第八話「初任務の司令」
応接室の窓辺で、緋音はぼんやりと手の甲を見つめていた。
小さな金色のドクロ紋――魂縁の契りの証が、午後の光を受けて淡くきらめく。
色褪せたカーテンがかすかに揺れ、風鈴のように吊るされた小さな鈴がチリンと鳴る。
古びたソファは腰を下ろすたびにかすかな悲鳴を上げ、壁際の古時計は忘れられた時間を粘るように刻み続ける。
まるでこの空間全体が、時を忘れた境界の箱庭のようだった。
(……指先の温もり、まだ残ってる)
脳裏に蘇るのは昨日の夜明け。
『指切りげんまん。嘘ついたら――』
『千本冥具……だね』
笑いあいながら交わした約束。指先が触れた瞬間の温もり。あの時、緋音は本当の意味で自分の生まれてきた意味を見つけられた気がした。
なのに、胸の奥にはまだ小さな空白が残っている。
今日は、死神相談所で助手としての初めての朝だという実感が、いま一つ自分の内側に落ちてこない――そんな心持ちだった。
触れた事実は確かにあるのに、それが自分のものになった実感が少し遠い。
まるで夢と現実の狭間を漂っているような、不思議な距離感が緋音を戸惑わせる。
儚げな笑顔を思い出した瞬間、胸の奥がぎゅっと詰まり、鼓動が跳ねた。
頬が熱を帯び、視界の端がかすかに揺らぐ。
(ちょ、ちょっと落ち着け私。今は“助手としての朝”なんだから、乙女的暴走は一旦封印――でも、あの笑顔は反則!)
両手で顔を覆って悶えていると。
「緋音、ちょっといいかな」
「うひゃあっ!?」
不意にかけられた声に思わずひっくり返りそうになり、慌てて体勢を立て直す。胸がドクンと跳ねて、耳の奥まで赤くなる。
「あっ、ごめん。驚かせちゃったかな?」
申し訳なさそうに右耳の三日月のピアスを弄る金色の瞳の少年は、この死神相談所の所長、十六夜だ。
彼は、死に彷徨っていた緋音に手を差し伸べ、冥界の道へ導いてくれた恩人でもある。
十六夜はすぐ近くまで歩み寄ってきて、なぜか緋音の肩越しに窓の外へと身を傾けた。
夜の帳を溶かしたような髪が揺れて、吐息が一瞬だけ頬にかかる。
「……光、強いね。今日は空気が澄んでる」
何気なく呟く声は穏やかで、だけど耳元に落とされるせいで心臓が飛び跳ねた。
首筋にかかった熱が背中まで伝い、体の奥がじんわり火照っていく。
さらに指先でピアスを弄びながら首筋を傾け、真横から金色の瞳を向けてくる。
その無防備な仕草は、本人にとってただの癖なのだろう。
当の十六夜は外の景色を眺めているだけのように見えるのに、緋音にとってはあまりに近すぎる距離だった。
(ちょ、ちょっと近いってばぁ……! そんな自然にされたら意識しちゃうでしょ……!)
頬が一気に熱を帯び、視線が泳ぐ。
慌てて言葉を繋ごうとした口から、ついに制御不能な声が飛び出した。
「だ、大丈夫! べっべべ別に、やらしいことなんて考えてないし、安心して手は出さないから!」
「いきなりどうしたのさっ!……っていうかそれ、キミが言うの?」
十六夜が片眉を上げ、肩をすくめて返す。ちょっと困ったような綻んだ笑みが唇の端に浮かんでいた。
「ち、ちがうの! これは――」
緋音は慌てて言い返すが、言葉が喉に詰まってさらに真っ赤になる。
十六夜はため息をつき、掌に収めていた小さな思念珠を取り出した。
半透明の珠が淡い冥光を放ち、水面に石を落としたように空気に波紋が広がる。
その波紋は部屋の角々にまで広がり、緋音の霊核にも一瞬触れたかのように響き、胸がびくりと震えた。
――『現世に未練を残す魂の導魂任務。至急、対処せよ』
「冥令局から指令だ。緋音、助手としての、初めての仕事だよ」
十六夜の金色の瞳が淡く揺れ、緋音はごくりと息を呑む。胸の奥で脈動がどんどん速くなる。
「……十六夜様。お急ぎください」
玄関の方から、心臓の鼓動を急かすように無機質な声が響く。扉の隙間から伸びた影が部屋の空気を一瞬張りつめさせる。瑞響が紫銀の義眼を淡く光らせ、淡々と告げていた。
「あぁ、分かってる」
十六夜が頷いた瞬間、瑞響の視線が一瞬だけ緋音に流れる。その眼差しは冷たく、まるで何かを測り取るかのように正確で――緋音は思わず背筋を正した。
「……私語は記録しません」
わずかな間のあと、抑揚のない声が響いた。
その一言に、緋音の顔はさらに真っ赤になる。
「き、聞いてたの!?」
「はい」
無表情のまま返す瑞響。けれど、その指先の符には、緋音の名とともに小さく《観測開始》という文字が刻まれていった。
珠が霧散し、空気が静寂に戻る。
十六夜は指先で淡く残る波紋を撫でながら、ほんの一瞬、胸の奥がざわつくのを感じた。
* * *
――閻魔庁・謁見の間。
冥界の頂点に立ち、すべての魂を裁く最高権力者――閻魔は、漆黒の玉座に座して、報告を終えた十六夜を静かに見下ろしていた。
『……報告は以上です。』
自分の口から出た言葉にさえ、信じがたい響きを感じる。
だが、あの黎明色の光景は幻でも錯覚でもなかった。
玉座に座る閻魔はしばし沈黙し、深く瞼を伏せた。
その顔に浮かぶのは、読み取れない陰影。
『……その緋音という娘――もしかすると“黎明の巫女”かもしれぬ』
『……黎明の、巫女……』
十六夜の金の瞳が揺れる。耳慣れない語の重みが、胸の奥を冷たく叩いた。
閻魔は静かに頷き、重々しく続ける。
『黎明の巫女とは、終魂を阻む唯一の存在とされる魂。もしそれが真ならば、脅威にも、切り札にもなり得よう』
『……では、どうなさるおつもりですか?』
『まずは、その力を確かめる必要がある。十六夜、次の導魂任務に緋音を同行させよ』
『緋音を……?』
『表向きは“初任務”という審査。だが真の目的は、黎明の光を再び顕現させられるかを見極めることだ。……そなたに委ねる』
十六夜は胸の奥に渦巻く不安を押し隠し、深く頭を下げた。
『……御意』
閻魔の眼差しはただ静かに金の瞳を射抜き、揺れる蝋燭の炎だけが広間を照らしていた――
* * *
十六夜は小さく息を吐き、思考を胸の奥に押し込める。
表情は変えないまま、緋音に向き直り、淡い笑みを浮かべた。
――(やっぱり、こういう任務だったか。……でも、緋音には余計なことは知らせない)
無表情のまま返す瑞響。十六夜は小さく笑いを零し、緋音は頭を抱えてうずくまった。
「……さぁ、行こうか。緋音」
十六夜はゆっくりと差し出す手を、ためらいなく伸ばしてきた。
その仕草はあまりにも自然で、でも緋音には胸の奥を突かれるほどに真摯に映る。
指先が触れた瞬間、わずかに冷たいけれど、内側には確かな温もりが宿っていた。細く長い指が優しく絡み、脈動が伝わってくる。緋音は胸がきゅっと縮むのを感じながら、その手をぎゅっと握り返した。
羞恥と緊張でぐちゃぐちゃになった胸を抱えながらも、大きく頷く。瑞響が扉を閉めた後、静寂の中にかすかな鈴の余韻だけが揺れ続けていた。
胸の鼓動に背を押されるように、緋音の初任務が始まろうとしていた。
その一歩が、緋音の物語を新しい頁へと導いていく。
お久しぶりです。兎月心幸です。
ついに一章が開幕しました。引き続き楽しんでいただければ幸いです。




