表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

お嬢様カーブを投げたい!

作者: 七七街
掲載日:2026/03/16

よかった悪かった感想下さい!

 リディア・エーヴェルハルトは、人生で一度も泥にまみれたことがなかった。


 王都の北に広がるエーヴェルハルト公爵家の庭園は、雨のあとでも靴の先一つ汚れないように整えられている。薔薇の棘は庭師が先回りして落とし、噴水の水は朝ごとに取り替えられ、白い石畳はいつでも光っていた。リディアが歩く場所には常に侍女が一歩先に立ち、椅子は引かれ、ドレスの裾は誰かに持たれる。転ぶことも、走ることも、木に登ることも、令嬢には必要ないとされていた。


 だから、十四歳の夏の日に初めて見たその軌道は、あまりにも鮮烈だった。


 父に連れられて、王立競技場の貴賓席にいた時のことだ。普段ならリディアは観劇や舞踏会にしか連れ出されない。だがその日は、王太子主催で新しい競技が披露されるというので、公爵家も顔を出す必要があった。


 競技の名は、投球戯式。大陸西方で流行し始めた新しい遊戯で、革で巻いた球を投げ、打ち、点を争う。父も母も、社交の話題にするために一度くらい見ておくべきだ、という程度の認識だった。貴族の観戦席では「あら、思ったより野蛮ではないのね」「でもやはり平民の遊びでしょう」と、扇の陰でそんな感想が交わされていた。


 リディアも最初は退屈していた。白線で区切られた土の広場、妙に短い棒を持って構える男たち、整然としているようでいてどこか粗野な歓声。優雅とは程遠い。これのどこに皆が熱狂するのか理解できなかった。


 だが、七回の表だった。投手が交代した。


 細身の青年だった。華々しい英雄というより、どこにでもいそうな顔をしていた。だが、彼が二球目に投げたそれを見た瞬間、リディアは息を忘れた。


 球が曲がった。


 まっすぐ来ると思った。誰もがそう思ったに違いない。だが白い球は途中で意志を持ったように外へ逃げ、打者の手元でふっと落ち、空を切らせた。


 歓声が上がる。


 けれどリディアには、音が遠くなっていた。


 どうして曲がるの。なぜ今、落ちるの。あんなに美しく、予想を裏切っていいの。あれは不正ではなく、技術なの。まっすぐ届くべきものがまっすぐではないことは、罰されないの。


 その日の帰りの馬車で、リディアは初めて父に問いを投げた。


「お父様、あの球はどうして曲がるのですか」

 父は一瞬だけ驚いた顔をして、それから曖昧に笑った。

「さあな。魔術か、指先の技か。どちらにせよ、君が気にするようなものではないよ」

「そう、ですか」

「リディア。君は来月の舞踏会に向けて、まずは王都の華としての立ち居振る舞いを身につけなさい。球遊びではなく」


 球遊び。


 その一言で済ませられてしまうものに、どうしてあんなに心を奪われたのか、リディアには自分でもよくわからなかった。


 ただ、その夜から彼女は眠る前に必ず、あの軌道を思い出すようになった。


 ベッドの天蓋を見上げて、目を閉じる。白い球が、空中でふっと外へ逸れ、最後に落ちる。何度思い返しても、胸の奥が妙に熱くなった。


 まっすぐであることばかりを教えられてきた人生だった。


 姿勢は正しく、言葉は柔らかく、笑みは静かに、将来は家格にふさわしく。公爵令嬢とはそういうものだ。食事の席でスープを音もなく飲む角度まで習った。扇を開く指先の形まで、家庭教師に何度も直された。


 そのどれも、間違っているとは思わない。母は美しい淑女で、父は尊敬される政治家だった。公爵家の娘であることは誇りでもあった。


 けれど、あの球だけは違った。


 正しくないことが、あんなに美しく見えたのは初めてだった。


 十六になった春、リディアはとうとう我慢できなくなった。


 屋敷の東庭にある果樹園は、早朝ならほとんど人が来ない。侍女たちもまだ朝食の支度で忙しく、庭師は西側の温室にいる時間帯だ。リディアはそこへ、こっそりと革の手袋と、侍女に頼んで買ってもらった球を持ち込んだ。


 もちろん最初から「投球用の球を買って」と頼めたわけではない。「手に馴染む丸いものが欲しいの。そうね、握って使う訓練具のようなもの」と、ずいぶん回りくどく説明して、ようやく手に入れたのだ。


 そして、初めて投げた。


 球は見事に後ろへ飛んだ。


 木の幹にさえ届かず、手前の花壇に落ちて、リディアはその場で呆然とした。


「……難しすぎませんこと?」


 誰に向けた文句でもなかった。だが、それからも何球か投げてみて、さらに思い知る。届かない。狙えない。曲がる以前に、投げるという行為そのものが思ったよりずっと暴力的で、全身を使うことなのだ。


 令嬢としての姿勢は、投球にはまるで役に立たなかった。


 次の日は肩が上がらなかった。


 その次の日も、早朝の果樹園へ行った。三日目には、同じ木に二度続けて当てられるようになった。五日目に、指のかかり方を意識してみた。七日目には、ようやく「曲がるかもしれない」と思える球が一本だけあった。


 ただ、その姿を見つかったのは十日目だった。


「その握りでは曲がりませんよ、お嬢様」


 後ろから声がして、リディアはほとんど悲鳴を上げかけた。


 振り返ると、果樹園の柵に片肘をかけた男が立っていた。栗色の髪、くすんだ青の瞳、やや長身で、衣服は学園の教師補佐のもの。王立学園で一般教養と統計学を教えている、ユリウス・アルセイン。侯爵家の次男で、社交界では「礼儀正しいが少々皮肉屋」と評判の男だ。三つ年上で、リディアが学園に通うようになってから何度か顔を合わせている。


「な、な、な」

 リディアは動揺すると語尾より先に音が崩れる。

「何をなさっておりますの、アルセイン様」

「そのままお返しします。何をなさっているのです、公爵令嬢が朝の果樹園で」

 ユリウスは球を拾い上げた。

「しかも投球練習とは」


 リディアの顔が熱くなった。


「見ましたの」

「見ました」

「どこから」

「最初から」

「最悪ですわ」


 その場にしゃがみ込みたい気持ちを、辛うじてこらえた。公爵令嬢としての意地だけが、背筋を支えていた。


「お父様には」

「まだ」

「まだ、ということは」

「今後のあなた次第です」


 なんて嫌な言い方だろう、とリディアは思った。


 だがユリウスは続けた。


「秘密にしてほしいなら、条件があります」

「……何ですの」

「その球、もう一度投げてみてください」


 リディアは目を瞬いた。


「脅しておいて、要求がそれですの」

「脅しではありません。純粋な興味です」

「もっと悪い気がいたしますわ」

「よく言われます」


 悔しいことに、その返答は少し面白かった。


 リディアは唇を引き結び、球を受け取って振りかぶった。昨日よりは慣れている。けれど見られていると思うと、急に手首が固くなる。


 投げた球は、当然ながらほとんど曲がらなかった。


「やはり」

 とユリウスが言う。

「その握りでは、人差し指に力が逃げます」

「知ったようなことを」

「知っていますので」

「あなた、投球戯式がおできになりますの?」

「少し」


 その「少し」が絶対に少しではないことは、握りを見ればわかった。ユリウスが球を持つと、ただ指先を添えただけで道具が生き物みたいに手に馴染む。


「よろしければ」

 彼は軽く首を傾げた。

「教えましょうか」


 リディアはその瞬間、完全に負けたと思った。


 秘密を握られたからではない。球を投げたいという気持ちを、たった一言で言い当てられたからだ。


 それから二人の奇妙な朝練が始まった。


 ユリウスは本当に教えるのが上手かった。肩の使い方、重心の移動、指の離し方。令嬢の動きがいかに無駄と無理でできているかを、遠慮なく指摘する。


「腰が高いです」

「そんなこと言われても、はしたなく沈み込むのは」

「球は社交を見ません」

「嫌な言い方ですわね」

「今日はまだ優しい方です」


 最初のうちは腹が立った。けれど、言われた通りに身体を使うと、球が少しだけ変わる。回転が安定し、手を離れたあとに外へ逃げるような気配が生まれる。


 それが楽しかった。


 リディアは生まれて初めて、誰かに運動のことで褒められた。


「今のは悪くない」

 ユリウスが言う。

「少なくとも、昨日の花壇狙いよりは」

「花壇は狙っておりません」

「ですが当たっていました」

「うるさいですわ」


 そんなやりとりのたびに、リディアの胸は軽くなった。


 王立学園では、リディアはいつも「完璧な公爵令嬢」だった。礼儀正しく、隙がなく、教師からも令嬢たちからも一目置かれる存在。崩れてはいけない像が先にあり、その中に自分を収めて生きている。


 だが果樹園では違った。投げても外れるし、転べば裾も汚れる。ユリウスはそれを笑うし、リディアも彼の前では少しずつ、失敗を恐れなくなっていた。


「どうして、そんなにカーブが好きなんです」

 ある朝、ユリウスが聞いた。


 リディアは少し考えた。理由は最初から一つではなかった気がする。


「まっすぐではないから、ですわ」

「変わった答えですね」

「変でしょうか」

「大抵の人は、まっすぐ速い球の方に憧れます」


 リディアは球を手のひらで転がした。


「わたくしの周りには、まっすぐなものしかありませんの」

「……」

「正しい言葉、正しい姿勢、正しい縁談、正しい将来。みんな、どこへ行くべきか決められていて、外れることは美しくないと教えられます」


 そこで少し笑う。


「でもカーブは、外れますでしょう。裏切るように曲がるのに、それでも美しい。あれを見た時、少しだけ、息がしやすいと思ったのです」


 ユリウスは黙っていた。からかわれるかと思ったが、そうではなかった。


「それは」

 やがて彼は静かに言った。

「たしかに、好きになる理由としては十分ですね」


 その言い方が、驚くほど優しかった。


 初夏になる頃には、リディアの球ははっきり曲がるようになっていた。まだ完成には遠い。回転は甘く、速度もない。それでも、投げた自分にだけわかる瞬間がある。ああ、今のは確かに逃げた、という手応え。


 同時に、家の空気は少しずつ重くなっていた。


 第一王子レオンとの婚約候補として、リディアの名がますます具体的に挙がるようになったのだ。父は何も強制しない。だが言葉の端々に期待がにじむ。母も「あなたならどんな場所でも輝けるわ」と微笑む。学園では令嬢たちが扇の陰で囁き、教師はリディアの立ち居振る舞いに以前より厳しくなった。


 そんな中で球を投げる時間は、ますます秘密になった。


 学園祭の季節が来た時、その秘密は終わりを迎える。


 王都の新興競技として、投球戯式の模範試合が学園祭の目玉に組み込まれたのだ。貴族の子弟だけで編成された混成試合で、王太子も観覧に来る。貴族社会にこの競技を浸透させたい派閥がいるらしい、とユリウスは言った。


「困ります」

 リディアは顔をしかめた。

「わたくし、観客席で優雅に拍手していなくてはならない立場ですもの」

「残念ですね」

「全然残念そうではありませんわね」

「ええ。少しも」


 嫌な予感は当たった。


 試合当日、侯爵家の令嬢で投手役を務める予定だった娘が、階段から落ちて足を挫いた。大事には至らなかったが、急な代役が必要になった。貴族の子女で、ある程度競技経験があり、王太子の前に出ても体裁を損なわない者。


 冗談みたいな条件を、ただ一人満たしてしまったのがリディアだった。


「断ります」

 と、リディアは最初はっきり言った。

 だが教師たちは困り顔で説得し、父は無言でこちらを見た。母は「出るだけでも十分よ」と手を握る。断れば、それはそれで不自然だ。


 最終的に、リディアは試合服に袖を通していた。


 白い上衣に、膝丈のスカート風の下衣。普段のドレスよりずっと身軽だが、それでも走るための服ではない。観覧席からどよめきが起こるのがわかった。


「大丈夫ですか」

 マウンドへ向かう前、ユリウスが小さく言った。

「全然」

「嘘が下手ですね」

「あなたのせいですわ」


 彼は少しだけ笑った。


「リディア嬢」

「何ですの」

「曲げてください」


 その一言で、妙に呼吸が整った。


 グラウンドは広かった。これまで果樹園の木に向かって投げていたのとはまるで違う。観覧席には王太子も父も母もいる。学園の令嬢たちが扇を止め、騎士科の生徒たちが露骨に面白がっている。


 最初の一球は、震えた。


 ただのまっすぐだった。打者は見送り、捕手に収まる。観客がざわめく。


 二球目も甘かった。三球目で打たれ、内野の頭を越えかける。だが味方がかろうじて処理した。


 帰りたい、とその瞬間本気で思った。


 無理だったのだ。果樹園でこっそり投げていた球と、ここで人に見られながら投げる球は違う。完璧な令嬢は、こういう時に失敗してはいけないはずなのに。


「お嬢様!」

 不意に声が飛んだ。


 侍女のミレイだった。いつもは控えめな彼女が、両手を口に当てて珍しく大声を出している。


「落ち着いてくださいませ! いつもの木だと思って!」


 その雑すぎる励ましに、リディアは危うく笑いそうになった。


 次の打者が入る。握りを作る。中指に少し力を残して、手首は殺しすぎない。教わったことを一つずつ思い出す。


 投げる。


 球は最初、まっすぐ来ると思わせる高さへ行った。途中で少しだけ外へ逃げ、最後に沈む。打者の棒が空を切る。


 観覧席が一瞬静まり、それから大きくどよめいた。


 リディア自身が、一番驚いていた。


 もう一球。今度は少し高い。だが打者は待てず、差し込まれて凡打になる。


 胸の奥で、何かが弾けた。


 投げたい。


 もっと曲げたい。


 そう思った時には、もう怖くなかった。


 試合後、騒ぎは予想以上だった。


 令嬢が投げた。しかも、曲げた。王太子の前で。新聞は翌日こぞって書き立てた。優雅なる変化球。公爵令嬢の異端。王都一の淑女は土を蹴る。言葉は好き放題だった。


 父は珍しく、本気で怒った。


「何を考えている」

 執務室で二人きりになった時、彼は低い声で言った。

「公爵家の娘として、あれがどう見えるかわからなかったのか」

「わかっております」

「ならなぜ出た」

「断れませんでした」

「断らなかったのはお前だ」


 正論だった。


 リディアは沈黙した。父はしばらく机に手をついたまま、苦い顔をしていた。


「レオン殿下からも問い合わせが来ている」

「……そうでしょうね」

「お前が競技に出ること自体を責めているわけではない。ただ、今後の立場を考えろ」

「立場」

「お前は公爵家の娘だ」


 その言葉は、幼い頃から何度も聞いてきた。誇りとして。責任として。枷として。


「わたくしは」

 リディアはゆっくり顔を上げた。

「公爵家の娘である前に、一人の人間ではいけませんの」


 父の目が見開かれる。そんな言い返し方を、娘がするとは思っていなかったのだろう。


「投げることが、そこまでお前に必要か」

「必要です」


 答えは、驚くほどすんなり出た。


「わたくし、あの球を投げる時だけ、ちゃんと息ができます」


 父は何も言わなかった。怒りと困惑と、少しだけ理解できないものを見る顔が混ざっていた。


 その夜、母が部屋を訪ねてきた。


「怒られてしまったわね」

「はい」

「でも、綺麗だった」

「……お母様」

「私、驚いたの。あんな顔をするのね、あなた」


 母は椅子に座り、手を重ねる。


「社交の時とも、勉強の時とも違った。子どもの頃、木の上に登りたくて仕方なかった時の顔に少し似ていたわ」

「そんなこと、ありましたか」

「三歳の時、一度だけ。お父様に止められて泣いたでしょう」

「覚えておりません」

「そう」


 母は少し笑った。


「リディア。私は、あなたに何かを諦めてほしいわけではないの。ただ、この家では、好きなものを選ぶことにも覚悟が要るのよ」

「……はい」

「恋も、結婚も、人生も」


 その言葉の重さを、リディアは十分に理解できなかった。だが、胸に残った。


 翌朝、果樹園でユリウスはいつもより先に待っていた。


「おはようございます、お嬢様」

「笑わないでくださいませ」

「まだ何も言っていません」

「笑っております」

「少しだけです」

「最悪ですわ」


 そう言いながら、リディアは昨日の試合を思い出してしまう。緊張と歓声と、最後に球が曲がった瞬間の解放感。あれはもう、知らないままではいられないものになっていた。


「ご家族には?」

 ユリウスが聞く。

「怒られました」

「でしょうね」

「あなた、絶対楽しんでおりますわね」

「少しも」

「絶対に嘘です」


 ユリウスは笑い、それから少し真面目な顔になった。


「これからどうします」

「どう、とは」

「投げるのをやめますか」


 リディアは球を握ったまま、しばらく黙っていた。


 家のこと。王子のこと。世間の視線。全部を考えれば、ここでやめた方が賢いのだろう。数年もすれば婚姻の話が決まり、この朝練も笑い話になるかもしれない。


 だが、昨日のあの球を投げた手の感覚が残っている。


「やめたくありません」

「そうですか」

「あなたは、止めないのですね」

「止めてほしいのですか」

「……いいえ」


 ユリウスはうなずいた。


「なら、続けましょう」


 それだけで十分だった。


 だが世界は、二人だけに都合よくはできていない。


 数日後、第一王子レオンから正式な招待が届いた。離宮での茶会。実質的な婚約候補としての顔合わせだ。断る理由はない。断れる立場でもない。


 離宮の庭園で会ったレオンは、噂通り端正な人だった。金の髪、穏やかな微笑、淀みない物腰。王子として完璧な人間。きっと多くの令嬢が夢を見る相手なのだろう。


「先日の試合、見ていたよ」

 彼は紅茶を口にしながら言った。

「まさか君がああいうことをするとは思わなかった」

「失望なさいましたか」

「少し驚いた。だが、新鮮でもあった」


 その返答は巧妙だった。否定もしないし、肯定もしない。


「ただ」

 と彼は続ける。

「君のような人がああした目立ち方をするのは、周囲が騒がしいだろう」

「ええ、まあ」

「だから、ほどほどがいい。君は本来、もっと静かな場所で光る人だ」


 それは優しい言葉のようでいて、どこまでも自分を枠に戻そうとする声だった。


 リディアはカップを置いた。


「殿下は、わたくしのことをよくご存じなのですね」

「もちろんだとも。君は理性的で、品があって、慎み深い。公爵家の教育を最も正しく受けた令嬢だ」

「……」


 違う、と喉の奥で何かが言った。


 その通りに見える自分は知っている。でも、それだけではないはずだ。球が曲がるたびに胸が弾む自分を、殿下は知らない。知ろうともしていない。


 茶会の帰り、馬車の窓から見えた競技場の屋根だけが、やけに眩しかった。


 果樹園に着くと、ユリウスがいた。どうして毎回、自分が一番言葉を欲しい時にいるのだろうと、少し腹が立つ。


「ひどい顔です」

 第一声がそれだった。

「失礼ですわ」

「ごもっともで」


 リディアは球を掴み、何も言わずに投げた。外へ曲がりきらず、中途半端に高く浮く。


「だめです」

「知っております」

「心が乱れています」

「その言い方、占い師みたいで嫌ですわ」

「統計学の教師補佐ですので」

「もっと嫌です」


 ユリウスは少し間を置き、唐突に言った。


「好きなのですか」

「何を」

「投げることが」


 リディアは答えようとして、言葉に詰まった。


 好き、というにはあまりにも熱がある。だが嫌いでないことは確かだった。投げている時だけ、自分が決められた言葉より先に身体で何かを選べる気がする。


「……好きです」

 ようやく言うと、ユリウスは静かにうなずいた。

「では、やめるべきではありませんね」

「簡単におっしゃいますのね」

「簡単ではありません」


 彼は珍しく、まっすぐにリディアを見た。


「けれど、あなたが好きなものを手放したら、その後で誰と結婚しても、何を選んでも、たぶんずっと後悔する」


 胸が詰まる。


「あなたは」

 リディアは思わず聞いた。

「あなたは、どちらが好きなのですか」


「どちらとは?」

「完璧な令嬢としてのわたくしですか。それとも、果樹園で球を投げてばかりいる、はしたないわたくしですか」


 聞いた瞬間、顔が熱くなった。何を言っているのだろうと遅れて思う。だがもう遅かった。


 ユリウスは一度だけ目を見開き、それから小さく笑った。


「簡単です」

「……」

「球が曲がるたびに、子どもみたいな顔で喜ぶあなたの方です」


 リディアはその場で何も言えなくなった。


 風が吹き、果樹の葉が揺れた。朝の光は平等に降り注ぐのに、自分の周りだけ違う世界になったようだった。


 その日、リディアのカーブは、今までで一番きれいに曲がった。


 決断は、その一週間後にした。


 王立学園で、貴族子女による正式な投球戯式部の創設が議題に上がったのだ。賛否は割れた。はしたない、野蛮だ、女子教育にそぐわない。そんな声が大半だった。だが、学園祭での模範試合が思いのほか好評だったため、完全には無視できない。


 議長席で教師が曖昧な結論を出そうとした時、リディアは立ち上がった。


 ざわめきが広がる。


「エーヴェルハルト公女?」

「申し上げたいことがございます」


 礼法通りに頭を下げ、それでも声はしっかりと響かせた。


「投球戯式は、無作法な遊びではありません。技術であり、鍛錬であり、心身を統べる学びでもあります。そして何より、自分の意思を球に乗せる行為です」


 誰かが息を呑む。


「わたくしは、この競技を続けたいと願っております。たとえ令嬢らしくないと笑われても、わたくしにとってあの球は、誰かに決められた道とは違う、自分で選んだ軌道です」


 静まり返った講堂の中で、リディアは一度だけ、ユリウスの方を見た。彼は壁際で腕を組み、何も言わなかったが、ほんの少しだけ頷いた。


 その瞬間、もう戻らなくていいのだとわかった。


 議論は紛糾した。父は一週間口をきかなかった。王子との縁談は、先方から「慎重に再考したい」と美しい言葉で遠ざけられた。社交界では好き放題噂された。


 それでも、投球戯式部は認められた。規模は小さく、正式部というより半ば研究会に近い形だったが、それでも名前がついた。


 リディアは入部届に署名した。


 ユリウスはそれを見て言った。


「おめでとうございます、お嬢様」

「もう、その呼び方は皮肉にしか聞こえませんわ」

「今さらです」

「最初からそうでしたでしょう」

「よくお気づきで」


 リディアは笑った。以前のような、慎みのために角度を計算した笑いではない。


 これから先、きっと楽なことばかりではない。貴族社会は簡単には変わらないし、自分もまだ未熟だ。投げたい球が思う通りに曲がるとも限らない。好きな人と、望む形で結ばれる保証もない。


 けれど、それでいいと思えた。


 果樹園の白い朝に立ち、リディアはマウンド代わりの土へ足をかけた。指先で球の縫い目を確かめる。握り、振りかぶり、投げる。


 球はまっすぐ行くふりをして、途中でふっと外へ逃げた。


 その軌道は、まだ少しいびつで、でもたしかに美しかった。


 リディア・エーヴェルハルトは、その瞬間、自分の人生で初めて、自分で選んだ曲がり方を愛していると思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ