を投げた手の感覚が残っている。
「やめたくありません」
「そうですか」
「あなたは、止めないのですね」
「止めてほしいのですか」
「……いいえ」
ユリウスはうなずいた。
「なら、続けましょう」
それだけで十分だった。
だが世界は、二人だけに都合よくはできていない。
数日後、第一王子レオンから正式な招待が届いた。離宮での茶会。実質的な婚約候補としての顔合わせだ。断る理由はない。断れる立場でもない。
離宮の庭園で会ったレオンは、噂通り端正な人だった。金の髪、穏やかな微笑、淀みない物腰。王子として完璧な人間。きっと多くの令嬢が夢を見る相手なのだろう。
「先日の試合、見ていたよ」
彼は紅茶を口にしながら言った。
「まさか君がああいうことをするとは思わなかった」
「失望なさいましたか」
「少し驚いた。だが、新鮮でもあった」
その返答は巧妙だった。否定もしないし、肯定もしない。
「ただ」
と彼は続ける。
「君のような人がああした目立ち方をするのは、周囲が騒がしいだろう」
「ええ、まあ」
「だから、ほどほどがいい。君は本来、もっと静かな場所で光る人だ」
それは優しい言葉のようでいて、どこまでも自分を枠に戻そうとする声だった。
リディアはカップを置いた。
「殿下は、わたくしのことをよくご存じなのですね」
「もちろんだとも。君は理性的で、品があって、慎み深い。公爵家の教育を最も正しく受けた令嬢だ」
「……」
違う、と喉の奥で何かが言った。
その通りに見える自分は知っている。でも、それだけではないはずだ。球が曲がるたびに胸が弾む自分を、殿下は知らない。知ろうともしていない。
茶会の帰り、馬車の窓から見えた競技場の屋根だけが、やけに眩しかった。
果樹園に着くと、ユリウスがいた。どうして毎回、自分が一番言葉を欲しい時にいるのだろうと、少し腹が立つ。
「ひどい顔です」
第一声がそれだった。
「失礼ですわ」
「ごもっともで」
リディアは球を掴み、何も言わずに投げた。外へ曲がりきらず、中途半端に高く浮く。
「だめです」
「知っております」
「心が乱れています」
「その言い方、占い師みたいで嫌ですわ」
「統計学の教師補佐ですので」
「もっと嫌です」
ユリウスは少し間を置き、唐突に言った。
「好きなのですか」
「何を」
「投げることが」
リディアは答えようとして、言葉に詰まった。
好き、というにはあまりにも熱がある。だが嫌いでないことは確かだった。投げている時だけ、自分が決められた言葉より先に身体で何かを選べる気がする。
「……好きです」
ようやく言うと、ユリウスは静かにうなずいた。
「では、やめるべきではありませんね」
「簡単におっしゃいますのね」
「簡単ではありません」
彼は珍しく、まっすぐにリディアを見た。
「けれど、あなたが好きなものを手放したら、その後で誰と結婚しても、何を選んでも、たぶんずっと後悔する」
胸が詰まる。
「あなたは」
リディアは思わず聞いた。
「あなたは、どちらが好きなのですか」
「どちらとは?」
「完璧な令嬢としてのわたくしですか。それとも、果樹園で球を投げてばかりいる、はしたないわたくしですか」
聞いた瞬間、顔が熱くなった。何を言っているのだろうと遅れて思う。だがもう遅かった。
ユリウスは一度だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「簡単です」
「……」
「球が曲がるたびに、子どもみたいな顔で喜ぶあなたの方です」
リディアはその場で何も言えなくなった。
風が吹き、果樹の葉が揺れた。朝の光は平等に降り注ぐのに、自分の周りだけ違う世界になったようだった。
その日、リディアのカーブは、今までで一番きれいに曲がった。
決断は、その一週間後にした。
王立学園で、貴族子女による正式な投球戯式部の創設が議題に上がったのだ。賛否は割れた。はしたない、野蛮だ、女子教育にそぐわない。そんな声が大半だった。だが、学園祭での模範試合が思いのほか好評だったため、完全には無視できない。
議長席で教師が曖昧な結論を出そうとした時、リディアは立ち上がった。
ざわめきが広がる。
「エーヴェルハルト公女?」
「申し上げたいことがございます」
礼法通りに頭を下げ、それでも声はしっかりと響かせた。
「投球戯式は、無作法な遊びではありません。技術であり、鍛錬であり、心身を統べる学びでもあります。そして何より、自分の意思を球に乗せる行為です」
誰かが息を呑む。
「わたくしは、この競技を続けたいと願っております。たとえ令嬢らしくないと笑われても、わたくしにとってあの球は、誰かに決められた道とは違う、自分で選んだ軌道です」
静まり返った講堂の中で、リディアは一度だけ、ユリウスの方を見た。彼は壁際で腕を組み、何も言わなかったが、ほんの少しだけ頷いた。
その瞬間、もう戻らなくていいのだとわかった。
議論は紛糾した。父は一週間口をきかなかった。王子との縁談は、先方から「慎重に再考したい」と美しい言葉で遠ざけられた。社交界では好き放題噂された。
それでも、投球戯式部は認められた。規模は小さく、正式部というより半ば研究会に近い形だったが、それでも名前がついた。
リディアは入部届に署名した。
ユリウスはそれを見て言った。
「おめでとうございます、お嬢様」
「もう、その呼び方は皮肉にしか聞こえませんわ」
「今さらです」
「最初からそうでしたでしょう」
「よくお気づきで」
リディアは笑った。以前のような、慎みのために角度を計算した笑いではない。
これから先、きっと楽なことばかりではない。貴族社会は簡単には変わらないし、自分もまだ未熟だ。投げたい球が思う通りに曲がるとも限らない。好きな人と、望む形で結ばれる保証もない。
けれど、それでいいと思えた。
果樹園の白い朝に立ち、リディアはマウンド代わりの土へ足をかけた。指先で球の縫い目を確かめる。握り、振りかぶり、投げる。
球はまっすぐ行くふりをして、途中でふっと外へ逃げた。
その軌道は、まだ少しいびつで、でもたしかに美しかった。
リディア・エーヴェルハルトは、その瞬間、自分の人生で初めて、自分で選んだ曲がり方を愛していると思った。




